「世界水準」について
「世界水準」という言葉を仮に考えるとする。世界水準という一定の体系、一定の知的レベル、一定の価値観というものが考えられる、という風に考える。
そうしてこの世界水準は、絶えず、我々の実践により、作り上げられる規則であるとも言える。最も、我々は変化しているので、世界水準も変化している。しかし、この集合知的な世界水準は、それ自体を疑いえないという意味において絶対的である。
以前から常に疑問だったのは、人々は何故、自分自身について、人生について疑う事なく生きらるのか、という事だった。そしてこの問いの意味を人は理解するだろうが、何故、僕がこの問いを発するのかという意味についてはおそらく理解しない(できない)だろう。もし、この意味が理解できたら、もはやそれを「人々」とは呼べないからである。つまり、「人々」が僕の目から見て、安穏に生きる事ができるのは、彼らが正に、常識人であるからだが、彼らが常識人なのは常識を信じているからではない。そうではなく、それを疑わないという事が彼らの核心を成しており、その核心に攻撃する者に対しては除外するか、殲滅させるかのどちらかで、ここには人々の「安穏さ」に見合った暴力性が存在している。
最も暴力性は僕にもあるので、別に人々の隠れた暴力性を批判しようというつもりではない。否定とか肯定とか、そういうゲームはどうでもいい。
さて、「世界水準」という言葉に戻るが、僕は「世界水準」と「人々」を同一視している。人と話すと同じような答えが返ってくる。小説の話をすれば「芥川賞が取れればいい」という励ましの言葉が帰ってきて、非難する場合は「お前は何者にもなれない」なんて言葉である。「純粋に」文学の話をする人は滅多にいない……いや、ほとんど誰もいないというレベルでいない。これは僕にとっては驚くべき事だったが、おそらく、何故僕が驚くのかという事が人にとっては驚くべき事なのだろう。
先に人々の核心には、常識を疑わないという事があると言ったが、人々は集合体として、常識を作り上げている。人はそれを疑わないという事によって、自分が人々の中の一人であるという安心を得られる。そしてこれから外れる孤独については、もし人生の途上で感じても口をつぐむであろう。何故なら彼らはその時、「自分が間違っている」と感じるからだ。彼らの核心を成しているゲームに反するものは沈黙の内に消去される。
さて、そのようにして現代を眺めると、現代はどんな風に見えるだろうか。例えば、トランプ大統領のカメレオン的変化、いくら矛盾しても全く気にしない、自分に都合の良い点しか認めないという点は「我々」に似ている。先に言った話であるが、「世界水準」はそれを疑いえないという点において絶対的である。何故かと言えば、それについて疑い、批判した時、その行為は既に世界水準から外れたものとして表象され、批判されるか、世界水準に取り込まれる。そして世界水準が世界水準自体を疑う事はできない。常に正論を吐き続ける人は、異論を吐く事ができない。彼が一秒ごとに自分の言説を変えても、その都度彼は彼にとって正しいという理由で正しく有り続ける。世界水準もまた時間と共に変化するが、それがそれ自身として絶えず自己肯定し、それでないものを排除するという構造においては一定と言える。
このような構造で常に多数派は容認されるが、常に多数派であり続ける人は常に正しい存在として君臨できる。また、これは権威や、テレビタレントなどとも大きく関係している。
現代思想がオタクに迎合したり、安倍政権がネット保守と合流したりする様子は、全くイデオロギーの問題ではないと思う。それらは、ただ、多数である事、つまり、何らかの形で作られた水準にそれぞれの要素が合致して大きくなっていく流れに見える。これらの要素では、例えば、金とか承認欲求の問題も発生するだろう。最初は自分の個性を出した作品を書いていた作家が「売れたくて」、そうした傾向の作品を書くという姿をよく見てきたが、彼は世界水準に合流しに行ったと考える事ができる。現代では多くの人に認められる事がほとんど唯一の価値となっているが、認められるという事は当然、人々の水準に合流していく事を意味する。そうした運動が至る所で起こっており、元々、人々の認可があった権威的なものが、最近流行っているものと合流したりするというのは、多数派であろうとする為に起こる川の流れであると思う。
これは文学の分野でも同じで、「文学を一般の人にもわかりやすいものとして受け入れてもらおうとする」という見かけを取りつつ、単に文学を人々の水準に押し下げているというパターンを非常によく見かける。こういうパターンは今は普通になっていて、色々な分野で益々加速していると言えるだろう。
で、現代というのはこういう世界水準ーールソーなら一般意志と言ったであろうーーの巨大化と、その専制に関してはもはや抗いがたいものとなっている。ちなみに、僕のこの文章も、ネットに出した途端、「世界水準」によって査定され、無視され捨てられるか、受け入れられるか、色々な見えざるアクションの末にそこに吸収されていく事だろう。
さて、このように想定できる世界水準というものがあって、この力はネットを介して極めて強力なものとなっている。いいね!のボタンを押す、押さないという事も、非難や肯定も間接的にこの力に関与している。具体的に、創作という分野で考えると、現代では鑑賞者の方が遥かに力が強い。異世界小説に作者のオリジナリティや独創性があるとは僕は考えない。他の多くの分野と共に、創作の過程に鑑賞者の見えざる力、強力な価値観が知らず入り込んできて、むしろ鑑賞者が創作していると言った方が適当であると思える。現代の芸術の拡散、多様化と同時に、その価値の低下は絶えず、我々の水準が作品内部に入り込まれる事によって、その水準の作品がトートロジーのように反復して作られていくからだと僕には感じられる。
さて、こうして世界水準は常に一定の価値観を保ち、絶えず自分達を肯定するものを打ち出し続ける。アスリートやタレントが「絶賛」される時、何もその人達が実際に絶賛されているわけではない。むしろ、そこでは僕達が僕達の価値観を肯定していると言った方が適当だろう。声優がツイッターで今日はファンに「塩対応」してしまったのを後悔している旨をわざわざ書いていたが、人として生きていたら、機嫌の悪い日もあるだろうし、そんな事をわざわざ気にするのだな、と思ったが、気にするのは声優というよりはこちら側である。こちら側にとって都合が良いと感じられれば、我々は肯定するし、都合が悪ければ、否定する。そして我々が自分自身を否定する事はない。もしそれをやったら、既にそれは「我々」ではないからである。
今の世の中はこんな風な「人々」「我々」「世界水準」が支配している時代だと思う。で、そういう事は単なる雑な分析にすぎないので、もう少し先の事について書いておく。
これから先、根本的に重要となっていく事、僕の目から見て重要と見える事は、見えない所で起こっている出来事である。見えないというのは世界水準から見えないという意味だ。語り得ないと言ってもいい。
人々が一定の価値観を作り上げ、それが変化しつつも絶えず、世界水準として君臨し続ける以上、その中に生きる人々もその視線で世界を見る。『だから』、有名という事には価値がある。有名人を持て囃す事は、普通の人間である我々を持て囃す事でもある。小説を書くとは新人賞を目指す事であるというのは、それが権威と繋がり、出版と繋がり、やがて人々と繋がると信じられているからである。そしてそうした人々が生きているのが我々の世界で、我々の価値観は多様化しているという見かけの元、実際には絶えず同一化している。この同一化自体が見えないから、人は多様化と言う。
このような世界では、人々は、人々の水準に見合った視線で世界を見る。その水準から外れたものは見えない。それは文字通り見えない。だから、僕のような人間が悪戦苦闘していても、一体、何と闘っているのか、それ自体が見えない。人は僕に無名の作家志望を見るだけであり、それ以上では決してない。
現代におけるフィクション作品では、当然、世界水準に沿ってドラマが作られる。ここで言えば、僕が努力して「作家」になり、「有名」になる物語である。それが現在のドラマであり、大抵のドラマ、物語をつまらないと感じるのはおそらくここに原因があったーーという事になるだろう。ドラマは、既に成っている状態からしか現れない。つまり、世界水準から見て可視化されたドラマしか、商業ルートに現れてこない以上(無論例外もあるが)、そこで全体に平板なものを感じるのも無理はない。僕はこれから重要になるのは、世界水準から離れたドラマ、したがって、人々の目には見えないドラマであると思う。つまり、そもそも人々からすれば、一体何と闘っているのか、何を目的としているのかまるでわからないドラマ、そこに本物の悲劇があると考える。
ではそんな悲劇はどんな形か。何故現れるのか。それは世界水準から離れた人のドラマであろうと思う。そのドラマは当然、世界水準からは見えない。「難解」とか「前衛的」というレッテルも貼る事はできない。あるいは「難解」や「前衛的」を目指した作品は十分迎合的な作品といえるし、迎合的ではない作品は『本当に』見る事ができない作品である。人々の目に映らない作品である。
一例を上げるなら、ウィトゲンシュタインという哲学者が頭に浮かぶ。ウィトゲンシュタインはニーチェ以上に孤独な人物であり…彼がそもそも何と悪戦苦闘したのかわからない、という点において謎めいた哲学者である。ウィトゲンシュタインの悲劇は正に語り得ないものとしてあったから、我々はそれを語り得るものに直そうとする。そういう試みが存在する。が、ウィトゲンシュタインの生きた生は、普通の物の見方、世界水準では測れないものである。むしろ、ウィトゲンシュタインの水準が世界を測っているのだと僕は言いたいが、そう言った時、世界の一部である僕は、語り得ないものを語ってしまっているという事になる。
ウィトゲンシュタインのような、ある種の才能はこうした、世界水準から離れた自己の生を生きるがそれは語り得ないものとして存在し、それがあったとしても、人はそれを無視するか、語り得るものに焼き直そうとする。(ニーチェの通俗本がどれくらい出ただろうか?) こうして絶えず世界水準は一定に保たれるが、見えない場所で、水準から離れた生を生きる人は存在する。こうした人が見えない所で苦悩していてもその苦悩は見えない。またそれが見えないという事が彼に二重の苦痛を負わせる。しかし、絶えず、表面的に新しいもの、常識を書き換えるもの、制度や構造を変革させるものがメディア上に現れながらそれによってまた世界が更に凡庸化していくというドラマしかない世界では、見えないドラマを送っている人の生の方が「ほんとう」だと僕は思っている。しかしその「ほんとう」は語り得ないので、それは僕の信念という事になる。
ただ、それでもウィトゲンシュタインが違う形で受容されたり、理解されたりするという風に、ウィトゲンシュタインが「良い形で」世界水準に受け入れるという事もあり得るだろう。この文章では、わかりやすくするため世界水準とそれから外れたものを断絶として扱ったが、実際には段階的な差異に過ぎない。だが、段階的な差異というにはあまりに距離があるので、断絶という風に書いた。現在はこの差異を常にゼロにするように耐えず運動が行われ、その為に、ホリエモン的な小さな才能がメディア上を現れては消えるという風になっている。こういう運動に僕は何も期待できない。したがって、人々が全く何も期待しないであろうものに僕は期待する。そしてこの期待も結局は、世界からは見えないものとして……それでもそのようなものとして、(世界の一部として)やはり機能するであろう。