第2話『福音』
「世界が眼鏡を求めているとはどういうことでしょうか」
僕は倒れ込んだまま、スーツに身を包んだ女神と名乗る女性に問いかける。
女性は僕が彼女対話のペースに乗ったと知るとクスリと優しい微笑みを投げかける。
「貴方にとっての世界とは何でしょうか」
女性は両手を広げ僕に問いかける。
「僕が知る限りこの世界、そして僅かながらも頑強な信仰心で浄土やら天国と地獄に黄泉
の世界があることは想定していますが」
女性は再び微笑んだ。
「その世界を信じる理由は、貴方は世界を隈無く見晴らした訳では無いのに」
女性はゆっくりと円を描くように歩く、『見晴らした』にやけに甘美なイントネーションを
置いた。
「哲学のお話ですか、僕は残念ながら哲学に造詣は無いのですが」
「お生憎様ですが、貴方の世界では正に哲学としてこの問題は取り上げられるのです。洞
窟の比喩はご存じで」
話のテーマと女性の眼鏡とスーツ姿が若い女性教師を想起させる。
タイトなスカートから覗くストキングが脚線美を露わにし艶めかしい。
「確かプラトンですか」
「よくご存じで」
女性は満足げに笑みを浮かべる。
「世界史の中で学んだ範囲ですが、倫理は取らなかったので」
「それで結構です、イデアの問題についてはここでは触れませんので」
イデア論抜きの洞窟の比喩とは一体どういうことだろう、論の道筋がわからない。
「洞窟の比喩では、洞窟いる人間が、洞窟の入り口から入る光と、その影でしか世界を知
るとが出来ないとしています。人間が知覚しうるものと、真実は異なるという事が述べら
れていますね」
女は僕の後ろへと回り込む。
「ええ、確かそんな話があったような」
女がずいと僕の背中に迫る気配気、配がする。
「ですが、もしその男が弱視であれば」
女は僕の耳元でつぶやいた、僕は首筋が悶えるのを感じた。
「そうなのです、私の世界の霊長たりえるヒトは、視覚に決定的な弱点を持っているので
す。高度な文明も、エネルギーのリソースも有り余っていると言ってもいいのに、使いこ
なせていない」
「つまり、僕同様に皆目が悪いと」
僕も生まれつきもった乱視で目が悪い、眼鏡は必須アイテムだ。
「イエス」
再び官能的でいて、それでいてどこか神秘的な声が耳元でささやかれる。
彼女は再び僕の周り円を描くように歩く、芝居がかったコツコツという靴音を鳴らしなが
ら。
「先ほどの哲学の話ではありませんが、この世界の人間ですら火に写る影を追うようなも
のであったとして、それが弱視なのです。もはや人々はその影を追うことすらままならな
い」
「それと、僕とに何の関係が」
僕は漸く身を起こした、直ぐ隣には衝突突然の軽トラが静止している。
「貴方は眼鏡、いえ、性格には眼鏡っ娘、お好きですよね」
彼女は僕と正対し、仁王立ち、眼鏡のつるをクイっと持ち上げる。
僕にとって最もセクシーなポーズだ、思わせぶりなポージングの水着グラビアやら、ヘア
ヌードなんかよりよっぽど。
「ええ、大好きです」
「何故」
「端的に述べるならば、第一に着用者が聡明に見えること、第二に同じく真面目に見える
こと、第三にこれらと一見矛盾するに見えるが時としてそれがエロチックであること、第
四に視覚に弱点を持つことを殊更にアピールし、保護欲を刺激すること、第五にこれらの
全てと矛盾する『伊達眼鏡』のパラドクス的魅力、第六の理由はまだ見つかりませんが、
恐らくきっとあるのでしょう。少なくとも人間の五感の内、最も直感的かつ生存に必要な
要素を補完する優れた道具であることには違いないのです」
僕は丁寧に区切りながら訥々と、しかし力強く持論を展開した。
彼女はゆっくりと、パーマをなびかせ満足げに頷いた。
「そして今正に僕はその眼鏡っ娘と対峙している、ここまで仕込んでいるのであれば相応
の理由があるのでしょう。私の答えにご満足いただけるのなら続きのお話を聞かせてくだ
さい」
「もちろん、それが私の役割なのだから」
彼女は胸ポケットから銀色のシガーケースを取りだし、細い葉巻を咥える、何も無い空間
からそれに火をつけて見せた。
煙草は甘いバニラの官能的な香りがした、良い煙草とはお香のようにいい香りがするもの
なのか。なにより煙草を吸っている姿すらどこか耽美的に写った。
僕は高校生なのだから煙草と酒は『オトナ』のシンボルとして、また一つの魅惑要素なの
だ。
「では話を続けましょう。平和だった私の世界は今急速に滅亡へと向かっています、ヒト
を食らう魔物の急増が原因です。視覚を弱点とするヒトは、その脅威にとても脆く、直ぐ
さま彼らの文字通り餌と化しているのです」
魔物、一体どんなモノかは知らぬが視界不良の中で猛獣と戦うようなものなのだろうか。
「私は世界の均衡を守る女神として一つの決断を下しました、眼鏡というツールを使った
人類の補完を。そう、この世界から眼鏡を移植し栄えさせようと」
「しかし、何故自分が? 魔物とやらと戦うのには軍人の方が適していますし、眼鏡を作
るのであれば眼鏡職人の方が適しています。残念ながらお門違いでは」
「いえ、それらの試みは不完全だったのです。眼鏡を欲する、本能的な何かがかけていた。
それが私が与えるスキルと適合しなかった」
「スキル? 」
「ええ、人間を歩く眼鏡工房へと変貌させるスキル、『極限の眼鏡師』。私が編み出した救
世の魔導。命を投げ出してでも眼鏡っ娘を助けんと欲した貴方とはとても相性のいいスキ
ル」
この僕が歩く、眼鏡工房?
「無から有を生み出し、それを眼鏡に転ずる力。視覚という鎖から人類を解き放ち、無限
の可能性をもたらす福音」
「それを駆使して僕に異世界を救え、と」
「左様です」
女が右手を突き出すと光が差し、そこに彼女がかけているモノと同じ紅い眼鏡が生まれた。
「これが『極限の眼鏡師』の力。いかがです、貴方が思う理想の眼鏡が生み出せる究極の
スキルです」
無から有を生み出す力、エントロピーの法則を完全に無視している。
「今、僕が使っても良いですか。残念ながら未だにそれが手品、奇術の類いではないと断
定できないのです」
「構いませんよ、どうぞお使いください」
彼女は僕へ歩み寄ると額に優しいキスをした、僕の頬に血が流れ込むを感じる。
「これで貴方は神からの祝福を受けました、どうぞお使いください」
僕は心の中でとあるクラスメイトを思い浮かべる、陸上部でコンタクトレンズを付けてい
るという娘だ。
何が似合う、細身の彼女には大きな眼鏡は似合わない、細身、色は青、材質は樹脂製が良
いだろう、金属フレームは活発な彼女には似つかわしくない。
そうだ、オーバル樹脂の青、つるには風をモチーフにした彫り込みを入れてみよう。
僕の手が光る、その手のひらを開いてみるとそこにはイメージした通りの眼鏡があった。
「おめでとう、貴方は神力を使うにあたう人間だと認められました」
女が手を叩いて微笑む。
「認められるとどうなるのです」
「貴方は一度この世界で死に、私の世界へと来ていただきます。無論、世界をお救いにな
っていただいたあとお返しはします。ローリスク、ハイリターン」
「そのうたい文句はまるで詐欺だ、それを信じろと」
「信じていただくほかありません」
人生何事も経験である、そもそも
これが僕の見ている奇妙な走馬灯の可能性も捨てきれない。
何より理想の眼鏡っ娘を生み出すスキルを捨てるのは性癖を持つ青春まっただ中の高校生
にとって十分な魅力がある。
それに最近の学校祭の準備で面倒くさいことが続いていたのも事実だ。
「ではやってみましょう、モノは試しと言いますし」
「良いのですか、それでは良い旅を」
彼女が手を叩くと、静止していた軽トラックが猛然と僕を曳き飛ばした。