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Z症  作者: 六十一
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第5話

 彼女はその後、看護士に連れられ、検査を受けに病室を出て行った。

 開け放たれたドアの向こうから、病院着の血痕の理由を誰何する会話が聞こえ、遠ざかって行く。

 僕は自分の連絡先を書いたメモを、ベット脇の棚に残し、病院を後にした。

 ――また明日、来よう。

 今日中に運良く検査が終わるなら良し、そうならなくても明日になら、会うことぐらいはできるはずだ。

 話したいこと、聞きたいことは、まだまだ沢山ある。

 それまでに、自分の考えを、改めて整理しておく必要がある――。

 僕はその内一つ、最も重要な問題を、自分の目で確かめるために、あの場所へ向かった。


 交差点は、静かだった。

 先日の事故の時間より、少し遅い。

 車の通りは疎らで、時おり通り過ぎる車のエンジン音が、やけに大きく辺りに響き渡った。

 事故の調査も工事も、とっくに終わってしまっているのだから当然のことだが、事故の関係者らしい人間は、全く見当たらない。

 それとも見えていないだけで、今もこの交差点の地下深くでは、本格的なガス管工事が行われているのだろうか?

 数人の通行人に混じって青信号を渡る。

 あの日、彼女が渡ろうとした方の横断歩道だ。

 走ってくる車の姿は無いが、異常に緊張した。

 横断歩道の中程に差し掛かる。

 ――僕の幻覚の中で、彼女がトラックにはねられた場所。

 足を止め、じっと道路を眺める。

 ここから交差点の中央まで、黒々とトラックのブレーキ痕が続いていた――。

 そんな痕跡は、どこにも無かった。

 事故の時は、向こう側の信号からでも、はっきりと見えていたのに。

 もしかして、現場検証後にでも消されたのかもしれない。

 にわかには納得できず、その場にしゃがみこむ。通行人の中の何人かが、何事かと訝しげにこちらを見ているが、構わずアスファルトに顔を近づける。

 隙間につまったタイヤ片がないかと思ったのだが・・・・・・これも見当たらない。

 まるで、新たに敷き直されたかのように、アスファルトはギラギラとした油っぽい光を反射していた。暑さで額からぽたりと垂れた汗が、隙間に吸い込まれていく。

 そうだ。

 このアスファルト道路は、新しすぎやしないか?

 記憶を辿ってみる。道路の新しい古いなど、普段から注意を払ってはいない。新しくなっていると言えば、そう見える気がするし、前のままだと言われれば、そうも思える。

 向こう側、事故当日、自分が渡った方の信号も、同じように調べてみることにする。

 場所は――彼女が崩れ落ちていた場所。

 思い出すと胸が締め付けられたように苦しくなり、眩暈がした。

 だからといって、諦めるわけにはいかない。

 僕は念入りにその場を調べた。が、どこにも血痕らしいものは、見つけられなかった。

 かんかんと照りつける、夏の午後の日差しに炙られ、熱気を揺らめかせて、鈍く光るアスファルト。

 それだけだった。

 やはり・・・・・・ここであったのはガス事故なんだ。

 常識的に考えれば、当然そうなのだ。

 だからこそ彼女は死なず、事故の痕跡も無い。

 しかし――。

 いくら頭では分かっていても、僕の脳は、幻覚と言われた僕の見た交通事故の光景こそが、現実にあったことだと主張し続けている。薄まるかに思えたその考えは、時間を追うごとに、逆に、強くなっていく気がした。

 それを全面的に肯定することは怖かった。

 それをすれば、僕はこう呼ばれる。

 ――狂人、と。

 そして僕は、その不本意な呼び名に対して、こう申し開きをするだろう。

 「僕は狂ってなどいない! 全て本当に見たことなんだ!」

 ――最悪だ。

 厄介なことに、狂人と呼ばれる人々の多くは、そう主張するのだ。

 ――僕は、狂ってしまっているのか。

 横断歩道にかがみ込み、地面に鼻をこすりつけるようにして、何かを調べている時点で、周りからは相当奇異の目で見られている。正常な羞恥心の持ち主であれば、とても真似できることではない。

 しかし僕は、もうそんなハードルは、いとも簡単に越えてしまっている。

 僕は、狂ってしまったのに気付かないでいるだけなのか?

 激しいクラクションの音が耳に突き刺さり、僕の思考を中断した。

 咄嗟に顔を上げると、信号はとっくに赤に変わっていた。

 横断歩道を渡った向こうの歩道に立つ、見知らぬ女性が、口元に手を当て、零れ落ちそうな程に目を見開いて、こちらを凝視している。

 首をめぐらせると、大型のトラックが、こちらに近づいてくるのが見えた。

 地面に膝を着いた姿勢のまま、僕はどんどん大きくなるトラックの、銀色に鈍く光るバンパーを見つめていた。

 全てがゆっくりと、スローモーションに見え、痺れたようにじんじんする頭の中で、彼女もこんな光景を見たのだろうかと、ぼんやりと考える。

 ブレーキ音。すべる車体。ゴムの焼ける臭い。あの時と同じ。

 唐突に、もの凄い力で、体が後方へと引かれ――。

 尻餅をついた格好の僕の目の前に、停車したトラックの横腹が見えていた。

 つい先程まで僕がかがみ込んでいた場所に、トラックは止まっていた。

 トラックの窓が開き、運転手が怒りの形相で何かを怒鳴っているが、あまりの出来事にショックを受け、言葉が理解できない。

 僕はどうやら誰かに抱きつかれ、歩道側へと、共に倒れ込むように引き戻されたらしい。

 そうしてもらわなければ、僕は今頃――。

 僕ともつれるようにに道路に座り込んでいる人物を振り返る。

「・・・・・・菊池・・・・・・さん」

「菊池さん、じゃありませんよ! 賢一さん!」

 もの凄い形相の菊池さんに、言葉が詰まる。

 菊池さんは腰砕けの僕を背負って立ち上がると、早足で歩道に戻った。

 文句を言い足りないのか、トラックの運転手は未だに怒鳴り散らしている。それに菊池さんがぺこぺこと頭を下げると、ようやくトラックは走り去って行った。

 歩道に戻った僕達、いや、僕が轢かれそうになったところを間一髪救った菊池さんに、歩道で様子を見ていた数人の野次馬の間から、まばらな拍手が上がった。

 菊池さんは困ったような表情で、やっぱり何度も頭を下げた。

 本当に頭を下げないといけないのは、自分だと言うことは分かっていた。だけど全身から力が抜けてしまい、言うことを聞かず、僕は馬鹿みたいに宙を見つめながら、菊池さんの背中に負ぶさっていることしか出来なかった。


「どうしてあんな所で、ボーっとしてたんですか?」

 菊池さんは呆れたような笑顔で、ベンチに腰掛けた僕に、缶コーヒーを差し出す。

 礼を言って受け取ると、プルリングを引き、乾ききった喉に一気に流し込んだ。暑さと緊張でへばりついた喉が、その潤いでべりべりと剥がれていくような心地がした。

「本当に・・・・・・ありがとうございました。もし菊池さんが助けてくれなかったら・・・・・・僕は・・・・・・」

 鼻先を過ぎるトラックの車体と、頬を叩く突風を思い出すだけで、また冷や汗が噴出してくる。

 あのままだったなら、僕は“あの彼女”と同じ姿になっていただろう。

「もう、それは良いんですよ。過ぎたことなんですから・・・・・・それよりも私が気になっているのは、どうしてそんな事になったのか。その訳です」

 菊池さんは僕の隣に腰掛け、自分のコーヒーを開けると、ぐいと一口飲み、自分の足元の辺りを見つめた。

「昨日の今日知り合ったばかりの私には、やはり話しづらいでしょうか」

「いえ、そんなことは・・・・・・」

 命の恩人である菊池さんには、ちゃんと話をしておいた方がいいだろう。

「あの・・・・・・僕、確かめたかったんです」

「確かめる? 何をです?」

 僕は一瞬躊躇した。もしかしたら、菊池さんに頭がおかしいと思われるかもしれない。

 そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、菊池さんは僕の顔を覗き込んで、大丈夫だと言うように、笑顔で一つ頷いた。

「事故、をです」

 菊池さんは無言で僕の話の続きを待っていた。

「菊池さんはきっと、僕がおかしな人間だと思うでしょうけど・・・・・・」

 笑顔のままゆっくりと大きく首を横に振る菊池さん。少し気持ちが軽くなった。

「僕は、僕の見た事故。菊池さんが、地下ガスを吸い込んだことで見た幻覚だと言っていた、あの交通事故のことです。あれが、本当にあったことのように思えて仕方ないんです」

 あんなにもはっきりとした幻覚なんて――。

「だから事故のあった交差点に、その証拠が残っていないだろうかと。ブレーキ痕や、その・・・・・・彼女の・・・・・・血痕が・・・・・・残ってやしないかと思って・・・・・・」

「そうですか・・・・・・それで・・・・・・」

 菊池さんは、少し悲しそうに言った。

「それで、事故の証拠は見つかりましたか?」

 僕は無言で首を振る。

「分かってはいるんです。あの事故が現実なら、彼女、若宮さんは生きているはずが無い。なのに頭のどこかが・・・・・・どうしてもあの事故が幻覚であると認めたがらない。苦しいんです・・・・・・僕は・・・・・・どうすればいいのでしょう・・・・・・」

「おつらい・・・・・・でしょうね」

 ぽつりと言った後、菊池さんは続けた。

「では・・・・・・こうは、考えることはできないでしょうか? 『交差点で起きたのが、どんな事故でもかまわない』と。賢一さんは今無事に、こうして話をしている。賢一さんのお知り合いの若宮さんもまた、無事だった。賢一さんを悩ませている交通事故の記憶ですが、それが幻覚であろうとなかろうと、賢一さんにとっての現状は、全く変わりがないわけですから」

 僕は頷いた。

「僕も、それは考えました。結局、そういうことに落ち着くしかないんだと、僕もそう思います。だからこそ、それをはっきりさせる意味でも、あの交差点に行ったんです」

 それで――いいんだ。

「もうちょっと、変な話をしてもいいでしょうか?」

 人に話すことでつく踏ん切りもあるだろう。菊池さんには、どんなことも話せてしまいそうな、安心感がある。

「もちろん、かまいませんよ」

 予想通り、菊池さんは頷いてくれた。

「突然でなんですけど・・・・・・僕、若宮さんに対して、特別な感情を持っていました」

 菊池さんの顔が「やっぱりね」といった感じの笑顔に変わる。少し気恥ずかしい。

「若宮さんが事故にあって死んでしまったと思って、落ち込みました。だからそれが幻覚で、若宮さんが生きていたことは、本当に良かったと思った」

 けれど――。

「気が急いて、早く若宮さんに――会いたくて。僕は、昨日からどきどきしていました。なのに今日、病院で実際に若宮さんに会った時、全く何も感じなかったんです。まるで顔を知らない他人を見るように、僕の胸には何の感情も湧き上がってこなかったんです」

 菊池さんは「え?」と驚いた表情で固まった。無理もない、僕自身なぜなのか分からないのだから。

「僕は戸惑いました。どうして若宮さんと会うのをあんなに楽しみにしていたのに、こんなに自分の心は無感動なのだろうと・・・・・・」

 病室で彼女の姿を見たときの、あの虚無感。

「でも、話しているうち――なにがきっかけになったのかは、はっきりとは言えないんですけど――また新しい感情が、僕の中に生まれたのがわかりました。今まで感じたどんなものとも違う、強い反面、どうしようもない不安定さを合わせもったその感情は、全部が若宮さんに向かっていて」

 うれしかった。

「僕はその瞬間、恋をしたのだと、はっきりと自覚しました」

 顔が熱い。僕は何を口走っているんだろう。

「それで、気になっていたんです。僕の中に新たに芽生えた感情が”恋”だったとして、なら以前に若宮さんに対して抱いていたものは、一体何だったのだろうと・・・・・・」

 「なるほど」

「菊池さんは、分かりますか?」

「はぁ・・・・・・私はそういった経験に乏しいので、その乏しい経験で語るのはおこがましいとは思うのですが・・・・・・」

 菊池さんも照れているのか、頬の辺りを人差し指で掻きながら続ける。

「やっぱりそれも“恋”だったんじゃないですか?」

「そう――なんでしょうか?」

 全然、別の物のように思えたのだけれど。

「確証はないですよ」

 菊池さんは「ははは」と小さく笑った。

「ただね、賢一さん。私はこう思うんです。私たちは日々出会う色々なことに、色々な感情を抱きながら暮らしています。まるで異なった形のトンネルを、次々にくぐっていくみたいにね」

 そこで一旦言葉を区切って、菊池さんは遠くを透かし見るように空を見上げた。

「同じ事柄に対する感情は、不変ではありません。昨日嫌いだったものを、今日好きになることもあるでしょう。もちろん、その逆もあります。酷い時には、対峙する度に、感じることが変わることもあるかもしれません。その都度、色んなことを、やっぱり考えるでしょう。もし、その全てに名前をつけようと思ったら、私たちは、一体どこで感情を区切ればいいんでしょう?

 そうですね、例えば賢一さんが、昨日嫌いだった女の子を、今日好きになったとしましょう。実際そんなことは少ないでしょうが、ここはドラマチックな事件が起こったりして、そうなったと仮定してみてください。ではその感情を、正確に呼ぼうとするなら、どう呼びましょうか?『昨日は嫌いだった子を、今日好きになって、明日はまた嫌いになるかもしれない好き』とでも呼びましょうか?」

 菊池さんは僕のことを真っ直ぐに覗きこんだ。瞳は優しげだったけれど、なんだか酷く寂しそうに見えた。

「賢一さんは今、若宮さんに恋をしていらっしゃる。若宮さんの話をしている賢一さんの姿は、私にはとても幸せそうに見えます。賢一さんが不幸せであるならともかく、恋をしていると自覚もなさっている今、手放し、見えなくなった感情に名前をつけることは、あまり意味がないように思えます」

 破顔一笑。けれど寂しげな印象は消えることはない。

「私なら・・・・・・もっと別のことを考えますよ。例えば――その人を好きになれた幸せを、存分に噛締めたりとか――若宮さん、明日、明後日には退院でしょう? どこかに誘って遊びに行く計画とか、たててみたらどうです?」

 その言葉を聞いて、僕の胸は大きく跳ねた。

 僕と彼女が一緒に遊びに行く。

 つまりはデート。

 両想いの男女が、二人で遊びにいったりすること。

 ついさっきまで話したことも無かった女の子とデート。

 今しても仕方ないのに、緊張してきた。漠然と、そんなこともあるかもしれないとは思ったけれど。第3者に改めて言われると、そのことが急に現実味を増して、目の前に迫ってくるようだ。

 胃の辺りが熱い。鼓動が早まる。空気が少し、薄くなった気がした。

 きっと彼女となら、一緒に街を歩くだけで、すごく楽しい。

「あ・・・・・・」

 彼女の言葉を思い出し、夢想は中断された。高揚していた気分が急激になえ萎んでいく。

 Z症――。

「どうかしましたか?」

「菊池さん、あの、Z症ってしってますか?」

「ええ?」

「Z症・・・・・・何かの病気かもしれないんですけど、知りませんか?」

 眉をひそめ、何かを考えている顔。間違いない、菊池さんは知っている。

「知ってるんですね? もしかして、重い・・・・・・病気ですか?」

 しばらく菊池さんは黙っていたけれど――。

「私も良くは知りません。同僚の女子所員が噂をしているのを、聞きかじったぐらいで・・・・・・賢一さんは、どこでその名前を聞いたんですか? どうしてそんなことを聞きたがるんです?」

 そう切り出した。

 彼女の泣き顔が脳裏を掠める。

「言え・・・・・・ません。すみません」

「そうですか。何か事情がありそうですね」

「はい、それも・・・・・・言えないんですけど・・・・・・どうしても知りたいんです」

 菊池さんは、それでも笑ってくれた。

「いいえ、そんなに改まらなくても、私の知っていることはお教えしますよ。私が迷った理由は、その『Z症』に関する話が、話すことをためらうほど重大なものだからというのではなく、仮にも市の公務員である私が、『Z症』のような事実無根の流言を話してしまっていいものかどうか、ということについてですから」

「事実無根って・・・・・・どういうことですか?」

 菊池さんは眼鏡を外すと、拭き始めた。

「はい、整理してます。少し待ってくださいね」

 しばらく菊池さんは伏目がちに、じっとなにかを吟味するように眼鏡を拭いていた。

 野良猫がいるばかりで、周りに人影のない公園のベンチで、僕はじっと菊池さんが話し出すのを待つ。

 やがておもむろに眼鏡をかけ直すと、菊池さんは語り始めた。

「お待たせしました、まとまりました、お話しします」

 僕は菊池さんの口元を見つめ、話を聞き漏らさないように集中する。

「まず最初にはっきりと申し上げておきますと、Z症というものは実在しません。そういう病気があると、まことしやかに噂されてはいますが、少なくとも私は、そう確信しています。その理由は私の話を聞いてくだされば、自ずとお分かりになるでしょう」

 菊池さんは自信ありげにきっぱりと言い切った。

「さらに前置きしておきますと、これは先程も申し上げた通り、私が聞いた女子所員の噂話によるところの内容がほとんどで、まるで確証のない話だということです。そしてそれだけをお伝えしても整合性にかけると判断しました。ですからこれから話す内容は、その隙間を埋めるために、私の推測を含みます。けれどもそれは補足程度のもので、大筋を歪めてしまうものではありませんからご安心を。

 けれども私は、賢一さんが誰から、どんな内容の話を聞いたのかしりませんから、賢一さんが話を聞いたというその方自身のZ症に対する認識と、差異が生まれる可能性があることは、あらかじめご了承下さいね。

 ではまずZ症と呼ばれる病気の発見者ですが、くだんの女子所員の言葉をそのまま使わせていただくと『ハーバード大学のなんちゃら言う博士』ということです。この時点でもうあやしいですね。つまり『不明』ということです。

 なんでもその博士は、人類始まって以来の天才医学者で、人間の“生”に関してただならぬ執着を持っていたとのことで。それで様々な実験を重ねた結果、不老不死の薬を作り上げてしまったのだそうです」

 その時僕は、小声で菊池さんが、ばかばかしい、と吐き捨てるのを聞いた気がした。ほとんど泣き声みたいなそれは、何故だか僕の耳にこびりついた。

「しかしそれは、正確には不老不死の薬などではありませんでした。なぜならその薬によってもたらされる効果は『生を永らえらせるもの』などではなく、『死んだ人間を蘇えらせるもの』だったからです」

 日は西に傾きつつあるものの、まだまだ高い。それなのに僕は、背筋にひどい悪寒を感じて、身を震わせた。

 ――蘇える死者。

 本当に、出来の悪い冗談のような言葉の響き。

「博士はあくまで『生の延長』にこだわりましたが、研究はそこで行き詰まりました。私に言わせれば、死んだ人間を生き返らせられるだけでも凄いことだと思いますけど、なにしろ博士は“天才”ですから、それだけでは満足できなかったのでしょうね。ですがさすがに人類最高の頭脳を持つとされる天才医学者にも『死』というものの壁はあまりに高く、博士は自分自身で掲げた到達点の高さに、日に日に追い詰められていきました。

 研究は、一向に進む気配を見せません。博士は一旦着目を変えて、不完全な不老不死の薬――仮に『死者蘇生薬』とでも名付けましょうか――を見直すことにしました。博士の目指す不老不死の薬の、言わば前段階にあたるこの『死者蘇生薬』にも問題は大有りでした。それはこの薬が有効である人間が、極々少数であるということと、被験者に投薬した薬が有効かどうかを確かめる術が、実際に被験者を“殺して”その後“蘇える”かどうかをみるしかないということでした。

 死者蘇生薬が有効な人間の身体的条件などは、全くわかりませんでした。というのも、その薬が有効に働いた例は、沼で水死した後蘇生したとされる、博士の愛娘だけだったからです。仮に博士の娘さんが本当に蘇生したのだとしても、それって本当に薬の効果なの? って疑ってしまう凡人の私とは違い、天才博士はそれがまごう事無き薬の効果だと確信していたのです。

 あまり嫌味な言い方をするのもどうかと思いますので、こんな話し方はこの辺にしておきましょう。博士はもうその時すでに、おかしくなってしまっていたのでしょうね。死者蘇生薬が有効な人間の条件さえ突き止めれば、不老不死の薬は完成するのだと思い込むようになっていました。そして一度に大量の実験結果を得る妙案を思いついたのです。

 それは、都合よくもガス状に加工可能だった死者蘇生薬を、市街地に無差別散布し、その後致死性の高い毒ガスを同様に散布、その結果、薬の効果で蘇えってくる人間の体を研究し、薬の有効な人間の条件を導き出す、というものでした。ついにここまできたか、という感じですね。

 しかしその“大実験”の実行するにあたって、目前に迫るいくつかの障害がありました。致死性毒物を調合するために大量に拝借した薬物のため、大学からマークされ、何度か非合法に行った“実験”についても警察機関にばれかかっていて、とても速やかに“大実験”を行える状況ではなかったのです。

 じりじりと社会的にも追い詰められていた博士の元に、ある日一通の手紙が届きます。ここから、私たちに関係の深い話になってくるのですが。その手紙の内容はこういうものです。「貴殿が研究中であるテエマに賛同の意を表し、共同研究を申し入れたし」送り主は「深青学園大学院、医学研究室」そうです、この水無瀬市の西にそびえる水無瀬三山の内一つ『今須山』の山中にある、あの巨大学園からの研究客員要請だったのです。

 ほとんど日本という国に対する知識の無かった博士でしたが、尻に火がついた状態の博士は、渡りに船とばかりに、この要請に飛びつきました。博士は大量の毒物、死者蘇生薬と研究資料、そして唯一の実験成功例である自分の娘とともに、遠く海を渡り、この水無瀬市にやってきました。それは噂によると、1910〜20年頃。日本が大体、大正と呼ばれていた時代の話です」

「あの、話の途中ですみませんが、質問があります」

「はい、なんでしょう」

「深青学園って、そんなに昔からあったんですか? 僕は近くで見たことはないのですが、相当新しい校舎で、設備も申し分ないっていう話ですし、最近できた学校なのかと思っていたのですが」

「ああ、なるほど、確かにそう見えるかもしれませんね。でもあの校舎は何度も建て替えられた後のものですから、新しくて当然ですよ。あの学園は潤沢な資金をもっていますから、建て替えも頻繁に行っています。近い将来、山の中腹にある第二校舎も、新しくなるっていう話ですよ」

「へぇ・・・・・・」

「深青学園の歴史は、実はとても長いんです。深青学園の母体となった『深青塾』は1766年、十代将軍家治の頃に設立されました。以後明治維新後に『深青学士院』と名を改めます。そして明治天皇の崩御により時代が大正に移り変わり『深青大学』という名前に更に改名。これが今の深青学園の前身にあたります。その後1913年、当時友好国であったアメリカにある『ミスカトニック大学』という学校と姉妹校提携を結びました。日清、日露の両戦争の後、これからの時代に向けて国際的な社会感覚を磨こうという意図だったようです。その後起こる大戦によって一時途切れましたが、今もあの学園に留学生が多いのは、そのせいもあるんですね。あと日本女子大からの女学生受け入れによる女学部設立とか色々話はあるのですが、今は省きましょう。とにかく私達の知る深青学園という名前に変わったのは、二次大戦後のことです。今のような中高大院という教育体制になるのは、それからまたずっと後の話ですしね」

「ありがとうございます。お話、続けてください」

「ええ、分かりました――今ちょうど話にも出ましたが、ですから『深青学園』から要請があるということもあり得ない話なのですけどね。一応当時の深青に博士が来たと思ってください。

 深青学園の客員研究者としてやってきた博士は、表向きこそ正常を装っていましたが、心の内に秘めた不老不死の秘薬への異常な熱情は、無くなってなどいませんでした。いいえ、無くなるどころではありません。極東の聞いたこともない島国にある、一地方大学に過ぎないはずの深青学園大学院には、当時最先端の実験設備や、良好な研究環境が、申し分ない程に整えられていました。それに煽られるように博士は、益々『大規模死者蘇生実験』の実現に向けて、着々と、周りにはそれと悟られないように慎重に、その準備を進めていったのです。

 ついに全ての準備は整い、いよいよ実験の日がやってきました。博士は大学院施設のあった今須山の頂から、死者蘇生薬を散布しました。大学院での研究により、大気中でも活性しつづける『細菌』として精製培養に成功していた死者蘇生薬は、山からの吹き降ろしの風に乗って、瞬く間に市街に広がり、そこに生活する人々に『感染』しました。

 ――そうです、これは実験ではありません。おわかりのようにこれはテロ、『バイオテロ』に他なりません――コの字型に高い山々に囲まれ、外界から切り離された、水無瀬市の地理も、この実験には好都合でした。そして空気から、人々の接触から、死者蘇生薬改め『死者蘇生細菌』は、この水無瀬市に蔓延することとなったのです。

 赤々と夕日の燃える、黄昏時のことだったそうです。ちょうど今ぐらいの時間でしょうか。博士はその時山の頂から市街を見下ろして、何を思ったのでしょう?」

 いつの間に、そんな時間になったのか――僕は無言で西の空を見上げた。

 血のように赤い夕日の逆光で、今須山は黒々とした威容を見せていた。その中に浮かび上がるように建つ白亜の建物群。深青学園の校舎群は、まるで墓標のように不吉なものに見えた。

「さあ、いよいよ仕上げの時間です。実験は、後は市民を大量虐殺するための純粋な毒薬――もちろんこれも、死者蘇生細菌同様に、空気中に十分馴染むように改良、いや、改悪と呼ぶべきでしょうね・・・・・・手を加えられていました――を、撒くだけという事になったのです」

 ふっと、鼻から漏れるような微かな笑い。

「しかし――結局この実験は失敗しました。毒薬は、散布されることは無かったようです。それはなぜでしょう? 博士が急に罪の意識に目覚め、実験を中断したのでしょうか?

 違います。実験予定日の翌日、博士は何か『肉食性の大型の獣』に襲われたらしい無残な姿で発見されました。念願だった大実験の、最後の仕上げにとりかかったはずの博士の身に、何が起きたのかは、誰にも分かりません。ただ一つ奇妙な事に、博士が死んだ同日、博士の娘が何処かへと失踪しており、それが何か暗示めいて結末をさしているようにも思えるのでした――」

 菊池さんは、大きく一つ息を吐いた。

「これがZ症の発見者、というより、Z症と呼ばれる病気の原因である“細菌”を造りだした『狂った医学博士』の物語です。ここまでお話を聞いていただいて、言うまでもないことでしょうが、この話は全くのデタラメです。

 実は・・・・・・少々恥ずかしい話なんですがね・・・・・・私自身この話を聞いた後に、ちょっと興味を惹かれましてね。調べてみたことがあるんです」

 苦虫を噛み潰したような、とはこういう表情を言うのだろうか。なぜだろう? このZ症の話を始めてからの菊池さんの様子は、どこか妙な感じだ。

「深青学園大学及び大学院に、過去、ハーバード大学からの客員研究者が来た事実はありません。資料は1900年頃までしか遡ってはいませんが、それ以前は現実的ではないでしょう。少なくとも公式には、記録は残っていません」

 目元に色濃く翳る疲労。

「では、話を続けましょう。博士は亡くなり、大規模実験計画は頓挫しましたが、博士は実験の第一段階である細菌の散布には成功していました。その細菌は繁殖力が強く、水無瀬に暮らす人々に拡大感染していきました。人から人にはもちろん、空気から、動植物から、様々な経路で、自らが知らぬ間に、ほとんどの市民は、死者蘇生細菌の保持者とされてしまっていたのです。

 しかし、そのことは大した騒ぎにはなりませんでした。それはそうです。感染したとしても“発病”するかどうかは、死ななければ分かりませんし、その確率も、極々低いものでしかないわけですから。

 細菌は、その保持者が死ぬまでは何の活動も行わないそうです。ただひたすらに、自己保存に努めるだけです。それでは、保持者が生きている間は何も変わっていないのと同じですし、そもそも当事者自身が、そんなご大層な細菌に感染しているなどとは、夢にも思わないでしょう。

 それでも・・・・・・確率はゼロではありません。死後、発病したと思われる人物もいたという話です。では、発病後のZ症発症者の症状はどんなものなのか? それはこうです『発症者はZ症の発症以降、老化せず、再び“死ぬ”こともない。ただし頭部――脳を、完全に損傷することがなければ』それ以外は、生前となんら変わるところはないと言います。

 Z症発症者は、もし傷を負ったならばたちどころに再生し、Z症以外のどんな病気にも感染しないそうです。そこから先は“永遠”の始まりです・・・・・・それだけなら、発病を忌避するどころか――喜んで受け入れる、むしろ積極的に望む者さえいる事でしょう。

 ですが全てがそう、うまくいくわけではありません。この病には、無視できないマイナスの特徴があります。それは、食事の傾向、嗜好が極端に変化することです。

 まず、食欲が旺盛になります。発症者の生存に食事は必須ではないそうなので、食事という行為は全く無駄なものとも言えますが、きっと精神的なものなのでしょう、とにかく“食べる”ということに拘るようになります。それから野菜を食べないようになり、動物性蛋白質、つまり『肉』に食が偏るようになる。しかもその『肉』というのが問題で、それが豚や牛といった食用動物のものではなく――『人肉』なんです」

 耳を疑った。

 狂気の天才博士。死者蘇生細菌。そして発症者の“人肉嗜好”

 “死”から蘇えった少女。

 ――彼女は言った。

「Z症かもしれない」と。

 彼女は、泣いていた。

 ふと、沈みかけていた夕日に照らし出された公園の影が、濃くなった気がした。

「死者蘇生細菌感染症は、いつの頃からか『Z症』と呼ばれるようになりました。おそらくはその特徴――その頻度、欲求の強さまでは分かりませんが――人の肉を食べたくなる。ということと、脳を完全に損壊してしまわない限りは活動を停止しないということから、あの有名なホラー映画――死者が蘇えり、生きている人間達を襲い、喰らう――その映画の中に出てくる、蘇えった死者の生態に似ているとして、映画の題名の頭文字を取って、そう呼んだのではないかと、私は思います。

 誰が聞いてもデマだと思うこのZ症が、最近になって噂になりつつあるようです。それをまとめるとこうです。吹き出さないで聞いてくださいね。『博士の散布した細菌は、人々に感染し続けることで今も尚存在しており、今になってなんらかの理由で細菌が活性化し、死後の発症者が増えている』つまり私も、賢一さんも、水無瀬市に暮らす人間は、皆その細菌に感染していて、死んだら不本意ながらも生き返って人の肉が食べたくなる可能性があり、理由は分からないが、その確率が高まってきていると、こういう訳です」

 耳鳴りがする。何か、大事なことが分かりかけているような。

「これは完全に性質の悪い妄想ですよ。そんな昔から細菌が繁殖しているなら、水無瀬市どころか、世界中にその細菌は広がっているはずです。そんな話を信じる方がどうかしてる・・・・・・これで、僕が知るZ症に関する事柄は、全てです。お役にたてたでしょうか?」

 菊池さんは、しばらく眼を閉じて黙っていた。

 何を想っているのだろう。

 先程までの口振り。興味が無い、馬鹿馬鹿しいと言いながらも、情報の裏まで取る矛盾した熱心さ。

「賢一さん」

「なん・・・・・・でしょう?」

 黄昏を過ぎ、夏の宵が、僕らを包み始める。

「私も少し、変な話をしても良いでしょうか?」

「ええ・・・・・・もちろん、かまいませんよ」

 ゆっくりと開かれる菊池さんの両目に、想いの残滓が、微かに残っていた気がした。

「ぶしつけに、こんなことを言うのも何なんですが・・・・・・私は、騙され易い人間なんです。こんな仕事をしているとね、それはもう色んな人に会うんですよ。良い人。悪い人。色んな人達がいます。その人達は、時に相手を思って、時に自己の保身のために、また色々な『嘘』をつくことがあるんです。」

 ――伏せられた視線はおぼろげで、なのに生々しく、露出した傷跡をすら思わせて。

「その『嘘』に、私は大概騙されます。性分なんでしょうね、何回同じ目にあっても治らない。本当、自分でも頭の悪い人間だと思います。だからと言って私自身が嘘をつかれることに慣れるわけではない。その都度、感謝したり、腹を立てたり、色々です。それで考えたんです。いつも自分を騙す人間は、心に留め置いて、いつも注意しておけば、騙される頻度も減るかなぁって」

 菊池さんは笑った。

「私の周りにいる人間で、私を一番騙すのは誰だろう? って考えて・・・・・・それで、別のことに気がつきました」

 ああ――。

「一番、私を騙そうとしているのは――実は・・・・・・自分自身なんじゃないかって・・・・・・賢一さんは、どう思いますか?」

 きっとこの人には――。

「・・・・・・いやぁ・・・・・・本当に変なことを言いました。忘れてください。日も・・・・・・落ちてきてしまいました。今日はもう帰りましょうか。私も、一旦役所にもどらないと」

 ――蘇えらせたい人が、いるのだ。

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