第4話
市役所から来た菊池さんのおかげで、自分の中で、今回の事故について収拾がつきそうだ。
交通事故は、僕の見た幻覚だった。
ガス事故の現場に居合わせた僕は、そのときガスを吸い込み、交通事故の幻覚をみたのだ。
そう思うと、自分が現実だと確信していたはずの交通事故の記憶も、やけに疑わしくなってくる。
――もしかしたらと、思う。
あの作り出された幻覚の中でも、特に強く覚えていることの一つである、辺りに漂っていた、トラックのタイヤの焦げた匂い。
あれは実は、噴出したガスの匂いだったのではないだろうか?
そう――なのかもしれない。
一家3人そろった夜の食事は、普段から比べると、とても豪勢なものだった。
母なりに僕に元気を出して欲しいという、気持ちの表れだったのだろう。
全く事情を知らなかった母は、菊池さんの話を聞いてどれほど驚いたことだろう。
仕事で疲れた父に気をつかってか、夕食の席ではそのことは、話題に上がらなかった。
もちろん、僕も普段通りの態度で、夕食をとった。
――母さん、僕は大丈夫。
そんな思いを込めて、僕はむしろ、いつもより量を多く食べた。
食事をとっている最中も、頭の中は彼女と会うことで一杯だった。
期待と不安がごちゃごちゃに入り混じった、複雑な気分だったけれど、意外にも食は進んだ。
2
彼女、若宮 加奈の病室の前に立って、僕は大きく深呼吸をした。
扉の前まで案内してくれた、若い看護士の女性が、くすりと笑いを漏らす。
「緊張してるの? 顔、強張ってるわよ。ほら、患者さんのお見舞いなんでしょう? もっと笑顔笑顔」
その言葉に笑顔を返したつもりだったが、自分でもまったくうまく笑えていないのが分かった。
途中の花屋で買った、持ちなれない程の大げさな花束を抱え、僕は白く塗られたスチール製の扉を見つめた。
――この向こうに、彼女が居る。
「若宮さん、起きてますか? お見舞いの方が見えてますよ」
看護士のノックの音に、部屋の中で、動く気配があった。
「誰、ですか?」
落ち着いていて通りはいいが、硬く、隔絶した感じのする、そっけない声だった。
僕はその時、自分が彼女の声を間近に聞くのが初めてなことに気付いた。
――こんな、声だったんだ。
僕はその声に身震いした。
本当に、生きていたんだ――。
菊池さんに事実を聞き、こうやって病室の前まで案内されて尚、僕は心のどこかで思っていた。
僕の見た事故は、幻覚などではなく、彼女が無事だったという話こそが、僕の願望から生まれた幻なのではないか。
「新田 賢一さんとおっしゃるそうよ」
ドアの向こうが、急に慌しくなったようだった。
「す、少し・・・・・・待ってください」
取り澄ました風を装った声だったが、明らかに切迫した調子が混じっている。
「慌ててる慌ててる・・・・・・」
看護士は両手に持ったバインダーを口元に当てて、小さく肩を震わせていた。
何か、意地悪そうな人だなぁ・・・・・・。
けれど僕には、それを誰何している余裕は無かった。
ついに――。
この一年間、思いを募らせた彼女と、2人きりで話す機会が――。
まさかそれが病院の個室になるとは、夢にも思わなかったけれど。
彼女は急な訪問を、迷惑に思わなかっただろうか?
病院の案内所で自分の名前と彼女へのお見舞いの用件を告げると、すぐにここに案内されたぐらいだから、菊池さんはちゃんと約束を守ってくれていたようだ。
彼女にも、僕が病室を訪れることが伝わっているとは思うのだけど――。
ドアの前に看護士と立ち、5分程が経とうとしていた。
――気まずい。
一体何をしているのだろう?
ドアの前で手持ち無沙汰に過ごす5分は、存外に長かった。
「女の子にはね、色々とあるのよ」
そんな僕の様子を察してか、看護士が話しかけてきた。
「でも、安心した」
なんだろう? 苦笑、なんだろうか。看護士の顔には微妙な表情が浮かんでいる。
「安心、ですか?」
「――もう少し! すぐですから!」
一人ごちるように呟く看護士に問い返したとき、部屋の中からほとんど悲鳴に近い声が聞こえてきた。
「ええ」
小さなため息。看護士は、彼女の病室のドアノブの辺りを見つめたまま続けた。
「ひどい事故、だったみたいでね。外傷はなかったけど、若宮さん、ここに来てからずっと塞ぎ込んでいたから・・・・・・だから彼女のこういう普通の女の子みたいなとこ、見たことなかったからね・・・・・・」
僕は何も言えなかった。
看護士は知らないのだろうが、僕もその事故に遭っているのだ。
けれど僕には、その事故の記憶が無い。
彼女が事故によってどんな被害を被ったのか、僕はその場に居合わせながらも、全く覚えていないのだ。
なんだか――不甲斐ない。
菊池さんは、彼女がガスを吸い込んだ影響で、記憶が混濁していると言っていたけれど、彼女もまた僕と似たような感じなのだろうか。それとももっと明確に、事故のことを覚えていたりするのだろうか。
自分がなんだかとても、無責任な人間であるような気分になる。
ふと、不安がこみ上げてくる。
これから彼女と話すことになる。当然その話題は、主に事故のことになるだろう。
僕と彼女に共通の話題といえば、その事故の話以外にない。
学校の話題があるといえばあるが、先日の事故以上のインパクトは持ち得ない。
そうなった時、僕は何を話したらいいのだろう。
「お待たせしました。ど、どうぞ」
僕の考えがまとまらないうちに、彼女の声がした。
「入りますね」
看護士がドアノブに手をかける。
――いよいよ、だ。
ゆっくりと開いていくドア。
柔らかい照明を照り返す白い壁。
同じ色の床。電動式ベッドの足が見え、これも同色の染み一つないシーツ、そして上掛けが見え――。
背もたれになるように起こされたベッドに、布団を腰まで掛けて、薄青い病院着に身を包んだ彼女が、座っていた。
うつむいた顔を、長く真っ直ぐに伸びた黒髪が隠している。
普段は澄んだ泉の水のように透明感のある白い肌は――今、黒髪の間から覗く耳まで、紅い。
僕はその姿を見て、あっけにとられた。
「あらあら・・・・・・」
含みのある調子の看護士の声も、僕には遠かった。
「しっかりしなさいね。彼氏」
僕は病室に入ってすぐの場所で、呆然と立ち尽くした。
どうしたら――。
「若宮さん、午後の検査の時間、忘れないでね。それじゃ・・・・・・ごゆっくり」
脇をすりぬけるように出て行く看護士に、去り際、強めに背中を叩かれたが、何も感じない。
彼女は、看護士が出て行った後も、何も言わずただうつむいていた。
僕は、混乱していた。
見たところ菊池さんの言っていたとおり、外傷は全く無さそうだった。
僕が良く見知った彼女と、寸分も変わらない。
僕は、混乱していた。
いや、狼狽していたと言い換えてもいい。
頭のなかで繰り返されたのは、一つの言葉。
――僕は、どうしてしまったのだ。
望んだはずの再会なのに。
何も変わりのない彼女のはずなのに。
僕は、あれ程までに会いたい、話をしたいと願った彼女を前にして――。
何も、感じなかった。
僕を高揚させ、焦がれさせ、どうしようもなく突き動かし続けたあの熱情は、今や跡形も無く、消え去っていた。
――本当に何も感じない。
まるで通りですれ違う通行人を見るように。
電車内で偶然隣り合っただけの人間のように。
僕にとって“そこに居る”という認識以外の意味を持たない人間に、彼女は変わっていた。
いや、彼女が変わったのではない。
おそらく僕が、僕の内面にあるどこかが、変わってしまったのだ。
――理由が分からない。少しも、分からない。
まさか、これは事故の影響なのか?
こんな事が――あるのか。
ある人物に対する心の持ちようが、訳も無く、突然に変わってしまうなどということが。
なぜ――。
その疑問の裏に、扉の隙間から覗き込む目のように見えているのは――恐怖だ。
――怖い。
何かがおかしい。
先日の事故以来、何かが食い違い始めている気がする。
なにもかもが唐突で、現実が、僕だけをおいてけぼりにしていく。
交通事故など無かったという事実。
好きだったはずの女の子に、なんの感情も持たなくなったという事実。
然るべき過程の後にやってくる、一つの区切りの意味での“結末”としてはありえるのかも知れないけれど、そのどちらも唐突に過ぎるではないか。
世界という名の映画館で、僕の見ている映画の内容だけが、突然に前触れなく差し替えられてしまったかのような。
「新田君」
出し抜けに話しかけられて、僕は瘧のように体を振るわせた。
視界が焦点を結び、彼女をはっきりと映し出す。
彼女はいつの間にか顔を上げていた。
真っ直ぐに僕を見つめている。心なしか目が潤んでいる気がする。
薄く開いた唇から、白く濡れ光る小さな前歯が、微かに覗いていた。
何かを言いかけたまま止まってしまった弱々しげな口元にも、僕は何の感慨も抱けない。
「お見舞い、来てくれて・・・・・・ありが・・・・・・と・・・・・・」
必死さの伝わってくるその言葉は、小さくしぼんで、聞こえなくなった。
再びうつむいた彼女のうなじから黒髪が分かれ落ちる。首筋も、熟れたほおづきのような色に染まっていた。
学校で伝え聞いた、快活で強気な、時に切り捨てるような鋭さを持った彼女の話し振りとは、全く違う印象だった。
――僕はこんな彼女の姿も見てみたいと望んだのではなかったか。
なぜ――。
僕の心はこんなにも凪いでいる。
あまりにも不自然だ。
何度も思い描いたはずの二人きりの場面。それはこれ以上望むべくも無いほど、目の前に実現しているのに。
もっと舞い上がったり、おたついたりしてもいいはずなのに。
「体の調子、どう?」
落ち着いた、冷徹とさえ言える声が出た。
違和感。
まるでショーウィンドウ越しに、マネキンに話しかけているような馬鹿馬鹿しさを伴っている。
「あ――うん、大丈夫・・・・・・驚かないんだね。新田君」
「何を?」
「・・・・・・名前、私が知ってたこと。間違ってたら悪いんだけど、こうして話すの、初めてじゃない?」
そこまで話してようやく顔を上げてこちらを向いた彼女の頬は、焚き火のような赤を灯していた。
「うん。初めてだね」
「そうだよね・・・・・・本当、落ち着いてるんだ、新田君。私は今・・・・・・ちょっと緊張してる」
僕だって緊張――してた。このドアの前までは。
「若宮さん。事故、大変だったね。でも――」
元気そうで――元気そうで?
頭の中にあの幻覚が甦る。
首から上以外、解剖される時に誤って傷つけられた、裏返ったカエルのように、完全に損壊してしまった、彼女。
元気そうで?
「――検査、大変そうだね」
「ほんと、イヤになる」
先程から、彼女は何がおかしいのか、笑顔のままだ。
「もうどこも悪くなんかないのにね、私」
そう思わない?同意を求めるように僕に向けられた笑顔に慄然とする。
「でも先生はちゃんと検査しなさいって言うんだ。――ガス事故だから」
僕は、見たことがある。この、笑顔を。
「そんなこと言われると、ちょっと怖いよね」
供えられた、笑顔。
何に、あるいは誰に向けられたのか知りたかった、やさしい、親しげで、明け透けな笑顔。
僕の心の中でなにかがピクリと反応したが、それきりだった。
傲慢にも思う。
もっと早く、この笑顔に会えていたなら――。
胸中には、細波すらも立たず。水面に望み通りの気泡が浮かぶのを、待てども来たらず。
「怖い・・・・・・って言えばね」
彼女の顔から、さっと笑みが消えたことにすら、何の心の動きもない。
「私、事故の記憶が・・・・・・曖昧なんだ」
「どういうこと?」
もっとも僕の気持ちを揺るがせるのが、彼女のこんな言葉なのが、何故か悔しかった。
「私ね、事故にあった日――4日前らしいんだけど――図書館に行こうとしてた。塾の課題、やろうと思ってね・・・・・・それで途中の十字路で信号待ちをしてた時、見つけたの」
彼女はとても大切なものを眺めるように目を細めて、あの笑顔に戻った。
「――あなたを」
まるで、遠く隔たってしまった何かを手繰り寄せるように。
あなた、という大人びた表現は紡がれた。
「変なこと・・・・・・言うね。今度いつこうして会えるかも分からないから、変だけど、言っておくことにする」
――何を?
「私、その時、新田君と目が合った気がした。すぐ逸らしちゃったけど・・・・・・前からこんなこと・・・・・・結構なかった? 気のせい?」
「――あった。その日も、確かにあったよ」
考えるまでもなく反射的に答えが出た。
何度も、何度も、それこそ自分では数え切れない程に。微かな視線の重なりだけは、毎日と言っていいくらい。
「そう――うれしい」
彼女の顔が不意に歪む。ほとんど泣き顔みたいに。
「うれしい」
彼女は繰り返した。
初めてだった。今まで見たこともない、新しい笑顔。
そして気付いた。
ああ――これは、あの笑顔の、先にある笑顔なのか。
それを見た僕の中で、いままで少しも揺るがなかった心の平静が、突然に崩れた。
――瞬間、衝撃。
心臓の中で爆薬が破裂したみたいだ。
濁流となった血が、全身の血管の末端まで押し寄せ、岸壁に打ちよせる荒波のように、自分でそれが感じ取れるほどに、物理的な衝撃をもって弾け散った。
――何が起きた?
今まで経験したどんなものにも比べるべくもない、圧倒的な恍惚。
目の前にある彼女の姿以外の全てが、靄のように輪郭を失い、遠く、彼方へと過ぎ去っていく。
どこかで聞いたことのある台詞。
『存在とはまるで、視界の隅を過ぎる、最後の神のようだ』と誰かが言った。
――それは違った。
彼女は、味気ない薄青の病院着を着て、こんなにも目の前に“存在”していた。
やっとそれを、実感した。
漲る血潮に反して、くず折れそうな膝頭。
何なのだろうか、これは?
――うれしい。
彼女が生きていてくれて、うれしい。
怪我がなくて、無事で、頬が紅くて、意味なく両手の指を絡ませて、伏し目がちで、そうして幸せそうに笑って――うれしい。
初めて心底、そう思うことができた。
菊池さんから彼女の無事を聞いて思った。
良かった、と。
今はこう思える。
うれしい、と。
より利己的で、わがままで、暴力的とすら言える言葉。
でもこの時の意味は、全く違うものだ。
持ちえたことのない感情に戸惑いながらも、今度は、持て余すことはなかった。
決して不快な感じはない。
ごちゃごちゃした感情の配線の中で、クリアな導線が、一本、浮かんでいて――。
「僕もうれしい――とても」
その内に流れている言葉は、たやすく汲み出すことができた。
ぴくりともしなかった顔の筋肉が、思い出したように自然に笑みの形をとっていくのが、自分でも分かった。
僕の言葉を聞いて、泣き顔みたいな彼女の笑顔は、本当に泣き顔になった。
言葉はなくて、顔を覆う両掌の間から、しゃくり上げるような嗚咽が漏れる。
まるで童女のようなみもふたもない泣き声。
けれど、泣き崩れた彼女の表情には、決して不幸な感じはしなかった。
好ましい感情の発露に、僕は吸い寄せられるように、ベッド脇に置かれた丸椅子に座った。
彼女の片手が顔を離れ、ベッドの上を、何かを求めるように彷徨う。
僕がその手をそっと握ると、細く柔らかな、節目を感じさせない指が、けれど食い込む程に強く、握り返してきた。
そこには、体温よりも高い、涙の温度があった。
彼女が泣き止むまで、僕はその横顔を見つめ続けた。
止め処なく流れ続ける涙で、顔をぐちゃぐちゃにした彼女。
それに気付いた彼女は、恥ずかしそうに顔を背けたが、そんな仕草も、僕にはとても大切なものに思えた。
泣き止んだ彼女は、喜びと戸惑いの混じった微妙な表情で、僕の方を見ないまま中空を見上げた。
瞳はまだ、涙に濡れている。長い睫毛の上に重そうに乗った、涙の珠が可愛らしい。
戸惑っているのは僕も同じだった。
病室に入る前の胸の高鳴り。
彼女を目にしての無感動。
そして今は、新たな経験したことのない感情の只中にいる。
煮立った湖に浮かぶ氷塊のような感情の名前には、予想がついていた。
彼女が好きだと迷いなく思える。
きっとこれが、これこそが、恋というものなのだろう。
誰から言われるでもなく、風の香りの中に四季を見出すように、自然とそう思えた。
「ああ・・・・・・だめだなぁ・・・・・・私」
彼女はふうっと小さく、熱っぽい息を吐き出した。
「泣くとか、そんなつもりじゃなかったのになぁ・・・・・・」
恥じ入るように言って細い肩を縮こませると、小さな子供のようにすら見える。
「でもいいや・・・・・・うれしいから」
何かを吹っ切るように言った彼女の笑顔が、輝きを増したようだった。
僕もそう思う。ちっとも恥ずかしがることなんてない。
彼女がこんなに表情の豊かな少女である事を、僕は知らなかった。
学校内での彼女が、暗かった訳ではない。むしろ活発で明るいと言われる部類に入っただろう。
ただ、何事にもさばさばとした態度の彼女は、時に“冷たい”と評される時もあった。
なまじ容姿が整っていて、男子生徒の人気が高かったために、特に女子生徒の間での評判は、あまり良くはなかった。それを気にする風でもない彼女の態度も、悪感情を煽っただろう。
故に学校での彼女の顔は、それらノイズを遮断する能力を持った“作られた顔”になっていたのに違いない。
少し想像してみれば、そんなある種の警戒心に満ちた顔が、表情豊かであろうはずもないのだ。
なら今は――こんなにも感情を表に出し、ともすればそれに振り回され続けているように見える今は――とても安心していてくれている、ということなのだろうか。
「新田君」
「何?」
涙の余韻を感じさせない真面目な表情に戻って、彼女は僕の方に向き直った。
その視線にちょっと居住まいを正してしまう。
「私、自分が変な子だって知ってる」
――そういうこと言うのは、確かに少し変かも。
「学校で私の話とか聞いたことない・・・・・・かな。いつもつんけんしてて、クラスでの評判も良くないみたいな話」
僕は無言で首を横に振った。
「私ね、ちょっとクラスで浮いちゃってて・・・・・・別に特別みんなに冷たくしたりしたってわけじゃなかった。ただどこに行くにも一緒とか、答えが分かりきってる問題にうじうじ一緒に悩んだりとか、そういうことがどこか煩わしくって、そんなことばかりしている周りの子達から遠ざかっていたっていうのは、あったと思う」
僕の見た、彼女の印象そのままだ。
「私は私で、勉強だって学校の当番や何かだってちゃんとこなしていたのだから、誰に遠慮することもないって思ってた。女の子からの相談事も、私が思うそのままのことを、真剣に答えていたつもりだった。でも、それが良くなかったみたい・・・・・・」
微かに曇る表情。
「あまり女の子達は私に話しかけてこなくなって、必然的に男子とばかり話すようになった。彼女達はそれも気に入らなかったみたい。男にばかり媚を売ってる嫌な子みたいな話になって・・・・・・ちゃんと話してるところを聞いてれば、それが自分達と話す時となにも変わらない態度だって気付くはずなのに・・・・・・でも、そんなこと関係なかった。ただ男子と話しているというだけで、私の女の子の間での評判はどんどん落ちていった。
でも、それでもどうでも良かったんだ。学校での評判なんて。そんなことで一々態度を変えてたら、自分がどんな人間なのか忘れてしまいそうだもの」
彼女はそう言って自嘲気味に笑った。
「それが急に気になりだしたの。視線が――なんだか気になる人が――できて。その人がクラスの女の子と話しをしているのを見かけることがあって」
彼女は我慢できないといった風に俯いた。髪がゆれて、甘い仄かな匂いが、僕の鼻先をくすぐった。
「なんだろう、何話してるんだろう。もしかして私のことかな、悪口聞かれたりしたらやだなって、何でもない風にしながら、内心どきどきしてた。馬鹿みたいだけど・・・・・・もし私の話をしているのなら、クラスでの私の評判を聞いたりしてがっかりとか、嫌なやつだとか思われたりしていたらやだなって・・・・・・」
紅い。彼女はすぐに紅くなる。
「それでやっと、今までの彼女達の気持ちが・・・・・・何でもないことにあたふたしてた女の子達の気持ちが・・・・・・少しだけど分かった気がした。自分が言っていたことを思い出して、ちょっときつい言い方もあったかなって・・・・・・反省・・・・・・した。でもだからって、じゃあ今から仲良くしましょうって言うわけにもいかなくて・・・・・・だってそんなことしたら、本当に男子の評判だけ気にしてる子になってしまうでしょう?」
「だからいいかなって思ってた。そういう機会がなくても、しょうがないかなって。私、こんな子だから友達だって少ないし・・・・・・というより一人しか・・・・・・いないし。ましてやその、あの――こ、こっこ――」
どもりすぎ。にわとり?
彼女はいつの間にか勝手に窮地に立っていた。額にじわりと汗が滲む。
はじめて見た、彼女の汗。夏の日差しの下でも、気付かない程だったのに。こんなに動揺して。
「その、こっこっこ――」
養鶏場?
どもる彼女、かしこまる僕。変な画。
自然と、何のてらいもなく――。
「僕は若宮さんのこと、好きだ」
言葉が出た。
「こ!?」
彼女は顔を跳ね上げるようにして、僕を見た。もう卵はつきたみたい。代わりに絶句。
にしても・・・・・・“こ”って・・・・・・。
「違う・・・・・・その! 違わない! えーとつまり・・・・・・私はその・・・・・・途中忘れたけど・・・・・・結局は、新田君は、私のこと、どう思っているのかなって、それとなく知りたかっただけでっ!」
「だから僕は、若宮さんのこと好きだって」
今度は真っ直ぐ彼女の目を見て。
「あ――!」
再び絶句。彼女、頭から湯気が出そうなほど赤面。そして硬直、冷や汗。なんか楽しい。
けれどこうも照れられると、自分まで恥ずかしくなってくるから不思議だ。
そう思った途端に、頬が急激に熱をもっていくのが分かる。
「あ」
気付かれたらしい。
「新田君は、時限式なんだね」
何それ、爆弾?
言ってから、しまった、という顔をして俯く彼女。口元から、くーっという変な声が漏れている。
その姿に、つい笑いが漏れた。
自分でもおかしいと思っていたのか、彼女もつられて肩を揺らす。
そうなるともう止まらない。
――僕らは、しばらく笑いあった。
不安や戸惑いは、もう無かった。自然と笑いがこみ上げてきて、ただ、楽しかった。
――幸せだと感じた。
これが恋愛なのだ。
好きな人と手を取り合い、笑い合う。
そういう形の幸せがあるのだと、僕は初めて知った。
「私も、新田君のこと、気になってた。いつからかは分からないけど、何度も視線が合うことがあって、いつの間にか・・・・・・新田君のことを意識するようになってた・・・・・・ちょっと話しをしてみたかったけど、さっきも話した通り、私クラスでそんな感じだから、新田君にも迷惑かなって、きっかけもなかったし、自分から男の子に話しかけたことなんて無かったから・・・・・・恥ずかしくて。運良く目が合っても、すぐ逸らしちゃって」
彼女の幸せそうな声。
「この前、事故の時ね・・・・・・気付いたんだ。新田君と信号で目が合って、慌てて目を逸らした後、私すごく無表情だった。多分機嫌が悪く見えるくらい露骨に。だって目が合っただけでこんなにも自分の感情が揺さぶられているのが怖くて・・・・・・なのにうれしくてつい、にやけそうになっちゃうのを必死で我慢して・・・・・・自分は何でこんなことしてるんだろうって。それで――分かった」
彼女の幸せそうな瞳。
「私、新田君のこと、好きなんだって」
交わした視線よりも、つながれた手よりも――。
「ありがとう。若宮さん」
――心が通い合ったことに。
僕らは話した。
彼女を見つめるだけだった一年。もっと早く話しかけていれば普通に会話できていただろうこと。
学校のこと。家族のこと。友人のこと。
それらを今この場で、遅れてしまった分全てを、取り戻してしまおうとするかのように、熱心にお互いのことを語り合った。
「――で、その子、陽子って言うんだ。私達と同い年だけど、本当に小さな子供みたいなところがあって。加減を知らないって言うか、凄く素直っていうか・・・・・・これ見て?」
気付いていた。枕元の棚の上に置かれた大きな藤篭に堆く積まれた、赤々と輝くリンゴの小山。
その横に置かれた僕の花束なんか全然印象に残らないくらい。
「凄いね・・・・・・」
そうとしか言いようが無い。
「でしょ? あと1日2日の検査入院で、こんなに食べきれないって。自分の家でとれたもので、凄くおいしいし、体にもいいから沢山食べてねってくれたんだけど」
唯一の友人だという、陽子さんのことを語る彼女は、言うほど困った様子には見えなかった。
「自分の家でってことは、その子“村”の子?」
水無瀬市東部に位置する未開発地域を、市街中心部に住む僕ら学生は、単純に“村”と呼ぶ。近代化された市街部とは違い、村には田園風景が広がり、未だに旧態然とした独自の村社会が形成されているそうだ。
「そうよ。大鳥居のある北の山があるでしょう? その麓の畑の家の子」
「その陽子さん、僕達と同じ学校? だとしたらずいぶん遠くから通ってるんだね・・・・・・大変そうだ」
「陽子は深青中だからもっと遠いわ。西の今須山の山中にあるから、毎日市内を横断してるみたいなものね」
「うわ・・・・・・僕には無理かな。でも深青に通ってるなんて、頭良いんだね」
「ぱっと見、そうは見えないけどね。体力は有り余ってる感じの子だから、通学距離は全然気にならないみたい」
手厳しい言葉とは裏腹に、彼女は楽しそうだった。本当に仲が良いんだろう。
その話を聞いて思い出した。きっとあの子だ。
何度か彼女と校門前で話している、他校の制服を来た少女を見かけたことがある。
その子の印象が、彼女から聞く話とぴったりだ。
全体的に作りの小さな、ショートカットで良く日焼けした、健康そうな女の子だった。
猫のように好奇心に溢れた瞳と、細い手足が、なんだか中性的に見えたのを覚えている。
「そうだ、新田君も食べない? 確かにおいしいのよ、このリンゴ」
「じゃあ遠慮なく」
篭の中から適当に一つ取ると、いただきます、と無造作に噛り付く。甘い果汁があふれ出して口元を伝うのを、リンゴを持った手で、ぐいと拭う。たっぷりと蜜を含んだ実は、シャキシャキとした歯ごたえで、とてもおいしかった。
彼女はぽかんとした顔をして僕を見ていたが、呆れたような笑顔で、篭の脇に置かれた果物ナイフと小皿を指差す。
「新田君て結構ワイルドなんだね。はい、タオル」
「そうかな? でもこのリンゴ、本当においしいね」
話しながらも一口、二口とかじる。うまい。
「もっと食べる? 剥いてあげようか」
咀嚼の最中だったので無言で頷く。
「新田君、陽子と気が合うかもね」
「どうして?」
「子供みたいなところがそっくりだもの」
そう言いながら悪戯っぽく笑って、彼女は果物ナイフを手に取った。
「あ」
「何?」
もごもごと歯切れの悪い物言い。
「手、離そうか?」
言われるまで気付かなかった。相手の体温が馴染んで気付かなくなる程の間、僕らは手をつないでいたのだ。
「ごめん」
手を引く。何か音も無く続いていたものが、ふいに途切れる感覚。名残惜しかった。
「どういたしまして・・・・・・」
彼女の受け答えもどこかおかしい。
さくさくと音をたててリンゴを剥き始めた彼女だったけれど――どうも手元が怪しく見える。
「大丈夫?」
「平気。ちょっと緊張してるだけ」
動きがぎこちない。時々刃がズルッとリンゴの表面を滑っている。
「痛っ!」
ついにやってしまった。左手親指の先、浮かんだ血の珠が見る見るうちに膨らんで張力を超え、重力に引かれて流れ落ちる。上掛けに点々と血の跡がついた。
――溢れ出る彼女の血。
傷口は小さい。がナイフの先を刺したようで、深そうだ。
彼女がきつく眉を寄せた。僕は慌てて先程受け取ったタオルで傷口を押さえた。小さくうめき声が上がる。
「ごめん、切っちゃった」
僕はかぶりを振った。
「痛む? ちょっと深いかも」
白いタオルにじわりと血が広がっていく。
止まらない。
血が流れる。白いワンピースを溶かして、焼けたアスファルトの上に。
どこからか、焦げたゴムのような臭いが漂ってくる。
――違う。
それはもう、思い出す必要の無い記憶だ。
それも違う、だってあれは実際になかった事で、全部僕が地下ガスを吸い込んで見た幻覚で――。
世界が揺れる。均衡を失っていく。
つい今しがたまで満ち足りて、幸せだと思っていた世界は、なぜ、こんなにも脆い。
均衡を失いつつあるのは、実は僕の精神であるのだろうか?
「新田君――」
声がする。
「新田君!」
目の前に彼女の顔があった。
「大丈夫? 顔、真っ青・・・・・・血、苦手だったんだね、これから気をつける」
呆然と彼女の顔を眺める。口が動いていて、声が聞こえる。何を言っているのか、ちゃんと耳に入っているのに、理解できない。
「う、あ・・・・・・」
何かを返そうと口を開いても、何を言ったらいいのか。口から呻き声が漏れるのを、まるで他人の声のように聞いていた。
「本当に大丈夫? ごめんね」
そうじゃない。そうじゃないんだ。
「先生呼ぼうか?」
僕は、不思議なんだ。何が不思議かって? 決まってるじゃないか。君は死んだんだぞ? 僕の目の前で、悪い冗談みたいな、血の溢れ出す肉の塊になって――死んだんだ。
――いなくなった人間は、決して帰ってはこない。
おかしいじゃないか。
何故、君は、ここにいるのさ?
「新田・・・・・・君」
病室のドアが鳴った。思ったより大きなノックの音に、弾かれたように体を震わせ、僕は我に返った。
心配そうな表情の彼女を見て、猛烈な罪悪感が湧き上がってくる。
自分は一体、何を考えていたんだ。
「ごめん、平気。ちょっと動揺しただけ・・・・・・情け無い」
「良かった・・・・・・どうしちゃったのかと思った」
体中の息を吐き出すような彼女のため息に、再びノックの音が重なった。
「若宮さん? 検査の時間ですよ」
僕をこの病室に案内してくれた、看護士さんの声だった。
「残念・・・・・・もう時間みたい・・・・・・じゃあ、いってくるね」
白く瑞々しい素足を病院着で覆うようにして、彼女は足元のスリッパを履くと、立ち上がった。
備え付けの洗面台に駆け寄ると、血に塗れた手を洗いながら、ドアの向こうに呼びかける。
「今出ます。少し待ってください」
僕はその背中に声をかけた。
「その傷も、ちゃんと見てもらいなよ?」
「うん・・・・・・分かった」
「僕の連絡先、書いて置いておくから」
「ありがとう」
振り返って満面の笑み。なんだ、自分だって子供みたいじゃないか。
「私ね」
彼女は洗面台に向き直って言った。背中越しの声は、なんだか遠い。
「Z症かもしれない」
――Z症?
聞いたことが無い。それは・・・・・・病気なのだろうか?
「新田君、知ってる? Z症」
「知らない――病気、なのかな?」
その問いに、彼女からの答えは無かった。
「怖かったんだ。事故にあってから、色んなことがあやふやになっていくみたいで・・・・・・」
蛇口から流れ続ける、水の音。
「今立っているここが、まるで知らない世界のような気がして。記憶も定かじゃないから、余計に不安になって」
僕と同じだ。
「でも覚えてた。事故の時の、新田君のこと。それだけは、はっきりと。おかしいよね? ガス事故で記憶があやしくなるくらい意識が朦朧としていたはずなのに。新田君の姿だけは、網膜に焼きついちゃったみたいに、はっきり覚えてる」
僕も覚えている。臭いまでもはっきりと。
「事故の時、新田君、凄い顔してたよ? 何だろう、何もかも無くしちゃったみたいな、悲しいのか、怒ってるのか分からない顔。丁度、さっき病室に入って来たとき、そんな感じだった。私・・・・・・新田君のそんな顔見てたら、どうしても元気になって欲しくなって」
彼女は振り返った。涙は見えない、けれど彼女は泣いていた。
「私、笑ったよ。そんなに悲しい顔しないでって、声は出ないし、体も動かなかったけど、思いだけは伝わるようにって――笑った――」
あとは声にならなかった。
よろける彼女に咄嗟に駆け寄って抱きとめ、支えた。
「ありがとう。僕も、覚えてる」
支えられたのは、実は自分なのかもしれない。
今、はっきりと思い出した。
それが幻覚によってもたらされた、偽りの記憶であろうとなかろうと。
――血と肉と骨の丘で、全ての自由を奪われて、取り残されてしまった彼女の首は、初め取り澄ましたような気の無い顔をしていた。
しかし――徐々に動かないはずの目じりは下がり、口元が弧を描き、慈しむような、優しげな、愛しい笑顔へと――。
そのときまさに死に逝く瞬間に“最期の笑顔”を。
向けられた対象を妬ましくさえ思ったそれは、正に自分に向けてのものだったのだと。
「ありがとう」
僕は繰り返した。
胸に、シャツ越しに染み入ってくる彼女の涙を感じた。
僕ら二人の両腕は、互いの背中にまわされた。そこから伝え、伝わってくる気がする。
全てが遅く、終わり、過ぎ去ってしまった後悔が。
“終わり”を超えて、ようやく始まることのできた奇跡への、感謝が。
今この時があることが、自然の摂理に反した、いかにおぞましいことであろうとも、このこと自体を奇跡と呼ぶことは、きっと許されるに違いない。
そう思った。