第6話
3
家まで送る、という菊池さんの申し出を、考え事をしたいからと言って断り、僕は電灯に煌々と照らし出された夜道を、一人とぼとぼと帰路についた。
僕の家は市街地の住宅街にあり、きちんと区画整理されているので、村のように足元に気をつける必要はない。村では未だに、道路わきに設置された街灯の数が少なく、その上舗装されていない、土が剥き出しの道が多いらしいので、ただ夜道を歩くのにも灯りが必要になるそうだ。
便利なはずの街灯。けれど今は、目を刺すような強いその明かりが、なんだか妙に鬱陶しく感じられた。
自分がZ症かもしれないと言った彼女。
彼女はZ症のことを、どのくらい知っているのだろう?
Z症が死によってしか発病しない病気だと言われていることを、知っていて言っているのだろうか?
だとしたら自覚があるのだろう――自分が一度『死んだ』のだという自覚が。
ガス事故で意識を失ったことを、それと勘違いしているのか。
それとももっと強烈な――目の奥に明滅するありえない事故の記憶――死の、記憶があるのか。
はたまた別の自覚が――あるのか。
考えなければならないことは、沢山あった。
けれど、そのどれもが、今この場で考えるだけでは、どうしようもないことばかりのようにも思える。
事故。彼女。Z症。
どうしようもないと分かっていても、考えずにはいられなかった。
とりとめの無い思考を、頭の中でこねくり回している内に、家の玄関に着いていた。
ポケットから鍵を取り出し、ドアを開けると、肉の焼ける芳ばしい匂いが漂ってくる。
今日も、昨日の夕飯の残りの焼き肉らしい。
途端に空腹を感じた。家に着くまでは、食欲などまるで感じなかったというのに。節操のない自分の胃袋に苦笑する。
「ただいま」
キッチンに向かって声をかけると、母の声が返ってきた。
「お帰りなさい。ご飯すぐだから、コウちゃんにも挨拶なさい」
はい、と返事を返し、仏間へと入る。
大笑する小さな遺影の前に正座して、手を合わせ、目を閉じた。
もし、彼が生きていたなら、僕は彼に相談をしていただろうか?
現実としか思えない幻覚。
彼女との関係。
そして――Z症。
そんなことを相談することが、出来ていただろうか?
キッチンに入ると、母がすでに食事の準備を終え、食卓に着いていた。
「お父さん、今日は遅くなるからって、さっき連絡あったわ。なんでも学校の方で、なにか問題があったみたいなの。だから先に食べちゃっていてくれって」
父は、深青学園高校で教鞭を振るう教師なので、こういったことはよくある。
僕は、中学を卒業したら、深青学園高校に進む予定になっているが・・・・・・あまり乗り気がしないでいた。
深青学園は僕にとってあくまで“父の職場”であり、自分の通う学校というイメージではないのだ。自分の身内が学校にいるというのは、きっと双方にとってあまり気持ちの良いものではないだろう。
しかし、この水無瀬市内には、高校は深青学園と、公立の、偏差値が低めな普通科高校の二校しかなかった。
対して深青学園は偏差値が高く、僕の成績では合格はぎりぎりのラインだった。けれど市外の高校に通うには、僕の成績に合わせた学校となると、その通学時間は2時間近くにもなる。
僕は一人暮らしということも考えたのだが、母が頑として反対したので、深青に進むのが、最も合理的な方法だった。おかげで僕はこの夏休み、昼は図書館で自習し、分からないところは夜、父に質問しながら勉強するという、勉強漬けの毎日を送っていたのだ。
しかしここ数日は、全くその勉強はできていなかった。
勉強のことを考えている余裕は、まだ僕の心には無かった。両親はなにも言ってはこないが、内心はらはらしているのかも知れない。
食事の最中も、僕は上の空だった。
空腹は感じているから、とりあえず食事は口に運ぶものの、あまり味がわからない。
「ねぇ賢一、病院の方はどうだったの? 若宮さん・・・・・・だっけ、元気だった?」
出し抜けもそう言われて、僕は面食らった。
どうって・・・・・・言われても。
――うまく、説明できそうにない。
「元気そうだったよ。菊池さんの言っていた通り、どうして入院が必要なのか分からないくらいだった」
とりあえず無難な答えを返しておく。
「そう・・・・・・良かったわね」
と笑った母の笑みには、なんだか別の意味も込められているような気がした。
「ところで若宮さんは、中学卒業したら進学するの? もしかして、深青学園に進むのかしら?」
「一応、受験はしてみるって言ってたけど・・・・・・突然どうしたの? そんなこと聞いて」
「なら賢一もちゃんと合格しなくちゃね。彼女だけ合格したりでもしたら、格好つかないでしょう?」
なるほど、そういうことか・・・・・・
「・・・・・・がんばるよ。そうはならないように、ね」
母はじっと僕の顔を覗き込みながら、満足そうに頷いた。
「そうだ、退院したら、若宮さんに一度、家にでも遊びに来てもらったら?」
「そんな・・・・・・いいよ」
冷静を装って返答したものの、僕は激しく動揺していた。彼女が、自分の家に来るなんて・・・・・・それこそ考えたこともなかった。
「あら、照れてるの?」
突然になんてことを言い出すのか。
「いや、別に、そんなに親しくは・・・・・・」
どうなんだろう。けど・・・・・・家に呼ぶっていうのは、ちょっと抵抗があるような・・・・・・。
「そうなの?」
答えられずに黙り込んでしまう。
母の目が意地悪そうに細められる。何かを言いたそうな、薄い笑い。嫌な感じ。
「まあいいわ、でも、いつか紹介してよね」
「うん」
良かった・・・・・・これ以上詮索されるのは堪らない。
「そんなに嫌がらないでよ。その彼女にちょっと親近感が沸いたから、会ってみたいかなって、少し思っただけなんだから」
拗ねたように食事を口に運ぶ母。
「――親近感・・・・・・って?」
「うん、母さんもね、事故で入院した事があって、それでその時、入院中にすごく寂しい思いしたから、元気付けてあげられたらな・・・・・・って思ったのよ」
初耳だった。いや、本当に小さな頃、一度そんな話を聞いたような気がする。
「その若宮さんのあった事故とは違うけど・・・・・・結構大きな事故だったのよ。母さんの歩いてた歩道に車がつっこんできてね・・・・・・本当に怖かった・・・・・・次に気がついた時には病院のベッドの上で・・・お医者さんもね、おっしゃってたわ『助かったのが不思議なくらいだ』って・・・・・・やだ、思い出しちゃった」
「何を?」
「その時のお医者さんの顔。母さんが助かって、病院で目を覚ました後、お医者さんに事故の話を聞いたりしたのだけど・・・・・・その間中、母さんのこと、まるでお化けでも見るような顔で見てるのよ、その先生。・・・・・・全く失礼しちゃうわよね」
『助かったのが不思議なくらい』の事故。
僕は、はたと伸ばしかけた箸を止めた。
助かったのが不思議なくらいな、彼女。
またも幻覚に沈み込みかける意識。
――Z症。
不思議だった。子供の頃から。
――年を取らない母が。
『いつまでもお若くていいわねぇ』
母と買い物に出かけた時声をかけてきた、ご近所の井戸端会議常連メンバーは、おそらく母と同年代のはずだ。なのに、見た目はまるで違っていた。
その目の奥に揺らいでいたのは羨望と、それの何倍も強い――嫉妬。
母があまり近所付き合いをしない理由が、その時なんとなくわかった。
母がいつまでも若いことは良いことだ。
母を見て僕が抱く感慨はその程度のものだったが、こと本人においては、知られざる苦労があったのだろう。
今こうして改めて見る母の姿は、とても若々しい。
――若すぎる、と言っても良いかも知れない。
「どうしたの、賢一? 母さん、なにか変なこと言ったかしら」
「ううん・・・・・・なんでも。ただ事故の話、聞いたこと無いような気がしたから。その事故って・・・・・・いつ頃のこと?」
「事故に遭ったのはね、お父さんと会う少し前の話よ。母さんが24の時。話してなかったかしら? まぁ話してあまり気持ちの良いことでもないから・・・・・・」
24才・・・・・・なるほど、そのぐらいにも・・・・・・見える。
『博士の散布した細菌は、人々に感染し続けることで今も尚存在しており――』
『発症者はZ症の発症以降、老化せず――』
菊池さんの声がよみがえる。
なにを――。
「あら、お肉もう無くなっちゃったのね。ちょっと切ってくるわね」
『食事の傾向、嗜好が極端に変化することです――』
僕の家では、食卓にサラダが並ぶことは、ほとんどない。
なにを――考えている。
チカリと脳裏に光が瞬いた。
「つっ! ああ・・・・・・やっちゃった。いたたた・・・・・・」
小さな悲鳴。オープンキッチンの向こうで、母が左手を抱くように前かがみになっていた。
手首を、白いシャツを赤く染めて、肘から血が滴り落ちる。
僕はのろのろと席を立ち上がると、覚束ない足取りで、母の側に近寄った。
「母さん・・・・・・大丈夫?」
まな板の上には、分厚い肉の塊と、やけに刃渡りの長い、血のついた包丁。
ステンレスのシンクの底に血が流れ、排水口に流れ込んでいく。
「ええ、久しぶりにやっちゃったわ」
顔をしかめながらも呑気に笑っている母に反して、血はかなりの勢いで流れ出しているらしくシャツの袖口から肘までは、血で真っ赤に染まっていた。
「そんなに心配そうな顔しなくても平気よ。ほら、もう止まったから」
バカな――流れ切らぬ血は、シンクに斑模様を描いている。
これだけの出血が、こんなに早く止まるものか。
「ちょっと傷見せて」
「だから平気だって。こんなの唾つけとけば治っちゃうわよ」
「いいから――」
しつこく詰め寄る僕に、母は根負けしたように、左手をゆっくりと差し出した。
僕は蛇口を捻って勢いよく水を出すと、母の手についた粘り気のある血液を、傷口に触れないよう、丁寧に洗い流す。
母は、何も言わずじっとしていた。
血の混じった水が、渦を巻いて排水口に吸い込まれていく。
すっかり血を洗い流した後、僕は恐る恐る母の手を覗き込んだ。
――傷は、無かった。
どこにも見当たらない。
「ね、もう止まってるでしょ?」
それどころか、傷跡さえわからない。
「じゃあ、お肉運んじゃうから、テーブルにもどってて。母さん服汚れちゃったから、着替えてくるわね」
なんなんだ・・・・・・これは。
僕もカッターなんかで指を切った経験はある。
血が流れ出すでもなく、珠の様に浮き上がってくるような程度の傷であっても、こんなにも速く塞がったりはしない。
ましてや血が滴る程の傷など――。
いや、僕はそれを見たことが無かったか。それもごく近い時間に。
今日、病室で、リンゴを剥き損なって負った、彼女の傷はどうなっていた?
「テーブルに置いておくから、食べててね」
母はそう言い残して自室へと向かった。
僕は、なんの気なしに冷蔵庫を開けた。
飲み物。乳製品。調味料。そして――。
肉、肉、肉、肉、肉。
冷凍庫を開けると、冷凍された肉。
野菜室を開けば、そこにはほんの少しの主役と、鮮やかな赤い肉。
冷蔵庫の中は、いつもと変わらなかった。
なのにこの――恐怖感。
今、僕は、大変なことを考えている。
Z症。
――本当にあるのではないか。
力なく冷蔵庫の扉を閉め、テーブルへと戻る。
一人、音の無い食卓に着き、母が切り分けてくれた、肉の切れ端を眺めた。
何故か震えている手で、無造作に一切れ摘み上げると、生のまま口の中に放り込む。
噛む度にじゅっと溢れ出す肉汁と、錆びくさい鉄の味。
甘く、柔らかな食感を心ゆくまで楽しんだ後で、ゴクリと飲み下す。
――ああ、なるほど。
そう思い至った瞬間、僕は椅子が倒れるほど勢い良く立ち上がり、廊下に飛び出した。
そのままの勢いでトイレのドアを開けて、便器に顔を突っ込むようにして吐く。
ほとんど未消化の肉が、びちゃり、ごろりと逆流してくる。
――わかった。わかってしまった。
僕は彼女に恋をしている。
肉が喉に引っかかり、うまく吐けない。息が詰まる。
それ以前、彼女を知ってから、今日、病室で彼女に恋をするまで抱き続けていた熱情は――。
肉の塊が便器に落ちるたび、溜まった吐寫物が跳ね、顔を打った。酷い匂い。それが更なる吐き気を誘発させる。
あの熱情は――『食欲』だった。
彼女を初めて見たときに感じた空腹。
彼女が生きていると分かった時に感じた飢え。
会いたいと思ったその寸前、脳裏を過ぎった言葉。
――たい。会いたい。
――食べたい。会いたい。
胃が痛い。裏返ってしまいそうだ。
気付かない振りをしていた。
それを認めたら、僕はここに居られなくなる。
人肉食嗜好――異常心理だ。
彼女を一目見たあの日から、僕の心の底には、自分にさえそうとはわからないよう偽装された、ある一つの欲望が住み着いた。
彼女を、食べたい。
柔らかそうな頬に。ほっそりとした首筋に。豊かに膨らんだ胸に。
優しく唇を当てるのではなく、滑り落ちるギロチンのように迷い無く、この歯を突き立てることができたなら。
溢れる血をすすり、皮を、肉を食い破り、温かく生臭い体内に頭を突っ込んで、苦味の強い臓腑を貪り、咀嚼し、喉を通る、少しばかり温度の違う新鮮な肉塊を胃に落とせば、煮え滾る溶岩のように熱く感じるのに違いないのだ。
きっとそれは、至福と呼んで差し支えの無い恍惚――。
彼女を食べたいという狂った欲望を恋と偽って、僕は彼女を見つめ続けていたというのか。
――あまりに、酷すぎるじゃないか。
嗚咽。自分で聞いたこともない声が出ていた。胃が捻じ切れそうなほど、収縮を繰り返している。
彼女のことが、食べたくて、食べたくて、仕方なかった。
一体どんな目で、僕は彼女を見つめていたのか。
彼女が向けてくれていた想いも知らずに、僕は全く違う思惑を描いて――。
無くして良かったと心底思う。
そんな欲望が自分の中から、初めから無かったことのように消え去ってくれて、本当に良かった。
――しかし、なぜ?
なぜ僕が彼女に覚えていた、飽くなき食欲が――突然に失われたのか。
「大丈夫、賢一!? どうしちゃったの!?」
うずくまる背中におかれた手が熱い。
気付くと母が、これ以上ないというくらいに心配そうな顔で声をかけながら、背中をさすってくれていた。
「救急車呼ぼうか? どこか痛む?」
「母さ・・・・・・ごめん・・・・・・へい・・・・・・き・・・・・・」
母さん――聞きたいことがあるんだ。
あの日のこと。
僕が、熱を出して幼稚園から帰るのが遅れた、あの日のこと。
コウちゃんの、最後の日のこと。
母が僕をおいてコウちゃんを迎えにいってから、僕は熱に浮かされた頭で、しばらく子供部屋でぼんやりとしていたが、そのうち一人、家に居続けることに耐えられなくなって、母の後を追って公園へと向かった。
公園に向かう途中の、夕暮れの街の光景は、赤くて、心細くて。
進む足は自然と小走りになった。
足がアスファルトを踏みしめる度、頭がぐらぐらと揺れたが、そんなことに構ってはいられなかった。
とにかく、母に、コウちゃんに会いたい。
僕が進む道に人影は無い。
寂しい。一人では、いたくない。
今は猫ばかりが集まるあの公園で、僕はコウちゃんと母を見つけた。
足を止める。上がった息で、肩が荒く上下していた。
周りには、他に誰も居なかった。薄暗くなった砂場に、コウちゃんが作ったのだろう、立派な砂のお城が建っていた。
母は公園の隅にある砂場の脇にうずくまって、虚ろな目をしてもう動かなくなっているコウちゃんの体に、頬擦りをしていた。コウちゃんのお腹の辺りは、夕焼けよりも真っ赤に染まっていて、その体の下には、同じ色の水溜りができていた。
母は、その中で、地に両膝をつき、ほとんど唸り声のような慟哭を上げながら、コウちゃんの体に顔を埋めていた。胸に掻き抱くように、大事に、大事に、誰にも取られることのないように。
母が頬擦りをする度に、静まり返った公園に、ぴちゃり、くちゃりと、コウちゃんのお腹にできた大きな穴から、水音がしていた。
母はずっとその場を動かずに、同じ姿勢のまま、何度もコウちゃんに頬擦りをしていた。
僕は見てはいけないものを見てしまったような気がして、何も言わず家に駆け戻って、布団に包まって震えていた。
その後に、母とコウちゃんを発見、通報した人の話では、母は全身をコウちゃんの血に塗れさせて、なにかに食い散らかされ、残り少なくなったコウちゃんの遺体を、両手に抱きしめていたのだと言う。
怖かった。だから確かめたかった。
最後のお別れのときに、コウちゃんを見て確かめたかった。
僕があの時見た、母が優しく抱きしめていたコウちゃんと、どこも変わりがないということを。
「か・・・・・・あさ・・・・・・」
聞きたいことが、あるんだ――。
「コ・・・・・・ウ・・・・・・コウちゃ・・・・・・は・・・・・・」
違うよね?
「何に・・・・・・食べられた・・・・・・の?」
僕は、年を取らぬ母に聞いた。
母は、何も言わなかった。
僕はうめき声を上げながら吐き続けた。
自分以外の誰かの嗚咽が、時折漏れ聞こえた気がした。
4
夜は、明けていなかった。短いはずの夏の夜。朝日は未だ、見えない。
午前4時、朝というには、まだ早すぎる時間。
この季節でなければ、夜中とさえ言える。
僕は、あの交差点に立っていた。
目の前を、巨大な貨物トラックが、まるでここが高速道路でもあるかのように、猛スピードで横切っていく。
この時間の大通りは、そんな車ばかりだ。
熱気を孕んだ夏の夜では、到底冷め切らぬ空気は、ぬめる靄となり、通りかかる車にことごとく覆いかぶさり、そして切り裂く豪風に千切られ、舞い上がり、地に落ちることを、飽くことなく繰り返していた。
部屋に戻っても、眠ることなどできなかった。
雑巾のように搾られた胃は、激しい痛みに反応することにさえ疲れたように、ぐったりとしたままだった。
ベッドに横たわっても、次々と頭に浮かんでくる事柄に翻弄されるばかりで、休まることなど少しもなかった。
中でもいくつかのことが、僕の思考を、強く縛り付けた。
――なぜ彼女に食欲を感じなくなったのか?
――まだ、生きている内にZ症を発症することはあるのか?
Z症の発症条件は――遺伝するのか?
もう、その疑問に関する答えは、ある程度自分の中で固まりつつあったのだけど。
それにはっきりとした答えを得るには、『検証』が必要だった。
そのために、僕はここに来たのだ。
僕はもう――狂ってしまっているのだろう。
それが何時からのことなのか、そのきっかけが何だったのか、僕には分からない。
あの交通事故を目撃した時からか、彼女を初めて見た時からか、コウちゃんの最後の姿を見たときからか・・・・・・それとも、この世に生れ落ちたその瞬間からだったのかもしれない。
もし僕の予想が当たっているのなら、この検証の後、長い長い、病気との闘いが待っている。
年を取らず、自然と死ぬこともできず、永遠に動き続け、人肉を欲する、Z症患者として。
発症すれば、今の僕が暮らす世界とは、まるで違う世界の住人となることだろう。
寂しくは無い。
僕はこの、世にも稀な病気の発症者を、2人も知っている。
だが、恐怖はある。
発症後のことももちろんそうだが、その前の段階――“死”を、超えることができるのかどうかということだ。
ありえない妄想に囚われた、狂人の死に様を晒すか――。
人肉に妄執する生ける死者となるか――。
――狂っているのだろう。
彼女の“最期の笑顔”を思い出す。頭が埋め尽くされる。
狂っているのだとしたら、何をおいてもまず、僕は――彼女への恋に狂っていたいのだ。
信号は赤。
道路の向こうから、明らかに法規速度を無視した鉄塊が迫ってきている。
その向こう、夜は白み始めていた。
――迷いは消えない。
もし、ここから一歩足を踏み出したなら。
この僕に――『死者の夜明け』は、訪れるのだろうか?
終