16 僕の家族
陽芽野はチラチラと運転する瑞樹の横顔を時々、遠慮がちに見ていた。
男の人に触られただけで気持ちが悪くなっていた私が、この人の恋人に・・・本当になれたの、かな?
それと、私が瑞樹さんの恋人になっても、本当にいいんですか?
それを訊いたら、
「君がそうしたいと言っただけの事で、僕には関係ありません」
とか・・・言われてしまうかもしれないと考えた陽芽野は、助手席でブンブンと首を振った。
「どうしました?トイレに行きたいのですか?」
「違います。何でもありません。」
あ、でも・・・やっぱりお手洗いに行きたい、かも。
だけどそんな事を今更言い出せなくなっていたので、気にしないようにと努める、と尚更気になって、行きたくなってしまう。
そわそわしている陽芽野の様子に気付いた瑞樹は、路肩に車を停止させると、
「何を隠しているのですか?はっきり言いなさい。」と訊いた。
びくっとした陽芽野は、震わせた下唇にこぶしを当てながら、
「・・・お手洗いに、行きたいです。」と俯きながら恥ずかしそうに言った。
「それならそうと、早く言いなさい。」
少し急いで車を出す瑞樹に、陽芽野は申し訳なさを感じた。
車はしばらく走り、駐車場のあるコンビニエンスストアに入った。
瑞樹が店員に断ると、陽芽野を促した。
陽芽野が出ると、雑誌を捲っていた瑞樹は大きなビニール袋を携えていた。
何か買い物をして待っていてくれたのだろう。
「大丈夫ですか?」
「はい、すみませんでした。」
「行きましょう。」
ありがとうございましたーというレジカウンター奥の店員に軽く頭を下げて二人は店を出て車に乗った。
無理を言ってついて来てしまったのに、瑞樹さんは優しい・・・
でもきっとそれは私だけにではなくて、みんなに優しいという事だと思う。
好きな人にはもっと優しくて、それからニコニコしているかもしれない。
羨ましいと思った。
瑞樹さんの頑なな表情を、しあわせそうに綻ばせる事の出来る人が。
私には、なれませんか?
あなたの好きな人に、なれたらいいのにと陽芽野は思った。
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「着きました。」
「は、はい。」
ここが、瑞樹さんのおじいさんのいる老人ホーム?
病院のような大きなアパートのような建物。
車を降りた陽芽野は助手席のドアを閉めて、その横に立ち尽くしていた。
「この辺は、近くに店もなくて、暇を潰す場所なんてないですけど、どうしますか?」
「あ、ここで、待ってますから。私の事は気にしないで下さい。」
天気は良くても風が冷たい。
車の中で君を一人待たせて置くのも嫌だし、外でというのはもっと嫌だ。
「だから、言ったのに・・・」ふぅと息を吐き、
「嫌かもしれませんが、一緒に来て貰えますか?君を一人で待たせて置けないので。」
「嫌なんて、そんな・・・ただ、ご迷惑かと思って。」
そう思うなら、最初から一緒に来ると言わないで欲しかった。
「ここまで来てしまったのだから、嫌でも付き合って下さい。」
「はい。すみません。」
『付き合って下さい』とは、お付き合いの意味ではないけれど、
そうだったらいいのにと、陽芽野はどきどきしながら瑞樹に続いて玄関で靴を脱ぎ、スリッパに履き替えて受付けを済ませた瑞樹の後を静かに歩いた。
瑞樹は二階の奥の部屋の前に来ると、ノックして引き戸を横に開いた。
「おじいちゃん?」部屋の中にはいない。
広い廊下、見渡してみると、日曜なのに静かで、他の部屋にも出入りがない。
時々イベントで集まる、「ホールかな?」と呟くと、「えっ?」と陽芽野が瑞樹を見て言った。
「一階に行ってみましょう。」
「はい。」
階段を下りると、長い通路の向こうから、お年寄りがぞろぞろと、職員の人達に付き添われながら、車椅子の人や杖をついて歩く人達が階段の隣にあるエレベーターへと向かって来た。
「こんにちはー。」車椅子を押していたエプロン姿の職員の人が声を掛けて来たので、
「こんにちは。」と返し、祖父の姿を探す。
「あら、こんにちは。松田さんなら今来ますよ。」
50代位の眼鏡を掛けた女性職員が杖をついた人に付き添いながら僕に声を掛けて来た。
面識は、あったかな?
月に一度か二度訪れるだけで、家族の顔まで憶えているなんてすごいなと思いながら瑞樹は、列の後方に祖父を捜す視線を向けた。
近付いて行き、「おじいちゃん。」と声を掛けた。
杖をついた祖父に付き添っていた40代位の女性職員が「あら、松田さん。お孫さんが来てくれて、良かったですね。」と祖父に向かって屈んで声を掛けた。
「まご?」と顔を上げた祖父は僕を見て少し黙り、
「お、あー、えーと・・・みず、瑞樹か。よく来たな。部屋にお菓子あるよ。」といつもの調子で僕に話した。
二階の部屋に入ると、「ほら、お菓子。みーくん、ラムネ好きだったろ?」祖父は戸棚からビニール袋いっぱいに入れられたラムネ菓子を、ベッドの上に広げて見せた。
そして、どっこいしょとベッドに腰掛けると、
「誰?お友達か?」と、僕の後ろに立っていた彼女に気が付いて訊かれる。
「うん、そう・・・」と言った後で祖父が「なぁんだ。」と言った。
「どうしたの?」と訊くと
「カノジョかと思ったのになぁ。美人さんで、そうならいいのになぁ。」祖父が、かかかっ、と笑った。
カノジョ?恋人って事か。
僕はカノジョと呼ばれた君を振り返って見ると、
また唇にこぶしを当てて耳を赤くしていた。
うーん・・・祖父に怯えている?
祖父は体格の良い方で、年を取ったから幾分か縮んだと言いつつも、強面に見えてしまうから、カノジョか?と訊かれて嫌だったのだろう。
しかし、ここは我慢して貰うか。僕を嫌いになるなら好都合だ。
「実は、カノジョなんだ。僕の恋人・・・」
瑞樹は陽芽野に近付き、陽芽野の背中から腰に手を回して、祖父の前に近付けた。
驚いた顔を瑞樹に向けた陽芽野の目がみるみる赤くなり、ぷくりと涙を浮かべた。
えっ?・・・そんなに、嫌だったのか?
しかし、祖父の目の前で泣かれては困るので、瑞樹は陽芽野の顔を隠すように抱きしめ、そして耳元で「泣かないで、少し我慢していて下さい。」と囁いた。
「みーくん、解ったから。そういうのは二人の時にしなさい。」
「ああ、うん。」僕は君を抱きしめていた腕を離した。
「仲が良くて羨ましいなぁ。カノジョ、名前は?」
「五月陽芽野です。」
「サツキヒメノちゃん、ヒメちゃんか。みーくんをよろしくお願いします。」
「はい。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします。」
陽芽野は深々と頭を下げた。
「そうだ、ラムネ食べて。」
祖父は、ベッドの上から両手いっぱいに掬い上げたラムネ菓子を陽芽野の前に差し出した。
陽芽野はそれを両手で受け取ると、
「ありがとうございます。」と答えた。
「おじいちゃん、僕の持って来たお菓子、戸棚に入れておくね。」
「おお、ありがとう。・・・それじゃ、眠いから寝るわ。」
「・・・ああ、うん。」変だな、と瑞樹は思った。
いつもなら、『もう帰るのか?』と訊く程なのに。
イベントに興奮して疲れたのかなと、ベッドに横になって目を閉じた祖父の姿を見て考えていた時、コンコンとノックされた。
「松田さん。」と入って来たのは先程祖父に付き添っていた職員の人だった。
「はい。」と僕が返事をして顔を向けると、
「松田さん、眠った?・・・あの、ちょっとお話いいですか?」と職員の人は廊下に僕を促した。
瑞樹が陽芽野を見ると、両手にラムネを抱えたままで、
「ここで、待ってます。」と言った。
「お願いします。」と廊下に出て扉を閉めると、
「先月いらっしゃいませんでしたよね。」
「はい、すみません。」先月は週末も忙しくて来られなかった。
「松田さんには『言うな』と言われていたんですけど、見えられなくて寂しそうにして、いつもお写真眺めて待ってましたよ。」
「すみません。」
「私達にも見せて自慢されるから、あなたはすっかり有名になってますよ。」
そうか、それで職員の人に顔を知られていたのか。
「すみません。」有名だなんて、おじいちゃんたら恥ずかしいな。
「それより認知症の方なんですけれど、ここのところ、症状が酷くなって来ていて、いい日もあるんですけど、ちょっと・・・な日もあるので、お伝えしておこうと思いまして。」
夜、突然目を醒まして、叫んだりだとか、どこかへ行こうと歩き回ったりだとかするという。
今日の様子がおかしかったのは、そういう事だったのか。
医師の診察後の説明も祖父が、孫には伝えなくていいと拒んだそうで。
しかしホーム側からしたらそれは通らない理屈で、
次回診察を受ける日が決まったら一度来て欲しいとの事だった。
「解りました。日にちが決まったらご連絡下さい。それと、なるべく来るようにします。祖父の事、よろしくお願いします。」
認知症と診断されて、ここに祖父が自分で入ると決めてから症状が悪くなって行く事しかないというのは分かっていた筈だけど、いざ聞かされるとやはり辛かった。
話には聞いていたが、だんだん僕の事も判らなくなるのか。
もし・・・祖父に忘れられたら、僕は本当に一人ぼっちになってしまうと、思った。




