『偽りの書』 ブラッド・メルツァー
【偽りの書】
旧約聖書における人類史上最初の殺人とされるカインとアベルの物語には、不可解ともいえる点があった。それは、凶器の不在。いったい、カインはアベルを、何をもって殺したのか? 聖書に記されていないそこには、わずかな者たちにだけ受け継がれてきた秘密があった。主人公である元連邦捜査官の青年は、長年憎んできた父親と偶然にも再会したことから、ある事件に巻き込まれ、聖書に隠された秘密を追うことを余儀なくされる。それは『偽りの書』と呼ばれるものであった。そして青年が巻き込まれた事件は、アメリカンコミック『スーパーマン』の作者であるシーゲルの父親が殺されたことに端を発していた――。
コミック『スーパーマン』には、何が記されているのか。シーゲル父子は何を知っているのか。そして、『偽りの書』とはいったい何であるのか。青年は父とともにその謎を追う。
著者の伝えたいことが、とても明確な本であったと思う。ひとの心の根底にあるものは、いつだって単純なものである。けれどもその単純なものは、途方もないほどいとおしいものである、と著者は伝えたかったように感じた。
本書は、先に紹介した『ダ・ヴィンチ・コード』の二番煎じの本である。(身も蓋もねえ)でもわたしは、こちらのほうが読みやすかったなー。なにせ『ダ・ヴィンチ・コード』ほどには、ゴチャゴチャしていない。その分、薄いとか失敗作だとか言われているようだが、借りて読む程度になら弊害はないだろう。借りて読んだって、某『ダ・ヴィンチ・コード』は、ラストのアホみたいな展開の仕様にわたしは本を投げたのだから。その意味でいえば、本書は十分合格である。それに重要なことは、物語において印象に残ることが、一点であるという点である。本書には、「ああそうか、なるほどね」と思えた箇所があった。それはとても単純なことである。が、その単純なことが伝わればそれでよいと思う。むしろ、単純な一点で物語全体の印象を覆してしまった某『ダ・ヴィンチ・コード』のほうが、わたしにとってはよっぽど問題作である。『偽りの書』が語られるとき、どうしても『ダ・ヴィンチ・コード』が引き合いに出される点は、かなしいといえるが。
話が脱線してしまった。さておき本書での歴史のうんちくは、旧約聖書の一節にほぼ焦点を絞っているので、物語の筋を追いやすい。旧約聖書の一節、カインとアベルの物語を土台に、『スーパーマン』作者の父親の殺人事件を軸に物語は展開する。
カインとアベルの物語をざっと説明したい。
カインによるアベルの殺人は、旧約聖書において人類史上最初の殺人といわれるものである。カインとアベルは人類の祖・アダムとイブの息子である。つまりふたりは兄弟であった。そして兄カインは農耕民に、弟アベルは羊飼いとなった。ある日、ふたりは自分の収穫物を神(※ヤハウェ)に捧げる。しかし神は、アベルの捧げ物である羊のみを受け入れた。そのことに嫉妬したカインは、アベルを野原に誘い、殺してしまう。カインはこの殺人の罪より、神によってエデンの東の地へ追放される。そして神は、呪われたカインが人々によって殺されることのないよう、刻印を与えたのだった。
ここで本書が問題にしているのが、凶器である。カインは何をもってアベルを殺したのか、聖書にその記述はない。加えて、物語の重要な鍵となるのが、神がカインに与えたとされる刻印である。凶器と刻印、それは歴史のなかで長く秘匿とされ少数の者のみに受け継がれてきたものだった。その秘密を手に入れたのが、コミック『スーパーマン』の作者の父親であったミッチェル・シーゲルだった。そして息子のジェリー・シーゲルは、『スーパーマン』の原本に、父が手に入れた秘密を隠した。というのが本書の設定である。じっさいに、シーゲルの父ミッチェルは殺されている。かつ、凶器は見つかっていない。本書はそのことを取っ掛かりとして、父と子という構図を浮き彫りにしている。
物語の展開で『スーパーマン』の記述が出てくるあたりが、いささかやっつけ仕事のように思えるのは否めない。しかし、主人公の青年とその父との愛憎を、『スーパーマン』誕生の逸話、さらには神がカインに与えた刻印へ投影してゆくさまは、なかなか感じ入るものがある。
父と子。この単純にして普遍の関係性を、著者がとても慈しんでいることが伝わる本であったように思う。
【コラム】
カインとアベルにみる民族抗争の縮図
紹介した『偽りの書』は、旧約聖書の一節を題材として書かれたものである。
カインとアベルの物語は、先述した通りであるが、ここには古代から虐げられてきたユダヤ民族の受難の歴史が投影されている。カインは農耕民でアベルは羊飼いである。そして羊飼いであるアベルが神ヤハウェに収穫物を受け入れられた。それは、ユダヤ民族が本来遊牧民であったからだ。遊牧民であるユダヤ民族だけが神に受け入れられ祝福され、農耕民よりも優れていると表しているのである。これには、農耕民であるメソポタミア民族やエジプト人に古代から虐げられてきたという歴史があった。だが神に祝福されていながらも、アベルは殺されてしまう。ユダヤ民族の古くからの受難、他の民族との抗争の縮図がそこにあるといえる。
ちなみに、わたしがこの場所で偉そうにうんちく垂れるまでもないが、ユダヤ教の聖典とされているのは旧約聖書である。旧約とは『古い契約』のことで、これはキリスト教においての意味である。ユダヤ教においては、契約は古くなってなどいない。ずっと同じ契約である。ユダヤ教では旧約聖書のことを『タハナ』あるいは『ミクラー』と呼ぶ。
それにしても、聖書は長い。新旧あわせると、もっと長い。わたしはまともに読んだのは『創世記』だけである。読破して然るべきものだとは思うのだが……先は見えるのか。
次回『時雨のあと』藤沢周平