こんなこと言っちゃう作者に用はないのである
激しくネタバレ注意
自分の書いた小説を“極上の娯楽作品”なんて宣ったり、あまりにも下種な犯人を“彼女は私の理想の女性です”なんて意味のことを発言したりする作家がいる。こんなものを作品の後書きで予期せず読まされてしまったならば、たとえ余韻があったとしても雲散霧消、ドン引きの大嵐、興ざめの出血大サービス、気持ちは引き潮にのってどこまでも、である。
いやはや、久方ぶりである。おそらく拙作のなかでは安定したアクセスを一番多くいただいているものでなかろうかと思う。読者に改めて謝辞を申し述べたい。
最後の更新から半年、15冊から20冊程度は本を読んだはずである。今日はテーマを絞ったので、それ以外の作品の紹介は追々していきたい。
さて、冒頭で紹介した作品の作者は、今をときめく、という表現が正しいかどうかはさておき、いずれもベストセラー作家である。
自分の書いた小説を“極上の娯楽小説”なんて言っちゃったのは『ストロベリーナイト』で有名な誉田哲也であり、下種な犯人を“自分の理想の女性”という意味のことを言ったのは東野圭吾である。
誉田哲也は『ジウ』という警察小説で、東野圭吾は『白夜行』というミステリーだかサスペンス小説だかの後書きで上記のことを書いている。
わたしに言わせてみれば、「何してくれちゃってんの、キミたち」である。
誰がそんな作家の自画自賛だの感想だの女の好みだの、聞きたいものか。いや、語弊がある。話してもいいが場所を考えろと要求したい。後書きになんか堂々と書くだなんて、すべてが台無しである。とどめを刺すと言ったほうが正しいかもしれない。とどめを刺すというのは、作品自体がそもそも首を傾げたくなるようなものであることを前提として、という意味である。
留意していただきたいのは、その感想は筆者が抱くものであってすべては主観であるということだ。
誉田哲也、特に東野圭吾においては多くの作品数、売上を誇り人気も高いものである。そんなベストセラー作家たちの、貴様はいったい何が不満なのかというお声もあろう。まあしかし、わたしの意見というものも聞いていただきたい。
まず、誉田哲也。ドラマ、映画で一躍有名になった『ストロベリーナイト』の著者でもある。
筆者が読んだ『ジウ』は、文庫本三冊におよぶ長編小説であり、作品の後書きにあるとおり、“アクションもミステリーも、人情話もバイオレンスも盛り込んだ(中略)、組織と組織の対立も、女と女の軋轢も描いた”ものである。これをして作者は“極上の娯楽小説”と自負しているのだが、そう言わしめるだけのことはあって中盤までは壮大である。最後は、大風呂敷を広げすぎたがためにスカタンな終局である。ひと言、「なにこれ」
適当にあらすじを書いておくと、「一般人を誘拐して新世界秩序を標榜する犯人に立ち向かう警察と、その内部での諸々の葛藤を経て最後はドカーン」である。
功績を奪い合う人間の醜さを描いたり、巨大な組織の腐敗を描いたりすることは上手いであろうし、警察組織をよく調べている。そして、この作者に共通している“安定のグロさ”がある。人や動物を殺傷するときの描写は突出しているであろう。こういうのが好きな人は好きであろうと思う。
ただ、エンターテインメントでありがちな「最後はドカーン」が、これに関してはいただけなかった。なぜかというと、筆者が誉田哲也という作家を意外に思ったことの端緒でもあるのだが、社会情勢や宗教といったことの描写が冷静だったという点にある。
『ジウ』の小説での社会情勢は、小泉内閣当時のものを、それも暗に皮肉るためにそのまま持ってきたという印象がある。小泉内閣が圧勝した背景や政策を絡めてストーリーは展開してゆく。これはお読みいただければわかると思う。
とりわけ印象的だったのが、イスラム原理主義に対する考察が冷静になされていたことである。“現在のイスラム教を取り巻く状況を理解するには、多くの歴史的な文脈を引用しなければならない”という意味の描写があり、これは読者というか世間一般の反知性的なものへの注意喚起であるように感じた。
以上のような点をもって、わたしはわりかし期待していたのである。現代日本社会へのアンチテーゼとして標榜された新世界秩序なるものにどう落とし前をつけるのかと。非常にシビアな命題を抱えた作品だと思ったわけである。
ところがどうか。テーゼもアンチテーゼも冷静な考察も醜悪な人間描写も、最後のドカーンが安定のグロさを調味料として、すべてを台無しにしてしまったではないか。なんじゃこりゃ。そんな話は聞いていない、とわたしが思ったのも無理はなかろう。とどめが後書きの自画自賛である。本を投げ飛ばしたって罪にはなるまい。
東野圭吾の『白夜行』については、多くは語るまい。激しくネタバレするが、なんとか(苗字忘れた)雪穂が作者にとっては理想の女性だそうである。げんなりするではないか、こんなことを後書きに書かれた日には。
そう、読者を萎えさせるようなことを言っちゃうこんな作者に用はないのである。用はないが、ひと匙の恩情を与えたいと思う。
それはひとえに、わたしが物書きの端くれだからである。作家の嗜好というものは作品に多くの場合反映されるのが然り。それが創作の本源といってもいい。
ただし、素人とちがってプロのとりわけ生々しい嗜好については作家の存命中に知ってもたいして有り難くはない。むしろ迷惑である。そんなものは知りたい人だけ、出合うべくして出合えばいい。無数に出回るベストセラー本の後書きなんかには、死んだって書かないでほしい。
そんなわけで、これから先、筆者が両雄の作家の作品を手にすることはないであろうが、もし手にとってここで感想を述べたときには、何かに血迷ってとち狂ったのだと思い、筆者の安寧を、憐憫をもって合掌していただければ幸甚である。
では、また次回。