死してなお、美しい
幼い頃に出逢ったあの子は、俺の生きる糧だった。
当時、俺がまだ小学1年生の頃。
今でこそ普通の日常を過ごしているが、生まれつき身体の弱かった俺は、よく風邪を引いては病院に掛かっていた。
その時は友達ともっと一緒に居たくて無理をして、風邪をこじらせて軽い肺炎になった。
軽いと言っても幼い身体には多大な負荷がかかってしまうので、大事を取って入院して、そこで出逢ったのが、俺の運命の相手。
知っているのは容姿だけ。
名前も、年も、趣味も知らない。
でも一番知りたいのは、彼女が一体どんな声で話すのか、だ。
なぜなら俺は、彼女の声を聴いたことがないから。
いや、正確には言葉を聞いたことがない、だ。唸り声なんかはよく上げていた。
とにかく、しゃべれないのかしゃべらないのは知らないけど、不思議な雰囲気の子だった。
俺の見立てだと、俺よりも2歳程年下であろう女の子。
どんな病気で入院していたのかも分からないが、看護師さんが言うには幼い頃から入退院を繰り返しているらしい。
点滴を受けている訳ではないし、、声は出ずともこちらの言葉は理解していたし、何より表情が豊かだった。
育ち盛りなのに行動を制限されて苛々していた俺にとって、くるくると怒ったり笑ったりしている彼女を見ることが、つまらない入院生活の唯一の楽しみになるのにあまり時間が掛からなかったと記憶している。
「名前、なんていうの」
「ぅ?」
「名前。なんか、名札とかないの?」
病院の名札なんてどうせ漢字で書かれていて当時の俺には読めなかっただろうけど、とにかくあの時は少しでも彼女のことを知りたくて、首をかしげる彼女にしつこく名前を尋ね続けた。
なんであんなに名前を、声を聞きたかったのか、自覚したのはそれから随分と後だったけど、いつ彼女に恋したかと言われれば、きっとこの頃だったように思う。
「今日、お母さんが来て、チョコくれたから、キミにもあげるよ。ほら」
「!!」
いつ切り出そうか悩みつづけた挙句に子供の体温で温められたチョコレートは、少し指の形に変形していたけれど、彼女はそんなことはお構いなしに飛び上るほど喜んだ。
結局、彼女が大騒ぎして駆けつけてきた看護師さんに没収されてしまい、彼女の口には入らなかったけど。
その日彼女と別れた後、看護師さんに、彼女は食を制限されいるから食べ物を勝手にあげてはいけない、と怒られた。どうしてもというときは、聞いてくれれば食べられるものを教えてあげるから、というフォローとぶきっちょなウインクもついてきたけど。
その言葉に甘えて早速聞いてみると、基本的は味の薄いものを少量しかダメらしい。
おすすめはバナナ。ただし一本全部じゃなくて4分の1くらいの量、という制限つきで。
俺は、また誰かが“遊び”に来てくれた時の“おみやげ”にバナナがあれば彼女にあげようと密かに誓った。
「誉詩、来たわよ。起きてる?」
「お母さん!」
母は毎日来てくれた。
当時は全く気付かなかったけど、その頃の母の目の下にはクマが出来ていたらしく、最近になって父に、あの頃の母さんは毎晩泣いていた、と聞かされた。
まあとにかく無邪気だった俺はそんなことは露知らず、毎日母に彼女の話をした。
どんなことでも逐一報告するかのように、彼女の機微の一つ一つを話し続けた。
それくらい、俺の頭の中は彼女で一杯だった。
そんな頃、あと一週間で退院が決まった。
俺にとっては退屈な入院生活から逃れることよりも、彼女と会えなくなる方が重要で。
喜ぶはずの退院宣告に俺は大泣きしてしまった。
そして、いつもの時間に現れない俺を探しに来た少女が俺に引きずられて泣き出してしまい、子供二人の大号泣に、大いに親と医者を困らせた。
そうして泣き疲れてやっと落ち着いた2人は互いの手を繋いで眠りこけてしまい、なかなか離さなかったらしい。
その時の写真が今でも病院に飾られているらしいので、今度こっそり剥がしておこうと思う。
そうして、俺の退院日が来た。
あれだけ大騒ぎしたくせに、彼女はなんで俺が泣いていたのか分かってなかったらしく、最後の一週間は何もなく過ぎた。
だから最後くらい。
そう思って俺は、この一週間考えていたことを実行に移した。
それは俺の気持ちを、彼女に伝えることだ。
俺は退院時間を夕方にしてもらった。
彼女と会うのはもっぱらお昼を食べた後だから。
初めて出逢った屋上前の階段で待っていたり、廊下でばったり会ってそのまま遊んだり。
だから今日も、俺は屋上前の階段に腰掛けて待っていた。
ここに来る前に中庭に咲いていた花の枝を握り締めて。
俺の思いを伝えるために。
「迎えに来る」という言葉と共に。
結論から言うと、彼女に思いを伝えることは叶わなかった。
いつまでも現れない彼女を待ちくたびれた俺はそのまま寝入ってしまっていて、起きたら日が暮れ始めていた。
あわててナースセンターにむかうと、心配していた親に怒られた。
俺は、ずっと世話をしてくれていた看護婦さんに、彼女はどこに居るのか聞いてみた。
まだ会えるかもしれないから。
気持ちを伝えられなくても、せめて最後に話はしたかったから。
しかし帰ってきたのは意外な反応だった。
看護婦さんは困った顔で「待ってね」と俺に微笑んでから、俺の親と内緒話を始めた。
その時の俺は苛々していたんだ。
いつまでたっても姿を見せない彼女にも。彼女の居場所を知っている風なのに教えてくれない大人にも。
幼かった俺の我慢はとうとう限界に達して、大人たちの足元で騒ぎ出した。
そんな俺を見た大人たちが目配せをしたかと思うと、「こっちよ」と看護婦さんが俺の手をひいて歩き出した。
「どこにいくの?」
素直に付いていきながらそう聞くと、困ったような、弱ったような笑顔を浮かべる看護婦さんの「病室よ」との答えにさらに浮かれだした。
なんたって俺は、彼女の部屋には行ったことが無かったから。
彼女は俺の部屋に来るばかりで、頑として自室には連れて行ってくれなかった。
だから、初めて行く彼女の部屋で彼女に会えることにご機嫌な俺は、今思えば泣きそうな顔をした看護婦さんに気付かなかった。
しばらく歩いて看護婦さんの足が止まったのは、個室の前だった。
一度は諦めていた、この思いを伝えるという目標を胸に、萎れ始めた花の枝を握り直して、個室の扉に手を掛けた。
扉を開けて最初に感じたのは、すっかりオレンジ色に染まった太陽と、開いていた窓から吹き込む風だった。
少し薄暗い廊下から、窓一面の夕日に視界を数瞬奪われて、次に感じたのは複数のすすり泣く声だった。
部屋の明るさに目が慣れて、泣いているのがベットに集まった大人であることに気が付いた。
その時俺がふと疑問に感じたのは、大人が泣いていることだった。
小学生の俺には大人はみんなウルトラマンやヒーローのように強い存在だったから、“大人が泣いている”事実に少なからずショックを受けて、そうしてようやく何故泣いているのか気になった。
「?」
みんながベットを囲っているから、きっとそこには誰かが横になっているのは分かっていて、ここは彼女の部屋だ。
いつだったか、彼女にお菓子をあげて怒った看護婦さんと、彼女が懐いていた先生もいる。
だからここは彼女の部屋で間違いが無くて、ベットに寝ているのも彼女の筈だ。
「なんでみんな泣いているの?」
首を傾げながら看護婦さんに聞いてみた。
でも、俺をここに連れてきてくれた看護婦さんみたいな表情を浮かべるだけで答えない。
先生は俯いて首を振っている。
なんでみんな教えてくれないんだろう。
しょうがないからベットに近寄る。
俺が近づくと、看護婦さんと目配せした女の人に「君が誉詩君?」と聞かれたから「はいそうです」と答えた。
女の人は、泣きながら「小さいのにお利口ね」と俺の頭を撫でて、俺をベットの傍に運んでくれた。
そこにはやっぱり彼女が寝てた。
やっとみつけた。
「おれはこいつよりもお兄さんだから、なんでもできるんです」
彼女の前で子ども扱いされた事が恥ずかしくて強がってみせると、女の人がまた泣いてしまった。
なんだか今日は、みんなよく泣く日みたいだ。
俺は、彼女の顔を覗き込んだ。
「もう夕ご飯の時間だよ。いつまでも寝てたら身体に悪いよって看護婦さんに怒られるよ。早く起きなよ」
俺が声を掛けても彼女は起きなかった。
まわりの泣き声が大きくなっていく。
「ねえ、起きて。おれ、今日で“たんいん”だから、もう遊べないんだ」
まるで無視しているみたいに反応がない。
大人はうるさいし、開いている窓からは風も吹いてきた。
せっかくコクハクしようと思ったのに。台無しだ。
「ねえ、聞いてる?おれ、キミが好きなんだ。だから、大きくなったら迎えにくるから、まっててよ。これ、キミが好きだって言ってたお花持ってきたから。約束だよ」
考えていたように事が運ばなくてちょっと投げやりになったけど、俺はやっと彼女に思いを告げることが出来た。
なのに大人は俺のコクハクを聞いてさらに大きな声を出す。
今日は風が強いから飛ばされないようにと、彼女の手に花の枝を持たせてやった。
その瞬間にひときわ強い風が吹いて、せっかく持ってきた花が枝から離れて部屋を舞った。
残念に思いながらも夕日の差し込む部屋に舞う桜があまりにきれいで、彼女にも見せようと呼びかけたが、彼女は決して動かなかった。
あれから10年。
俺は高校生になる。
すっかり元気になった俺は、真新しい制服に身を包む。
その後に彼女の名前が風花ということを知った。
あの、幻想的な光景を体現するような、まるで春が
、彼女の為にあるように思えるくらい、彼女にぴったりの名前。
「風花」
こうして桜が咲いて風に舞うのを見るたびに思い出す“彼女”。
幼いころの思い出を忘れていく中、彼女と過ごした日々だけは鮮明に覚えている。
あの時間があったから、今の俺がここに居る。
どれ程の時が過ぎても忘れない、春が来るたびに思い出す、俺の初恋の物語。