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東京へ行く王子様系幼馴染を笑って送り出そうとしたら、夏祭りで告白されて来年も会う約束をした

作者: なぁろ
掲載日:2026/08/04



夏の終わりには、町中の人達が川へ向かう。


普段なら夕方を過ぎるころには静かになる商店街も、その日だけは軒先へ提灯を吊るし、いつもより少し立派な顔をしていた。

焼きそばの焦げる匂い。氷水の入った銀バケツの中でぶつかるラムネ瓶。祭囃子に負けないよう声を張る露店の店主。

河川敷へ続く道は、まだ明るいうちから浴衣姿の人で埋まり始めていた。


高瀬湊は、その入口で人の流れを眺めていた。


白いポロシャツの胸には、高瀬総業の社名が入っている。


父が経営する会社は、この町の工事や施設の管理を幅広く請け負っていた。花火大会にも毎年関わっている。河川敷の整備、仮設通路の設営、警備員の手配。川沿いに並ぶ協賛提灯にも、高瀬総業の文字がいくつも入っていた。


湊は昼過ぎから父について会場を回っていた。説明を聞いていただけのつもりなのに、顔見知りの大人たちは湊を見つけるたびに声をかけてくる。


「おう、若社長。今年もご苦労さん」

「まだ高校生ですよ」

「来年には大学生だろ。すぐだ、すぐ」


困って笑う湊の肩を、男は楽しそうに叩いた。


若社長と呼ばれるのは恥ずかしい。ただ、いつか父の会社を継ぐことには迷いがなかった。

高校を卒業したら地元の大学へ進み、経営を学びながら会社を手伝う。父のように、この町で困っている人の役に立つ仕事をしたい。


ずっと前から考えてきたことで、今さら変えるつもりもない。


白石澪が東京へ行くと聞くまでは、それで何も困らないと思っていた。


「湊、そろそろ行かなくていいのか」


背後から父の声がして、スマートフォンを確認する。待ち合わせまで、あと十五分しかない。


「あ、まずい。着替えてくる」

「走って転ぶなよ。跡取りが救護所へ運ばれたら、来年まで言われるぞ」

「父さんが言いふらさなければ大丈夫だよ」


会社のテントへ戻り、用意していた紺色の甚平に着替える。


鞄には財布とスマートフォン。それから、小さな写真帳を入れていた。

薄い藍色の表紙。角の布が少し浮いているのは、昨夜、何度も開いたせいかもしれない。


澪が東京へ持っていけるように作ったものだった。

最後の一頁だけは空けてある。今年の祭りで撮った写真を入れてもらうためだ。


それで完成する。


完成してしまう。


湊は鞄を閉じた。


澪には澪のやりたいことがある。自分が寂しいからという理由で、それを邪魔するのは違う。

そう思い直し、待ち合わせ場所の時計台へ向かった。


約束の時刻まで、あと二分。


珍しく遅れているなと思ったところで、通りの向こうにいた人たちが、次々に同じ方向を見た。


藍色の浴衣に、白い花。


長い黒髪は結い上げられ、普段は隠れているうなじが見えている。澪は昔から目立つが、今日の彼女はいつもより柔らかく艶やかに見えた。

湊を見つけると、周囲の視線など気にせずに歩いてくる。


「待たせてしまったかな」

「いや。僕も今来たところ」


我ながら、ベタな台詞だと思った。けれど本当に今来たところなので仕方がない。


澪は湊の前で立ち止まり、少しだけ顎を引いた。


「……どうかな」

「なにが?」

「見れば分かるだろう。浴衣だよ」


眉を寄せられ、湊は慌ててもう一度見る。

正面から見ると、あまりの美しさに、さっきより落ち着かなくなった。


「似合ってる。すごく綺麗だと思う」


澪は一度だけ目を瞬かせた。


「そうか」


平静な声を作っているが、口元が少し緩んでいる。

湊は昔から、澪のこういう顔に弱い。


だから、それ以上は言わない方がいいと思った。


東京へ行かないでほしい。

来年も一緒に来てほしい。

卒業したあとも、今までと同じように隣にいてほしい。


一つ口にしたら、たぶん全部出る。


「東京に行ったら、こういう綺麗な人たちに囲まれて働くのかな」


代わりに出たのは、自分でもよく分からない言葉だった。


澪の口元から、さっきの笑みが消えた。


「……そうかもしれないね。でも今日は、東京の話をしに来たわけじゃないだろう?」

「そうだね」

「なら、行こうか」


澪が祭りの方へ歩き出す。

湊も、その隣に並んだ。




澪がその浴衣を選んだのは、三週間前だった。


藍色の生地に、白い花。


中学生のころ、湊に言われたことがある。


白い花を見ると、澪を思い出す。


どうしてかと尋ねると、凛としているけれどよく見るとすごく可愛いから、と湊は答えた。


本人はきっと覚えていない。

湊は時々、そういうことを何でもない顔で言う。言った本人は忘れて、澪だけが何年も覚えている。


「澪、りんご飴あるよ。食べる?」

「食べたいけれど、丸ごとは少し大変だね」

「切ってもらえるか聞いてくる」


止める前に、湊は屋台へ行ってしまった。

戻ってきた紙皿には、食べやすく切られたりんご飴と、斜めに刺さった爪楊枝が一本。


「はい」

「ありがとう」


飴が少し歯についたあと、りんごの酸味が広がった。


「おいしいかい?」

「うん」

「よかった」


自分が食べたわけでもないのに、湊は満足そうに笑う。


来年、このりんご飴を買う時、彼の隣には誰がいるのだろう。


一度浮かんだ考えは、なかなか消えてくれなかった。


「次は射的しよう。去年のリベンジだ。」

「三発とも外した人が?」

「今年の僕は違うよ」

「その自信はどこから来るんだい?」

「今日は眼鏡を忘れてないから」

「去年の敗因、そこだったのか」


湊は真剣な顔でコルク銃を構えた。

一発目は菓子箱の横を抜け、二発目は棚の端に当たり、三発目は狙っていた兎のぬいぐるみ……ではなく、その隣の飴袋を落とした。


「……去年よりは進歩したね」

「一個取れたからね」

「その飴、近所の店で三十円だよ」

「思い出は値段じゃないよ」

「いいことを言って誤魔化そうとしているな」


澪が笑うと、湊も嬉しそうに笑った。


こういう時間が好きだった。

特別なことは何もない。ただ隣を歩き、くだらない話をしているだけでいい。


ただ。東京へ行けば、その『普通』が一番遠くなる。


人が増えてきたところで、湊が手を差し出した。


「はぐれたら困るから」


昔から何度も聞いてきた言葉だった。


澪はその手を取る。湊は何も迷わず握った。

彼にとっては、人混みではぐれないための手なのだろう。


それでも澪は、少しだけ握り返した。


湊が振り向く。


「人、多いね」

「……そうだね」


人混みが不安なのだと思ったらしい。安心させるように、もう一度、手へ力を入れられた。


違う、と言えなかった。


「おや、澪ちゃんじゃないか」


商店街で菓子屋を営む老夫婦が、向こうから歩いてきた。


「まあまあ、浴衣が似合うねえ。本当に女優さんみたいだよ」

「ありがとうございます」

「東京へ行くんだって?」


澪の手の中で、湊の指が少し動いた。


「はい。卒業したら」

「寂しくなるねえ。でも、澪ちゃんならきっと有名になるよ」

「頑張ります」

「こいつなら大丈夫ですよ」


湊が隣から言った。


「昔から、やるって決めたことは最後までやるし。向こうでも絶対うまくいきます」


迷いのない声だった。


湊にそう言ってもらえるのは、うれしい。

それでも今は、素直に喜べなかった。


彼まで町の人たちと同じように、澪を送り出そうとしている。


老夫婦と別れたあとも、手はつながれたままだった。


「ねえ、湊」

「なに?」

「来年も、この祭りへ来るのかい?」

「もちろん。会社も関わってるし、来ない理由がないよ」

「……誰かと?」

「誰かって?」

「友達とか。女の子とか」


湊は少し考えた。


「どうだろう。澪は東京だろうし、一人で来るのも変だから、誰か誘うかもしれないね」


澪は返事をしなかった。


来年、別の女の子の手を取る湊を想像した。

たったそれだけで、さっき食べたりんご飴の甘さまで嫌になった。


「……そうか」

「疲れた?」

「いや」

「人混み、苦手だもんね。少し静かなところへ行こうか」


昔からそうだった。

澪が困っていると、理由を全部聞く前に、少しでも澪が楽になれる方を選ぶ。


しかし、湊は今日、澪が苦しい理由だけは分かっていない。


湊に手を引かれ、二人は古い神社へ向かった。

石段の脇には、大きな楠が立っていた。




澪は楠の幹へ手を置いた。


子どものころは、もっと大きな木だと思っていた。

祭りの音は、木々の向こうから少し遠く聞こえる。


あの夜も、同じように祭囃子が鳴っていた。


澪は昔からよく目立った。

大人たちは、綺麗だ、お人形みたいだ、将来はモデルになれると褒めた。


けれど同い年の子どもたちにとって、それは必ずしも褒め言葉ではなかった。


一緒にいると自分が可愛く見えない。

男子が澪ばかりを見る。


澪は何もしていなくても、時々そんな理由で距離を置かれた。

年齢が上がるにつれ、澪が何を好きで、何を嫌がるかよりも、誰が彼女と一緒にいるかを気にする人間が増えていった。



だから澪は、平気な顔をするのが上手くなった。



しかし、湊だけは違った。


髪を切れば、少し短くなったねと言うだけだった。

転んで膝を汚せば、格好悪いと笑ってから絆創膏を貼った。

給食の嫌いなものを押しつけようとすれば、自分で食べなよと皿を戻してきた。


澪が機嫌を悪くすると、周りが顔色を窺う中、平気な顔で言った。


「今日、感じ悪いね」


腹が立った。

その日の帰りは、十分くらい口を利かなかった。


でも、うれしかった。


湊は、綺麗な白石澪ではなく、面倒で、不機嫌で、負けず嫌いな澪を見ていた。


小学校一年生の夏。


澪は白い生地に赤い花の浴衣を着ていた。

湊に見せるのを楽しみにしていたが、待ち合わせ場所へ向かう途中、同じ学校の子どもたちに囲まれた。


「澪ちゃんだけ、すごく可愛いの着てる」

「ずるい」

「澪ちゃんといると、みんな澪ちゃんばっかり見るもん」


男子たちも寄ってきた。


「澪、俺と回ろうよ」

「俺が先に言った」

「浴衣、触っていい?」


腕を引かれ、袖へ触れられた。

やめてと言ったのに、皆は笑った。


遊んでいるだけ。

ちょっと触っただけ。


嫌がる澪の方が悪いような顔をされた。


澪は腕を振り払い、その場から逃げた。

神社の裏まで走り、楠の根元に座り込む。浴衣の裾が汚れていたが、もう人のいる場所へ戻りたくなかった。


泣かないつもりだった。

けれど、膝へ顔を伏せると涙が出た。


「澪?」


顔を上げる。


湊が立っていた。額には汗が浮かび、片方の草履はほとんど脱げかけている。


「こんなところにいたんだ。探したよ」

「……どうして?」

「一緒に回る約束だったから」


湊は澪の前へ手を差し出した。


「もうすぐ花火、始まるよ。一緒に見よう」

「私といたら、湊まで何か言われるよ」

「何かって?」

「変だとか。女みたいだとか」


湊は少しだけ考えた。


「じゃあ、僕が怒るから大丈夫」

「……怒るの?」

「うん。澪が嫌がってるのに言うのは、よくないから」


子どもの声で、特別強そうにも聞こえなかった。

それでも湊は、本当にその通りにした。


表通りへ戻る途中、先ほどの男子が近づいてくると、澪の前へ立った。


「澪、嫌がってるじゃん。やめなよ」

「遊んでただけだよ」

「嫌がってたら、遊びじゃないよ」


大声ではなかった。


ただ、一歩も退かなかった。


その夜、二人は神社の石段に座り、花火を見た。


「来年も一緒に見よう」

「来年も?」

「うん」

「その次も?」

「その次も」


湊にとっては、それくらい普通の約束だったのだろう。


澪にとっては、自分からなくしたくないと思った、初めての約束だった。


そして高校三年の初夏。


澪は、その相手へ東京へ行くことを告げた。


放課後の河川敷には、まだ屋台も提灯もない。夏草が風に揺れ、川の音だけが聞こえていた。

湊は隣で、地元の大学へ進むことや、父の会社を手伝うことを話していた。


彼がここに残ることは知っていた。

だから、言いにくかった。


「湊」

「どうしたの?」

「卒業したら、東京へ行くことになった」


返事がなかった。


「前に話していた事務所から、正式に声をかけてもらったんだ。卒業後は向こうへ移って、本格的に仕事を始める」

「……東京?」

「うん」

「いつから?」

「卒業式のあと、すぐに」


湊は立ち止まっていた。

手にしていたペットボトルが、少しへこんでいる。澪ではなく、川の方を見ていた。


澪はできるだけ明るく話した。


事務所の人たちは親切だったこと。

モデルだけでなく、演技も勉強できること。

自分にとって、大きな機会だと思っていること。


どれも本当だった。


それとは別に、聞きたい言葉があった。


寂しい。

行かないでほしい。

もっと一緒にいたい。


一つでも言ってほしかった。


湊はしばらく黙ったあと、ようやく笑った。


「そっか。すごいじゃん」

「……そうかな」

「うん。澪なら、東京でも絶対うまくいくよ」


湊は、澪が困らないための話をした。


住む場所は決まっているのか。

必要なものはそろっているのか。

困ったら、いつでも連絡してほしい。


寂しいとは、一度も言わなかった。


「おめでとう、澪」


澪も笑った。


「ありがとう。湊にそう言ってもらえて、安心したよ」


安心などしていなかった。


本当は、少しくらい困ってほしかった。


「あのころは、よくここで泣いてたね」


現在の湊の声で、澪は楠から手を離した。


「昔は僕が迎えに来て、澪を守ってたんだっけ」

「……覚えていたのかい?」

「もちろん。でも今は、もう僕が守らなくても大丈夫だね」


澪は一度、返事を忘れた。


湊にとっては、澪が強くなったという意味なのだろう。

けれど澪には、もう必要ないと言われたように聞こえた。


「……そうだね」


澪は笑った。


こういう時に笑うのは、昔から得意だった。


「行こうか。そろそろ花火が始まる」




河川敷には、すでに多くの人が集まっていた。


湊は途中で何度か町の人に呼び止められた。

来年はもっと仕事を覚えないとな、と笑われ、そのたびに丁寧に返事をしている。


東京へ一緒に来てほしい。


澪は何度も考えたことがある。

けれど、言ったことはない。


湊はこの町が好きだ。父親の会社を継ぎ、ここにいる人たちの役に立ちたいと思っている。

澪は、そんな湊が好きだった。


だから、自分のために捨ててほしいとは言えなかった。


話を終えた湊が戻ってくる。


「ごめん。待たせた」

「構わないよ」

「その……渡したいものがあって」


鞄から取り出したのは、小さな写真帳だった。


「開けても?」

「うん」


最初の頁には、幼い二人が映っていた。

湊は綿菓子を持って笑い、澪は隣で少し不機嫌そうな顔をしている。


頁をめくる。


家族と一緒に映った写真。

金魚すくいの水槽を覗き込む写真。

中学生になり、少し距離を空けて並んでいる写真。


初めは両親や友人たちも映っていた。

年を追うごとに人数が減り、最後には二人だけになった。


最後の一頁は空いていた。


「今年の写真を撮ったら、そこに入れて」


湊が言った。


「東京へ持っていけるようにと思って。向こうで寂しくなったら、これを見たら少しくらい元気になるかなって」


澪は白い頁を見つめた。


湊は、今年の写真を入れるために空けたのだろう。

分かっている。


それでも、ここへ写真を入れたら、二人の夏が終わるように思えた。


「来年からは、東京で誰かと祭りに行ったりするのかな」


湊が笑いながら言った。


澪は写真帳を閉じた。


思ったより大きな音がした。


「どうしたの?」


「どうして」


自分でも驚くほど低い声だった。


「どうして君は、そんなに簡単に私を誰かへ渡そうとするんだ」

「え?」

「来年は東京で誰かと?」

「いや、別に深い意味は――」


「私はあるよ」


湊は、本当に分かっていない顔をしていた。


「私は、あるんだ」


花火の開始を告げる放送が流れた。


最初の花火が上がる。

白い光が二人の顔を照らし、少し遅れて大きな音が届いた。




「私は東京へ仕事をしに行くんだ。君と別れるためじゃない」


澪の頬が濡れていた。


湊は何も言えなくなる。

澪は昔から、人前では泣かなかった。


その澪が、自分の前で泣いている。


「なのに君は、ずっと私を送り出そうとしている」

「澪」

「東京で誰かと祭りに行くつもりなんてない。来年も、その次も、私は君とここへ来るつもりだった」

「でも、仕事が」

「仕事があっても帰ってくる」


澪はすぐに言い返した。


「何日も前から予定を空ける。忙しくても帰ってくる。私は、そのつもりだった」


湊は写真帳を見る。

地元を思い出してもらうために作ったものを、澪は胸の前へ抱えていた。


「君は忘れたのかもしれないけれど、私はずっと、あの日の約束を覚えていた」

「忘れてないよ」

「なら、どうして終わらせようとするんだ?」

「終わらせるって」

「どうして私は、君がいなくても平気だと思ったんだ」

「平気だなんて思ってない」

「言ったじゃないか。もう守らなくても大丈夫だと」

「それは、澪が強くなったって意味で」


「強くなったら、君を必要としてはいけないのかい?」


湊は口を閉じた。


「私は昔から、人に囲まれていた。でも、皆が見ていたのは顔とか、女としての私とか、そういうものだった」


澪は一度、息を整える。


「君だけだった。君だけが、私を普通に扱ってくれた。不機嫌なら感じが悪いと言ったし、間違えたらからかって笑った。私が嫌がっている時は、庇って前に立ってくれた」


澪の手がそっと、湊の甚平を掴む。


「私が仕事を始めたのも、君にすごいと思ってほしかったからだ」

「……僕に?」

「そうだよ。広告に出た時も、事務所から声をかけられた時も、最初に君の顔が浮かんだ」


初夏の河川敷を思い出す。


「東京へ行くと伝えた日、君はおめでとうと言ったね」


あの日、東京と聞いた瞬間、湊は何を言えばいいか分からなくなった。

ただ、澪の邪魔をしてはいけないと、それだけは思った。


「うれしかったよ。君に認めてもらえた気がしたから。でも、それ以上に寂しかった」


澪は湊から目を逸らさない。


「どうして君は、一度も寂しいと言ってくれなかったんだ?」

「それは……」

「私は仕事を諦めてくれと言ってほしかったわけじゃない。ただ、君の未来から私がいなくなることを、少しくらい嫌がってほしかった」


「嫌だったよ」


澪の指が止まった。


「東京って聞いた時、本当は行かないでって言いたかった。卒業しても、今までみたいに会いたいって言いたかった」

「なら、どうして」

「僕が言ったら、澪が迷うと思ったから」


澪は泣いたまま、少し笑った。


「迷わせてほしかったよ」


湊は言葉を失う。


「少しくらい、私のことを困らせてほしかった。私の幸せを、君一人で決めないでくれ」


澪の拳が、湊の胸へ当たる。


湊は、やっと分かった。

澪が欲しかったのは、綺麗に送り出されることではなかった。


花火が一度途切れた。



「私は君が好きだ」



短い言葉だった。


「ずっと好きだった。応援してほしいだけじゃない。遠くから見ていてほしいわけでもない」


澪は湊の顔をまっすぐ見た。



「隣にいてほしいんだ」



湊は、すぐに返事ができなかった。


うれしかった。

今すぐ抱きしめたいと思った。


それでも、先に言わなければならないことがある。


「僕は、東京には行けない」


澪の表情は変わらなかった。


「父さんの会社を継ぎたい。この町に残りたいんだ。澪のためにそれを捨てたら、いつか澪のせいにしてしまうかもしれない」


言ったあとで、ひどい言い方だと思った。

けれど澪は、目を逸らさなかった。


「私も、仕事を捨ててここに残ったら、いつか君のせいにしてしまうと思う」


二人とも、相手が好きだった。


それでも、同じ場所へ行くことはできない。


湊は澪の手を見た。


幼いころ、自分が差し出した手。

今日、人混みではぐれないように握った手。


離れて暮らすことになっても、この手を離したいとは思わなかった。


湊は澪の手を取った。


「それでも、別れたくない」


澪が顔を上げる。


「東京とここじゃ、簡単には会えないと思う。毎日話せない日もあるし、喧嘩もするかもしれない。でも、澪の人生から僕がいなくなるつもりはない」


澪の目から、また涙が落ちた。

今度は、少し笑っていた。


「それは、告白の返事だと思っていいのかな」

「……うん」

「小さい」

「僕も澪が好きだ」


声に出すと、急に恥ずかしくなった。


「いつから?」

「分からない」

「鈍いな」

「自分のことだからね」

「私の気持ちにも気づかなかったじゃないか」

「それは……ごめん」

「では、これから一年かけて反省してもらおうかな」

「一年で済む?」

「君の態度次第だね」


澪のいつもの話し方が戻ってきた。


「来年、またあの楠の下で会おう」

「分かった。ただし、君がほかの女性を連れてきたら、どうなるか分かっているね」

「澪こそ、東京で格好いい人を見つけても知らないからね」

「見つける必要がない」

「どうして?」

「もう見つけているから」


湊が黙ると、澪は楽しそうに目を細めた。


「顔が赤いよ」

「花火のせいじゃない?」

「今の花火は青だったけれど」

「そういうところだけよく見てるね」

「君のことは、ずっと見ているからね」


最後の大玉が上がった。

金色の光が空いっぱいに何個も花の形に広がり、少し遅れて大きな音が町へ響いた。


花火が終わると、人々が一斉に立ち上がった。

二人は人波を避け、もう一度神社の方へ歩く。


つないだ手は、そのままだった。


石段の前で、澪が足を止める。


「湊」

「なに?」

「少しくらい、恋人らしいことをしてもいいかな」


意味を聞く前に、澪が近づいた。


唇に、柔らかいものが触れる。


本当に一瞬だった。


離れたあとも、湊はしばらく息の仕方を忘れていた。

澪の頬も赤い。


それでも、すぐにいつもの笑みを作る。


「これで君は、私の恋人だ」

「……うん」

「返事が小さいな」

「僕は、澪の恋人です」

「よろしい」


澪は満足そうに頷き、湊の肩へ頭を預けた。


「来年まで、長いね」

「きっと、すぐだよ」

「根拠は?」

「ない」

「まったく。君は時々、ひどく適当だな」


そう言いながら、澪は笑っていた。





それから、一年が過ぎた。


澪は東京で仕事を始めた。

雑誌、広告、配信ドラマ。少しずつ彼女の名前を知る人が増えていった。


湊も地元の大学へ通いながら、父の会社で仕事を学び始めた。


毎日話すとは約束しなかった。

それでも、眠る前には短いメッセージを送った。


今日は何を食べた。

授業で失敗した。

撮影で同じ台詞を何度も間違えた。


どうでもいい話を、毎日のように続けた。


うまくいく日ばかりではない。


澪と共演した俳優の記事が出れば、湊は少しだけ返信を遅らせた。

湊が地元企業の社長令嬢と食事をしたと知れば、澪は仕事の合間に電話をかけてきた。


『ただの父親同士の食事だと言ったね』

「うん」

『では次に会った時、君が誰の恋人か分かる写真を撮ろう』

「どんな写真?」

『人前に出られる程度には手加減してあげるよ』

「手加減しなかったら?」

『知りたいのかい?』


喧嘩もした。

それでも最後には、どちらかが言った。


会いたい。

寂しい。

声が聞きたい。


一年前なら飲み込んでいた言葉を、今は言うようにしていた。



祭りの日。



湊は去年よりも多くの仕事を任され、夕方になってようやく紺色の甚平へ着替えた。


約束の時刻より、一時間近く早く神社へ向かう。

石段の脇の楠は、今年も変わらず立っていた。


スマートフォンを見る。

まだ時間はある。


境内を一周して戻り、もう一度時計を見る。

五分しか経っていなかった。


落ち着かないまま石段へ戻ったところで、下駄の音がした。


木々の間から、一人の女性が歩いてくる。


藍色の浴衣。

白い花。


去年と同じ浴衣だった。


澪も湊を見つけ、幼いころから知っている笑い方をした。


「待たせたね」

「僕も今来たところ」

「一時間前からここにいた人の台詞ではないね」

「どうして知ってるの?」

「君のお父様から連絡が来たよ」

「父さん……」


澪が笑う。


電話でも映像でも、何度も聞いた声だった。

それでも、同じ場所で聞くと安心した。


「そうだ。君に見せたいものがある」


澪は持っていた鞄から、薄い藍色の写真帳を取り出した。

表紙の角は、一年前より少し擦れている。


「持ってきてくれたんだ」

「当然だろう」


澪が最後の頁を開く。


去年、花火が終わったあとに撮った写真が入っていた。

神社の石段に並び、二人とも照れたように笑っている。


それで終わりではなかった。


写真帳の後ろには、新しい透明の頁が何枚も足されていた。


「……増えてる」

「一頁で足りると思ったのかい?」


澪が呆れたように言った。


「今年の写真も必要だろう。その次も、その次も」


完成させるために作ったはずの写真帳は、もう完成することをやめていた。


澪が片手を差し出す。


幼いころは、湊が差し出した手だった。


「今年も、一緒に行こうか」


湊はその手を取った。


「うん」


二人は並んで、神社の石段を下り始める。


木々の向こうには、祭りの明かりが見えていた。


焼きそばの匂い。

祭囃子。

子どもたちの声。


去年と同じだった。


それが、うれしかった。


澪が隣で尋ねる。


「来年も?」


湊は、つないだ手へ力を入れた。


「来年も。その次も」


澪は満足そうに笑う。


木々の向こうで、最初の花火が上がった。



「おかえり」



澪も前を向いたまま答える。



「ただいま」



二人の手は、去年よりもしっかりとつながれていた。


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