紫~ユカリ~
世の中には表と裏、二つの概念が存在する。俗にいう光と闇だ。
僕は今まで、それは大雑把なものの例えだと思っていた。例にするならば破壊と創造、成功と失敗……大きなものから小さなものまで総合的な…全体的な事を指しての例えだと思っていた。
その為、表と裏に分けられたものは知っていたが、表が裏へと変わる瞬間までは知らなかったのである。
少なくとも、あの出来事が起こる前までは……。
※※※※※※※※※※※※※
僕には五年前、付き合っていた女性がいた。
名前は縁。縁結びの縁と書いて『ゆかり』だ。
当時、僕はまだ女性と付き合った経験が無かった。つまり、縁が初めて付き合った女性だったのである。
縁は女性の中では比較的大人しく、長い黒髪が印象的だった。だが大人しい反面、独占欲が若干あり、束縛や監視とまではいかないが行き先を告げないと単独での外出を許してはくれなかった。
しかし、当時の僕としては…女性とは皆、このようなものだろう…という認識しか無く、別に楽でも無ければ苦でも無い普通の交際をしていた。
そんな生活を二年程送っていたある日、僕は彼女から唐突にある言葉を言われた。
―――別れて欲しい……。
いきなりだった。
本当にいきなりだったので頭の中が真っ白になってしまった。
真っ白になった頭の中に色を付けようと、適当に理由を尋ねてみる。すると…他に好きな人が出来た…と彼女は申し訳なさそうに言った。
そして、そのまま何処かへと走り去っていく。
本当のところなら、怒鳴ったり引き留めたりするのだろうけど、その時の僕は生まれて始めて味わった別れというショックな出来事とあの独占欲が強い彼女が僕を手放す程の新しい恋人とはどんな人なのか、という好奇心が入り交じった混沌とした気分に苛まれ、訳が分からない状態になっていた為、ただその場に突っ立っている事しか出来なかった。
取り敢えず、この事は早く忘れよう……その事だけは真っ先に頭に浮かんだので、僕は日常の生活に戻る為にも苦い記憶の消去に集中する事にしたのだった。
それから三年後、僕はあの出来事を引きずる事なく、ごく普通の日常生活を送っていた。
女性恐怖症では無いがあれ以来、恋人と呼べる女性も作っていない。
だが、自由度は以前よりも増したので未練は特に無かった。
朝に起き、日中は二年前に入社した出版社での取材活動、夜は家に帰って寝る………教科書通りのような生活だが、これはこれで有りだと思う。
しかし、この生活はまたもやあの日の如く、唐突に崩れ去ってしまった。
※※※※※※※※※※※※※
それはとある取材の依頼を受けたところから始まった。
内容は心霊関係の噂の取材及び検証との事だった。
取材するのは僕一人、大抵取材となると効率化を考えて単独行動が主となる。
僕は編集長から詳しい内容を聞くと、軽く準備を行い、その現場へと向かった。
その現場とはある地方の山奥にある古びた神社、周囲には人もいなければ民家も無い。
元々は縁結びに御利益がある地元では有名な神社だった。
だが二年前、その神社で殺人事件が起こった。
被害者は女性……遺体は朝早くに地元の人が見付けたらしい。
死亡推定時刻は夜中……前日の夕方までは遺体が無かった為、警察は夜中にその場で殺されたか、遺体を遺棄したという見解で捜査をしている。
している、という表現を使ったのは犯人はまだ捕まっていないからだ。
夜中の犯行という事もあり捜査は難航し、結局事件は迷宮入りとなってしまった。
当然、そのような事になれば人は神社に寄り付かなくなる。そうなると、無人の神社は瞬く間に朽ちていく。
その結果、縁結びの神社は殺された女性の怨みが込った神社『怨結びの神社』と呼ばれるようになった。
そして、火の無い所に煙は立たない……いつしか、その神社にはこんな噂が流れるようになった。
紫色のワンピースを着た髪の長い女が怨みを結びに現れる。
始め僕はこれを見た時、意味が分からなかった。
怨みを結ぶ? 何を言ってるんだ? ……そう思った。
だがその由来を見てみると、なるほど……と考えを改めてしまった。
その由来とは……
『真夜中、神社に行くと紫色のワンピースを着た女が現れる……その女の左薬指には指輪を付けたような青紫色の痣のようなものがある……女の顔は確認する事は出来ない、なぜなら女の顔は殺される時、潰されてしまったからだ。女は自分の姿を見た者をどこまでも追い掛ける……神社から逃げられても、自分の左薬指に女と同じような痣がある場合は注意した方が良い……その痣は女と縁を結んだ証拠、その痣がある限り女はどこまでも追い掛けて来る。もし、女に捕まった時、その時は……全身に青紫色の痣が現れ、その者は死ぬ』
というものだ。
指輪を付けるとは夫婦になること……すなわち縁者だ。
しかも、男のみという訳では無く老若男女構わずという事らしい。
その上、この女は紫色のワンピースから紫とも呼ばれている。
ゆかり……その名を聞くと何故か最初の恋人である縁を思い出してしまう。
そういえば、今頃どこで何をしているのだろうか?
※※※※※※※※※※※※※
夕方、逢魔が刻……僕は噂になっている例の神社の前にいた。
辺りはまだ日があるというのに鬱蒼と茂る木々により夜同様の薄暗さを出していた。
朽ちてボロボロになった神社の中に入り、中を探る。
神社の床は幾つか穴が空いており、神棚は倒れ、それ以外は蜘蛛の巣と外から入ってきたであろう、木の葉により酷い有り様になっていた。
因みに御神体らしき物はどこにも無い。大方、盗まれたか…元から無かったのか…そのどちらかだろう。
だが、そんな事などどうでも良い。それよりもおかしい所がある。
噂になっている場所なのに空き缶やスナック菓子の袋といった類いの物が無いのだ。
いや、もっと具体的にいうと人間が居たという痕跡が無いのだ。
普通、心霊スポットというとマナーの悪い若者が散らかしたゴミの一つはある筈なのだが………ここにはそれが無い。
その事を理解した途端、僕は言い知れぬ恐怖を感じた。
―――人は来ているのになぜ何も無いんだ?
実際に事件が起きた事も事実だ。それなら、当時やって来た警察の物が僅かばかりある筈だ。
それなのに、何も無い………絶対に……おかしい!
その答えに行き着いた僕は急いで神社の外へと出て、目の前の光景に驚いた。
頭上の空は既に夜空へと変わっていた。
さっきまではほんのりと赤く染まっていた空が今では星すら見えない漆黒の空へと変わっている。
そして、色の無い漆黒の海とも呼べる空に浮かぶは不気味な紅に染まった月。
更に、夜にも関わらず虫の音どころかその虫すらも見えない。
よく聞くような生暖かい風や線香の匂いすら無い。
だが、視界だけは正常に機能してるらしく周りの景色は見る事が出来る。
けれども、身体から出る汗は止まらない。
これが本当の恐怖だろうか?
何も聞こえず、何も感じず……ただ無というものが全てを支配している。
だけども、何もしない訳にはいかない。いや、寧ろ自分で今こうして体験しているのだ。良い記事を書くには絶好では無いのか?
幸い、今は紫という幽霊はまだ来ていない。メモをするなら今だ!
そう思った僕は尻ポケットに入っているメモ帳を取ろうと後ろに手を回す。だが、メモ帳は取り出す際、ポケットに引っ掛かり地面に落ちてしまった。
やれやれ、と思いながら後ろを振り向きしゃがんでメモ帳を取り、土埃を払う。
その払っている最中、ハイヒールを履いた二本の足が突然、音も無く現れた。
―――あれ? さっき振り向いた時には誰も居なかったのに……。
そんな事を考えながらその足をよく眺めていると足首の上からは何やら紫色の布のような物が掛かっている。例えるならワンピースのようなもの…………紫色の…ワンピース!?
―――出会った………出会ってしまった……。
その時、僕の身体は恐怖心という得体の知れないものに支配され、凍り付いたように動けなくなってしまった。
怖ければ逃げれば良いという人も居るが、人間誰しも本当の恐怖を味わった時、身体を動かすどころか声すら出ないという事が嫌という程分かった。
更に今僕はしゃがんでいて、この幽霊は立って見下ろしている状態。つまり、嫌でも逃げる際は顔が見えてしまう。
逃げなければいけない、捕まってはならない……そうとは分かっていても身体がいう事を聞かない!
そんな事をあれこれ考えている内に僕はある事に気が付いた。
女の足元に黒い髪のようなものが垂れているのだ。
幽霊の髪とはそれ程長いのだろうか? そう思いながら恐る恐る前だけを向く。
「ひっ!」
そこには誰の顔だか、判別出来ない程潰された顔があった。
女の髪は長かったのでは無い。この幽霊は僕と同じくしゃがんでいたのだ。
「………イタ……カッタ………」
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
噂の幽霊、紫がそう呟いた瞬間、僕は脱兎の如くその場から大声を出して逃げ出した。
これが火事場の馬鹿力というものなのか………人間、窮地に陥ると出来なかった事が出来るようになってしまう。
僕は無我夢中で駆け抜けた。木々に当たりながら草に切られながら……そんな事は気にせずただ無我夢中で駆け抜けた。
暫く走り、急に開けた所に出たので僕は止まりゆっくりと息を整える。
これだけ逃げれば追ってこないだろう……そう思いながら顔を上げた僕は驚いて再び言葉を失った。
そこにあるのは、先程と同じ朽ちた神社、漆黒の夜空とそこに浮かぶ紅い月。何も変わらなかった。
そして……。
「…………モウ……逃ガサナイ……」
後ろには紫色のワンピースの女。
もう逃げ場は無い。
「く、来るなぁぁぁ!!!!」
僕は無駄だと知りつつも朽ちた神社の中へと入り、扉を閉める。
閉めた後、暫くしてドンッ、ドンッという叩く音が神社の中へと響き渡る。
「…………開ケナ……サイ……」
「嫌だ! 何処かへ行け!」
必死に扉を押さえながら紫に向かって僕は叫ぶ。
幽霊相手に交渉だの何だのは通じない。ならば、せめて抵抗するまでだ!
何か押さえるものは無いだろうか、と扉を押さえながら神社内を探していると紫のあの声が再び聞こえてきた。
「……イタカッタ……イタカッタ……ア……カッタ」
―――え? 今なんて言った?
一瞬だけ「あ」という言葉を聞いた僕は改めて扉に耳を近付け、聞いてみる。
「……イタカッタ……ア……イタカッタ……アイタカッタ……」
アイタカッタ……会いたかった? 紫は顔を潰された痛みを訴えているんじゃなく、僕に会いたかったと言っているのか?
だとしたらなぜだろう?
僕は通じるかどうかと疑いつつも紫に向かって尋ねる。
「……お前、なんで僕に会いたかった、と言ってるんだ?」
すると呟きが止み、暫く扉を叩く音だけが聞こえた後、紫が言ってきた。
「………アナタ、私ガ分カラナイノ? ………ユカリヨ………」
―――ユカリ? 紫ってお前の事だろ?
内心そう思った後、僕は直ぐ様自分の思った事の違和感に気付く。
確か、紫という名前はここの噂を流した者が付けた名前だ。この幽霊が自分で言ったという訳では無い。
そうなると、僕の知っている『ユカリ』は一人しか居ない。
「まさか………お前、縁か!? 三年前、別れた……」
「………ソウヨ……縁ヨ……」
驚いた……まさか、こんな形で再会するとは……。
でも、一体どうして……。
「なんでお前がこんな事をするんだよ!」
「…私ヲ殺シタ奴二復讐スル為ヨ……私ガアレ程愛シテイタノニ……!」
「そいつって、もしかしてお前が惚れた奴か? 僕とお前が別れる原因を作った……」
「…ソウヨ……アノ男ハ、スグニ浮気ヲシタハ……ソレヲ私ガ問イタダシタラ………アノ男ハ怒ッテ私ヲ殺シタノ……!」
おおよそ、縁の独占欲に男が耐えきれなかったのだろう………それでも、殺すのは酷い。
「………その男は?」
「……………分カラナイ……ココデ殺シテ、スグニ居ナクナッタカラ…………私モ、マサカ結婚マデ約束シテイタ男二裏切ラレルナンテ……思ッテモイナカッタワ……」
なるほど………だから、左薬指に指輪を付けた跡のような青紫色の痣を付けたのか。それに、痣を付けた者を追い掛けていたのは………その者が殺した男かと思ったから。
それだったら、男だけに痣を付ければ良いのだが……。
「……なんで、女にも痣を付けたんだ?」
「………顔ガ潰サレテイルノヨ? 音デシカ判別出来ナイノヨ! 私ハ!」
その言葉と共に扉を叩く力が一段と強くなる。どうやら、怒らせてしまったようだ。
そして、扉に衝撃が走る度にミシッ、ミシッという音がなる。
―――もう、ダメだ!
そう思った瞬間、扉が勢いよく壊れ、僕はその拍子に奥まで飛ばされてしまった。
「いっ! ……っつ……」
飛ばされた時に頭をぶつけたので擦りながら、扉のあった場所を見るとそこには紫色のワンピースの女、紫こと縁が立っていた。
どうやら、ここまでみたいだ。
「………会イタカッタ……私ノ事ヲヨク知ル、アナタト………コレデ………ズット一緒二……居ラレル………」
縁はそう言いながら自らの左手を伸ばし、近付いて来る。
縁が触れたら……僕は……。
「来るなぁぁぁ!!」
「マタ……一緒二……」
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」
縁の左薬指に付いている青紫色の痣を見た途端、僕の意識は闇の中へと消えていった。
※※※※※※※※※※※※※
縁と別れてから七年後、すなわち僕があの恐ろしい体験をしてから二年後の現在。
僕はなぜか生きていた。
紫色のワンピースの女、紫に触れられた二年前……意識を失った筈の僕は目を覚ますと森の中で倒れていた。
あれはただの夢だったのか? それとも現実だったのか? ………今となっては分からないが、ただ一つ、僕の左薬指には青紫色の痣が指輪を付けた跡のようにくっきりと残っていた。これは紛れもない事実だ。
もし、あの噂が本当なら次、紫に捕まった時……僕は死ぬのだろうか?
いや、死ぬかどうかは分からない。
なぜなら、あの噂が本当かどうか分からないのだから……紫は縁、触れられたら死ぬと聞いていたのに触れられても死ななかった僕………もしかしたら、紫……いや、縁が気紛れで生かしてくれたのかも知れないが、あの噂には真実と異なる点が多々ある。
まぁ、噂なんて八割がそうかも知れないが。
因みにあの恐怖体験をした後、真実を確かめに縁の家族の元を尋ねた。
予想通り……というかなんというか、縁は確かに死んでいた。
しかも、あの朽ちた神社で……。
身分証明の類いは無かったが、家族からの捜索願いとDNAによる鑑定で顔では確認出来なかったが縁本人と科学的に確認を取る事が出来た。
一方、例の男はというと現在は行方不明との事だった。
警察が事情聴取をしようと尋ねたところ、既にもぬけの殻だったとの事だ。
しかし、縁が紫となって探している以上、まだ偽名を使って生きているのでは? と考えた僕は、出版社という仕事柄から得たコネを使って彼の行方を探してみた。
半年という期間を有したが、彼は意外と早く見付かった。
こちらとしては一、二年掛かるかと思っていたのだが、予想よりも早かった。
早速、電話で後日会う約束をしたのだが、彼とは結局、会う事は出来なかった。
なぜなら……。
「……死んだ……んですか?」
彼は僕と会う前日に急死してしまった。
死因は不明、ただ身体中に青紫色の痣があったので、世間では全身打撲による内出血という事になったらしいが、外部からの衝撃を受けた形跡は見られなかったので、詳しい事は分からないそうだ。
僕としては縁が彼を殺したのでは無いか、と考えている。
しかし、彼が死んでも僕の薬指に付いた青紫色の痣は依然として消えない。
消えないのは、果たして……紫となった彼女の呪いか、はたまた生前の彼女である縁の独占欲の表れか、それは分からない。
だが、僕は今回の件で光が闇へと変わるその様を見てしまった。
切っ掛けが何であれ、やはり変貌するのを見るのは恐ろしい。
とはいえ、光である縁も闇である紫ももう僕の前には現れないで欲しい……と願っている。
あんな怖い体験は二度としたくないし、縁が現れたらそれはそれで成仏していないという事になる。
それでも、現れる時は現れるのだろう……なぜなら、僕の薬指には彼女との絆がしっかりと結ばさっているのだから……。
縁…………それは、愛や怨みという素材によりどんなものにも変わる繋がりという名の糸。