地獄の鬼は怖い鬼
気づいたとき、俺は石畳の上に膝をついていた。
空は赤黒く、遠くで炎が呼吸する音がする。硫黄の匂いが鼻の奥に刺さった。立ち上がろうとして、足が震える。痛みはないのに、身体が勝手に「ここはまずい」と判断している。
目の前に、長い列があった。人、人、人。誰もが黙って、重いものを背負ったみたいな姿勢で進んでいく。その列の脇に、黒い影が点々と立っている。鬼だ。角、牙、爪。絵で見たままの、しかし生々しい鬼。
ただし、どの鬼も同じではない。ある鬼は上等なスーツを着て、ある鬼は小学生の体格で、ある鬼は妙に親しげな笑顔をしている。
列の先、巨大な机があり、その向こうに王座のような椅子。座っているのは、赤い顔の巨体だった。眉間が割れるほど深い皺。見下ろす眼だけが、冷たく澄んでいる。
「ようこそ。ここは地獄の入口、裁きの間。お前の番だ」
声は太いのに、妙に聞き取りやすかった。俺の喉が鳴る。
「……閻魔、か」
机の上には札が何枚も積まれていた。俺の名前が書かれた札が一枚、滑るように前に出てくる。
「お前には、専属の鬼が付く」
「専属?」
「この地獄の決まりだ。生前、お前が一番怖かったもの。それが鬼となって、お前のそばを離れない」
俺は笑いそうになった。こんなところで、冗談みたいなルールを言うのか。
視線をずらすと、列の途中で男が泣き崩れていた。背中に、がっしりした鬼が立っている。鬼は、肩を抱くように男の背を撫でていた。撫で方が、妙に優しい。
「……あれが鬼?」
「見てみろ。あの男は人を殺した。誰より凶暴なはずだった。だがあいつが生前一番怖かったのは、父親の静かな怒りだ」
鬼の顔は、いびつに人間じみていた。年配の男の面影。怒鳴らず、殴らず、ただ黙って見下ろす顔。殺人者の男が子どもみたいに身を縮めているのを見て、背筋が冷えた。
別の場所では、女が「違う、違う」と繰り返していた。その横にいる鬼は、小さかった。幼い子どもの身体。手には、古びたぬいぐるみ。
「子を捨てた女だ。鬼は、その子。怖かったのは泣き声だ。泣き声が、誰かに聞かれて、全部が露見するのがな」
小さな鬼は泣いていない。ただ、じっと女を見ている。見つめられるだけで、女の声が擦り切れていく。
「……怖いもの、か」
俺は拳を握った。怖いものなら、いくらでもある。暗闇? 高いところ? 死? 孤独? 貧乏? いや、そんなのは誰でも怖がる。
「お前は何が出ると思う」
閻魔の問いは、からかいじゃない。答えを出せ、と言っている。
俺は目を閉じた。生前の景色が、断片みたいに浮かぶ。
学校。俺が笑っている。誰かの机に画びょうを撒いた。踏んで叫ぶ声を聞いて、周りも笑った。俺は一番大きく笑った。笑わないと、いじられる側に回る気がしたからだ。
職場。後輩の手柄を、俺の手柄みたいに上に報告した。後輩は黙っていた。黙るように『指導』してきたからだ。
恋人。弱音を吐いたら終わると思っていた。だから怒鳴った。泣かせて、謝らせて、主導権を握った。この付き合い方が、一番楽だった。
家。母親からの電話を切った。泣き声が混じっていた。助けてと言われる前に切った。翌日、病院から連絡が来た。倒れて運ばれたと。俺は「仕事がある」と言って行かなかった。行かなかった理由を、最後まで誰にも言わなかった。
思い出すたび、胃の奥が冷える。悪いことは、ある。いくらでもある。だが、どれも「怖いもの」とは結びつかない。俺は怖がってなんかいない、という顔でやってきた。
「分からない」
俺は口にした瞬間、少しほっとしてしまった。分からないなら、仕方がない。そんな逃げ道が、どこかにある気がした。
閻魔がゆっくり息を吐いた。
「分からない、か。分からないふりは得意そうだな」
机の上の札が、一枚だけ裏返る。俺の名前の札だ。裏には、短い文字が書かれていた。俺は読めない。読めないのに、意味だけが胸に落ちてくる。
そのとき、背後で足音がした。
振り返る。
そこに立っていたのは、鬼だった。
角も牙もない。赤い肌でもない。人間の姿。しかも、俺と同じ顔。
俺は、息を止めた。
閻魔が言った。
「お前の鬼はそれだ」
「……俺?」
閻魔は札を裏返し、机に戻した。
「連れていけ」




