『百日紅の咲かない夏』 三浦哲郎/『私の男』 桜庭一樹
お久しぶりである。この間何をしていたわけでもない。していなかったことはある。本を読んでいなかったことだ、わはは! 何、想像には難くなかろう。そして今回紹介する作品は、最近読んだわけではない。昔読んだ本を思い出しながら綴っていくという、ぶっちゃけ読者に対する冒涜である。
しかしまあ、長らく放置というのは好くない。この間洗面台の下を掃除していたら、おそらく十年以上前に購入したであろう痛み止めスプレー缶が出てきた。(エアーサ○ンパスのようなものである)「これ、ガス抜きせんとあかんなあ……」と、蓋をぽんと取って試しにシューしようとした、したのだが、これが驚くことにびくともしない。スプレーのボタンがあるでしょう、ボタンが。(名称はアクチュエーターというらしい)あそこが動かない。錆ついてるんだか、成分が固まってるんだか知りたくもないが、物凄い膠着力である。うんともすんとも言わない。もう知らん、と匙を投げたのは言うまでもないが、とにかく、ここで述べたいのは、放置しておくのはよろしくないというのは、少なくない場面で動かしがたき事実であるということだ。
そろそろこの辺で読者が離れていきそうなので、本題に入るとしよう、うろ覚えで。(最重要)
【百日紅の咲かない夏】 三浦哲郎
両親の事情で別々に暮らしていた姉弟が、出身地の東北で久しぶりに再会してなんだか悲しい運命に導かれていく、というような話。
説明が短いなとズッコケないでいただきたい、なにせこちとらうろ覚えである。
しかし思い返せば、わたしの近親相姦もの好きの変遷は、ここに根を下ろしていたといってもいい。吉本ばななの『哀しい予感』が引き金になっていたのは間違いないのだが、それに拍車をかけて「ああ、わたしはこの方向でいいんだ」と自分にある静かなる興奮をこの作品により肯定された気がして、いたく安堵した記憶がある。
当時わたしは高校生だった、たしか二年か三年の。その当時として出会うにはいささか衝撃的な結末だった。最後を読んで「えっ」とつぶやいたのを覚えている。
百日紅というのは、夏に咲く花らしい。だが姉弟が再会した夏は、百日紅が咲かないほどの冷たい夏だった。とても印象的だったのは、ある雨が降った八月の日に、あまりに寒くて姉がストーブを出して点けたという文章だ。激しく降る雨の描写と、その時期にもうストーブを点けなくてはいけないという、もはや夏が終わってしまったことに感じる言い知れない孤独感が、当時のわたしの胸にじわりと滲んだ。この場面で姉弟は一緒にいたのではなかったように思うし、姉が孤独をひしひしと感じているという記述もなかったように思う。だが、一人暮らしの部屋で雨が降るなかストーブを点けたようすが、姉の孤独を色濃く読者へ印象づけている。
悲しい影が、いつまでも消えない作品であった。
これを期にもう一度読んでみよう、と筆者が思ったことは、読者には知ったこっちゃない話である。
【私の男】 桜庭一樹
近親相姦というわたしのなかで不動の地位を占めていたものを、好きという気持ちを他人に誇ってはばからないほど磐石せしめたものである。
筆者としてはめずらしくミーハー風を起こして手にとった作品。直木賞だったのだ、これは。
いやはや、おぞましい、の一言に尽きる。近親相姦ものというのは、世界観が限定されていて、狭いものが多い。それの最たるものがこれだと言える。
これを友人に勧めたところ、「あの本、“不幸の手紙”みたいになって出回ってるよ」と、のちに二つ名がつくという栄えを得た。
これは強烈だったなあ。この作品によって近親相姦ものを筆者はもっと求めるようになったけれど、この作品が好きかと訊かれれば、素直に是とは言えない。そのくらい重い。けれど読むスピードは止まらない。ノンストップ・一樹! である。(意味不明でいいんデス)
「うわ、うわ、うわ、こんなのアリ!?」と心のなかで叫び続けて、気づけばラストという感じの作品だった。これを読んで直後に、「さっ、焼肉でも食べに行くか!」なんて軽快に腰をあげる人がいれば、たぶん二度見をする。その横でわたしは、なんてメンタルの強いひとなんだ……と落ち込んでいること請け合いである。
それでもひとに勧めるのか、おまえは!? と言われそうであるが、機会があるなら勧める、もちろん。
さー、次はイギリス文学にでも行くかな~
まあ、わたしの範囲も狭いってことで。
お読みいただけて、光栄の至り。ではまた、次回。