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地獄の鬼は怖い鬼

作者: 阿野麿 刈須
掲載日:2025/12/20

 気づいたとき、俺は石畳の上に膝をついていた。


 空は赤黒く、遠くで炎が呼吸する音がする。硫黄の匂いが鼻の奥に刺さった。立ち上がろうとして、足が震える。痛みはないのに、身体が勝手に「ここはまずい」と判断している。


 目の前に、長い列があった。人、人、人。誰もが黙って、重いものを背負ったみたいな姿勢で進んでいく。その列の脇に、黒い影が点々と立っている。鬼だ。角、牙、爪。絵で見たままの、しかし生々しい鬼。


 ただし、どの鬼も同じではない。ある鬼は上等なスーツを着て、ある鬼は小学生の体格で、ある鬼は妙に親しげな笑顔をしている。


 列の先、巨大な机があり、その向こうに王座のような椅子。座っているのは、赤い顔の巨体だった。眉間が割れるほど深い皺。見下ろす眼だけが、冷たく澄んでいる。


「ようこそ。ここは地獄の入口、裁きの間。お前の番だ」


 声は太いのに、妙に聞き取りやすかった。俺の喉が鳴る。


「……閻魔、か」


 机の上には札が何枚も積まれていた。俺の名前が書かれた札が一枚、滑るように前に出てくる。


「お前には、専属の鬼が付く」


「専属?」


「この地獄の決まりだ。生前、お前が一番怖かったもの。それが鬼となって、お前のそばを離れない」


 俺は笑いそうになった。こんなところで、冗談みたいなルールを言うのか。


 視線をずらすと、列の途中で男が泣き崩れていた。背中に、がっしりした鬼が立っている。鬼は、肩を抱くように男の背を撫でていた。撫で方が、妙に優しい。


「……あれが鬼?」


「見てみろ。あの男は人を殺した。誰より凶暴なはずだった。だがあいつが生前一番怖かったのは、父親の静かな怒りだ」


 鬼の顔は、いびつに人間じみていた。年配の男の面影。怒鳴らず、殴らず、ただ黙って見下ろす顔。殺人者の男が子どもみたいに身を縮めているのを見て、背筋が冷えた。


 別の場所では、女が「違う、違う」と繰り返していた。その横にいる鬼は、小さかった。幼い子どもの身体。手には、古びたぬいぐるみ。


「子を捨てた女だ。鬼は、その子。怖かったのは泣き声だ。泣き声が、誰かに聞かれて、全部が露見するのがな」


 小さな鬼は泣いていない。ただ、じっと女を見ている。見つめられるだけで、女の声が擦り切れていく。


「……怖いもの、か」


 俺は拳を握った。怖いものなら、いくらでもある。暗闇? 高いところ? 死? 孤独? 貧乏? いや、そんなのは誰でも怖がる。


「お前は何が出ると思う」


 閻魔の問いは、からかいじゃない。答えを出せ、と言っている。


 俺は目を閉じた。生前の景色が、断片みたいに浮かぶ。


 学校。俺が笑っている。誰かの机に画びょうを撒いた。踏んで叫ぶ声を聞いて、周りも笑った。俺は一番大きく笑った。笑わないと、いじられる側に回る気がしたからだ。


 職場。後輩の手柄を、俺の手柄みたいに上に報告した。後輩は黙っていた。黙るように『指導』してきたからだ。


 恋人。弱音を吐いたら終わると思っていた。だから怒鳴った。泣かせて、謝らせて、主導権を握った。この付き合い方が、一番楽だった。


 家。母親からの電話を切った。泣き声が混じっていた。助けてと言われる前に切った。翌日、病院から連絡が来た。倒れて運ばれたと。俺は「仕事がある」と言って行かなかった。行かなかった理由を、最後まで誰にも言わなかった。


 思い出すたび、胃の奥が冷える。悪いことは、ある。いくらでもある。だが、どれも「怖いもの」とは結びつかない。俺は怖がってなんかいない、という顔でやってきた。


「分からない」


 俺は口にした瞬間、少しほっとしてしまった。分からないなら、仕方がない。そんな逃げ道が、どこかにある気がした。


 閻魔がゆっくり息を吐いた。


「分からない、か。分からないふりは得意そうだな」


 机の上の札が、一枚だけ裏返る。俺の名前の札だ。裏には、短い文字が書かれていた。俺は読めない。読めないのに、意味だけが胸に落ちてくる。


 そのとき、背後で足音がした。


 振り返る。


 そこに立っていたのは、鬼だった。


 角も牙もない。赤い肌でもない。人間の姿。しかも、俺と同じ顔。


 俺は、息を止めた。


 閻魔が言った。


「お前の鬼はそれだ」


「……俺?」


 閻魔は札を裏返し、机に戻した。


「連れていけ」

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