1 女子高生とサラリーマン
実際には吐けない息を頭の中の想像で吐く。
呼吸までも潜めなくてはならない程の近い距離ではないが、気構えの問題でそうしている。
レコーダーも写真も証拠としては不十分かもしれないが、万が一の場合の裏取引き時の切り札にはなる。
よし、マルタイはタクシーに乗って移動した。
ホッと息を吐き、社長に連絡を・・・と、
携帯電話をワイシャツの胸ポケットから右手で掴んで取り出した時だった。
警戒を解いていた左腕に、バサッとしたような衝撃と重みがかかる。
ヒヤリとして首を左にすぐさま向けると、
「瑞樹さん。」と女子高生が僕の上着の袖を両手で掴んでいた。
「・・・ああ、五月さんでしたか。」
驚いたのを隠してそう言ってから、彼女に向けた視線を逸らして「どうしたのですか?」と続けた。
先程からパラパラと降り続いていた雨はだんだんと強くなり、バスターミナルの屋根にぶつかるような音を立て始めた。
「学校の帰りです。それより、五月さんと呼ばれるのは好きではないです。陽芽野と呼んで下さい。」
ああそうか。この駅は彼女の高校の最寄り駅だったな。
「失礼しました。電話をしたいので、もうよろしいでしょうか?」離して欲しいと瑞樹は左腕を水平に持ち上げた。
「どうぞ、お電話して下さい。」「いえ、ですから離して下さい。」少しも表情を変えないで瑞樹は言うと、
「あ、ごめんなさい。」陽芽野はそっと手を離した。
「失礼します。」社長の高橋に内偵調査の結果を報告する為、人気の少ない駅のショッピングモール裏口へ向かって歩き出す瑞樹。
ショルダー鞄からコンパクトな折り畳み傘をサッと出し、開く間にちらと後ろを確認した。
瑞樹は歩き出そうとしていた足の方向を180度変え、今来た方へと戻って行った。
「多分、その道で行けるかと思います。」彼女の顔はニコニコ・・・してるのか?本当に?
君は男性が苦手な筈ではなかったのか?
ぐいっ、と少し乱暴に彼女の左手首を掴んで持ち上げると、へらへらと向かい合った30代前半、独身、彼女なし、派遣社員といった感じの男の目と合わせる。
「急いでますので、詳しい道のりは駅前のあちらの交番で訊いて下さい。」
高校の制服姿の彼女を引っ張り、傘を開き、ショッピングモール裏口へ向かって二人で横断歩道を渡った。
「どうされたんですか?」
「ただ、道なら君に訊くよりも交番の方が正確かと思いましたので。だけど余計でしたね。」彼女に道を訊いた男の真意にも気付かずにきょとんとしている陽芽野に、ついちくりと言ってしまった。
「もうお電話されたんですか?」
「いえ、これからです。」
「どうぞ、なさって下さい。ここなら誰もいませんし。あ、私は耳を塞いでいますから。」
通学鞄を肩にかけ、両手で耳を塞いで背を向ける陽芽野に瑞樹は少し呆れながらも、口元は緩んでいた。
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パチン、携帯電話を閉じる音が、陽芽野の手で塞いだ耳へと微かに運ばれて来た。
そっと振り返ると、すぐ目の前に彼の体があった。
「終わりましたよ。」お仕事中なのに声を掛けてしまって、迷惑だったかしら?と少し後悔する。
時々かけている眼鏡を外して、スーツの内ポケットにしまう彼と私は目線の高さが同じ位。
私は169センチ、彼もその位の身長。
お兄ちゃんよりも背が低いから怖くないのかしら。
どうしてなのかしら?セイさんもだったけれど瑞樹さんも大丈夫な理由。
その謎を探りたいのに、糸口すら掴めない。
以前映画館で聞いた話では、彼女はいるみたいなのだけれど、どんな人なのかも解らない。
彼の口癖「個人情報ですから」とはぐらかされ、私が訊いても教えてはくれなさそう。
私の事に関しても訊かない。
けれど私は彼の口を開かせようと色々と要らない事まで話してしまったから、彼は私の家族の事や学校の事、友人の事もみんな知っている。
私はこの人の事を何も知らないのに、どうして気を許してしまうの?
どうしてこの人には体に触れられても私は何ともないのかしらと陽芽野はいつも考えていた。
その要因を探りたくて、体に触れてみてと思うのに彼は全然触ってはくれないから、私から触れるようにして実験している。
「どうかしましたか?」「いえっ、何でもありません。」
「帰らないのですか?」「あ、はい。帰り・・・ます。さようなら。」
「さようなら。」
ぺこりとお辞儀をする彼女の尻尾も下に向く。
ポニーテールか。
学生ならではの髪型だなと瑞樹はショッピングモール裏口から駅へ向かう陽芽野の後ろ姿を、正確にはひらひらとする短いスカートから伸びる白く細い脚を見て思った。
興味はないですけど、またさっきの男みたいなのが寄って来たり盗撮騒ぎになってしまうのは宜しくないので。
それに余計なお世話ですが、雨が強くなって来たので折り畳み傘を通学鞄の中に持っているとしても、ここからバスに乗り、家まで歩く間に激しく濡れてしまうのでは?
・・・ちっ、まったく。
「ひ・・・めのさん!」「え?はい・・・」ショップ裏の通路に響く瑞樹の声に陽芽野が振り向いた。
誰かが入って来る度に、開く裏口のドアからザアザアと雨の音が響く。
そして冷たい湿った風が吹き抜ける。
どうしようかなと、声をかけてしまった後なのにそれでもまだ迷いながら瑞樹は、二人だけになった決して明るいとはいえない通路で、
「タクシーで社に戻るので、良かったらご一緒にご自宅の近くまで乗って行かれますか?」と訊いていた。
「はい!」
ぱあっと明るくなっていく彼女の表情を見て、そこだけはまるで雨あがりの空みたいだなと瑞樹は感じた。