36 幸せな結末
どこをどう歩いたのかはよく分からないが、私はなんとか自分に割り当てられた部屋に帰ることができた。
明らかにおかしい私の様子に、世話を任された人たちが心配してくれる。
いつもなら心配かけまいと無理にでも元気に振舞うのだが、今はとてもそんなことをする余裕はなかった。
それでも優しく接してくれる人たちは、多分私が明日日本に帰るかもしれないということを知らない。知っていたら少しぐらいそれらしいそぶりを見せるだろうが、彼らはただいつものように誠心誠意仕えてくれるだけである。
そんな人たちにまさか帰るかどうか迷っているなんて言えるはずもなく、私は一人で考えに耽っていた。
本心を言えば、帰るにしても最後に一目ライナスに会いたい。会って何が言いたいとかどうしたいという訳ではないが、とにかくこのままお別れなんて嫌なのだ。
けれど、クィンによれば転移は明日。それを逃せば十年後だという。
クィンはライナスが魔族領にいると言っていた。ここから魔族領まではかなりある。ゆえに何度か転移を繰り返さなくてはならず、クィンにお願いしたとしても、明日までに行って帰ってくるのは絶対に不可能だ。
ならばこのまま帰るという選択肢しかないはずなのに、私は迷っている。
ライナスに会いたいという強烈な衝動に抗うことができないのだ。
私はベッドに横になると、気を紛らわせるように日本に戻ったら何をするかを考え始めた。
今まで会えなかった分も親孝行をして、それから友達と買い物に行って、アイスクリームショップで二段重ねのアイスを食べるのだ。
それから流行の曲とかアイドルの事とか、好きな男の子の話で盛り上がり、家に帰ってお母さんの作ったご飯を食べる。
そんななんでもない日常――いや、あの頃は何でもないと思っていた幸せ。
それがもうすぐ手に入る。あの安全で優しい世界に帰れるのだ。
そう思ったら涙が出てきて止まらなくなった。私は心配してくれる世話役の人たちに一人になりたいからとお願いし、結局朝まで泣き続けた。
体は疲れ果てた、失った水分を求めてからからに乾いていた。
それでも心は妙にすっきりとしていて、なんだか生まれ変わったような気持ちになった。
朝日が昇る。私にとっては運命の日だ。
両親の顔が脳裏に浮かぶ。一睡もしていなかったが、私は返事を待っているであろうクィンのもとに向かうべく、まずは顔を洗うことから始めたのだった。
***
あれからどれくらいたっただろうか。
魔王の城の玉座に座り、ライナスはぼんやりと考えた。
エリピアの魔術防壁に弾かれてから、ライナスはしばらくエリピアの近くにいたが、アズサが出てくることはついぞなかった。
もしかしたら、クェンティン研究の甲斐あって既に異世界に帰ってしまったのかもしれない。
そう考えると、胸が締め付けられるように痛んだ。
しばらくしてライナスはエリピアを離れ、そして久方ぶりに魔族領に戻った。
すると魔王を倒したという理由で魔王に祀り上げられしまい、以来こうして玉座に座りぼんやりと考えに耽っているわけである。
前魔王が扇動していた魔族達は現在落ち着きを取り戻しており、率先して人間を襲う者はいなくなっていた。今は荒れてしまった畑を耕したり、なんとか人間との交易を復活させようと尽力している最中だそうだ。
宰相を名乗る魔族の男は、魔王を殺したライナスを恨むでもなくむしろ次の魔王が権力に無関心で嬉しいと笑った。
どうやら権力志向の前魔王に、よっぽど苦労させられたらしい。
男は魔力こそ低いが、非常に賢く国の復興には適していた。いっそお前が魔王になればいいと言ったら、そんな面倒な役割はごめんだと笑顔で断られてしまった。
アズサのいないライナスの日常は、彼女に会う前の色あせた日々に戻ってしまったかのようだった。
せめて彼女がこの世界にいるかどうかだけでも知ることができたらと思ったが、もしまだいると分かったら絶対に会いたくなってしまうので、分からないままの方がいいのだと自分を無理やり納得させた。
最初はライナスをこわがっていた魔族たちも、ライナスが横暴な王ではないと知ると次々に困りごとを陳情にやってきた。
それは家畜が凶暴化して手が付けられないだとか、吸血鬼が貧血になっているのでどうにかしてほしいなどの緊迫感のないものが多かった。
いや、緊迫感がないなどと言ったら吸血鬼に怒られてしまうかもしれないが、とにかくもう一度人間の国に攻め込もうという者は誰もいなかった。
聖女に味方したライナスに気を使っているのかもしれないが、雰囲気は魔族領とは思えないほど牧歌的でのんびりとした日々だ。
宰相が優秀なので、ライナスがするべき仕事も少ない
ゆえにアズサの事ばかり考えてしまう。いっそ考えない方が楽かもしれないと思うのだが、気が付くと考えているのでもうどうしようもない。
もう彼女と離れ離れになってどれくらいたったのか。ライナスは彼女と離れてからの日々を数えることをやめていた。
そんなある日のことだ。
のどかな魔族領に騒ぎが起きた。
なんと勇者が攻めてきたというのだ。
なんだそれはとライナスは思った。なぜなら彼も勇者と呼ばれる者の一人であったからだ。
誰か昔馴染みが会いに来たのかとも思ったが、そんな暇のある者はいそうにない。アレクシスは一国の王子だから国を離れることすらままならないだろうし、ターニャは冒険者を続けるとは言っていたが特にライナスと親しいわけでもない。クェンティンはもってのほかだろう。なにせ彼がライナスをエリピアの外に弾き飛ばした張本人なのだから。
では彼ら以外の新たな勇者がやってきたのだろうか。だとすればライナスは戦わねばならない。建前上は魔王であるし、勇者が来たからには自分の命のために迎え撃たねばならないだろう。
いっそ勇者に打ち取られてしまえばこんな苦悩もなくなって楽になるかもしれないと思ったが、人間に安易に殺されるというのはそれはそれで癪だった。
「魔王様! こちらです!」
伝令役の巨大うさぎが、興奮して鼻をひくひくさせながらライナスを急かしている。魔族領にはこういう賢い動物も住んでいるのだ。アズサが見たら喜ぶかもなとこの期に及んでもまだ彼はアズサのことを考えている。
こん棒で武装したオークが、不安そうにこちらを見ている。巨体を持ち人間界では凶暴で知られる彼らが、実は自然を愛しそれを踏み荒らす人間を撃退していただけだと知ったらどれほどの人が驚くのだろうか。普段の彼らは極めて温厚でむしろ性格は気弱なぐらいだ。
だがそんなことを考えている場合ではないと、ライナスは首を振った。
気弱なオークに気を取られて勇者に打ち取られるなど冗談ではない。自分がそう簡単に死ぬとは思えないが。
そしてそんなライナスの目に、信じられないような光景が飛び込んできた。
「ライナス!」
そこに立っていたのは、エリピアで分かれたはずのアズサだった。くたびれた旅装に身を包み、まるで旅をしていた時とそっくり同じ格好でそこに立っている。
「ア……アズサ?」
ライナスは最初、サキュバスやピクシーのいたずらを疑った。
だが目の前のアズサは記憶の中の彼女と全く同じで、その顔には泣き笑いのような表情が浮かんでいる。
「やっと……やっと会えた!」
彼女はそのままライナスに駆け寄ると、その勢いのままで抱き着いてきた。
驚いたのはライナスである。転移のためにライナスの方から彼女を抱き寄せることはあっても、アズサの方から抱き着いてきたことは今まで一度もなかったからだ。
しばらく呆然としてたライナスは、慌てて抱き着いている彼女を引き剥がし肩に手を当ててじっと彼女の顔を見つめた。
まさか引き剥がされるとは思っていなかったのか、梓は驚いたような顔でライナスを見上げている。
「やっぱりサキュバスやピクシーの仕業なのか?」
本物であってほしいと願いながらライナスが尋ねると、途端に目の前のアズサの顔が熟れた果実のように赤く染まった。
「サ、サキュバスなんて、いくらなんでもひどいよ!」
恥じらいつつ反論を口にする拗ねたような顔は、まさしくライナスの知っているアズサ本人に思えて仕方ない。
「すまない……いや、だが本物のアズサはエリピアに……いや、もう異世界に帰ったのでは」
戸惑いながら尋ねれば、怒っていたアズサの口元がふっと笑み崩れた。
「そうだよ。そのはずだったのに……勝手にいなくなったお人好しの魔族を追いかけて、こんなところまで来ちゃったんだよ。だから責任取ってよ」
そう言って、アズサはもう一度ライナスに抱き着いた。
ライナスは彼女の小さな体にそっと両手を回すと、まるで少しの力で壊れてしまう割れ物のようにそっと抱きしめた。
あたたかな鼓動や、鼻をくすぐる匂いは間違いなく彼女のものだ。
ライナスはずっと霞がかっていた思考がゆっくりと晴れていくのを感じた。
まるで夢から醒めたような気分だ。
かつて天使であったライナス。それが神によって地に堕とされて以来、これほどの喜びを感じたことが果たしてあっただろうか。
生に飽きて現世という牢獄で暮らす囚人のような暮らしに、アズサは一筋の光のような希望を与えてくれた。彼女こそがライナスが現世に留まるためのよすがだった。
「夢でもいい。アズサ。ずっと会いたかった。もう離れたくない。どうか異世界に帰らないでくれっ」
ようやく本音を言うことのできたライナスに、アズサはまた泣きそうになりながら困ったように笑った。
「少なくとも、あと十年は帰れないよ。クィンにも馬鹿だって言われた。でも私も、ライナスと一緒にいたいって気づいたんだ。日本に帰って知らない誰かに恋をすることより、この世界でライナスに恋がしたいって分かったんだよ」
それはあまりに甘い言葉だった。少なくともライナスにとっては、今まで願うことすら許されなかった福音だった。
ライナスの手に力がこもる。
「十年と言わず、ずっとそばにいてくれ。もう俺は自分を偽らない。お前の傍にいられるなら遠慮もしない。俺はお前が好きなんだ」
やけに遠回りをして、ようやく真実に辿り着いた。
もしかしたら目を奪われた出会いの瞬間に、全ては始まっていたのかもしれない。
ただライナスが恋というものを知らな過ぎて、その執着を妙にこじらせてしまっていただけで。
「私も好きだよ。そうじゃなきゃわざわざここまで会いに来たりしないんだから」
少し怒ったように、アズサが言った。
そしてライナスは、いつまでも愛しい彼女のことを抱きしめ続けていた。