一人でいるには静かすぎる
「ねえ、これ何て読むの?」
「……静謐よ」
「じゃあこれは?」
「いやこれは……我が儘よ。見たことない?」
「え、そうなんだ……わがまま……」
橙色に変わった日差しがカーテンを染める授業も終わった放課後のこと。
図書室の貸し出しカウンターを挟んで、二人の女子生徒の会話が飛び交っていた。
会話というよりは補助というべきか。髪を金に染め、オレンジブラウンのカラコンを付けた女子生徒は貸し出しカウンターに座っている眼鏡をかけた女子生徒に本に書かれた文字の読み方を教わっている。
「よくこんなのずっと読んでられるわ……うららってマゾ?」
「あなた全世界の読書をする人を敵に回したわよ」
「だってさー」
「後うららって呼ばないで、おばかさん」
「だから馬飼だっての! 音読み? だっけ? するな! それにせっかく彩花ってかわいー名前があるんだからそっちで呼んでよね」
カウンターに座る眼鏡をかけた女子生徒――天内うららは視線を本からおばかと呼んでいる女子生徒に移す。
馬飼彩花。
図書室に来る生徒のイメージとは離れている風貌の女子生徒だ。髪を染めてカラコンも着け、さらには本を持つ手にはばっちりネイルが決まっている。
そして発言からわかる通り普段から本を読むというわけでもない。
「あなたは彩花って感じがしないから呼びたくない」
「あんただってうららって感じじゃないっての! いっつも容赦ないし!」
「だから呼ばれたくないって言っているじゃない」
手の中に収まるスマホで何でも検索できる時代……図書室からは人の気配がどんどんと消えていき、ただでさえ静けさが似合う場所はさらに静かになっていった。
そんな図書室を生徒十人ぶんくらいの騒がしさに変えている二人は元から友人同士だったわけでもない。
知り合ったのはそれこそ最近……彩花がとある目的で図書室に訪れるようになったからだった。
「いい加減諦めたら?」
「やだー……知的な女の子が好みって言ってたんだもんー……」
「……そもそも知的な女の子になろうとして図書室に通うっていう発想がもうどうかと思うけれど」
「う、う、うっさい! うららの馬鹿!」
「あなたよりは賢いわ」
発端は一月前、彩花が恋する乙女としての悩みを運んできた事から始まった。
隣のクラスの意中の男子生徒がぽろっと零した知的な子が好みという言葉。
男子同士の話題において最もベタと言っても過言ではないどんな子がタイプか雑談をひょんな事から聞いてしまった彩花は一目散にここに駆け込んできた。
知的=本というあまりにあんまりな結びつけが彩花の足をここに運ばせ、そして図書委員であるうららは巻き込まれる形で協力する事になったのである。
「うらら、今教えて貰ったとこで十ページだし……ほら、わかってるでしょ?」
「……一日十ページで限界とか牛歩どころの話じゃないわね」
「ぎゅうほ?」
「なんでもないわ」
「それで……今日は何かある?」
彩花はごくりと生唾を呑み込む。
うららはその真剣な表情に呆れながらもメモ帳を取り出した。
「神田君が最近はまってるのはアイドルの倉野紗季? って人らしいわ」
「うあー! やっぱ好みは清楚系!?」
「さあ? 『踏切の向こうに夕暮れが』ってドラマに出ているらしいけれど私はテレビ見ないから……」
「最近人気のリップスってユニットの子……うう……あたしとかけ離れすぎててえぐい……」
彩花の意中の男子生徒――神田君は隣のクラス。そして知的な女の子を目指して辿り着いた図書室にいたうららも隣のクラス。
つまり彩花の意中の男子生徒とうららは同じクラスだったのだ。
うららが巻き込まれたのは図書委員だった事よりも、この神田君と同じクラスだという点のほうが大きい。
うららに情報を餌にしてもらいながらここに通い、知的女子を目指しているのである。
「あら本当……あなたと全然タイプが違うわね」
「他人の口から聞くとさらにきっつい……はぁあ……」
カウンターにうなだれながら落ち込む彩花をよそにうららはスマホに映っているアイドルと彩花を交互に見比べる。
「タイプは違うけれど、容姿が整ってるって意味ならあなたも負けていないんじゃない?」
うららが言うと、彩花は勢いよく起き上がる。
「え!? うそ!?」
「本当よ。私があなたにお世辞なんて――」
「うららって人のこと慰めたりできんの……?」
「今そうした事を激しく後悔しているわ」
「うそうそ! ありがとうって! そっか……負けてないかぁ……あたしってそんなにかわよ?」
「はいはい、カワヨカワヨ」
自分の両頬に人差し指をあて、わざとらしいポーズを見せる彩花をてきとうにあしらってうららは視線を読んでいた本に戻す。
ちらっと彩花のほうを見れば落ち込みも少しはましになったようだ。
「あたしがやってって頼んだ事を心配すんのもあれだけど……盗み聞きしたのばれたりしてない? ばれたらきもがられるよ絶対」
「大丈夫よ。友達もいないからクラスで一人でいても違和感無いし……元々気持ち悪く思われてるでしょうから周りにばれた所で痛くも痒くもないわ」
「昼もボッチってこと!? じゃあこっちのクラスくればいいじゃん! おいでようらら」
「おばかさん? 神田君の情報が欲しいんじゃないの? 昼休みなんて雑談のためにあるような時間を逃してどうするの? それに、あなたやあなたの友達の輪に私みたいな異物が混ざってたらそれこそ気持ち悪いでしょうが」
「えー、そうかなー? あ、じゃあうららにもメイクしたげよっか? それならよくない?」
「よくない。死んでも嫌」
「あはははは! がちでいやそー!」
うららは眉間に皺を寄せながらカウンターに放り出された本を指差す。
「いいからあなたは読みなさい。知的な女の子とやらになるんでしょう?」
「はーい……」
嫌そうに読書に戻る彩花。
うららから借りた特に珍しくもない文庫本であり、わかりやすい表現ばかりのものだが……読書とは縁遠い上に漢字が怪しい彩花にとっては十分知的に繋がる本である。
今度は彩花が眉間に皺を寄せながらページをめくっていると、そんな様子を見かねたうららは口を開く。
「無理する必要はないのよ。別に本を読めるから知的というわけではないのだし」
「やだ……読む……。こんなにうららに協力して貰ってるのに途中でやめるとかないじゃん……! それにこれうららから借りたやつだし……」
「そう……じゃあもう少し頑張りましょうか?」
うららはカウンターに顎をついて本を読んでいる彩花の頭を自然に撫でる。
彩花が視線をやると、うららはもう本に視線を戻したところだったが……その表情は穏やかだ。
ふと、彩花の頭に疑問が浮かぶ。
――一月もの間通い続けている自分という邪魔者に何故うららは協力してくれているのだろうか?
邪魔なだけならまだしも、自分のために興味のない男子生徒の会話に聞き耳まで立てて情報を集めてくれている。
うららのお陰で知った事は多い。好きな食べ物や誕生日に家族構成、今日は好きなアイドルという参考になる情報まで仕入れてきてくれた。
「……ねぇ、うららって何であたしに協力してくれんの?」
悩んでも答えを出せるわけがないので彩花は直接聞く事にした。
うららは特に気にするでもなく、眼鏡の奥にある瞳は読んでいる本を見つめている。
「何でって? 協力しないほうがいいの?」
「そうじゃないけどー……うららって言う事きっついじゃん? でもその割にはしっかりあたしに協力してくれるからなんでかなーってさ。ほら……ぶっちゃけあたし邪魔じゃない? うららも静かに本読めたほうがいいじゃん?」
「……それは諦める建前?」
「違う違う! 普通に何でかなって! ほんとほんと!」
「……」
声色から怒気を感じ取った彩花は本を盾にして恐る恐るうららの様子を窺う。
ちらっとうららの表情を見ると、うららは薄く笑っていた。
「……そうね」
ぱたん、とうららは本を閉じる。
「うららって呼ばなくなるなら答えてあげるわ、おばかさん」
少し寂しそうに目を細めてうららはそう言った。
まるでそうなる事を望んでいないかのような……彩花にはそんな表情に見えた。
◆
「そ、そういう事だったんだ……!」
彩花が図書室に通い始めてから二ヶ月経った頃。
一日十ページが限界だった彩花も大分読書ができるようになっていた。
本を読むことができれば物語に没頭できるようにもなる。
うららから借りた本がどんな物語なのかを理解し、彩花はわくわくしながらページをめくる。
うららが貸したのはよくある探偵ものの小説だったが、今まで本に触れてこなかった彩花にとっては新鮮な物語に映っており……彩花は続きを読むために昼休みの時間にも図書室に訪れていた。
ラストまで残り僅かだった本を昼休みのほとんどを使って読破して彩花は本を閉じる。
「はああ……! おもろかったぁ……! あ、やべ」
図書室は相変わらず誰もおらず静かだった。
放課後とは違い、昼休みの時間にカウンターに座るのはうららではないため、いつもの調子で声を出してしまった彩花は図書委員に睨まれる。
彩花はその図書委員に謝るジェスチャーをすると図書室を出た。
「どうだうらら……! あたしだって読めるようになったぞ……!」
ついに借りた本を内容を理解しながら読み切った達成感のまま彩花はうららの教室へと向かっていた。
読み切った事を自慢したい気持ちとこの本について語りたい欲が足を動かす。
意中の男子である神田目当てで隣のクラスを覗くことはあるが、本を理由に行くのは何とも自分らしくなくてにやにやしてしまった。
「あ! うららと話すついでに知的アピできんじゃないこれ?」
と思った所で彩花は違和感を感じて首を傾げた。
「つい……で?」
神田の好みである知的な女の子になる……それが目標で本を読み始めた。
ならば神田への知的アピールが本命になるはずだ。
だというのに、自分が今向かっている目的はうららと本の話をする事になっている。
そんな微妙な変化が彩花に疑問を抱かせていた。
「ま、いっか」
どちらにしろ結果は同じじゃん、と彩花は階段を上がる。
「ん?」
階段を上がると目的であるうららの教室が少し騒がしい。
廊下にいる生徒も何かに驚いているようだった。
「馬鹿にするな」
うららの声が聞こえてくる。誰が聞いても怒気の籠った声だった。
彩花は何事かと他の生徒に混じってうららのクラスを覗く。
「あんたみたいな男が……馬鹿にするな! 馬鹿にするなよ!!」
覗くと彩花の意中の男子である神田君がうららに怒鳴られている最中だった。
うららは目立つような生徒ではない。自分でも友達がいなくて一人だと言っていた。
そんな目立たない生徒が怒鳴れば注目も自然と集まるというものだ。
クラスメイトからしてもうららの剣幕は普段の印象とかけ離れているのだろう。教室内は静まり返っている。
「はぁ……! はぁ……!」
うららは怒りの形相のまま呆然としている神田の横をすり抜けて教室の後ろから出る。
「なんだよあれ……」
「天内さんってあんなキャラなん……?」
「びっくりしたぁ……」
うららが教室から出て行くと、戸惑い混じりにクラスメイトも口を開き始めた。
目立たないクラスメイトが起こした突然のイベントに当然、雑談の話題は集中する。
「ねぇ……な、何があったん?」
「え? ああ……それが――」
彩花は入口近くに座る男子生徒に事情を聞くと、うららを追って駆け出した。
少しして授業のチャイムが鳴ったが、どちらの教室にも一人戻らない生徒がいた。
◆
「あー……不良眼鏡がいるー」
「……なによ」
うららは図書室のカウンターの中で腕を枕のようにして突っ伏していた。
彩花はカウンターの中に入ってうららの隣に座る。二か月通ったが、カウンターの中に入るのは初めてだ。
「聞いたよ。あたしらの悪口に怒ったんだって?」
「……」
「女子の名前挙げてってないだのありだの色々好き放題言ってたんだってね? いやー、そういう話題って盛り上がるからねー」
うららは顔を上げようとしない。
鼻をすする音だけが聞こえてくる。
「……私はあなたの事を下品だと思った事はないわ」
「え、そんなん言われてたの?」
「尻軽だとも思ってない」
「あははは! てきとうに流せばいいのにさー」
彩花が笑い飛ばすと、うららはがばっと起き上がる。
「私はあなたが二か月頑張っている姿を見ていたのよ。それなのにあんまりじゃない」
「まぁ、神田君はあたしがそんな事やってるって知らんし」
「わかってるわ。それでも我慢できなかった。あなたは真剣にここに通ってたのに……発想は確かにちょっとあれだったけど……」
「うわぁ……感動しかけたのに一言多いなぁ……」
うららはずれた眼鏡を直す……ように見せながら涙を拭いた。
隠すようにしても泣いている事はばれているのだが、彩花は気付かないふりをした。
「あんな男はやめなさい。あなたにはもっといい人がいるわ」
「心配しなくてもいくらあたしでもそんなの聞かされたらね……うららがそんな嘘つくと思えないし。あーあ、顔はいいのになー……もったいなー……」
涙を拭き終わるのを見計らって彩花はうららの顔を覗き込む。
「ま、友達が一人出来たって事で許してやりますか」
「……友達?」
「うわぁ……」
「流石に冗談よ」
「よかった……本気だったら流石にドン引きだったわ……。いや冗談でもちょっと引いてる……」
「悪かったわ。照れ隠しみたいなものだと思って頂戴」
うららは視線を逸らす。耳が赤くなっているところを見ると照れ隠しというのは本当らしい。
彩花にとっては何ともあっさりとした失恋だったが、落胆は無かった。
むしろこの二ヶ月は無駄じゃなかったと思っている自分に彩花は驚いていた。
二ヶ月で自分のために泣いてくれる情に厚い友人が出来たと思えば十分すぎる報酬だ。
「あなた、授業に戻らなくていいの?」
「え? うらら戻んの? 流石に気まずくね?」
「私はそうだけど……あなたは隣のクラスだし、問題ないでしょ?」
「ちょちょちょ……あたしって友達一人置いてくやつに見える?」
「私はタイミングを見計らって帰るから心配しないで。幸い、財布やスマホは持ってるし……私の鞄をどうこうする物好きもいないでしょう」
「じゃあ一緒に帰っちゃおうぜ。どうせ午後だけだし、サボって寄り道しにいこ」
にひひと笑う彩花にうららは怪訝そうな表情を浮かべる。
腕を組み、少し考えたかと思うと大きなため息をついた。
「……不覚にも、それも悪くないって思っている自分がいたわ」
「よしきた! そうそう! うららに借りた本読み終わったわよ! 手初めてにどっか店入ってその話しよ!」
彩花は立ち上がり、うららの手を引いて立ち上がらせる。
午後の授業をサボって出掛ける……真面目な学生であったうららにとってはちょっとした冒険だ。
「友情もいいけど、彼氏欲しいー……うららはそういうのないの?」
「あったらあなたに二ヶ月も付き合ってないでしょう」
「あはは! そりゃそうだ!」
図書室の扉を出る前に、彩花は気になっていた事を再び聞く。
「ねぇねぇ、見事あたしの恋も終わっちゃったわけだし……教えてくれてもいいんじゃない? あんた……何で私に協力してくれたの?」
彩花が聞くと、うららは立ち止まって……図書室を見渡すように振りむいた。
「……図書室が静かすぎたから」
「は?」
あまりに理解できない答えに彩花はつい間の抜けた声を上げる。
図書室は静かであるべき場所ではないだろうか。先程もつい声を出して怒られたばかりだ。
「図書室は静かであるべきだけど、それでも静かすぎるのが嫌だったのよ。カウンターから見える空席に何の音もしない時間……まるで私の好きな場所に何の意味もないようで」
「うん……?」
「そんな時にあなたが来てくれた。正直来た理由には呆れたし、騒がしくて仕方なかったけれど……それでも誰も来ない静けさよりもずっと嬉しかった。だから協力しようと思ったの。あなたは毎日来てくれていたからそのお礼のつもりだったのよ」
うららは隣にいる彩花を見て満足するように微笑む。
一方、彩花には理解できないようで頭の上にはてなを浮かべていた。
「なんていうか……あんたのほうがよっぽど変じゃない?」
「そう? 自分の好きな場所が少しでも盛り上がって欲しいなんて……これ以上ありきたりな理由はないんじゃない?」
「えー、そういうもん……かなぁ?」
「そういうものよ」
二人は図書室の扉をそっと開ける。
他の生徒は授業中……廊下に教師がいないかを確認して外に出る。
「じゃあ今度あたしの好きな場所にも付き合ってよ。ありきたりな理由なんでしょ? 二ヶ月分とは言わないからさ」
「……やられた。あなたに言質をとられるとはね」
「うっし! じゃあ行こ! うらら!」
「わかったわよ……おばかさん」
自分が話した理由の手前うららがその誘いを断れるわけもなく。
どうせ放課後は私達しか来ないし、と図書室に鍵をして……二人は並んでこっそりと町のほうへと繰り出した。
お読み頂きありがとうございました。
またのお越しをお待ちしております。