『火車』 宮部みゆき
激論(?)注意
【火車】
突如として姿を消した婚約者の女性を探してほしいと、親戚の青年から依頼を受けた休職中の刑事・本間俊介。青年の婚約者・関根彰子は、自分の痕跡を一切残すことなく行方知れずとなった。彼女の足跡を追う本間は、おおきく口を開けて人々を待ち受ける社会の闇にたどりつく。幸せをつかもうともがく人々が陥る、現代社会が抱える矛盾をあぶり出す社会派サスペンス。
背表紙や帯には「ミステリー」と銘打ってあるけれども、わたしはサスペンスだと思う。ミステリーに肝心要の手段が、単なる経過として書かれている気がしてならないからだ。
この作品に対するわたしの評価は、「宮部みゆきって面白くないな」である。
おおっと。石が身体に当たる痛さを感じないでもないが、そして三作しか読んでいないで作家に対する総評を下すのは早計であろうが、三作読んですべていまいちだと感じれば、そのままそれは作家への評価とイコールになるのが人情ってものである。
語る前に、まずお詫びである。前回は、イギリス文学にでもいくかな~などと、どこかのもぃもぃがほざいていたが、この読書日記にかぎってはちんちくりんな風体でいこうと思う。
それはさておき。今回はマンネリを避けるために、ちょっと趣向を変えてみた。何をするのかというと、「作品をとにかく褒めてみよう!」「作品をとにかく酷評してみよう!」ということである。これらをすることに、何の意味があるのかって? 自分を慰めたいのさ。だって1,040円もしたんだぜ、この本。高ぇよ。なぜ図書館で借りなかった、わたし。悔やんだって今さら遅い。
という訳で、さっそく。
【作品をとにかく褒めてみよう!】
・ 人物の心情が、なるほどと頷けるものがある
・ 隠喩は参考にしたいものが散見される
・ 題材を非常によく調べている
【作品をとにかく酷評してみよう!】
・ 物事の本質をとらえきれていない。表面の感触を確かめただけ、あるいは舐めただけという上滑りな感がぬぐえない。
・ 情景描写が長い
・ 直喩(~のような)が、首を傾げたくなるものが多々ある
・ 説明が本当にただの説明で終わっている。題材となった社会問題は物語の核であるにも関わらず、その部分の文章が物語の血として流れていない。
・ 起承転結の「転」がない
・ 結末は消化不良である。回収あるいは掬うべき登場人物の感情がおざなりにされている
……いかにわたしがこの作品に対して不満を抱いているかということを、自分に突きつけただけであった。自分で自分の首を絞めた。
上記のすべてを以下に述べるのは、疲れるので、もっとも言いたいということだけ書こう。というか、その一点において引っかかったがために、別に気づきたくないことに次々と気づいてしまったという次第である。
それは、「関西弁」に関する記述である。端的にいうと、宮部みゆきは(少なくとの作品発表当時においては)関西弁を理解してはいない。ここで誤解を招きそうであるが、それは違うといいたい。問題にしたいのは、作家自身が物事の本質をつかみきれていないままに関西弁(=ある事象)を扱っているということである。
作家は関西弁を理解していないと、作品のなかで露呈するような表現をしている。またおそらく、作家は本当の意味でその事実に気づいていない。
作品には以下のような文章があった。抜粋ではなく、筆者の恣意的な編集によるものであるので、そこは留意いただきたい。ちなみにわたしが関西弁の記述に関して吠えているのは、無論わたしが関西人だからであり、そこには強烈な都意識と、己の生まれ育った土地以外への排他的感情があることを付け加えることも忘れてはならない。
刑事・本間が大阪の難波にある企業を訪ねたとき、そこに勤める①女性社員二人と話をする。そのあとに、②別の企業に勤める会社員とも話をする。
本間は②と話をしたときに初めて、普段、関西人がつかう関西弁に触れたような気がした、というような表現があった。だがわたしが引っかかった点は、①のときに、女性の一人が最後にぽつりといった、「私もそう思う」という言葉である。じつはわたしはこの言葉は、じつに関西弁を端的になおかつ的確に表したものであり、このような短い一文でそれをやってのけた宮部という作家に非常に感心を抱いたのである。(これはあとで知ったことであるが、宮部はこのとき作家の東野圭吾に関西弁(主に大阪弁)について指示を仰いでいた。だからわたしは、あの台詞は、東野圭吾の指導の賜物であると思っている)
関西弁を登場人物が話すときは、「登場人物が関西弁をしゃべっていますよ」という一文を入れることが多い。それは、関西弁といえども文字で表記すれば、標準語をしゃべっているのかそうでないのかの判別がつかないときがあるからである。だがこの台詞は、この台詞以前の文章に関西人同士が標準語で話しているように思わせる会話文がつづいていても、違和感なくきちんと関西弁に聞こえた。そしてその台詞で場面転換という手法をとったというところから、いよいよこれは関西弁たる感覚的なものを作家がつかんでいたのだと、わたしは確信した。
が、宮部はそのすぐあと、自らの偉業をぶち壊す表現を出している。②と話をしたときに初めて、普段、関西人がつかう関西弁に触れたような気がした、というような文章である。
この文章は作家の技量を自ら損なうものであるとも思う。この文章は、はっきりいって要らないものである。作家は本間に、①でぽろりと落ちた台詞に「普段の関西弁」を感じさせるべきであったし、またそう表現しなかった、①でない違う場面で「普段の関西弁」に触れたという表現をしたことは、文章の要・不要といった小説家として有するべき基本的な判断が覚束ないのではないかと読者に感じさせるだけでなく、作家が関西弁を理解することなく作品につかっているということの裏付けになるというのがわたしの考えである。
言葉は、それが使われる土地の空気や生活や、その土地での生活習慣の感覚を内包したものである。繰り返しになるが、作家が物事の本質(ある事象=ここでは、言葉が持つ感覚的な意味合い)をとらえていないまま作品にその要素をつかっている、そして、作家がその事実に本当の意味で気づいていないのではないかという点。作家として二重に大きな問題をこの作品は浮き彫りにしたといえる。
わたしのいう本当の意味とは、知らないことを「知らない」ままである、ということである。
唾を飛ばして訴えたが、今も宮部みゆきがそうであるかどうかは知らない。あくまで、この作品当時の感想である。他に読んでみようと思う作品もあるし、それは救いといえるだろう、わたしにとって。
評価が変わったのなら、それはそれとしてお知らせしたい。
では、乱文御免!




