32 クェンティン
「やあやあ、とは言ったものの、まだまだ新米でね」
ははははと笑いながら、クィンは私たちに手ずからお茶を淹れカップを滑らせた。部屋は先ほどとは打って変わって、温かみのある応接間といった感じだ。
後から聞いたところによると、なんでもさっきの無限回廊は城に転移した者が自動的に転移させられる場所なのだそうだ。正しい道筋を通って抜けないと、永遠にあの中をさまようことになるらしい。
そんな恐ろしい場所にいたのかと思うと、かなりぞっとした。
だがクィン自身はなんでもない顔で道を進みこの応接室まで案内してくれたのだが。
それにしても城の中という割に、先ほどからほとんど人に会わない。唯一クィンの秘書官だと名乗る人物に会ったが、それも一瞬のことだった。
「ねえ、本当にクィンが首相なの? また嘘ついてない?」
なにせこのクェンティンという男は、人を驚かせるためならば法を犯すことも辞さないという危険思想の持ち主なのである。
勿論道徳から外れるようなことはしないが、例えば持ってみろと言われた石が突然爆発したり――怪我こそしなかったが――ライナスに化けた上で実は女なのだと告白してみたり、私は今まで何度もその被害に遭ってきた。
つまりこのクェンティン・ケントルムという人は、いたずら好きの子供にして最高峰の魔導士というなんとも面倒な存在なのである。
その上権力など握られた日には、絶対ろくなことにならない。
私にはその確信があった。
「いやあ、面白そうだから魔王討伐に参加したら、その結果先代首相の能力値越えちゃったみたいでさ。国に返ったら突然首相になれって言われてびっくりしたよ」
なんとも軽い。
本当にこれが一国の首相の言うことだろうか。
私は頭を抱えた。
どうやらこの国は完全なる実力主義であり、なおかつ人選に人格という審査項目を設けなかったらしい。
勿論私は彼のことを嫌いではないし、仲間としては頼りになると思っている。
ただその人物が国のトップと言われると、なぜか不安しか抱けないのであった。
「そ、そうなんだ……」
他に何が言えただろうか。
私は所詮この国では部外者だ。大人が話し合って決めたことに、今更難癖付けるような情熱は持ち合わせていない。
「それにしても、どうしてあなたたちがグランシア王国からの使者なんて触れ込みでやってくるんですか? 私がいなくても、普通に魔王を倒した英雄だと名乗れば首都には入れたと思いますけど。勿論、その場合は王都に敷かれた魔術防壁に弾かれて黒焦げになっていたでしょうが」
こういう笑えない冗談を、さらりと言えてしまうのがクィンなのだ。
「そうでもないぞ。この程度ならまあ半焼け程度だ」
そして冗談を解さないライナスは、至極真面目に言い返している。
「ライナス! そういう問題じゃないから。クィンもふざけるのはやめてよ。私たちはちゃんと用事があってきたの」
「用事ですか?」
喉の渇きをおぼえて、クィンが淹れてくれたお茶に手を伸ばす。
驚いたことに、味は辛くもなく甘くもなく普通のお茶だった。クィンの性格を考えたら、奇跡と言っていいかもしれない。
「そう。私たち――私は、異世界の自分の国に帰る方法を探してここに来たの。高度な魔術を誇るグラン・テイル魔導国の首相なら、その方法を知っているんじゃないかと思って。グランシア王は、そのために協力してくれただけ」
一応使者という名目でやってきたので、グランシアの迷惑にならないようあくまで自分たちの事情で来たことを明確にしておく。
「帰る方法、ですか? 確かアズサを召喚したクレファンディウス王国が、魔王討伐を成し遂げた暁には送り返すという話だったのでは」
事情を察しているのかいないのか、クィンは表情の読めない顔で言った。
私は胸の痛みをおぼえながらも、クィンと別れてから何があったのか説明する。
ライナスと一緒にクレファンディウスへと戻ったこと。そしてクレファンディウスの王により詐欺師と断罪され、追手をかけられたこと。
今考えても、まるで悪夢みたいな出来事だ。
我ながらよく生き残れたものだと思う。現実に絶望して死を選んでも、全然おかしくない状況だった。
ライナスが一緒じゃなかったら、もしかしたらその道を選んでいたかもしれない。
それ以前に、謁見の間で捕らえられて今頃牢に入れられていたかもしれないけれど。
「それは随分と難儀でしたねえ」
言葉とは裏腹に、そうは思っていないようなおっとりとした口調だった。
「ではどうします? 仕返ししますか?」
クィンは何でもないことのように、どころかちょっと面白がってそんなことを言う。
「え?」
「逆襲ですよ。いくらなんでも、クレファンディウスのやり様は目に余ります。ちょうどうちの国との間にもちょっとしたいざこざが起きてましてね、もしアズサがやるというのなら総力を挙げてバックアップしますよ」
「はあ?」
あまりにも予想外の申し出に、私の声は思わず裏返っていた。
「仕返しって、一体何をしろって言うの?」
「それはほら、あなたの気の済むようにするといいですよ。悪辣なクレファンディウス王を裁きの場に引きずり出して断罪するもよし。それでは気が済まないというのならクレファンディウスという名前がなくなるまで徹底的に戦うもよし」
これには開いた口が塞がらなくなった。
クィンは自らの国まで巻き込んで、クレファンディウスに戦争を仕掛けようと言っているのだ。
「そ、そんなことできるわけないでしょ!? 国に住んでる人たちは何の関係もないのに、そんな……そんな……」
一体何から反論すべきなのか。
クィンがとんでもないことを言いだすのはこれが初めてではないが、これほど驚かされたのは久しぶりだ。
とにかく、絶対に彼をその気にさせてはいけない。
なぜなら、厄介なことにクィンにはその言葉を実行する力があるからだ。
「関係ないですかねえ? 彼らは魔族の侵攻にも、何もせず震えているだけでした。何の関係もないあなたに問題の解決を押し付け、今はそんなことすら知ろうとはせずただ喜びを享受している」
クィンの言葉は、まるで人間を誑かそうとする悪魔のそれだ。
私の脳裏に、クレファンディウスの王都で見た魔王の死を喜び合う人々の顔が浮かんだ。
あの時は、何とも思わなかった。むしろ彼らを恐怖から救うことができたのだという、充足感すら感じていた。
けれど本当に、そうだったのだろうか。
私の心には彼らを恨む気持ちが、ほんの一かけらもなかったと言えるのだろうか。
自分の気持ちが分からなくなり、私は反論の言葉を失っていた。
どれくらい黙り込んでいただろう。ふと膝に置いた手の上に、ひんやりとした手が重ねられる。
ライナスの手だ。
白くて指の長い、大きな手のひら。
「やめろクェンティン。アズサを謀ろうとするならお前でもただでは済まんぞ」
それは感情のこもらない、平坦な物言いだった。
「謀ろうなんて人聞きの悪い。私はただ、我らが聖女の望みを叶えようと思っただけですよ。大体、あの国は無理やり押さえつけるぐらいでちょうどいいんですよ。魔王の脅威に晒される前は、たびたび周辺諸国との国境を越えて小競り合いを起こしていましたからね。どうせ遠からず、また似たようなことを始めるに違いありません」
クレファンディウスがそんなことをしていたなんて初耳だ。
だがあの王が治める国である。そんな野蛮なことをしていたとしても全く不思議ではない。
私はもう一度膝の上に視線を戻した。
頼りない私の手を、ライナスがしっかりと握りしめている。
私はその手をぎゅっと握りしめた。クレファンディウス王への憎しみがないわけじゃない。私が経験した恐怖や辛さを思えば、あの男には罪を償ってほしいという気持ちが当然ある。
聖女なんて言われていても、所詮はただの人間。一皮むけばそんなものだ。
けれど一方で、あの国にはマーサのような人もいる。
クィンは震えていただけと言ったが、彼女は彼女なりに自分の現実と戦っていたと思う。それを責められる人なんて、きっとどこにもいない。
「悪いけど、そんなつもりは全然ない。もうクレファンディウスには関わりたくない。でも気持ちは嬉しいよ、クィン。ありがとう」
まさかお礼を言われるとは思っていなかったのか、クィンは余裕の笑みから一転して憮然とした顔になった。
この意地悪な仲間が、私を思ってこの申し出をしてくれたことも、分かっている。
この男の優しさは、大概分かりにくいのだ。
いい年をして、クィンは目の前で照れたように唇を尖らせている。それを見て、私は思わず笑ってしまった。
「分かりましたよ。じゃあクレファンディウスについては私の好きにさせてもらいます。あなたのことがなくても、どうせまた面倒ごとを起こすでしょうし」
クィンは少し不貞腐れた様子で言った。
「あんまり過激なことはしないでね。私はクィンのことも心配だよ」
首相自ら先陣に立って危険なことをするとは思えないが、一応忠告しておいた。折角魔王討伐の旅から無事帰ったのだから、拾った命を大事にしてほしい。
「まあその件は横に置いておくとして、異世界に帰る方法についてですが……」
いよいよ話が本題に入り、私は少し前のめりになった。
握ったままになっていたライナスの手を、ぎゅっと握りしめる。
「現状……我が国であっても異世界へ行く方法というのは見つかっていません」
「……っ」
自分の中で、抱いていたかすかな希望が砕け散ったのが分かった。魔導国に頼るという方法が、私の中では残された唯一の希望だった。
けれど心のどこかで、私はこの結末を予期していたように思う。
というより、期待しないようにしていたという方が正確か。
帰れないと知って傷つくのは、一度で十分だった。だからもう傷つかないように、私は諦めの準備を進めていたのだ。
この世界にやってきて、二年と少しが経った。
「そっか……」
「アズサ……」
ライナスが心配そうに、こちらを見ている。
私は彼の顔を見て、そんな顔もできるんだとどこか他人事のように思った。
「まあ、なんだ。疲れただろう。城の中に部屋を用意させたからゆっくり休んでくれ。勿論、いくら滞在してくれても構わない」
悪戯好きのクィンも、今回ばかりは茶化したりしなかった。
深い深い絶望を味わいながら、それでも私は心のどこかでほっとしていた。
――これでもう、期待しなくて済むのだと。




