ヒビット海洋生物研究所
翌日、海岸都市エレーニアの土産物通りを、ラフカとレンは腕を組みながら歩いていた。開放的な表情の観光客が行き交う通りには、貝殻の細工物やアクセサリーなど色とりどりの商品に溢れている。
そんな華やかな通りで、レンは心配そうに隣のラフカの顔を覗き込んだ。
「やっぱり日焼けだったんじゃないか。そんなに真っ赤に腫れて……痛いだろう?」
「だ、大丈夫だもん!」
明らかに痩せ我慢だった。本来は白リューゲリアの花弁のように真っ白なラフカの肌が痛々しい赤色になっている。ヒリヒリと痛すぎて化粧も出来ず、ラフカは赤く腫れた顔を隠すことすらできない有様だった。
「宿で休んでていてもいいんだよ?」
「大丈夫だもん! 僕は探偵助手だから、レンと一緒に行くんだも~ん!」
ラフカはレンと組む腕に力を込める。少しでも自分を意識してくれるように、地道なアピール活動を続けることをラフカは昨日ベッドの中で考えていたのだった。
「ねえ、僕も行っていいでしょ?」
「わかったよ」
根負けしたようにレンが苦笑した。
「それで、今日はまずはどこに行くの?」
「うーん……最初はイヴが生家として城に届け出ていた屋敷に伺おうかと思っていたんだが……。ほら、ラフカも資料を見ただろう? この地域の名家メリオット男爵邸だよ」
レンは懐から折り畳んだ地図を取り出し、宿の女将に聞いていくつか印をつけた場所を見つめる。
「そこに行く前に、昨日のあの人に会いに行ってみようか?」
「昨日のあの人って……もしかして、あのクラゲのおじさん?」
ラフカはストライプ柄の全身水着の中年男性を思い出す。
「え~、でも、この街にはイヴさんとか、あやしげなタブロイド発行元とかを調査しに来たんでしょ?」
「ああ。でも、なんだかあの男性は気にかかる」
「探偵の勘ってやつ?」
「何の根拠もないけどね」
レンが苦笑すると、ラフカは首を横に振ってからにっこりと笑う。
「レンがそう思うなら、きっとそうだよ! 行ってみよう!」
二人は連れ立って、土産物通りの少し奥まった路地に入り込んだ。
※
その建物は蔦に取り巻かれた小さな古い一軒家で、エレーニアの建物にしては随分と地味で暗い雰囲気だった。「ヒビット海洋生物研究所」という看板が斜めにかかったドアをノックすると、「開いてるぞぉぉぉぉ!」と大きな声が返ってくる。ラフカとレンが扉を開けると、大きな体を猫背にして机に向かっていた男が顔を上げた。
「やあやあ! 昨日海で会った君達かぁぁぁぁ! いらっしゃぁぁぁぁい!」
中年男性は海岸で会った時と同じように、大声でラフカとレンを迎えた。
「昨日はおかげで助かったぞぉぉぉぉ! 今、マダラホシクラゲから取り出した毒腺からぁぁぁぁ、とある成分を抽出している最中なのだぁぁぁぁ!」
そう言って彼が指さした先では、油ランプの炎が透明な瓶の中の青い物体をぐつぐつと湧きたつまで熱していた。そこから発生している薄青色の蒸気を別の瓶に集め、さらにそこから滴り落ちるライトブルーの雫を細長い瓶が受け止めるようにスタンドを組んで設置されている。
「これを原料にだねぇぇぇぇ、痛み止めの薬を生成することができるのだよぉぉぉぉ!」
「貴方は薬剤師なのですか?」
何かの成分を抽出しているという装置を興味深げに眺めながらレンが尋ねると、男性はニヤリと笑いながら首を横に振った。
「ワシの名前はぁぁぁぁ、ブレア・ヒビットォォォォ! 薬屋でも料理人でもなぁぁぁぁく、海洋生物の生態に関する研究家なのであぁぁぁる! ヒビット博士と呼んでくれたまえぇぇぇ! ガアハハハアアア!」
ひとしきり豪快に笑った後、ヒビット博士は悲劇の主役のように顔を顰める。
「だがしかぁぁぁぁし! 海洋生物の生態研究だけではなかなか金にならぁぁぁぁん! ということでだねぇぇぇぇ、製薬や食品加工の開発依頼なども請け負っているというわけなのだぁぁぁぁ!」
「な、なるほどぉ……」
ラフカはヒビット博士の大声やテンションに圧倒されながら頷いた。
ヒビット博士の研究所は、雑然というよりは混沌としていた。机の上には開いた本や積まれた本、走り書きの目立つノート、メモ用紙、ペン、観察用のルーペがいくつも転がり、壁の棚には大量の本と生物の骨格標本、実験に使うのであろう大小さまざまな瓶や解剖道具がある一方、メモ書きが添付された大小様々の壺には各種の薬品が収められているようだった。さらに、窓際に置かれたテーブルには、魚肉で作ったらしき団子のような練り物が整然と並んでいる。
「あの魚肉練り物は乾燥中なのであぁぁぁる! 街の観光協会と協力して開発中のぉぉぉぉ、エレーニアの名産品候補だぁぁぁぁ!」
博士は練り物を一つ抓んで口に放り込み、咀嚼しながらこめかみを押さえる。
「ふぅぅぅぅむ! まだまだ改良の余地がありそうだぁぁぁぁ!」
海洋生物学者だというこのエキセントリックな男性を、ラフカは茫然と見つめた。ヒビット博士は背が高いのに猫背、金色の巻き毛はボサボサ、不精髭も生え放題で、よれよれの服の上に黄ばんだ白衣を羽織っている。とはいえ、きちんとスタイリングすればそれなりにスマートな紳士に化けそうなのに残念だと、ラフカは心の中で分析した。
「少し前に秘書が辞めてしまってねぇぇぇぇ! 今は男一人で切り盛りするこの研究所兼自宅ぅぅぅぅ! お茶すら碌に出せんですまないのぉぉぉぉ!」
「いえ、お気になさらず」
「とりあえず掛けてくれたまえぇぇぇ!」
博士に促され、三人は部屋の端のダイニングセットに腰かけた。
「君達ぃぃぃぃ、昨日のお礼にこの部屋に気になるものがあれば何でも持って行っていいぞぉぉぉぉ! ただしぃぃぃぃ! ヒトツメウミガメの骨格標本だけは超希少品ゆえにご遠慮願いたいがなぁぁぁぁ! グワハハアア!」
「はあ……」
ラフカは生返事を帰しつつ、ヒビット博士の言う標本が室内のどれのことを言っているのかすらわからず、途方に暮れた。彼は隣のレンに小声で耳打ちする。
「ど、どうしよう……僕、別にここにあるもので欲しいものなんてないけど……」
レンは少し考えてから口を開いた。
「ヒビット博士、それではお言葉に甘えて。実はこちらのラフカが日焼けのし過ぎで肌が痛いようなのですが、何かよい薬はありませんか?」
「ふぅぅぅぅむ! 日焼けのし過ぎは火傷と同じぃぃぃぃ! いい炎症止めがあるから、少し待っていたまぇぇぇぇ!」
博士はある大きな瓶の蓋を開け、中のクリーム状のものを柄杓で掬い、小瓶に小分けして二人に差し出した。
「これを塗ると症状が落ち着くはずだぁぁぁぁ!」
ラフカは半透明の軟膏を手で掬い、赤くなっている手の甲に試しに塗ってみる。驚いて彼は目を見開いた。
「すーっとする! 気持ちいい!」
「そうだろう、そうだろうぅぅぅ! 顔に塗っても平気だぞぉぉぉぉ!」
ラフカが恐る恐る自分の頬や額に塗ると、それは優しい感触で肌に馴染んだ。
「ラフカ、背中にも塗ってあげようか」
「ちょ、ちょっとレン!」
「うん?」
「人前で恥ずかしいよぉ」
赤い顔で言うラフカの声に、レンはハッとして手を止める。レンはラフカのドレスの背中の飾りリボンをほどいて軟膏を塗ろうとしていたのだ。
「すまない、ラフカ」
「も~! なんかレンってたまにすごくデリカシーがないよね!」
「数々の秘書が呆れて去っていくくらいガサツなワシでもぉぉぉぉ、他人の目の前で夫が妻のドレスを脱がそうとするのはよくないということくらいはわかるぞぉぉぉぉ!」
ヒビット博士の大声での主張に、レンは頭を横に振る。
「いえ。実は我々は夫婦ではないのです」
「ほおぉぉぉ? それは失礼したぁぁぁぁ! では、君達は何者なのかねぇぇぇぇ?」
「私は帝都グリアから来た探偵で、レンと言います。こっちは探偵助手のラフカ」
「それ言っちゃっていいの?」
旅行中通してきた夫婦のふりをしなくていいのかとラフカが上目遣いにレンの顔を覗くと、彼女は笑いながら頷いた。
「きっと博士には本当の身分を伝えた方が話が早いよ」
レンの言うとおり、博士は緑色の瞳をぎょろりと剥いてレンの顔を興味深げに覗き込んだ。
「探偵ぃぃぃぃ? それは興味深いぃぃぃ! ワシは初めて見たぞぉぉぉ、探偵とやらをぉぉぉ! 一体、何のために帝都の探偵がこの街にやって来たのかねぇぇぇぇ?」
「イヴという女性の調査のためです」
「イヴ……?」
レンの言葉を聞いた途端、博士の声のトーンが落ちた。彼の緑の目が忙しなく動き始めるのを、レンは注意深く見つめる。
「イヴ女史のことをご存知なのですか?」
「そ、それはもしや……長い黒髪のぉぉぉぉ? あのイヴさんかねぇぇぇぇ? 城へ上がることになってうちを辞めたぁぁぁぁ……?」
「やはりご存知なのですね」
「うむぅぅぅぅ! イヴさんは長いことうちで秘書をやってくれておったのだよぉぉぉぉ。ワシの性格に呆れたりぃぃぃぃ、実験を気味悪がったりでぇぇぇぇ、多くの秘書が短期で辞めていった中でもぉぉぉぉ、イヴさんだけは長いことうちで働いてくれたのだよぉぉぉぉ!」
興奮気味に身振り手振りを交えながら話す博士を、ラフカは目を丸くしながら見つめた。
お読みくださって、ありがとうございました。
今回のお話で、あの不思議なおじさんが調査に絡んできたようです。彼は何を知っているのでしょう?
次回もまた楽しんで頂けたら嬉しいです。




