7 女子高生と栄養ドリンク
えっ、えーっ?
松田さんがまさか、女子高生?と手を繋いで歩いているなんて信じられない、と目を疑った堀越だったが、冷たい階段の手すりを掴んだまま、頬は熱く、口元が緩むのを感じた。
変わったばかりの信号を、制服を着た背の高い女の子の手を引いて、足早に大通りを渡る彼の後姿を見送りながら、
想いを寄せる地味な女性って彼女の事だったのね、と微笑ましく思った。
相手は学生さんかぁ、とすると、年は10歳位下なのね。
私とは一回り位違う女の子が相手なら勝ち目はなさそうね。
いえいえ、勝つとか争うとかそういうつもりはないけれど。
もっと学生時代に恋をしておけば良かったなと思いながら、堀越は忘れ物を取りに会社へと急いで戻った。
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「すみ、ません・・・」
こじんまりしたアパート前の駐車場に止められた白い車の助手席に乗せられて、そう言った陽芽野の制服のスカートから伸びた脚を見ていた瑞樹は、ふぅと息を吐いてから、
「仕方ありませんね・・・降りて下さい。」とシートベルトを手にしていた陽芽野に告げた。
「あの・・・?」
独立した二階建てのアパート、五棟程同じ建物が並び、それぞれ一階と二階は別々の世帯のようだった。
その内の一棟、二階への階段を上がった瑞樹は、ドアに鍵を挿して回すと、
「早く上がって来て下さい。」と階段の上のドアの前から陽芽野を呼んだ。
ここ、瑞樹さんのお家?
202、閉められた二階のドアの横のプレートには部屋番号だけで名前の記載はなく、その下方に設けられたシルバーの郵便受けにも名前は記されていなかった。
カタン、カタンと部屋の中の音を息を潜めて窺っていると、
「何をしているのですか。早く入って下さい。」突然開かれたドアの内側に、上着を脱いでワイシャツ姿の瑞樹さんが立っていた。
「あの、ここは?」一応訊いてみる。
「僕の住まいですが、今はそんな事より・・・」
私は、手首をぐいっと瑞樹さんに掴まれて、そのまま中へと引き込まれる。
何故急にお家に入れてくれたのかしら?と考えていた陽芽野に瑞樹は傷薬を手に持って、
「そこの椅子に掛けて、脚を出して下さい。」台所にあるテーブルと一脚の椅子を示して言った。
脚?
ふと見ると、僅かに擦り剥いて血が滲んでいた。
「あ、これは大丈夫ですから・・・」と遠慮して座らないでいる陽芽野に、
「僕が同じ状況にあったら、君はどうしますか?」と瑞樹が訊いた。
「あ、はい・・・座ります。」陽芽野の傷を消毒して絆創膏を貼ると瑞樹は立ち上がり、
傷薬を大きな缶の中へ戻し、冷蔵庫を開けた。
そしてプッと吹き出してから、何かの小さな茶色いガラス瓶を手に持って戻って来た。
笑ったりしない彼が吹き出すなんて、何かよっぽど面白い物が冷蔵庫の中に?と私はとても気になった。
コトリとテーブルの上に置かれた瓶は栄養ドリンク。
「お茶を煎れている時間はないので何か、と思いましたが、あいにく酒以外に冷蔵庫に入っている飲み物はこれしかなかったので、君には似合いませんが・・・車で飲んでいいですから、そろそろ行きましょう。」
時計に目を遣り、時間を気にしながら促される。
私が玄関で靴を履き終わると灯かりが消された。
玄関を出て鍵を閉めると、瑞樹さんはさっきとは違うジャンパーを着て、手にはフリースケットを持っていた。
「もうこんな時間だ。早く帰らないと。」
車に乗り込み、彼がエンジンをかけると、カーエアコンの吹き出し口から温風が出て来て車内の冷たい空気を暖かいものに換えて行く。
助手席の足元に鞄を置いてシートベルトを締めた。
すると彼は黙って私の膝の上にフリースケットを掛けてくれた。
「それでは、出しますよ。」「はい。」
彼の運転で走り出す車。
夜道を走る暗い車内で、そっと見る横顔。
不機嫌かそうでないかは解らない。
「用事があっても、こんな時間に制服姿で一人で歩いていては駄目です。」
駅から瑞樹さんのアパートへ来る途中、どうしてこうなってしまったかを訊かれた。
高校生か大学生かわからないけれど、階段を上がった所を駅に向かって歩いていたら、二人連れの若い男性に声を掛けられて肩に手をのせられて怖くなり、階段を下りたところで転んでしまった、と話した。
彼はそれを聞くと、私を見て黙っていたけれど、内心ではまたかと思ったかもしれないと考えた。
握り締めていた栄養ドリンクの瓶にそっと目を落とすと、彼はそれに気付いたのか、前を向いて運転したまま、
「高校生が飲む物ではなかったですね。喉が渇いていなかったら無理に飲まなくてもいいですから。」と言ってくれた。
「すみません。」とだけ返した。
どうしてまた助けてくれたのだろう。恋人が家に帰ったから?
帰らなかったら助けてはくれなかった?
訊いてみたいと強く思っている陽芽野だったが、どうしても声を出せず、その場は黙っている事しか出来なかった。
車は、やがて陽芽野の家の前に着いた。
結局家まで、瑞樹さんに車で送って貰ってしまった。
「ありがとうございました。」「それでは。」と言った彼は、家の前の道で静かに車を発進させた。
赤いテールランプを玄関前からそっと見送りながら、いつも助けて貰ってごめんなさい、と陽芽野は思った。
手の中に握り締めていた栄養ドリンクのラベルを眺めて、こういうの飲むんだ・・・と、仕事で疲れている彼に家まで送らせるなんて、ますます悪いなと感じてしまった。
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まただ・・・何をしているんだ僕は、馬鹿ではないのか?
彼女に構う理由もないのに、つい余計な世話を焼いてしまう。
何らかの理由で両親が不在で祖父母と暮らしているから、という自分の境遇と似ているからなのだろうか。
同情、って言うのかな?祖父母と暮らす気持ちは解る。そして兄もいる、兄か。
僕にはそう呼べる人はもういない。
違うな、同情にはならないな。彼女と同じ気持ちにはならない。
しかし女子高生に栄養ドリンクはなかったな、と一人運転しながら、それについてはどうしてもおかしくて、つい笑ってしまう瑞樹だった。