『草枕』 夏目漱石
近代論なんてゆー、それもド素人が語るものに寒気を覚えるかたは、0コンマ一秒の速さで引き返していただきたい。
以下は熱弁を振るう、もはや「気ままに」というレベルを越す態度であることをあらかじめお断りしておく。
【草枕】
春の山路を登りつめた青年画家は、やがてとある温泉場で才気あふれる女、那美と出会う。俗塵を離れた山奥の桃源郷を舞台に、絢爛豊富な語彙と多彩な文章を駆使して絵画的感覚美の世界を描き、自然主義や西欧文学現実主義への批判を込めて、その対極に位置する東洋趣味を高唱。『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』とならぶ初期の代表作。
……と、この紹介文は『草枕』の本の裏に書いてあるものを丸々引用したものである。あんまりこんなことは、したくない。ちゃんと自分の言葉であらすじを紹介したい。いつもなら。でも、今回は既存の紹介文に甘んじた。なぜかって……『草枕』には、筋がない! ないったらない!
温泉場で絵描きが賢い美女に会っておしまい。これで済む。物語的要素は、排除されているといっていい。『草枕』には、小説にあるべき筋がない。絢爛豊富な語彙とあるが、漢語がやたらと出でくる。もう目が滑る、滑る。そのために、物語最初の二ページと最後の五ページくらいしか印象に残ってない。作家がなにを言いたいのか、中盤はさっぱり不明である。ちょっと付け加えると、『草枕』には、麗しい語彙の多用によってなる、文学界への挑戦的作品という一面があった。というわけで漢語をふんだんに使用したらしい。そのあたりの説明は、筆者はちんぷんかんぷん(激しく死語)なので、ここでは割愛させていただく。
ただ漱石はこの作品で、はっとするほど近代というものに鋭い洞察をあたえている。
ここで文を紹介したい。
『いよいよ現実世界へ引きずり出された。汽車の見える所を現実世界と云う。汽車程二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。(中略)人は汽車へ乗ると云う。余は運搬されると云う。汽車程個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付け様とする』
汽車という文明の機械(※ツール)を通して、近代を痛烈に批判している。痛烈に、とわたしは思う。なぜなら、汽車うんぬんの描写がある箇所が、本から「現れてくる」ように感じるからである。
『草枕』は、物語の輪郭があまりはっきりしない。それは絵画的感覚美の世界というように幻想的な世界が広がっているからではなく、『草枕』に、とことん現実しか存在していないからである。それはわたしたちが普段の日常を生きているときの感覚のようである。
日常生活における物事・事柄というのは、あらゆる場面で鮮明な記憶を持つわけではない。電車に乗っているとき、テレビを観ているとき、歩いているときなど、ぼうっとしている時間がある。そのぼうっとしている間を読んでいる、そういう感覚がこの作品にはある。
主人公は、温泉場から汽車が停車する駅まで、船頭がゆっくりと櫂(※オール)を漕いで進む舟を使う。舟着場に到着し、舟から降りたとき、主人公は汽車が待つのを見るのである。
ここでようやく最初に戻ろう。小説のほとんどはっきりしない印象のなかで、最後の場面で汽車はもうもうと蒸気を吹かせて主人公の前に登場する。そしてそれは漱石がいうところの現実世界なのである。現実のぼうっとしている時間(※小説全体や舟)のなかに、紛れもなく現実であるということを認識させるもの(※汽車)が眼前に現れる。だからわたしは、文章が「現れてくる」と感じる。それはそのまま、漱石の近代への警鐘となると思うのである。
現実をそれと意識しないで生きていると、汽車のように個性を飲み込む獰猛な文明の機械にも当然のように乗ってしまう。汽車は自然とあるものではない、それに乗るときは汽車と気づいて乗らないと、獰猛な牙に飲まれてしまうよと漱石は言っているような気がする。
ただ、獰猛な牙に気づいたからといってそこから逃れる手段はない。それは近代が生まれながらにして負っている宿命である。
近代とは、封建制が終わり、人が個人としての権利や意志を獲得していった時代である。「個人」という概念が普及していったのが近代である。漱石は、この近代が負った宿命に目を向けている。
漱石のいう近代における人とは、汽車に詰め込まれるような無個性のものであるのだ。人が創り出した文明によって、人は個性を奪われる。舟は人の手によって漕ぎ、進むものだ。だが汽車は、もはや人の手を離れてしまったものである。人が創ったものが、人の手に負えなくなる。近代は、このような甚だしい倒錯と矛盾を内に抱えるものであった。漱石はそのことに苦悩し懊悩した作家だった。
西欧から生じた近代の社会システムへなかば強制的に移行した明治という時代に生きた漱石は、すでに現代日本社会が抱える苦悶へ到達していた。それは、「個人」という概念を獲得した近代において個人のあるがままに自由に生きたいと願うとき、近代というサイクルのなかでは個人は永遠に個性を獲得することはできないという矛盾である。
しかし結局は、そんな社会を人は捨て去ることはできないし、その矛盾した営みのなかでしか生きてゆくことはできない、その社会の苦悶・葛藤こそ近代という社会であると漱石は洞察している。
……ものすごく暑苦しく語ってしまった。いやあ、つぎからは読者が減りそうだ。でも気ままに綴るのがこれの趣旨だからね。こういうことだって、書かずにはおれないのだ。
【漱石に関して、思うこと徒然】
およそ作家というのは天才である、というのはわたしの所感である。
「あんたはエスパーか」と思うときがままある。なぜ自分でない他人の気持ちをそんなにリアルに表現できるのかとか、なんで男なのに女心がそこまでわかるのかとか。不思議といったらない。そのうえ、作家がする表現というのがまた心憎い。「あ~、そうそう、それが言いたかったの!」とか、「この心理描写に、そういう言葉を使うのね」とか思わず膝を打つ表現に出会う。それは自分の引き出しを総動員してたとえ百万回開けつづけたって真似のできない表現なのだ。そのような表現に出会うとき、やはり職業作家には叶わないと嫌というほど己の敗北を噛みしめることとなる。そんななかで、その表現技巧を何度感嘆してもやまない、心から素晴らしいと思う作家に、今回紹介した夏目漱石がいる。
夏目漱石は、広く日本人に親しまれる作家の一人である。わたしは漱石ほど人間や世間の営みの真理を突いた作家はいないとさえ思う。どう逆立ちしたって無理である。それこそ天文学的回数で引き出しを開けたって、この作家のように表現することは不可能である。
ただ漱石に関しては、天才という言葉はなんだか似つかわしくないように思う。そういう言葉で表してしまうには、あまりに漱石の言葉が身近に感じるからかも知れない。21世紀を生きるわたしにも、漱石の言葉はストレートに届く。
なんというか、非常に苦悩した作家である。作家や芸術家で苦悩しない人がいれば見てみたいが、漱石の小説は「The 苦悩」と本からにじみ出ているように思う。近代とか、自我とかいうものに対する嫌悪や不信とものすごく格闘していることが、ずっしりと伝わる。
『草枕』からは、そういった格闘はうかがえない。漱石が、世から『余裕派』などと呼ばれていたように、世の中を高みからみて「フフン」という感じに皮肉っている印象がある。だが『それから』以降、漱石の作風はガラリと変わる。ここからがもう、「うん、辛いんだね……」と思わずこぼすくらい絶えない苦悩と闘っていたことがわかる。
そういった諸々の格闘から生まれる漱石の言葉は、今なお、時代や人へ胸に迫る問いを投げかけてやまない。
次回『ダヴィンチ・コード』ダン・ブラウン