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Z症  作者: 六十一
3/6

第3話

 一度、洗面所によってから、僕はキッチンへと入った。

「今、賢一の分準備するから、座ってて」

 テーブルの、自分の定位置につくと、母がにこやかに話しかけてきた。

 先程までの、少しその場に居辛いような両親の雰囲気は、もうない。いつもと変わらぬ母の振る舞いにほっとする。

 すぐ横には、いつもと同じように日課の新聞を読んでいる、父の姿もあった。

 僕の日常が、確かにここにはあった。

 目の前で同じ学校の生徒が轢き殺されてしまうような、非日常からは、ここは大きく隔たった所にあるのだと、安心する。

 穏やかな表情で、かいがいしく家族の食事を用意する、若作りの母。

 この母に3日前の出来事の、一部始終を話したなら、一体どんな顔をするだろうか?

 きっと何事もないように、僕を励ますだろう。なんともない顔をして。

 けれど心の中ではショックを受けるに違いない。きっと傷つく。

 ――あの時のことを、きっと思い出してしまうに違いない。

 平和な食卓の様子を眺めながら、ほっと一人息をつく。

 やはり事故の事を話さないで良かったと、僕は思った。


 家族3人での食事を終え、私立高校の教諭をしている父が学校に出勤していくと、家の中は一層のんびりとした空気になった。

 母の入れてくれたお茶を飲みながら、居間でテレビを見つつ、他愛ない話をしていると、随分気持ちがやわらいだ。

 実は、先日の事故のニュースが流れないかと、内心戦々恐々ともしていたのだが、結局そんなことはなかった。

 3日前の事故など、目まぐるしく移り変わるこの世界では、すでに風化してしまった出来事なのだろうか?

 そう思うと、逆に事故の関連ニュースを、意識的に探してしまっている自分に気付いた。

 一度気になりだすと、どうしてもそのことが頭から離れない。

 座りの悪い気持ちで、ついに僕は、テレビでやらないならと、新聞をめくりだした。

 そうしながらも、どこかでその記事を見つけたくないと思っている自分もいた。

 矛盾する感情に戸惑いながらも、目は忙しなく紙面の上を滑り、事故の記事を探す。

 しかし結局新聞にも、事故の記事は載っていなかった。

 全国版だからかと思い、それとは別にとっている地方紙「水無瀬新聞」にも目を通してみることにした。

 こちらの方は、父は読んでいかなかったようだ。新聞に挟まれたままになっている折り込みチラシの類を、ゴミ箱に捨てるのももどかしく、僕は新聞をめくりだした。

 こちらの新聞にも、交通事故の記事は載っていないようだ。もっとも大きな記事は、若者の乗る自転車がお年寄りと接触したが、謝りもせずに走り去ったというものだった。

「どうしたの?賢一。何か、気になることでもあるの?」

 食い入るように新聞に見入る僕に、母が声をかけた。

 普段、新聞など読まない僕の行動を見て、母は首をかしげている。

「ああ、うん、ちょっと・・・・・・」

 僕の歯切れの悪い受け答えに、母は益々不思議そうな顔になった。その目に微かに、なにかを探るような色が混じっている。

 外見だけに止まらず、気も若く、僕と友人ででもあるかのように振る舞いたがる母は、これ以上僕の言動におかしなところがあれば、あれこれと聞き始めるに違いない。

 それは、避けたかった。

 仕方なく新聞を閉じようとしかけたとき、僕の目に、一つの記事が飛び込んできた。


 『市内中央交差点、ガス漏れ事故続報』


 去る○月×日、午後一時頃、水無瀬市中央2丁目交差点において起きた、ガス事故の詳細が分かった。

 事故の原因は、広く水無瀬市地下に分布する、地下ガス溜まり処理のためのパイプの一部破損であったことが、市当局の調査により判明した。

 この事故は、多量に吸い込むと幻覚症状等、意識を混濁させる性質の認められる地下ガスが、一時地上に噴出したというものだ。

 事故発生当時、付近を通行中の市民数名が、気分が悪いなどの症状を訴え通報、病院に運ばれた。

 問題のパイプの破損箇所の修復工事はすでに完了し、市役所当該担当員の話では、同箇所の再度のガス漏れの危険性は当面ないとしているが、近年老朽化の叫ばれる、パイプ管等地下設備の全面的な点検、補修見直しも含め、市の今後の的確な対処姿勢が問われる。


 僕は慌てて手を止め、もう一度その記事を読み直した。

 日時は僕が目撃した、交通事故の起きた時間と一致していた。

 場所も写真付で紹介されているが、間違いない。あの事故の起きた交差点だ。

 写真の中には、その日僕が行こうとしていた図書館が、はっきりと写っている。

 これは――3日前、あの交差点で――二度、事故が起きたのか。

 1つは僕の見た交通事故。そしてもう1つ、ほぼ同時刻、同じ場所で起きたガス漏れ事故。

 ――そんな事があるのか。

 あるのかもなにも、こうして実際に起きているのだ。

 嫌な偶然――ということなのだろうか。

「賢一?ちょっとどうしたの?酷い顔色じゃないの」

 視界が、揺れていた。

「うん、風邪・・・・・・かな。ちょっと寒気がする」

「夏風邪?大丈夫?病院にいった方がいいんじゃないかしら。あなた体弱いんだから」

「母さん、それ子供の頃の話じゃない。大丈夫、ちょっと横になれば、すぐ良くなるから」

 なんとか笑顔を作ると、僕は話を切り上げて、部屋に戻ることにした。

 階下から聞こえる、心配そうな母の声を振り切るように、僕は階段を上がると、後ろ手に自室のドアを閉め、逃げ込むようにベッドに潜り込んだ。

 ――何故か、恐ろしかった。

 毛布を頭から被り、新聞の記事を思い出す。

 『市内中央交差点、ガス漏れ事故続報』

 別に僕が怖がる理由など、これっぽっちもないはずの事故。

 怖いのは――事故そのものではない。

 事故の記事を読んだ時に、僕は違和感を感じた。

 その違和感の正体がなんなのか、僕には分からない。

 それを確認することが、怖かった。


 どうやら僕は、毛布にくるまったまま、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。

 寝ぼけ眼で枕元の時計を見ると、もう午後になっている。

 突然、僕が起きるのを見計らったかのように、部屋のドアがノックされた。

「賢一、寝てるの?」

 ドアの向こうから問いかける母の声に、上体を起こす。

「ううん、今起きた。大丈夫、体ならなんともないから」

「そう・・・・・・良かった。それでね、賢一。賢一にお客様が見えてるのよ」

「ん・・・・・・誰?」

「何でもね、市役所の方らしいんだけど。ちょっと賢一に話があるらしいの」

 市役所――なんだろう?

 起きぬけの頭で、ぼうとそんなことを思ったが、続く母の言葉にぎょっとした。

「賢一、あなた――3日前の昼頃、大通りの交差点に、いた?」

 眠気は一瞬で吹き飛んでいた。

「その事でね、お話があるんだって。ねえ・・・・・・賢一、聞いてる?」

 じっとりとした汗が背筋をつたう。

「・・・・・・うん・・・・・・聞いてる」

 返す声は、かすれていた。喉がカラカラに渇いていて、うまくしゃべることができない。

「何かあったの?」

 母は鋭いほうではないものの、先日僕に何かが起きて様子がおかしいのだ、ということぐらいは、薄々勘付いているだろう。

 悪いことなど何もしていないが、隠し事をしているのには違いない。

 ――少し胸が痛んだ。

「なんでもない。大丈夫だよ」

 半ば自分に言い聞かせるように言う。

「着替えてすぐ行くから、悪いんだけど、少し待っててもらって」

 わかったわ、と答えて、母の足音は遠ざかっていった。

 僕はそれからしばらく呆然として、一人部屋に佇んだ。

 ぐっしょりと、汗で濡れたシャツを着替えながら考える。

 市役所の人間が、一体なんの用事だろう?

 そんなの決まってる。3日前の、あの事故のことだ。

 でも、おかしい。

 それなら話を聞きに来るのは、市役所ではなくて、警察のはずだ。

 もしかしたら――。

 脳裏に、今朝みた新聞の記事がよぎる。

 『市内中央交差点、ガス漏れ事故続報』

 その事故の事だろうか?

 十分有り得るように思える。場所も同じ、時間もほぼ同じ、そんな事故なのだから、事情を聞きに来ることもあるのかもしれない。

 それにしたって、分からないこともある。

 まず、理由。

 原因も分かっている、対処も済んでいる事故の、何を聞きたいのか?

 そして――よりこちらの疑問の方が大きいのだけど――どうして、僕があの交差点にいたことを知っているのか?

 何にしろ、名指しで自宅に押しかけてくるぐらいだから、只事ではなさそうだ。

 僕は着替え終わると、憂鬱な気分で、重い足を引き摺るように階下に下りた。


 居間に入ると、ソファーに姿勢を正して座っている、20代半ばくらいと思しき男性がいた。

 黒髪をきっちりと七三に分け、銀フレームの眼鏡をかけて、濃紺のスーツを着た、いかにも公務員然とした男性だった。

 しかし見た目から受ける印象とは違い、物腰はやわらかで、話し方にも安心感があった。

 公務員というと、事務的で冷たいといった印象が先に立つが、この男性にはそういった、他人を拒絶するような壁は感じない。

 僕を呼びに来た時には、不安そうな硬い声を出していた母は、高級そうな菓子折りの置かれたテーブルをはさんで男性と向かい合い、口元に手を当てて笑っている。その姿から、緊張は微塵も感じられない。

「ああ、賢一さんですね? 新田賢一さん。私、水無瀬市役所の環境課の係りの者で、菊池と申します」

 僕の姿をみとめて、菊池と名乗った男性は立ち上がり、深々と一礼をした後、両手で名刺を差し出した。

 つられて僕もおどおどとお辞儀を返しながら、それを受け取る。

 見ると『水無瀬市役所環境課 菊池忠正きくちただまさ』とあり、市役所の電話番号、内線番号とともに、携帯の電話番号が書いてあった。

 僕が母の隣に座るのを確認して、菊池さんも腰を下ろす。

「いやはや、突然お邪魔してしまってすみません。ところで、不躾ですみませんが賢一さん。お体の調子、如何ですか?どこか具合が悪いところはないでしょうか?」

「いえ・・・・・・特には・・・・・・」

「そうですか・・・・・・それは良かった。でも少し顔色が優れないようにも見えますけど、本当に大丈夫でしょうか? もしやなにか、気をつかわれてはいませんか?」

「いえ・・・・・・ご心配ありがとうございます。大丈夫です」

 僕は内心面食らっていた。いきなり市役所からやってきて、体の調子はどうか?などと聞く菊池さんの考えが分からなかった。

「いや、それなら良かった! ほっとしました。ああ申し訳ないです、肝心なことを申し上げておりませんで・・・・・・今回は大変ご迷惑をおかけ致しまして、真に申し訳ありませんでした! 何卒ご容赦いただけますよう、陳謝いたします!」

 おもむろに立ち上がると、菊池さんは僕たち二人に向かって、ほとんど体を二つに折るように、深くお辞儀をした。

 僕は、もちろん母も、分けもわからず、ただぽかんと、すみませんでしたと繰り返す菊池さんの姿を見ていた。

「今後はこのようなことが無いよう、当市役所としましても鋭意努力していきます所存ですので、どうか今回のことはお許しください!」

 そのまま放っておいたら土下座までしかねない菊池さんの様子に、僕は慌てて立ち上がった。

「菊池さん。もういいです・・・・・・あの、別にあなたにそんなに謝られる筋合いの話でもないですし、顔を上げてください」

 母は何か言いたそうな顔をしていたが、やはり僕と同じように状況がつかみきれないのか、黙って僕と菊池さんのやりとりを聞いている。

「とにかく腰を下ろしてください。謝罪の気持ちは十分に伝わりましたから。」

 そもそも僕は、菊池さんにこんなにもお詫びされるような目には、なにもあっていないのだ。

 ようやく腰を下ろした菊池さんは、心底ほっとしたように肩の力を抜いて、満面の笑みを浮かべて僕を見た。

「ありがとうございます。そう言っていただけると、本当にありがたいです。なにしろ今も入院なさっている方もいらっしゃるものですから・・・・・・心配しましたよ。賢一さんのこと」

 事故を目撃した人の中には、そういう人もいただろう。確かにあれは・・・・・・凄惨な事故だった。

 今日の用事というのは、そういった事故を目の当たりにした人間への、心のケアのような、そんなものなのだろうか?

 入院という不穏当な単語を聞いて、母が眉根を寄せ、どういうことなのかという視線を、僕に向けた。

 僕は大丈夫という風に母に頷き返して、菊池さんに言った。

「あの、菊池さん。わざわざ市役所からお越しいただいて感謝しますが、僕なら大丈夫です。なにも心配していただくことはありません。」

 僕の言葉に菊池さんは大きく頷いた。

「なるほど、ご本人がそうおっしゃるのでしたら、本当に何の問題もないのでしょう。安心しました」

 ふうと大きく息を吐き出しながら菊池さんは続けた。

「何分結構大きな事故でしたからね、当方といたしましても調査が難航しまして。賢一さんのように事故に巻き込まれた方も、完全には把握しきれていない状態でして。こうしてお詫びさせていただくのが遅れました。言い訳にもなりませんが・・・・・・」

「え!?事故って・・・・・・どういうことよ! 賢一!?」

 今まで黙っていた母が、弾かれたように僕の方を向く。

 まずい・・・・・・僕は言葉を失って黙り込んだ。

「ねえ賢一! 事故って・・・・・・巻き込まれたってどういうことなの? 母さんそんな話、一言も聞いてないわよ!?」

 何も答えない僕の二の腕を掴む。予想外の力の強さに、僕はビクリと体を振るわせた。

 突然豹変した母の様子に、菊池さんは慌てて腰を浮かせた。

「お母さん、落ち着いて下さい。まいったな・・・・・・先程ちゃんと説明しておくんだった・・・・・・すみません、ちゃんとお話しますから、聞いていただけませんか?」

 事故の事は、できれば黙って起きたかった・・・・・・けれどもう、こうなってしまっては無理だろう。

「大丈夫。母さん、僕はなんともないから」

 僕の言葉をこれ幸いと、菊池さんが言葉を続ける。 

「ええ、そうですよ、賢一さんの言うとおりです! 今日私がこちらにお邪魔させていただいたのも、“万が一”の事を考えてのことで、ご本人がこんなにしっかりとなさっているのだから、私が言うのもなんですが、何も心配する必要はないと思います。お話から察するに、お母さんは事故のことをお知りになっていなかったようで・・・・・・賢一さんがおそらく事故の話をしているだろうと、勝手に思い込んでいた僕が軽率でした。結果として驚かせることになってしまって、申し訳ありません」

 柔らかく諭すような声でいって、菊池さんはまた、テーブルに手を着いて頭を下げた。

 それを見た母は、納得がいかない顔をしながらも、とりあえず口をつぐんで、菊池さんの方に向き直った。

「わかりました。お話を聞かせてください。それと・・・・・・取り乱してしまって・・・・・・お恥ずかしいところをお見せしました、すみません」

「お母さんがお謝りになるなんてとんでもない! 知らなければ当然のことです。いきなり息子さんが事故に巻き込まれたなんて聞いたら、だれでもそうなります。ご説明することをお許しいただけたこと、感謝いたします。ご理解いただけるよう、順を追って説明させていただきます。といっても、さして複雑な話でもありませんから、すぐに把握していただけると思います」

 菊池さんは、あくまでゆっくりと、落ち着いた声でいった。

 はい、お願いします、と小さく頷く母をみて、菊池さんはおもむろに話しはじめる。

「それでは、ご説明させていただきます。問題の事故が起きたのは、今から3日前になります。時間は13時20分頃、場所は中央2丁目の交差点です。信号を横断中の通行人が、交差点中央に位置するマンホールから、白い蒸気のようなものが噴出しているのを発見しました」

 やはりそうだ。菊池さんは、勘違いをしている。

「その直後、交差点を吹く風に撒き散らされた白い蒸気――実際には、この水無瀬市直下に所々広がっているガス溜まりを処理している、ガス管の破損箇所から漏れ出した、地下ガスだったのですが――それを吸い込んだ人々が、頭痛や眩暈、吐き気の症状などを訴え、その場に座り込むなどして、その内の数人が119番通報をしました。その通報を受けて、最寄の市中心部にある水無瀬中央総合病院より救急車、及び消防署からは消防車が出動、それから30分の間に十数件の救急通報がその交差点を中心とする、半径100m程のほぼ円形内の各所から相次ぎ、警察、消防、救急ともに、被害者の保護、救命措置活動を行いました」

 間違いない。菊池さんは僕の事を、僕が目撃した交通事故の直前、もしくは直後に起きた別の事故、つまりはガス漏れ事故の被害者であると、どういう分けか勘違いしているのだ。

「こんなご時世ですから、一時はテロなどの最悪の事態も懸念されましたが、原因はすぐに排ガス管の破損と判明しました。しかし当初の混乱が尾を引いて、修理完了までに二時間という時間を要しまして、その間、付近一帯には、外出の禁止する放送が流れました。不幸中の幸いというべきか、ガス漏れ事故の被害者は最終的に、その通報区域の広さから見て少なく、事故発生直後にガスを吸い込んでしまった20名ほどに止まり、その被害自体も、頭痛、眩暈以上のものは、確認されておりません。ただ、賢一さんのようにこちらで把握しきれていない方の数を含めると、もっと増える可能性はあるとは思いますが・・・・・・」

「でも、被害のことですが・・・・・・先程まだ入院されている方がいらっしゃると、おっしゃっていませんでしたか? それに・・・・・・その地下ガスですか・・・・・・その・・・・・・後遺症とかそういう心配はないんでしょうか?」

「ああ・・・・・・お母さん、ご心配はごもっともですが、そんな顔をなされなくても大丈夫ですよ。まずガス吸引後の、後遺症についてですが、これは心配ありません。地下ガスについては化学的分析が済んでいるのですが、長時間――この場合数時間程度という意味ですが――密閉された空間で、持続的に吸い込み続けなければ、心身ともに、後遺症が残る、などということはないことが、研究によって究明されています。」

「事故当時ガスが漏れていた時間は二時間ですが、場所は風通しの良い交差点ですし、事故現場の被害者の方の救命に関しては、発生から1時間後には、完全に終了していました。これは、どちらの条件にも当てはまりません。ああ・・・・・・そうそう・・・・・・私、ガスに関して詳しく書いてある広報紙を持っています。ええと・・・・・・」

 菊池さんは自分の足元に置かれた黒いカバンを、膝の上に引き上げ、ごそごそと中を探り始めた。

「あった・・・・・・これです」

 そう言って見開き一枚の、市の広報紙を取り出すと、テーブルの上に置いたそれの一角を、菊池さんは指差した。

 『水無瀬だより』と銘打たれた新聞風の作りの広報紙だ。

「地方紙にも定期的に折り込まれていますので、ごらんになったこともあるかも知れません」

 菊池さんの指の置かれた場所には、『水無瀬の地下ガスは、オレが処理する!』と、やけに強気なセリフを書かれた、顔の角ばった、ごつい体をしたマスコットキャラクター?が描かれていた。鼻に絆創膏をつけたガキ大将風のそのキャラクターは、なぜかサッカーボールを抱えている。

「ガスコイン君です」

 菊池さんは、訪ねもしないのにそのキャラクターの名前を教えてくれた。

「・・・・・・はぁ」

 その後に続く記事は、そのガスコイン君が、地下ガスの性質について説明する、といった内容のものだった。

「差し上げます。ご興味がおありでしたら、ご一読ください。それともし、もっと詳しくお知りにないたいようであれば、市のホームページに、更に詳細なガスに関しての説明があります。そちらもご参照ください。もし閲覧環境に問題があれば、市役所にも、同内容の書かれた数ページ程の書籍もございます」

 誰だ・・・・・・このキャラにゴーサインを出したのは・・・・・・。

「話を続けさせていただきますね」と菊池さんはさらりと言った。

「ご入院されている、被害にあわれた方のことでしたね・・・・・・プライバシーに関係するため、詳しい説明はいたしかねますが、今回の事故で病院にご入院なさっているのは、この方一名だけです。その方は運悪く、短時間ながらも、多くガスを吸い込んでしまったようで、記憶に若干の混乱が見られるとのことで、念のため、市の方から申し入れて検査入院をしていただいております。けれど体の調子には、全く問題ありません。健康そのものです。記憶の混乱も、事故からの時間の経過で、すでにほぼ正常にもどっているようです。ただガスの被害というのは、直接目に見えるものではないので、あくまで“念のため”“万が一”のことを考えて、病院に留まっていただいているに過ぎません」

「本当に・・・・・・大丈夫なんですか?」

 母が心配そうな声で、改めて訪ねた。けれどその声色は、落ち着きを取り戻しつつある。

「はい、もちろんです。僕自身先方――今回の事故の一番の被害者と言えるでしょう――その入院している方にお会いしてきました。いやぁ、ピンピンしていらっしゃいましたよ。早く病院から退院したくて仕方ない様子でした。ちゃんとした検査の終わる2日後までは、なんとか我慢してくださいと宥めるのが大変だったくらいです。とにかくご自身のお体のため、ということで、ご納得していただきましたが・・・・・・」

 なるほど、ガス事故に関しては良く分かった。やはりこれは、僕には無関係な事故だ。

 ――しかし。菊池さんの話を聞くにつれ、僕の中であの、新聞の事故続報を見たときに感じた違和感が、膨らんできていた。

 3日前の午後一時過ぎ、確かに僕はあの交差点にいた。

 そして――思い出したくもない、あの――交通事故を目撃した。

 おそらく、菊池さんの語るガス事故が起きたのは、その直後の事だったのだろう。

 菊池さんは、ガス事故の救命復旧作業には、2時間かかったと言っていたが、僕があの交差点に着いたときには、そんな様子はなかった。もし交通事故より前に、ガス事故が起きていたなら、その警察、消防、救命等関係者が、僕が交差点に着いた時点ですでに作業を開始してていたはずだ。

 そんな人間は、あの時交差点にはいなかったし、外出をひかえる旨の放送が流れたそうだが、それも聞こえなかった。

 僕だけじゃない。信号待ちをしていた人達にも、そんな様子は見受けられなかった。

 それにもし――こんな考え方は・・・・・・嫌いだけど――もしガス事故が先に起きていたなら、あんな事故は起きなかったに違いない。信号無視をしたトラックは、事故現場の侵入規制のための検問かなにかで、止められていただろう。

 そこまで想像して、はたと気付く。

 ――おかしいじゃないか。

 この2つの事故は、ほぼ同時刻に、全く同じ場所で起きているのだ。

 僕が見た交通事故の前にガス漏れ事故があったことは、やはり考えられない。

 交通事故前の交差点は、平静そのものだった。ガス事故作業関係者の姿はおろか、交通整理の人間一人の姿だって見かけられなかったのだ。

 ――でも。

 交通事故がガス事故の前に起きたのだと考えても、同様の疑問が残る。

 ほぼ同時刻、同場所で起こった2つの事故。

 ――すっと、視界が遠のいていく感覚。

 どちらの事故が先だったにしろ。

 先にあった事故の関係者は、後に起こった事故の現場に、必ず、いたはずなのだ。

 ガス事故が先なら、救命作業、原因調査、復旧作業の人間が。

 交通事故が先なら、やはり救命作業、消防、そして現場保存、検証のための警察関係者が。

 仮に僕の考えが正しい――つまり交通事故の方が先に起きた――と仮定して考えてみよう。

 交通事故が起き、その後ほどなくしてガス事故が起きた。

 ならば――ガス事故発生当時、現場には、十数人ではすまない数の人間がいたはずだ。

 大型トラックが交差点中央付近に止まり。

 現場検証にあたる監察官。ドライバーからの事情聴取にあたる捜査員。トラックからの出火に備える消防車。

 僕が現場を去った時にはちらほらだった気がする野次馬も、いくら人口の少ない地方都市だからといって、どんどん増えただろうし。それを押し留める警察官。二次的な事故を防ぐための交通規制。そして被害者救命のための救急車――。

 後に起きたと仮定した、ガス事故の被害者は、緊急通報をする必要など、全くなかっただろう。

 だって、事故が起きたその瞬間、その場にはなんという偶然か、呼ぶべき緊急車両や人員が、すでに勢ぞろいしていたのだから。

 『――それを吸い込んだ人々が、頭痛や眩暈、吐き気の症状などを訴え、その場に座り込むなどして、その内の数人が119番通報をしました。』

 菊池さんの言葉が頭に甦る。

 ――ありえないのだ。それは。

 一日の内に、二つの事故を経験した人間は、必ずいなくてはいけない。

 いやむしろ――。

 僕は、交通事故の現場で、彼女の・・・・・・変わり果てた姿を前にして、どれほどの時間を過ごした?

 目の前で事故が起きて、はいそうですか、と通り過ぎる人間が何人いる?

 大抵の人間は、ショックで、興味本位で、動機は様々だろうが、その場に留まるのではないか?

 むしろ――あの時間に交差点にいて、2つの事故を経験しない人間の方が――。

 少ないのかもしれない?

 ――世界が、時間が、ねじれてしまっているかのようだ。

 そうだ、これではまるで――。

「菊池さん・・・・・・」

 堪らず、僕は喘ぐように口を開いた。

「はい、何でしょう?」

 菊池さんは、母がまた、元の平静を取り戻しつつあることに安堵したのか、笑顔で僕に答えた。

「菊池さんは・・・・・・その、言いにくいんですけど・・・・・・話の腰を折ってしまってすみません」

「何です? いいですよ。おっしゃって下さい」

 僕の唐突な言葉にも、菊池さんの柔らかな表情は崩れない。

「あの・・・・・・菊池さんは、何か勘違いしてはいませんか?」

「はい?」

 微かに上がる語尾。菊池さんの笑顔の中で、眉だけがひそめられる。

「僕、確かに3日前の1時頃、その交差点に居ました。渡ったすぐ先に、中央図書館がある交差点です。そうですよね?」

「ええ、ありますね、図書館。僕も調べ物がある時は、よく利用させて貰って・・・・・・」

「そこで・・・・・・確かに事故はありましたし、その現場に僕が居合わせたのも間違いありません。家族には、余計な心配をかけたくなかったし、僕自身はかすり傷一つ負わなかった訳ですから、話さなくてもいいだろうと思って、黙っていたのですが・・・・・・」

「賢一・・・・・・」

 不服そうに口を開きかける母を、手で制して続ける。

「菊池さんのお話が、僕が見た事故の事実と、ちょっと食い違ってるみたいなんで・・・・・・菊池さんは、勘違いしてますよ。僕が居合わせたのは・・・・・・ガス事故ではありません。菊池さんのご説明なさったガス事故の・・・・・・少し前にあったのだと、僕は思っているんですけど・・・・・・僕が見たのは、交通事故です」

 とても――。

「酷い・・・・・・事故でした。それでショックを受けた僕は、多分すぐにその場を離れて、家に帰って来たんです。事故の後、到着した救急車の隊員さんに、すぐ病院に行くよう勧められた気はするんですけど、それも断って帰ってきました。

 とにかく、いろいろとショックで・・・・・・なにも考えられなくて・・・・・・そんなものですから、ガス事故が起きた時には、僕はそこに居ませんでした。とても近い時間に2つの事故は起きているようなので、それで菊池さんが、僕をガス事故の被害者だと、勘違いされているのだと思います。

 こんな、謝ったり説明したりしていただいた後で言うのもなんですが、僕は菊池さんの言うガス事故とは、全くの無関係なんです」

 頭の中に渦巻く疑念を払拭したくて、僕は一気に捲くし立てた。

「え?」

 その話を聞いて菊池さんは、何とも言えないような、奇妙な表情になった。

「だって賢一さん・・・・・・新田・・・・・・賢一さんですよね?」

 とんちんかんな質問をする。

「・・・・・・ちょっと待ってください。混乱・・・・・・してます」

 銀縁の眼鏡を外して、胸ポケットから眼鏡拭きを取り出した菊池さんは、少しも曇っていないレンズを拭き始めた。ぶつぶつと、なにかを呟きながら、眼鏡を拭き続ける。考え事をするときのクセなのかもしれない。

「そうです、賢一さんのおっしゃるとおり。私がこちらのお宅にお邪魔させていただいたのは、賢一さんが3日前のガス事故で、お体に変調をきたしていないかを、確認させていただくためでした。――それはもう、問題なく果たせました。賢一さんは、健康そのものでいらっしゃる――」

 眼鏡の下にあった菊池さんの眼は、一見軽薄そうにも感じられる話し方から受ける印象とは違い、深い、思慮の色を湛えていた。さりとてそれは、人を追い詰めるような類のものではなく、未発見の何かを求める、研究者のような眼差しだった。

「整理させてください」

 その瞳のまま僕を見つめる菊池さんに、僕は無言で頷いた。

「3日前、交差点であったガス事故の現場に、賢一さんはいなかった。」

 更に頷く。

「けれど、ほぼ同時刻、同所で別の事故が起きていた。その別の事故とは交通事故であり、おそらくガス事故の直前に起きたと思われるものである。」

 頷く。――矛盾もあるが、そうとしか、考えられない。

「そして賢一さんは、その交通事故の現場に居合わせた。だが、事故を目撃したことによるショックが大きく、とてもその場に留まることはできなかった。だから到着した救急隊員の病院へ行ったらどうかという勧めも断り、すぐさまその場を後にし、帰路についた」

 ――記憶の通りだ。

「故に、その後に起こったと推察されるガス事故の現場にいることは有り得ない。と、こういう事ですね」

 なんだ?――

「なるほど――」

 そう言った後、菊池さんは、外していた眼鏡を掛けなおし、あの、人を安心させる明け透けな笑顔を僕に向けた。

「賢一さんのおっしゃっていること、良く理解できました」

「そう・・・・・・ですか」

「その上で、これは極々個人的な質問なのですが・・・・・・あ、お答えいただきたくなければ、結構ですので、そうおっしゃってくださいね?」

「どんな質問ですか?」

「賢一さんが目撃されたという事故。交通事故ということでしたが、それは、大きな事故だったのでしょうか?」

 菊池さんは――交通事故のことを知らないのか。

「そうだったと、僕は思います」

「沢山の方が、被害に遭われたのですか?」

「いえ・・・・・・そうではありません。僕の知る限り被害者は――1人だけで・・・・・・その意味ではありふれた事故と言えるのかも・・・・・・知れません。でも――」

 菊池さんは、僕が口ごもるのを見ても、穏やかな表情を崩さず、我慢強くじっと、僕が再び口を開くのを待っていた。

「僕にとっては――」

 僕は、菊池さんには、知っておいて欲しかったのかも知れない。

 彼女に何が起きたのかを。

 ――いや、ごまかすべきではないだろう。

 僕は、耐えられなかった。話がここに至るに、僕は彼女の事故を、黙って抱え込むことに耐えられなかった。

「本当に酷い事故でした」

 これは、彼女の死を、汚す行為なのだろうか?

「お聞きしても?」

「事故の被害者は、中学生の女の子でした。事故は・・・・・・僕の目の前で起きました。即死、だったと思います。彼女は――僕と同じ中学校に通う、同学年の女の子でした」

「・・・・・・ああ・・・・・・それは・・・・・・さぞかし御辛かったでしょう・・・・・・」

 菊池さんの眉が、ぎゅっとひそめられた。演技には、見えなかった。本当に辛そうだ。

「親しい方、だったのですか?」

「いえ・・・・・・話したこともありません」

 ――思い焦がれていた。

「だけど・・・・・・とても印象的な、女の子でした」

 ――特別だった。

 その場に重い沈黙が下りた。

 菊池さんも、さっきから口を開きたくてしょうがない素振りだった母さんも、押し黙ったまま、搾り出すように言って俯いた僕を見つめていた。

「賢一さん」

 その空気を振り払うように、菊池さんが、何かを決意した口調で、僕に問いかけてきた。

「はい」

「そんな、お辛いだろう話をしていただいて、ありがとうございます。よくぞお話し下さいました。それで、最後に一つだけ、お聞きしたいことがあります」

「なんでしょうか?」

「事故の被害者の方、同学年の方だとおっしゃいましたね。その方の――お名前は? 賢一さん、知っていますか?」

「なぜ――」

 そんなことを聞く。

「知っているのならぜひ、教えてください。もしかしたら――本当にもしかしたら、ですけど。私の知っている方かも知れません」

 菊池さんが彼女の知り合い? そうなのか?

 だとしたら、どんな関係なのだろう?

「はい・・・・・・彼女の名前は『若宮 加奈』と言います。・・・・・・知ってるんですか?」

 その名前を聞いて、菊池さんはぎゅっと目を閉じ、眼鏡をずらして、眉間を揉み解した。

「それは・・・・・・まいったな・・・・・・困った・・・・・・」

 知っているんだ。

「菊池さんのご親戚、とかですか? もしかして」

「いいえ・・・・・・その・・・・・・何と言ったらいいか・・・・・・」

 菊池さんは言い辛そうに口ごもり、何かを熟考するように、しきりに小さく唸ったり、軽く首を捻ったりした後――。

「賢一さんにとって、良い知らせだと信じます」

 そう言った。

「今から私が話すことは、紛れもない事実です。賢一さんは混乱するかも知れませんが、冷静に聞いてください」

 ――漠然とした不安。僕の中で、違和感が急激に膨らんでいく。

「賢一さんが、事故に遭って亡くなったとおっしゃってる若宮さん。「若宮 加奈」さん。彼女ね――生きてます」

 後頭部を、いきなり思い切り殴られたようだった。

 まるでそこにあるかのように、事故の光景が脳裏に映し出される。

 血と骨と、こびりついた肉の山。

 ジリジリと全身を焼く、夏の日差し。

 誰かの悲鳴。

 流れ出した血液と、焦げたゴムの匂い。

 小山の山頂に、捧げられるように置かれた、見たこともない程優しげに微笑む――。

 彼女の顔。

 口の端から血の泡を滴らせた・・・顔。

 ――“アレ”で、生きていたと言うのか!?

「ひど・・・・・・」

 吐き気がこみ上げて、僕は体をくの字に折り曲げた。

「賢一!?」

 悲痛な母の叫び。背中に当てられた手が、がくがくと震えていた。

「大丈夫です、賢一さん。落ち着いて」

「何を言ってるんですか! 大丈夫なわけないでしょう!?」

 母の一喝に、菊池さんは一瞬怯んだようだったが、すぐさま言葉を続けた。

「お母さんも落ち着いてください。大事なことなんです」

「菊池さん!」

 尚も続けようとする菊池さんを咎める母。

「いいから、お聞きなさい!」

 終始柔らかな口調だった菊池さんの鋭い一言に、母も一瞬押し黙った。

 その機を逃さず、菊池さんは話続ける。

 ふいに――違和感の正体が、僕の頭の中で明文化された。

「いいですか賢一さん。3日前、交差点で起きた事故はガス事故です」

 まるで――。

「その前にも後にも、賢一さんがおっしゃるような交通事故など、起きてはいないんです」

 そうだ、まるで、交通事故なんて起きていないみたいじゃないか。テレビも、新聞も、みんな――。

 母は、何かを言おうとしたままの姿勢で、固まっている。

「私がその交通事故のことを知らないだけだと思われるかもしれませんが、それは違います。交通事故など起きなかったという決定的な裏づけがあるのです。賢一さんのお話を聞いて、確信しました。

 賢一さんが事故に遭われたという若宮さん。彼女は交通事故になど遭ってはいません。事故に遭って即死どころか、外傷はかすり傷一つない」

 吐き気を堪えながら、僕は息をするのも忘れて、菊池さんの話に聞き入った。

「確かに賢一さんの言うとおり、若宮さんは事故に遭われた。しかしそれは交通事故などではない。私が先ほどから説明している“ガス事故”の被害に遭われたのです。私、先ほど話しましたよね? ガス事故に遭われて、しぶしぶ検査入院されてる元気な方の話。

 その方の名前が「若宮 加奈」なんです。同姓同名の別人という可能性が無いわけではありませんが、それはほとんど考えられないのです。なぜなら私が、若宮さんの所に、入院の詳しいご説明を兼ねたお見舞いに行って来たのは、ほんのついさっきのことで、そしてその病室で、彼女はこう言ったのです。『ガス事故の現場で、「新田 賢一」という同じ学校の生徒を見たが、彼は無事なのか?』と」

「彼女が・・・・・・生きている」

 彼女が僕の名前を知っていた?

 こんな状況でなければ、飛び上がって喜んでいたことだろう。けれど僕には、重くのしかかる別の不安があった。

 じゃあ、僕が見たのは、一体――。

「はい、それはもう、お元気でらっしゃいます。私どもの方では、賢一さんが事故被害に遭われたかどうか未確認でしたので、それで早速伺わせていただいた次第なのです。若宮さんから、賢一さんの名前を聞いていなかったら、私は今、こちらに居ないでしょう」

 交通事故は無かった? 彼女は傷一つなく、無事に――生きている。

「若宮さんの検査はあと2日続きますが、きっとどこにも異常は認められないでしょう。若宮さんが健康に問題があると言うなら、私の働く部署には、生ける屍が溢れ返っているということになります」

 菊池さんが冗談めかして笑うと、緊張していた場の雰囲気が、僅かにやわらいだ。

 彼女は生きている――良かった。

「そこで、私から、ご提案があるのですが」

 菊池さんの声は、すっかりもとの柔らかさを取り戻していた。

「賢一さんと若宮さんは、お知り合いのようだし。ついでと言ってはなんですが・・・・・・どうです、賢一さんも、若宮さんのお見舞いがてら、病院でちょっとした検査を受けてみては」

 無意識に表情をゆがめてしまっていたのだろう。僕の表情に、菊池さんは、とりなすように言葉を続けた。

「いやいや、検査に関しては、別に強制という訳ではありません。ご安心ください。ただ、落ち着いて考えてみてくださいませんか。若宮さんは、ガス事故に遭われた。当然、その現場にいらっしゃった賢一さんも、同じように、ガス事故の被害に遭われているはずです。おそらく、その時に多くのガスを吸い込まれたのでしょう・・・・・・言いにくいことですが、ありもしない交通事故の幻覚を・・・・・・見てしまう程にです。

 交通事故のお話をする賢一さんのお姿、本当にお辛そうでした。きっと詳細にその光景を覚えておいでになるのでしょう・・・・・・けれど、ご自分でも少し調べれば分かることでしょうが、交通事故は、現実にはありませんでした。賢一さんの記憶に残る交通事故の光景は、すべて、ガス事故に遭い、期せずしてガスを吸い込んでしまった結果、意図せず見てしまった・・・・・・幻覚にすぎません。

 なにも、賢一さんがおかしなことを言っている、とは思いません。噴出した地下ガスというのは、そういった幻覚を、吸い込んだものに見せてしまう性質を、確かにもっているのですから。

 ――脅かすつもりはありません。ですけど、体の調子に異変がなかったとしても、無自覚なところに、なにか問題が発生していないとも限らない」

 例えば――頭の中、とか。

 菊池さんの心配そうな言葉の中に、僕は底意地悪くも、言外のニュアンスを感じていた。

 そうしてしまう心境の裏には、苛立ちがあった。

 ――うまく線引きができない。

 幻覚、だったのだろうか? 菊池さんは嘘をついているようには思えない。そもそも、

僕にそんな嘘をついて、菊池さんが得をすることは、なにもない。

 本当のこと、なのだろう。

 それでも、頭の中では菊池さんの話を十分に理解しながらも、とてもすぐに納得できることではなかった。

 あの信号待ちの人々も、黒々とタイヤ痕を残して停止したトラックも、無残な――彼女の姿も。

 全てが幻覚だったというのか?

 いや、部分的には、現実に起きたことも含まれているはずだ。実際彼女は、菊池さんの話では、事故現場にいて僕を見たと言っているのだ。

 僕も確かに、彼女があの場に居たことを知っている。

 ならどこまでが現実で――どこからが幻覚なのか。

 その線引きができない。とても区別できそうにない。

 僕の中では、僕の見た全てが現実に思えて、幻覚との境目など見当もつかない。

 けれど、交通事故にあったあの彼女の姿だけは、彼女が怪我一つないという話を信じるかぎり、絶対に幻覚であるのだ。

 幻覚と言われる僕の記憶のなかで、一際鮮明に残っている光景なのに、それが幻覚だなんて――。

 「今すぐこの場でどうするかを決めることはありませんけど、真面目に考えてみてください。それも、できることならなるべく早い方が賢一さんのためだと思います。費用に関しては、市から全面的に出ますから、心配いりませんよ。

 あと、老婆心ながら一つ助言させていただくと、賢一さんが検査を受けるにしろ、受けないにしろ、若宮さんのお見舞いには、ぜひ一度は行くべきだと思いますけどね。相当心配してらっしゃいましたよ? 賢一さんのこと。いいなぁ・・・・・・綺麗な子じゃないですか、彼女」

「そんな――」

 ――たい。会いたい。

 彼女は、生きている。彼女と話が、できる。

 僕の記憶が幻覚だろうがなかろうが、そんなことはどうでもいいことじゃないか。

 とにかく彼女が無事で――良かった。それだけで十分だろう。

 あの、以前から僕を捕らえ続けている衝動が、会いたいと思った瞬間に、間欠泉のように湧き上がり、思考を占拠した。

 あの時、横断歩道の信号待ちをしているときに、彼女が僕に気付いたと感じたのは、幻覚なんかじゃなかった。

 その上僕の名前を知っていて、体の心配までしてくれていたなんて。

 検査を受けるつもりはないけど・・・・・・病院に行ってみよう。

 彼女と会って・・・・・・話をしよう。

 なかったはずの――もう一度。

 言えるはずのなかった言葉が・・・・・・言えるのだ。

「はじめまして、こんにちは」

 こんなに嬉しいことは、ないじゃないか。

 自分の記憶が幻覚であったことに、僕は、逆に感謝するべきだ。

「あの、病室は・・・・・・」

 勢い込んだ内心とは裏腹に、問いかける声は何故か小さくなった。

「はい?」

 聞き取れなかったのか、菊池さんがこちらに身を乗り出す。僕は逆になんだか身を引いてしまった。

「若宮さんの、病室・・・・・・です。番号とかそういうの、あるんですよね?」

「ああ――」

 ぽんと一つ膝を打って、菊池さんは、何が嬉しいのか満面の笑顔になった。

「ああ――内科の入院患者用病棟で28号室です。面会時間は午前11〜午後4時まで。市も奮発したもんで個室ですから、他の患者さんを気にせずにゆっくり話せますよ。

 おっと――奮発云々は聞かなかったことにしてください。余計なことでした。これだからいつも・・・・・・叱られるんだよなぁ・・・・・・」

 頭を掻きながら首を竦める菊池さんの様子に、僕も母も小さく笑った。

「でも、今日はもう時間に余裕がなさそうですね・・・・・・突然だと先方も驚かれるかもしれませんから、僕がそれとなく伝えておきますよ。明日、明後日あたり、賢一さんが見えられるかも・・・・・・ってね。この後まだ、病院に出向く用件もありますから、そのついでに」

 そう言って「今日は色々と失礼しました」と何度も頭を下げながら、菊池さんは我が家を後にした。


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