1 苦水(にがみず)
離ればなれの暮らしがお互いの心の距離を縮めるなんて誰が言ったのか。
それは時を時間を隔たらせ、お互いの心を枯らしてゆくだけにすぎないのではないか。
* * *
「愛してる」
そう言って強く抱きしめてくれた。
私はまだ『愛』が何なのかも解らなかったが、その言葉に酔いしれた。
『愛してる』
あなたの声が言葉がこだまする。
『愛してる』
『私も愛してる』
あなたの言葉に気持ちに答えたいと、応えたいと心から思うようになっていく。
日に日にあなたへの思いが想いが溢れ出す。
愛も知らなかった私の心のグラスに、あなたからの言葉が一雫。
胸に響く度に増えてゆく甘い水滴。
それはいつの間にか私の中で、かけがえのない『愛』だと感じるようになっていった。
そしていつしかグラスの甘水は、今にも溢れ出しそうに。
そう気づいた時にはもう。
もう引き返せないほどにあなたを想っていたなんて。
きっかけはあなたから。
出逢った頃のあなたの言葉は、心地良く私の心を擽った。
毎日毎日囁かれる度、毎日毎日言葉の魔法が私に少しずつ少しずつかけられてゆく。
『大切な人』
そう言われる度にあなたを大切にするように振る舞った。
『大好き』
そう言われる度にあなたを意識していった。
あなたはズルい。
私が恋の魔法にかけられてゆくのを、どんな気持ちで見ていたのかしら。
毎日毎日あなたの声が聞きたかったし、もっと頻繁に会いたかった。
だけどそれは胸の奥にぎゅっとしまい込んで、苦しい気持ちを心のグラスに一雫。
会いたいのを、声が聞きたいのを我慢する度増えてゆく苦い水滴。
初めはほんの小さな水たまり。それが段々と大きくなってゆき、苦水はいつしかグラスから溢れかえる。
私はいつ溢れかえるか解らないグラスを眺めては、またひとつため息をつく。
そっと目をつぶり、溢れかえらぬようにグラスに蓋をして、自分の心に蓋をする。
会えない日々があまりに続くと、心は疲弊してゆく。
彼の愛情に対する不安と、彼の周りにいるだろう見えない相手への嫉妬から感情が細々と刻まれてゆき、彼の何気ない言葉に心が粉々に砕かれてゆく。
喉の渇きを潤すように僅かな補水をするけれど、それでは心の乾きは解決できなかった。
話し合いをすべきだったのかも。
もっとはじめに。心が悲鳴を上げる前に。
お互いの気持ちに寄り添って。
自分本位だった。
そう。ふたりとも。
想いが涸れてゆく。
愛する気持ちが涸れるのではない。
愛することに、想い続けることに疲れてしまったのだろう。
お読み下さりありがとうございました。
次話「2 きっかけ」は本日更新します。
全6話、ラストまでよろしくお願いします!