東京へ行く王子様系幼馴染を笑って送り出そうとしたら、夏祭りで告白されて来年も会う約束をした
一
夏の終わりには、町中の人達が川へ向かう。
普段なら夕方を過ぎるころには静かになる商店街も、その日だけは軒先へ提灯を吊るし、いつもより少し立派な顔をしていた。
焼きそばの焦げる匂い。氷水の入った銀バケツの中でぶつかるラムネ瓶。祭囃子に負けないよう声を張る露店の店主。
河川敷へ続く道は、まだ明るいうちから浴衣姿の人で埋まり始めていた。
高瀬湊は、その入口で人の流れを眺めていた。
白いポロシャツの胸には、高瀬総業の社名が入っている。
父が経営する会社は、この町の工事や施設の管理を幅広く請け負っていた。花火大会にも毎年関わっている。河川敷の整備、仮設通路の設営、警備員の手配。川沿いに並ぶ協賛提灯にも、高瀬総業の文字がいくつも入っていた。
湊は昼過ぎから父について会場を回っていた。説明を聞いていただけのつもりなのに、顔見知りの大人たちは湊を見つけるたびに声をかけてくる。
「おう、若社長。今年もご苦労さん」
「まだ高校生ですよ」
「来年には大学生だろ。すぐだ、すぐ」
困って笑う湊の肩を、男は楽しそうに叩いた。
若社長と呼ばれるのは恥ずかしい。ただ、いつか父の会社を継ぐことには迷いがなかった。
高校を卒業したら地元の大学へ進み、経営を学びながら会社を手伝う。父のように、この町で困っている人の役に立つ仕事をしたい。
ずっと前から考えてきたことで、今さら変えるつもりもない。
白石澪が東京へ行くと聞くまでは、それで何も困らないと思っていた。
「湊、そろそろ行かなくていいのか」
背後から父の声がして、スマートフォンを確認する。待ち合わせまで、あと十五分しかない。
「あ、まずい。着替えてくる」
「走って転ぶなよ。跡取りが救護所へ運ばれたら、来年まで言われるぞ」
「父さんが言いふらさなければ大丈夫だよ」
会社のテントへ戻り、用意していた紺色の甚平に着替える。
鞄には財布とスマートフォン。それから、小さな写真帳を入れていた。
薄い藍色の表紙。角の布が少し浮いているのは、昨夜、何度も開いたせいかもしれない。
澪が東京へ持っていけるように作ったものだった。
最後の一頁だけは空けてある。今年の祭りで撮った写真を入れてもらうためだ。
それで完成する。
完成してしまう。
湊は鞄を閉じた。
澪には澪のやりたいことがある。自分が寂しいからという理由で、それを邪魔するのは違う。
そう思い直し、待ち合わせ場所の時計台へ向かった。
約束の時刻まで、あと二分。
珍しく遅れているなと思ったところで、通りの向こうにいた人たちが、次々に同じ方向を見た。
藍色の浴衣に、白い花。
長い黒髪は結い上げられ、普段は隠れているうなじが見えている。澪は昔から目立つが、今日の彼女はいつもより柔らかく艶やかに見えた。
湊を見つけると、周囲の視線など気にせずに歩いてくる。
「待たせてしまったかな」
「いや。僕も今来たところ」
我ながら、ベタな台詞だと思った。けれど本当に今来たところなので仕方がない。
澪は湊の前で立ち止まり、少しだけ顎を引いた。
「……どうかな」
「なにが?」
「見れば分かるだろう。浴衣だよ」
眉を寄せられ、湊は慌ててもう一度見る。
正面から見ると、あまりの美しさに、さっきより落ち着かなくなった。
「似合ってる。すごく綺麗だと思う」
澪は一度だけ目を瞬かせた。
「そうか」
平静な声を作っているが、口元が少し緩んでいる。
湊は昔から、澪のこういう顔に弱い。
だから、それ以上は言わない方がいいと思った。
東京へ行かないでほしい。
来年も一緒に来てほしい。
卒業したあとも、今までと同じように隣にいてほしい。
一つ口にしたら、たぶん全部出る。
「東京に行ったら、こういう綺麗な人たちに囲まれて働くのかな」
代わりに出たのは、自分でもよく分からない言葉だった。
澪の口元から、さっきの笑みが消えた。
「……そうかもしれないね。でも今日は、東京の話をしに来たわけじゃないだろう?」
「そうだね」
「なら、行こうか」
澪が祭りの方へ歩き出す。
湊も、その隣に並んだ。
二
澪がその浴衣を選んだのは、三週間前だった。
藍色の生地に、白い花。
中学生のころ、湊に言われたことがある。
白い花を見ると、澪を思い出す。
どうしてかと尋ねると、凛としているけれどよく見るとすごく可愛いから、と湊は答えた。
本人はきっと覚えていない。
湊は時々、そういうことを何でもない顔で言う。言った本人は忘れて、澪だけが何年も覚えている。
「澪、りんご飴あるよ。食べる?」
「食べたいけれど、丸ごとは少し大変だね」
「切ってもらえるか聞いてくる」
止める前に、湊は屋台へ行ってしまった。
戻ってきた紙皿には、食べやすく切られたりんご飴と、斜めに刺さった爪楊枝が一本。
「はい」
「ありがとう」
飴が少し歯についたあと、りんごの酸味が広がった。
「おいしいかい?」
「うん」
「よかった」
自分が食べたわけでもないのに、湊は満足そうに笑う。
来年、このりんご飴を買う時、彼の隣には誰がいるのだろう。
一度浮かんだ考えは、なかなか消えてくれなかった。
「次は射的しよう。去年のリベンジだ。」
「三発とも外した人が?」
「今年の僕は違うよ」
「その自信はどこから来るんだい?」
「今日は眼鏡を忘れてないから」
「去年の敗因、そこだったのか」
湊は真剣な顔でコルク銃を構えた。
一発目は菓子箱の横を抜け、二発目は棚の端に当たり、三発目は狙っていた兎のぬいぐるみ……ではなく、その隣の飴袋を落とした。
「……去年よりは進歩したね」
「一個取れたからね」
「その飴、近所の店で三十円だよ」
「思い出は値段じゃないよ」
「いいことを言って誤魔化そうとしているな」
澪が笑うと、湊も嬉しそうに笑った。
こういう時間が好きだった。
特別なことは何もない。ただ隣を歩き、くだらない話をしているだけでいい。
ただ。東京へ行けば、その『普通』が一番遠くなる。
人が増えてきたところで、湊が手を差し出した。
「はぐれたら困るから」
昔から何度も聞いてきた言葉だった。
澪はその手を取る。湊は何も迷わず握った。
彼にとっては、人混みではぐれないための手なのだろう。
それでも澪は、少しだけ握り返した。
湊が振り向く。
「人、多いね」
「……そうだね」
人混みが不安なのだと思ったらしい。安心させるように、もう一度、手へ力を入れられた。
違う、と言えなかった。
「おや、澪ちゃんじゃないか」
商店街で菓子屋を営む老夫婦が、向こうから歩いてきた。
「まあまあ、浴衣が似合うねえ。本当に女優さんみたいだよ」
「ありがとうございます」
「東京へ行くんだって?」
澪の手の中で、湊の指が少し動いた。
「はい。卒業したら」
「寂しくなるねえ。でも、澪ちゃんならきっと有名になるよ」
「頑張ります」
「こいつなら大丈夫ですよ」
湊が隣から言った。
「昔から、やるって決めたことは最後までやるし。向こうでも絶対うまくいきます」
迷いのない声だった。
湊にそう言ってもらえるのは、うれしい。
それでも今は、素直に喜べなかった。
彼まで町の人たちと同じように、澪を送り出そうとしている。
老夫婦と別れたあとも、手はつながれたままだった。
「ねえ、湊」
「なに?」
「来年も、この祭りへ来るのかい?」
「もちろん。会社も関わってるし、来ない理由がないよ」
「……誰かと?」
「誰かって?」
「友達とか。女の子とか」
湊は少し考えた。
「どうだろう。澪は東京だろうし、一人で来るのも変だから、誰か誘うかもしれないね」
澪は返事をしなかった。
来年、別の女の子の手を取る湊を想像した。
たったそれだけで、さっき食べたりんご飴の甘さまで嫌になった。
「……そうか」
「疲れた?」
「いや」
「人混み、苦手だもんね。少し静かなところへ行こうか」
昔からそうだった。
澪が困っていると、理由を全部聞く前に、少しでも澪が楽になれる方を選ぶ。
しかし、湊は今日、澪が苦しい理由だけは分かっていない。
湊に手を引かれ、二人は古い神社へ向かった。
石段の脇には、大きな楠が立っていた。
三
澪は楠の幹へ手を置いた。
子どものころは、もっと大きな木だと思っていた。
祭りの音は、木々の向こうから少し遠く聞こえる。
あの夜も、同じように祭囃子が鳴っていた。
澪は昔からよく目立った。
大人たちは、綺麗だ、お人形みたいだ、将来はモデルになれると褒めた。
けれど同い年の子どもたちにとって、それは必ずしも褒め言葉ではなかった。
一緒にいると自分が可愛く見えない。
男子が澪ばかりを見る。
澪は何もしていなくても、時々そんな理由で距離を置かれた。
年齢が上がるにつれ、澪が何を好きで、何を嫌がるかよりも、誰が彼女と一緒にいるかを気にする人間が増えていった。
だから澪は、平気な顔をするのが上手くなった。
しかし、湊だけは違った。
髪を切れば、少し短くなったねと言うだけだった。
転んで膝を汚せば、格好悪いと笑ってから絆創膏を貼った。
給食の嫌いなものを押しつけようとすれば、自分で食べなよと皿を戻してきた。
澪が機嫌を悪くすると、周りが顔色を窺う中、平気な顔で言った。
「今日、感じ悪いね」
腹が立った。
その日の帰りは、十分くらい口を利かなかった。
でも、うれしかった。
湊は、綺麗な白石澪ではなく、面倒で、不機嫌で、負けず嫌いな澪を見ていた。
小学校一年生の夏。
澪は白い生地に赤い花の浴衣を着ていた。
湊に見せるのを楽しみにしていたが、待ち合わせ場所へ向かう途中、同じ学校の子どもたちに囲まれた。
「澪ちゃんだけ、すごく可愛いの着てる」
「ずるい」
「澪ちゃんといると、みんな澪ちゃんばっかり見るもん」
男子たちも寄ってきた。
「澪、俺と回ろうよ」
「俺が先に言った」
「浴衣、触っていい?」
腕を引かれ、袖へ触れられた。
やめてと言ったのに、皆は笑った。
遊んでいるだけ。
ちょっと触っただけ。
嫌がる澪の方が悪いような顔をされた。
澪は腕を振り払い、その場から逃げた。
神社の裏まで走り、楠の根元に座り込む。浴衣の裾が汚れていたが、もう人のいる場所へ戻りたくなかった。
泣かないつもりだった。
けれど、膝へ顔を伏せると涙が出た。
「澪?」
顔を上げる。
湊が立っていた。額には汗が浮かび、片方の草履はほとんど脱げかけている。
「こんなところにいたんだ。探したよ」
「……どうして?」
「一緒に回る約束だったから」
湊は澪の前へ手を差し出した。
「もうすぐ花火、始まるよ。一緒に見よう」
「私といたら、湊まで何か言われるよ」
「何かって?」
「変だとか。女みたいだとか」
湊は少しだけ考えた。
「じゃあ、僕が怒るから大丈夫」
「……怒るの?」
「うん。澪が嫌がってるのに言うのは、よくないから」
子どもの声で、特別強そうにも聞こえなかった。
それでも湊は、本当にその通りにした。
表通りへ戻る途中、先ほどの男子が近づいてくると、澪の前へ立った。
「澪、嫌がってるじゃん。やめなよ」
「遊んでただけだよ」
「嫌がってたら、遊びじゃないよ」
大声ではなかった。
ただ、一歩も退かなかった。
その夜、二人は神社の石段に座り、花火を見た。
「来年も一緒に見よう」
「来年も?」
「うん」
「その次も?」
「その次も」
湊にとっては、それくらい普通の約束だったのだろう。
澪にとっては、自分からなくしたくないと思った、初めての約束だった。
そして高校三年の初夏。
澪は、その相手へ東京へ行くことを告げた。
放課後の河川敷には、まだ屋台も提灯もない。夏草が風に揺れ、川の音だけが聞こえていた。
湊は隣で、地元の大学へ進むことや、父の会社を手伝うことを話していた。
彼がここに残ることは知っていた。
だから、言いにくかった。
「湊」
「どうしたの?」
「卒業したら、東京へ行くことになった」
返事がなかった。
「前に話していた事務所から、正式に声をかけてもらったんだ。卒業後は向こうへ移って、本格的に仕事を始める」
「……東京?」
「うん」
「いつから?」
「卒業式のあと、すぐに」
湊は立ち止まっていた。
手にしていたペットボトルが、少しへこんでいる。澪ではなく、川の方を見ていた。
澪はできるだけ明るく話した。
事務所の人たちは親切だったこと。
モデルだけでなく、演技も勉強できること。
自分にとって、大きな機会だと思っていること。
どれも本当だった。
それとは別に、聞きたい言葉があった。
寂しい。
行かないでほしい。
もっと一緒にいたい。
一つでも言ってほしかった。
湊はしばらく黙ったあと、ようやく笑った。
「そっか。すごいじゃん」
「……そうかな」
「うん。澪なら、東京でも絶対うまくいくよ」
湊は、澪が困らないための話をした。
住む場所は決まっているのか。
必要なものはそろっているのか。
困ったら、いつでも連絡してほしい。
寂しいとは、一度も言わなかった。
「おめでとう、澪」
澪も笑った。
「ありがとう。湊にそう言ってもらえて、安心したよ」
安心などしていなかった。
本当は、少しくらい困ってほしかった。
「あのころは、よくここで泣いてたね」
現在の湊の声で、澪は楠から手を離した。
「昔は僕が迎えに来て、澪を守ってたんだっけ」
「……覚えていたのかい?」
「もちろん。でも今は、もう僕が守らなくても大丈夫だね」
澪は一度、返事を忘れた。
湊にとっては、澪が強くなったという意味なのだろう。
けれど澪には、もう必要ないと言われたように聞こえた。
「……そうだね」
澪は笑った。
こういう時に笑うのは、昔から得意だった。
「行こうか。そろそろ花火が始まる」
四
河川敷には、すでに多くの人が集まっていた。
湊は途中で何度か町の人に呼び止められた。
来年はもっと仕事を覚えないとな、と笑われ、そのたびに丁寧に返事をしている。
東京へ一緒に来てほしい。
澪は何度も考えたことがある。
けれど、言ったことはない。
湊はこの町が好きだ。父親の会社を継ぎ、ここにいる人たちの役に立ちたいと思っている。
澪は、そんな湊が好きだった。
だから、自分のために捨ててほしいとは言えなかった。
話を終えた湊が戻ってくる。
「ごめん。待たせた」
「構わないよ」
「その……渡したいものがあって」
鞄から取り出したのは、小さな写真帳だった。
「開けても?」
「うん」
最初の頁には、幼い二人が映っていた。
湊は綿菓子を持って笑い、澪は隣で少し不機嫌そうな顔をしている。
頁をめくる。
家族と一緒に映った写真。
金魚すくいの水槽を覗き込む写真。
中学生になり、少し距離を空けて並んでいる写真。
初めは両親や友人たちも映っていた。
年を追うごとに人数が減り、最後には二人だけになった。
最後の一頁は空いていた。
「今年の写真を撮ったら、そこに入れて」
湊が言った。
「東京へ持っていけるようにと思って。向こうで寂しくなったら、これを見たら少しくらい元気になるかなって」
澪は白い頁を見つめた。
湊は、今年の写真を入れるために空けたのだろう。
分かっている。
それでも、ここへ写真を入れたら、二人の夏が終わるように思えた。
「来年からは、東京で誰かと祭りに行ったりするのかな」
湊が笑いながら言った。
澪は写真帳を閉じた。
思ったより大きな音がした。
「どうしたの?」
「どうして」
自分でも驚くほど低い声だった。
「どうして君は、そんなに簡単に私を誰かへ渡そうとするんだ」
「え?」
「来年は東京で誰かと?」
「いや、別に深い意味は――」
「私はあるよ」
湊は、本当に分かっていない顔をしていた。
「私は、あるんだ」
花火の開始を告げる放送が流れた。
最初の花火が上がる。
白い光が二人の顔を照らし、少し遅れて大きな音が届いた。
五
「私は東京へ仕事をしに行くんだ。君と別れるためじゃない」
澪の頬が濡れていた。
湊は何も言えなくなる。
澪は昔から、人前では泣かなかった。
その澪が、自分の前で泣いている。
「なのに君は、ずっと私を送り出そうとしている」
「澪」
「東京で誰かと祭りに行くつもりなんてない。来年も、その次も、私は君とここへ来るつもりだった」
「でも、仕事が」
「仕事があっても帰ってくる」
澪はすぐに言い返した。
「何日も前から予定を空ける。忙しくても帰ってくる。私は、そのつもりだった」
湊は写真帳を見る。
地元を思い出してもらうために作ったものを、澪は胸の前へ抱えていた。
「君は忘れたのかもしれないけれど、私はずっと、あの日の約束を覚えていた」
「忘れてないよ」
「なら、どうして終わらせようとするんだ?」
「終わらせるって」
「どうして私は、君がいなくても平気だと思ったんだ」
「平気だなんて思ってない」
「言ったじゃないか。もう守らなくても大丈夫だと」
「それは、澪が強くなったって意味で」
「強くなったら、君を必要としてはいけないのかい?」
湊は口を閉じた。
「私は昔から、人に囲まれていた。でも、皆が見ていたのは顔とか、女としての私とか、そういうものだった」
澪は一度、息を整える。
「君だけだった。君だけが、私を普通に扱ってくれた。不機嫌なら感じが悪いと言ったし、間違えたらからかって笑った。私が嫌がっている時は、庇って前に立ってくれた」
澪の手がそっと、湊の甚平を掴む。
「私が仕事を始めたのも、君にすごいと思ってほしかったからだ」
「……僕に?」
「そうだよ。広告に出た時も、事務所から声をかけられた時も、最初に君の顔が浮かんだ」
初夏の河川敷を思い出す。
「東京へ行くと伝えた日、君はおめでとうと言ったね」
あの日、東京と聞いた瞬間、湊は何を言えばいいか分からなくなった。
ただ、澪の邪魔をしてはいけないと、それだけは思った。
「うれしかったよ。君に認めてもらえた気がしたから。でも、それ以上に寂しかった」
澪は湊から目を逸らさない。
「どうして君は、一度も寂しいと言ってくれなかったんだ?」
「それは……」
「私は仕事を諦めてくれと言ってほしかったわけじゃない。ただ、君の未来から私がいなくなることを、少しくらい嫌がってほしかった」
「嫌だったよ」
澪の指が止まった。
「東京って聞いた時、本当は行かないでって言いたかった。卒業しても、今までみたいに会いたいって言いたかった」
「なら、どうして」
「僕が言ったら、澪が迷うと思ったから」
澪は泣いたまま、少し笑った。
「迷わせてほしかったよ」
湊は言葉を失う。
「少しくらい、私のことを困らせてほしかった。私の幸せを、君一人で決めないでくれ」
澪の拳が、湊の胸へ当たる。
湊は、やっと分かった。
澪が欲しかったのは、綺麗に送り出されることではなかった。
花火が一度途切れた。
「私は君が好きだ」
短い言葉だった。
「ずっと好きだった。応援してほしいだけじゃない。遠くから見ていてほしいわけでもない」
澪は湊の顔をまっすぐ見た。
「隣にいてほしいんだ」
湊は、すぐに返事ができなかった。
うれしかった。
今すぐ抱きしめたいと思った。
それでも、先に言わなければならないことがある。
「僕は、東京には行けない」
澪の表情は変わらなかった。
「父さんの会社を継ぎたい。この町に残りたいんだ。澪のためにそれを捨てたら、いつか澪のせいにしてしまうかもしれない」
言ったあとで、ひどい言い方だと思った。
けれど澪は、目を逸らさなかった。
「私も、仕事を捨ててここに残ったら、いつか君のせいにしてしまうと思う」
二人とも、相手が好きだった。
それでも、同じ場所へ行くことはできない。
湊は澪の手を見た。
幼いころ、自分が差し出した手。
今日、人混みではぐれないように握った手。
離れて暮らすことになっても、この手を離したいとは思わなかった。
湊は澪の手を取った。
「それでも、別れたくない」
澪が顔を上げる。
「東京とここじゃ、簡単には会えないと思う。毎日話せない日もあるし、喧嘩もするかもしれない。でも、澪の人生から僕がいなくなるつもりはない」
澪の目から、また涙が落ちた。
今度は、少し笑っていた。
「それは、告白の返事だと思っていいのかな」
「……うん」
「小さい」
「僕も澪が好きだ」
声に出すと、急に恥ずかしくなった。
「いつから?」
「分からない」
「鈍いな」
「自分のことだからね」
「私の気持ちにも気づかなかったじゃないか」
「それは……ごめん」
「では、これから一年かけて反省してもらおうかな」
「一年で済む?」
「君の態度次第だね」
澪のいつもの話し方が戻ってきた。
「来年、またあの楠の下で会おう」
「分かった。ただし、君がほかの女性を連れてきたら、どうなるか分かっているね」
「澪こそ、東京で格好いい人を見つけても知らないからね」
「見つける必要がない」
「どうして?」
「もう見つけているから」
湊が黙ると、澪は楽しそうに目を細めた。
「顔が赤いよ」
「花火のせいじゃない?」
「今の花火は青だったけれど」
「そういうところだけよく見てるね」
「君のことは、ずっと見ているからね」
最後の大玉が上がった。
金色の光が空いっぱいに何個も花の形に広がり、少し遅れて大きな音が町へ響いた。
花火が終わると、人々が一斉に立ち上がった。
二人は人波を避け、もう一度神社の方へ歩く。
つないだ手は、そのままだった。
石段の前で、澪が足を止める。
「湊」
「なに?」
「少しくらい、恋人らしいことをしてもいいかな」
意味を聞く前に、澪が近づいた。
唇に、柔らかいものが触れる。
本当に一瞬だった。
離れたあとも、湊はしばらく息の仕方を忘れていた。
澪の頬も赤い。
それでも、すぐにいつもの笑みを作る。
「これで君は、私の恋人だ」
「……うん」
「返事が小さいな」
「僕は、澪の恋人です」
「よろしい」
澪は満足そうに頷き、湊の肩へ頭を預けた。
「来年まで、長いね」
「きっと、すぐだよ」
「根拠は?」
「ない」
「まったく。君は時々、ひどく適当だな」
そう言いながら、澪は笑っていた。
六
それから、一年が過ぎた。
澪は東京で仕事を始めた。
雑誌、広告、配信ドラマ。少しずつ彼女の名前を知る人が増えていった。
湊も地元の大学へ通いながら、父の会社で仕事を学び始めた。
毎日話すとは約束しなかった。
それでも、眠る前には短いメッセージを送った。
今日は何を食べた。
授業で失敗した。
撮影で同じ台詞を何度も間違えた。
どうでもいい話を、毎日のように続けた。
うまくいく日ばかりではない。
澪と共演した俳優の記事が出れば、湊は少しだけ返信を遅らせた。
湊が地元企業の社長令嬢と食事をしたと知れば、澪は仕事の合間に電話をかけてきた。
『ただの父親同士の食事だと言ったね』
「うん」
『では次に会った時、君が誰の恋人か分かる写真を撮ろう』
「どんな写真?」
『人前に出られる程度には手加減してあげるよ』
「手加減しなかったら?」
『知りたいのかい?』
喧嘩もした。
それでも最後には、どちらかが言った。
会いたい。
寂しい。
声が聞きたい。
一年前なら飲み込んでいた言葉を、今は言うようにしていた。
祭りの日。
湊は去年よりも多くの仕事を任され、夕方になってようやく紺色の甚平へ着替えた。
約束の時刻より、一時間近く早く神社へ向かう。
石段の脇の楠は、今年も変わらず立っていた。
スマートフォンを見る。
まだ時間はある。
境内を一周して戻り、もう一度時計を見る。
五分しか経っていなかった。
落ち着かないまま石段へ戻ったところで、下駄の音がした。
木々の間から、一人の女性が歩いてくる。
藍色の浴衣。
白い花。
去年と同じ浴衣だった。
澪も湊を見つけ、幼いころから知っている笑い方をした。
「待たせたね」
「僕も今来たところ」
「一時間前からここにいた人の台詞ではないね」
「どうして知ってるの?」
「君のお父様から連絡が来たよ」
「父さん……」
澪が笑う。
電話でも映像でも、何度も聞いた声だった。
それでも、同じ場所で聞くと安心した。
「そうだ。君に見せたいものがある」
澪は持っていた鞄から、薄い藍色の写真帳を取り出した。
表紙の角は、一年前より少し擦れている。
「持ってきてくれたんだ」
「当然だろう」
澪が最後の頁を開く。
去年、花火が終わったあとに撮った写真が入っていた。
神社の石段に並び、二人とも照れたように笑っている。
それで終わりではなかった。
写真帳の後ろには、新しい透明の頁が何枚も足されていた。
「……増えてる」
「一頁で足りると思ったのかい?」
澪が呆れたように言った。
「今年の写真も必要だろう。その次も、その次も」
完成させるために作ったはずの写真帳は、もう完成することをやめていた。
澪が片手を差し出す。
幼いころは、湊が差し出した手だった。
「今年も、一緒に行こうか」
湊はその手を取った。
「うん」
二人は並んで、神社の石段を下り始める。
木々の向こうには、祭りの明かりが見えていた。
焼きそばの匂い。
祭囃子。
子どもたちの声。
去年と同じだった。
それが、うれしかった。
澪が隣で尋ねる。
「来年も?」
湊は、つないだ手へ力を入れた。
「来年も。その次も」
澪は満足そうに笑う。
木々の向こうで、最初の花火が上がった。
「おかえり」
澪も前を向いたまま答える。
「ただいま」
二人の手は、去年よりもしっかりとつながれていた。
星やブクマやコメント、よろしくお願いします。




