『かえるくん、東京を救う』 村上春樹
村上春樹(2000年)「かえるくん、東京を救う」『神の子どもたちはみんな踊る』新潮社
【あらすじ】
東京安全信用金庫の融資管理課に勤務する片桐が、ある日帰宅すると、そこには巨大な蛙が待っていた。蛙は言う、「ぼくのことはかえるくんと呼んで下さい」と。かえるくんは、片桐にあることを頼む。それは、東京を大地震から救って欲しいというものだった。なんでも、片桐の勤める東京安全信用金庫新宿支店の真下の地下に、巨大なみみず、みみずくんが眠っており、そのみみずくんは先の阪神淡路大震災によって眠りから覚めてしまったという。そして、みみずくんは大層怒り、自らも東京に大地震を起こしてやろうと目論んでいる、何としてもそれを阻止すべく、是が非にも自分のことを手伝って欲しい――。
かえるくんの説得に折れた片桐は、巨大地震から東京を救うべく、かえるくんと約束した場所へ向かう。
「えっ、かえるくん……!?」というラストだと思う。
ちなみに、わたしは村上作品をきちんと読むのはこれが初めてである。
【哲学的考察をしてみる】
作中に、ニーチェやトルストイが散見されるので、それに引っ張られてちょっとばかし哲学的なことを考えてみた。
この物語はおそらく、すべては片桐の想像もしくは夢の中で起こるという結末である。それは、かえるくんがラストで語る言葉、「すべての激しい闘いは想像力の中でおこなわれた」というものが示していると考える。
かえるくんは、「目に見えるものが本当のものとはかぎらない」と片桐に語る。反対にいうと、「“本当のものとはかぎらない”というものでないことは、“目に見えるもの”ではない」つまり、「本当のものにかぎることは目に見えるものではない」、「目に見えるものは本当でない」・「本当のことは目に見えない」と言い換えることができる。
そうなると、片桐が見たかえるくんというものは存在しない、虚のものという解釈になる。ということは、かえるくんが語った、みみずくんの怒りによって東京に大地震が起こるという話も嘘である、と言えるのではなかろうか。
ただ、注目したい点は、じつは片桐は約束の場所へ向かう途中に銃弾に倒れてしまい、かえるくんとみみずくんの闘いを見ていないのである。しかしかえるくんは、病院で目を覚ました片桐に、片桐の夢の中でしっかりと自分を助けてくれたと言い、さらに、先述したように、すべての激しい闘いは想像力の中でおこなわれたと言った。
ここから導き出されるものは、目に見えないかえるくんVSみみずくんの闘いは本当のことである、というオチである。と言いたいところであるが、そもそもかえるくんの存在自体が嘘なのであれば、かえるくんが語った内容も嘘ということになる。その裏付けとして、片桐が倒れたのは銃弾のせいではないということがある。彼はなぜか昏倒していただけなのである。その証拠に撃たれたはずの傷はない。片桐は自分を打った犯人を見ているが、目に見えることが本当のことではないとするならば、拳銃で撃った犯人というのは実在しないということになる。
ところが、ここでもまた注意するべき点がある。
片桐がかえるくんの頼みに応じるまえに、かえるくんは一つ手を打つのである。片桐が担当している仕事のややこしい案件を片付けてしまうのだ。片桐はそのことを、第三者から電話で報告を受けるのである。結果、片桐はかえるくんの存在を本当のものと信じるのである。そして、この電話というのがミソだとわたしは思う。じっさいに片桐が目にしているわけではないというのは、すなわちその報告は真実であるということだ。
こうなると何のこっちゃさっぱり、である。
整理してみよう。
目に見えるものが本当ではない→かえるくんの存在は目に見えているので嘘であり想像(拳銃の件がその裏付け)→目に見ていない電話の報告は真実→やっぱり、かえるくん自体が片桐の想像→目に見えるものが本当でない→想像が本当のもの=想像であるかえるくんはやっぱりいた
……意味不明である。
最後にかえるくんは消えてしまうが、片桐はそのあともう一度目を覚ますのである。
すると、上記のように考えるとやはり片桐の想像の中での話だったという結論にならないだろうか。……なるような気がする。
作者は、ループしてぐるぐると考えさせるようなものを書くのが好きなんだろうと思う。
この作品に対する正直な感想。
とんでもなくシュールだけれど、面白いと思う。だって、家に帰ったら巨大なかえるがいるんですよ? しかも、みみずくんと闘うんですよ? 超現実です。
わたしは、かえるくんが言ったこの台詞が好きである。
「(略)ぼくが蛙という事実に変わりはありません。ぼくのことを蛙じゃないというものがいたら、そいつは汚いうそつきです。断固粉砕してやります」
かえるくんは確固たる信念をもっていた、少なくともそれだけは確かに言える台詞である。