十一話
まだいける。まだ耐えられる。切り札を切らなくてもまだ粘れる。
娘がひとり気絶したのは、そう思っていた矢先のことだった。突然のことに動揺してしまい、竜の爪がかすってしまった。もちろん弱ってると竜に気づかれるとまずいから、魔力で強化した爪で竜の腕を切りつけて、まだ余力を残していると錯覚させる。さっき切らせたのは反撃するためだと思わせる。
……どうやら、私が思っていたよりも遥かに大きな疲労が身体に溜まってしまっているようだ。変異していない通常の『兵士』は、疲れに鈍感だから気づくのが遅れてしまった。
その点、紅い娘は私以上に身体の不調に敏感だから、身体のコンディションを知るのに重宝していたが、慣れない戦闘に疲れているだけだろうと彼女の意思を軽視してしまっていた。
(これは切り札を切るべきだろうか?)
脳裏にそんな思いが浮かぶ。しかし、切り札とは言っても、我々ができることは諸刃の剣だ。一時的に身体の不調を取り除き、いつも以上のコンディションに持っていくことができるが、それを行えばしばらくした後に、身体の機能が無視しえないレベルにまで落ちてしまう。
相手の様子をそっと窺う。竜の身体には、決して小さくはない傷ができている。
まず足の鱗はとっくに剥げていて、血が流れている。よく見れば中の肉まで見えるほどだ。
次に尻尾。先にあるトゲの先端は欠けていて、突いたとしても当初ほどの威力は出ないだろう。それに尻尾の中間から先にかけて、鱗が剥げている部分がある。爪による切り傷も所々に見られる。
頭にも傷はある。三本あった角のうち、一本は大きな罅が入っていて、あと二、三度叩けば折れそうになっている。頭という大切な部分を守るために鱗が丈夫にできているためか、まだ鱗は剥げていないが、それでも罅が入っていてダメージの大きさを物語っている。
それと、二対の複眼のうちの一方が大きくへこんでいる。何度か目は狙っていたのだが、角を振り回されて阻まれていた。しかし一度だけ、本当にたまたま攻撃を当てることができた。きっと、竜の視界の一部を潰すことができたはずだ。それ以降の攻撃に対して、少しだけ竜の反応が鈍くなった気がする。
それに、疲労も溜まっているはずである。『兵士』の内部組織が崩れ始めるほど戦い続けていたのだ。相当長い間戦っていないと、こうはならない。
でもまだだ。逆にいえばそれだけしかダメージを与えられていない。動こうと思えば、まだ動けるはずだ。
だから切り札を切るにはまだ早い。もし切り札を切って倒しきれなかったら、そのあとは動けなくなってしまう。そうなれば、死は確実にやってくるだろう。
幸い、我々にも少しだけ余力はある。ボロボロになった組織は、『兵士』の変身能力で誤魔化せる。気絶した娘の身体も、私ならば動かせる。変身能力を使わせて、損傷を治すこともできる。まだ、『兵士』が言うことを聞いてくれなくなるまでは時間がある。
大丈夫。
自分にそう言い聞かせ、『兵士』を鼓舞する。
大丈夫。
私には家族がいる。みんなのためならば、私はまだーー。
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娘が一人気絶してから、さらに時間は流れる。
爪を弾き、避け、そして攻撃を入れる。隙とも言えないような隙に、無理やり爪を捩じ込み、傷を与える。そのせいで、身体に傷を付けられてしまう。
ーー良くない兆候だ。
攻撃に意識が向き過ぎている。つまりは、身体の限界。攻撃を受ける余裕が無くなって来ている証拠。
[まずいよ、ママ]
[わかってる]
普段は滅多に言葉を発さない娘たちが、はっきりとした意思を伝えてくる。つまり、それほど限界が近いということ。
『兵士』の変身能力を使っても、ボロボロになった組織をカバーできなくなりつつある。
相手の様子を窺う。四対八本の脚がふるふると震えている。尻尾も力なさげに、だらりと垂れ下がっている。角だって一本はとうに折れ、二本目までもが折れかけている。
竜もそろそろ限界だ。しかし、もう少しダメージを与えなければ、切り札は切れない。虫型は想像以上に生命力が強いのだ。竜の形をしていても、こいつの本質は虫。つまり、見た目以上に余力を残していると見るべきだ。もし切り札を切っても堪えられた場合、本当に我々の死が確定してしまう。
だからまだ、このままの状態で堪えなければならない。
竜の爪を避ける。あるいはあえて身体を切らせ、その隙に攻撃をする。……いや、避ける体力も尽き掛けているだけか。
身体を変化させ、二本の触手を生やすと、竜の顔の左右からそれを叩きつける。もちろん爪を生やすことも忘れない。竜がそれを避けようとしたところに、身体の中心から生やしたもう一本の触手で叩いて動きを封じて、無理やり攻撃を当てる。
でもそれは大きなダメージにはならなくて。
反撃され、触手を一本バッサリと切られた。幸い切り飛ばされてはいないから、変身能力で修復は可能だろうけど、しかしもう『兵士』にそんな大きな仕事ができるほどの余力は残っていない。実質、身体の一部の動きを封じられたのと同じことだろう。
自分の無力さに、思わず歯噛みする。『兵士』や『医師』のような特殊な力が私にあれば、きっとここまで苦戦することも無かったはずだ。
足りない。まだ足りない。もう少し、あと少しで良いんだ。相手の意表を突いて、大きなダメージを与えられれば。切り札を切ったときに、確実に倒し切れるほどでいい、そこまで体力を削られれば……!
その時、だらりと垂れ下がった紅い肉塊が、一度大きく鼓動した気がした。
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次回は水曜日(8/26)に投稿します。