『暗黒星』/『幽鬼の塔』 江戸川乱歩
【暗黒星】
探偵明智小五郎のもとへ、奇妙な依頼がやってきた。依頼人である青年は、近頃恐ろしい夢を見るそうだ。そして、その夢に不安をかき立てられるのだという。家族が殺されるかも知れない、よからぬことが起きる前に、ぜひともこの不安のもとを突き止めてほしい――そう青年に乞われ訪れた屋敷で、次々と惨劇が起こり、ついには明智も凶弾に倒れてしまう。事件に隠された闇はなにか。事件の意外な真相とは?
前回の『黒猫』の読書日記で、ちらと紹介した『暗黒星』である。
惨劇を予感させるはじまりで、明智の前にときおり現れる不気味な怪人が、物語をいっそう謎めいたものにしている。
あらすじからすると推理小説のようにもとれるが、推理小説というよりは、サスペンスの要素のほうが大きい。さらに、とても怪しい雰囲気ただよう小説である。全体として、薄気味悪さを感じさせたり、怪奇的情緒をかもし出すことには十分に成功しているといえる。
「なんだこりゃ、とんでもねえ」と思ったのは、江戸川乱歩『怪人二十面相』を読んだ小学生のとき。内容はもう覚えていないが、怪人二十面相の変装のバリエーションに、幼いながら、そりゃないだろと突っ込んだ記憶がある。
紹介する作品『暗黒星』は、二十面相のような突飛なことは起こらない。だが、エンターテイメント的小説であると思う。文章を読んでいる気がほとんどしない。映像が頭のなかに流れ込んでくるイメージだ。乱歩の執筆した小説は、初期以外のものは、推理小説にしては構成が破綻していたり、低俗的な小説であるという批判もあるそうだが、文章が文章であると感じさせない文章を書くことは、それはそれですごいことだと思う。
映像と表現したけれど、あるいは紙芝居のようだともいえる。語り口がちょっと変わっているので、そういう印象も受ける。硬質な文体や、格調高い推理小説を読みたいという人には、この小説はあまりおすすめはできない。
ただここでひとついえるのは、映像や紙芝居のように読者を「絵的」に小説の世界に誘導することにはこの作家は長けているし、その手腕は見事だということだ。あんたはこの小説を褒めてんのか? けなしてんのか? という意見が出そうだ。断っておこう、褒めているんデス。
【幽鬼の塔】
素人探偵の河津は、あるとき、隅田川近くの橋の上から何気なく歩道を眺めていた。すると奇妙な男が目に入る。男は手にしていた鞄の中身だけを取り出し、鞄を川へと投げ捨てたのだ。男はその後、店で黒い鞄を購入し、その鞄に中身を入れる。男の持つ黒い鞄の中身に興味をそそられた河津は、男と同じ鞄を買い、ひっそりと男の後を追う。隙を見て男の鞄をすり替え、男の様子をうかがっていたが、鞄の中身がなくなったと気づくや男は上野公園の五重の塔に上り首を吊って自殺してしまう。その後、河津の持つ黒い鞄を求める者たちによって、探偵は奇怪な出来事に巻き込まれてゆく。彼らの求める黒い鞄にはなにがあるというのか。男はなぜ死んだのか。死の場所に塔を選んだのには理由があるのか。河津は事の真相を探ろうとする。
他人の秘密を知ったって、たいしたことにはならないよねというお話。
いや、そんな言葉でくくっていいんだろうかと思うが、じっさいそう感じたのだから仕方がない。黒い鞄の中身を探偵が手にしたことで、物語中盤は緊張感ただよう展開にときにハラハラさせられるのだが、終局は結構あっけない。あれ、そうだったのって感じに淡々と終る。
探偵の河津は途中、鞄の中身を追う者のうちのひとりに、真相を知ってもなんの得にもならないという意味のことを言われる。うん、本当にその通りだった。おそらく人が秘密にしていることの多くは、他人にとってはなんでもないことなのだ。だからといって、なんじゃこりゃー、時間返せーとはならないのは、これまた作家の手腕によるところなのだろう。
【勝手にコラム】
ドラマ的・エンターテイメント的乱歩
紹介したふたつの小説には、たとえば誰かと一緒になってドラマを観ているときの、「きゃあ」とか「うわあ」とか言ってしまえるテンションがあるように思う。それは、乱歩のこれらの作品が、大衆受けするように書かれているからだ。
江戸川乱歩の初期以外の推理小説は、通俗長編と主に呼ばれている。とても読みやすい文章で書かれてあり、『少年探偵団シリーズ』など、子ども向けにも多く刊行されている。(なお『幽鬼の塔』は、もともと大人向けに書かれたものが、のちに子ども向けのものへと書き直されシリーズに編纂された)
通俗的というと、娯楽を主眼としているので、なんだか下卑た印象にとれなくもない。が、わたしが思うに乱歩の円熟している点は、人間描写にある。人間描写が、なかなかに泥臭いのである。痛烈なまでに人間臭い。この人間臭さが曲者である。とても真に迫っているため、どこか現実的でないストーリーに入り込んだり共感できたりしてしまうのだ。しかも、探偵が立ち回るなど、なまじ活劇チックな動きがある分、エンターテイメント的である。まさに娯楽小説という感じ。
大勢でひとつのものを見て、みんなで楽しむことができるような雰囲気が、これら作品にはあった。
ところでまったく関係ないが、わたしの両親の子ども時分には、紙芝居おじさんなる人がいたそうだ。紙芝居を公園などで子どもたちに読んで聞かせる職業の人のことだ。紙芝居おじさんは、それ専用の木枠に入った紙芝居を自転車にのせてやって来る。ついでにお菓子も売る。子どもたちはお菓子を食べながら、木枠のなかで繰り広げられる世界にワクワクしたそうな。
そしておじさんの語りがまた、真に迫ったものであったらしい。(おそらく稲○淳二のような)
ここ一番という場面では、おじさんは手にしたハリセンのようなもので木枠の台をパンッと叩いて、聴衆を盛り上げた。子どもたちはおこづかいで、水飴やうさぎせんべい(もはや絶滅種:両親談)などを買って食べながら許されたつかの間の自由を楽しんだという。
乱歩の『怪人二十面相』あたりは、紙芝居の演目のひとつであったやも知れない。(確かめろよ)
次回『草枕』夏目漱石