最近読んだ作品
ご無沙汰である。
前回の、とみにやる気がなくなった改題から久しいが、未だもってやる気のないことを高らかに宣言しておこう。しかしいい加減更新せねば、こんな辺境に足を運んでくれる読者に対して申し訳ないという気持ちが起こり重すぎる腰をあげてみた。
というのも、筆者は一年ほど前にTwitterを始めた。Twitterにて、筆者の作品のいくつかを宣伝させてもらっている。その宣伝効果がこの作品に波及しているのかを解明するつもりはないが、なんとこの読書日記、ごく最近週間ユニークユーザーを208数えたことがある。おったまげたものである。この、一年以上更新していない、しかもこんな辺境で細々と活動しているユーザーの作品が多くのユーザー(当社比)の目に留まっているという事態に恐縮している次第なのである。
そんなわけで、最近読んだ作品を短くはあるが挙げていこうと思う。Twitterにて読了ツイートを流したものも含まれるので、一部の読者の目には重複するものがあるかと思われるが、あしからず。
【最近読んだ作品】
・ 桜庭一樹(2004年)『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』富士見ミステリー文庫
鳥取県の田舎町に住む主人公・山田なぎさ。彼女はいつも“実弾”について考え、またそれを撃つことを渇望していた。あるときなぎさの町に越してきた美貌の少女・海野藻屑。その美貌に似合わない奇怪な言動に振り回されるなぎさ。なぎさは藻屑と関わっていくうちに、彼女に取りつく底知れない闇を垣間見てしまう。“実弾”を撃ち続けたいなぎさ。“砂糖菓子の弾丸”を撃ち続ける藻屑。少女期の葛藤を描く異色作。
一言でいってしまえば、グロい。残酷である。こんなに残酷にする必要があるのか疑わしい。グロいのだが、どこかポップな雰囲気もなくはないので、読後感はなんともマーブルである。抉り出した心臓を、ギンガムチェックのビニール包装紙にリボンをつけてラッピングして、それを色鉛筆で彩色した絵を見せられている感じ。うん、想像するとなかなかにグロい。
この作品を読んでいて思い浮かんだのが、映画『魍魎の匣』(原作者:京極夏彦)
原作はそうでもなかったが、映画は無意味にグロかった。『砂糖菓子』のグロさが無意味とまでは言い切れないが、しかしグロいというのがやたらと印象に残る作品であった。アブノーマルでエキセントリックだけれど日常にある狂気を描くのは上手い作家だと思う。真似はしたくないが。
・ 有栖川有栖(2013年)『真夜中の探偵』講談社ノベルス
私的探偵行為が禁止された日本で、17歳の少女・空閑純が私立探偵として歩むべく孤軍奮闘する。推理物だが、作者の社会派な視線を窺わせる作品。未完結。
女の子が探偵として活躍する、非常に筆者好みの作品である。なぜか北海道は独立し本国・日本と敵対しており、互いにアメリカ対ソ連のような宿敵同士である。空襲の避難訓練がなされたりと、ときに物々しい雰囲気がある。
作者は国家権力に何か恨みでもあるのか? という疑問が要所要所で浮かんでくる。国家権力を糾弾するような姿勢がうかがえる。
筆者が気になっているのは、主人公と敵対している警察の人間・明神との今後の関係。この明神なる人物は主人公をなにかと嘲笑するのだが、そこには何かしらのフラグが立っている気がしてならない。そうであればなかなかに美味しい展開であるが、いかんせんこの明神、歳が35である。主人公とどうにかなるには、いささか年が離れているのが目下筆者の懸念である。(どうでもよろしい)
筆者としては主人公・純を大いに応援している。国家権力になんか負けるな、純!
・ 小川未明(2013年)「薔薇と巫女」『日本近代短篇小説選 明治編2』紅野敏郎他編 岩波書店
1911年/明治44年発表。読み方はオガワミメイ、もしくはビメイ。のちに童話作家となり、日本のアンデルセンと評される。童話普及に寄与した作家。
『薔薇と巫女』は、筋などあってないようなものであるが、この作家は色彩感覚の非常に優れた作家であったといえる。
“庭に一本の柘榴の木があって、不安な赤い花を点した。”
漠然とした不安心理を煽るこのような表現は、到底できない。この文字数でこの表現は、本当に恐れ入る。
・ 中島らも(2008年)『頭の中がカユいんだ』集英社
ノン・フィクション。多少の脚色はあるだろうが、エッセイである。
滅茶苦茶しょーもない。くだらない。この人の手にかかれば川端康成でさえ“ノーベル賞じじい”である。もっと他に言いようがあるだろ! と身も蓋もない色々な形容にツッコミを入れたくなること請け合い。
だがこの人みたいな生き方は貴重である。人間の底力というものを見せつけられる。
何をしているのかといえば、取引先の人間と海外に行った先で売春まがいのことをして淋病に罹ったり、ナンパした女の子と寝たり、酔っ払って絡んできた中学生を殴ったり、3000円で今晩どこに泊まれるか考えたり、モテる人を目の前にして僻んだりとまあ碌なことをしていない。くだらなくて脱力するレベルであるが、読んで損はない。
・ 夏目漱石(1976年)『文鳥・夢十夜』新潮社
初出は明治41年以後。
随筆のような、掌編のような作品を集めたもの。「修善寺の大患」といわれる病床にあったときの生活、そのときの所感などを綴った『思い出す事など』や、“こんな夢を見た。”の冒頭で知られる『夢十夜』、表題作『文鳥』など七編を収録。
『夢十夜』の「第一夜」は、浪漫的な色合いが濃いが運命のものを希求する人間の切実さを感じさせる。死も時空も超越して、運命のものにまみえたい願望を描いている。ハイネの『王の星』という詩を彷彿とさせる。全編にわたって描写が非常に精緻で、官能的ですらある。
この読書日記に既に挙げてある『草枕』の項でも述べたが、漱石の近代文明や近代社会に対する洞察はあまりに深く鋭い。今の青年は「自我の主張」を根本のものとしているが、それは青年を虐待するもので、「自我の主張」の裏には、首をくくったり身を投げたりするのと同程度の悲惨な煩悶が含まれている、と述べている。(『思い出す事など』より)
死の淵をさまよい、一度己は死んだと体感したことは、看病をうけるなかで近代が孕む無常さと冷徹さを漱石が改めて目にした瞬間であったのだろう。
以上である。
では、また次回。