21 好きと錯覚しているだけ
12月に入り、木枯らしが一段と厳しく感じる朝、
僕はいつものようにやかんで湯を沸かし、インスタントコーヒーの瓶の蓋を開けた。
「好きです」
ん?今、何か聞こえたような?
マグカップにお湯を注ぐ。
「好き、好き、好き・・・」
え?
何だ?耳がおかしくなってしまったのかもしれない。
ふー・・・と息を一つ吐いて、スプーンでくるくるとマグの中の湯気が立ち上るコーヒーを混ぜる。
セピアの円の中に浮かんで見えるのは、
君の笑顔。
・・・!
何だこれは、どうしたんだ僕は。
目をこすり、再び見ると何も浮かんだりしていない。
ふー、と再び息を吐き、ドアポストの新聞を引き抜く。
椅子に掛け、新聞を開くと見開きの広告ページに君の写真。
しかも、
「瑞樹さん、好きです」広告が喋った。
!!!!!!
ばさっ、新聞を慌てて閉じ、洗面台へ向かうと、冷たい水で顔を洗う。
おかしい、というか恐ろしい。
これは夢だ、夢に違いない。
早く目を開けろ。
濡れた顔のまま鏡を見ていると、僕の背後に立つ君の、顔が背中に押し当てられた。
後ろから、温かい君の腕が僕の胴に回されて、何故か鼓動が速くなるのを感じた。
な、な、なんだ。
朝からこんな。
第一、君は僕の部屋の鍵など持っていないではないか。
どうやって入り込んだんだ?
や、やめろ!と言いたいのに、声が出ない。
「瑞樹さん・・・すき」背中が熱い・・・
すきすき言うな。僕は好きじゃ、ない・・・。
僕が好きなのは、好きなのは・・・
・・・ピピッ、ピピピピッ、ピピピピッ、ピピピピッ・・・
はっ、と目を開けると、
ベッドの上だった。
ホッとしたような、そうではないような、って何を言うんだ!
夢でホッとしたに決まっている。
・・・正体はこれか。
横向きになっていた僕の背には柔らかな枕が壁と僕に挟まれ、そして胴には、掛け布団が巻きついていた。
いつもは・・・こんなに寝相が悪くないのに、どうしたんだ?
エアコンを点けて半纏を羽織り、靴下を履いた後、台所でやかんを手に取り、水道水を汲み、コンロにかけて火を点ける。
インスタントコーヒーの瓶を手にしたところで、ふと、止まる。
あ、開けたらもしや。
・・・何て事は、ないか。
そっと蓋を開けてマグに顆粒をスプーンで移し、沸いたお湯を注ぐのを、ほんの少し躊躇ってしまう。
さっきのは夢だ。一々気にするなんておかしい。まるで僕が彼女を意識しているみたいではないか。
ドボドボドボと乱暴にお湯を注いで、新聞を取りに行く。
新聞紙をバサッと開こうとするのをやめ、経済面の上部の見出しを確認してから指を挟み、そっと開く。
ふー・・・大丈夫だ。広告のページさえ開かなければ。
一通り目を通した瑞樹は、さっきのは夢だから、こんなに怯える必要はないと、
思い切って、気になっていた広告ページを開いて見た。
「なっ・・・!?」
驚いて声を上げてしまった。
広告の女優らしき写真が陽芽野に見えてしまった瑞樹は、顔がカアッと熱くなった。
お、おかしい・・・別人なのに一瞬彼女と見間違うなんて。
いや、この名前のせいだ。そうだ、それで見間違えたんだ。
『SATSUKI 最後の写真集』
サツキって名前だからだ。少し似てるだけだ。
新聞をガサガサと畳み、瑞樹は洗面台へ向かった。
顔を洗って鏡を見つめた。鏡の中には僕のぼやけた顔だけ。
ほーら、夢だ、と夢の中で陽芽野に抱きしめられた部分に手を伸ばす。
男が苦手だという君が、僕には触れる事が出来るのはどうしてなのか解明しないとな・・・
その謎が解けたら、僕は必要なくなる筈だから。
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「その後、彼女とどう?」
久しぶりのお昼に、社長室に呼ばれた瑞樹に向かって大和が訊いた。
ここ半月お互いに忙しく、お昼にゆっくり顔を合わせている暇もなかった。
半月ぶりの質問が、いきなりそれですか?
「彼女は元気ですよ。」
「ラブラブ?」
「はぁ、まぁ・・・」と瑞樹は適当な返事をした。
「俺に、『見返りなどいりません。好きでいるだけですから』とか言ってたくせに。あ、いや、良い傾向だけどさ。お前がカノジョとラブラブなのを奨励、じゃなくて祝福するよ。そうだ!」
大和は机の上の充電スタンドに立ててあったプライベート用のスマートフォンを手にした。
「あ、もしもし、鈴花?そう、俺。突然なんだけどさ、部屋一つ取ってくれない?そ、良い部屋。・・・え?いつ?あ、そうか、ちょっと待って。」
大和はマイクの穴を親指で押さえると、
「松田、いつがいい?」「何がですか?」
「カノジョとホテルに泊まりたい日。」
「・・・電話を代わって貰えませんか?」
「ほい。」大和は瑞樹にスマートフォンを手渡した。
大和のホクホクした顔を見るのは嬉しいけれど、それとこれとは別。
「お電話代わりました。松田と申します。お仕事中このようなお電話でお時間を割いてしまいまして、大変申し訳ございませんでした。先程高橋大和が申しました件は無かった事としていただければ幸いです。では、失礼いたします。」
「お、おい!何で・・・」という大和にスマートフォンを手渡す瑞樹。
ちゃんと言い訳?いや、正当な理由を話す準備はしてある。
「彼女はまだ高校生です。18歳未満ですから、そのような事は・・・」
「おやぁ?」と大和は、ひやかすようなおどけた声で発すると続けて、
「別にー、そのような事をしなくてもいいのに、なーにイヤラシイ事を想像しちゃってんのかなー?いやいや、いいんだよ。それがフツー。フツーの男ってヤツなんだから。」
「大和さん!そんな事言うなら、寝込みを襲いに行きますよ?」
「どーぞどーぞ。お前はそんな事、絶対しないって俺は信じてるけどな。カノジョと仲良くやれよ?」
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普通の男だったら、彼女に対して、とうにいやらしい事をしている?
僕は違う。それは普通ではないという事か?
何をもって普通というのか、その基準が解らない。
彼女は高校生で、しかも男が苦手なのだから、そういった事は嫌悪するだろう。
そうか!だから女に触れたいと思わない僕なら、彼女が安心して触れるという訳なのかもしれない。
では、僕から触れたら彼女に嫌われる?
いや、しかし、以前祖父の部屋で彼女を、やむを得ず抱きしめてしまった後で、それは彼女に取って「いいこと」だったと言っていた。
うーん・・・考えれば考える程、解らなくなって来た。
触れない方が良いのか、それとも・・・
悩むな!そもそも、彼女が僕を「好き」だというのは信じられない。
だから「嫌われる」とは違う。
「好き」というのは、彼女の誤解だ、錯覚だ。
だがそれを陽芽野に告げる事を、あえて自分からしようと思わなくなっていた瑞樹だった。




