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「流石のあなたでも逃げるかと思っていたのだけれど、逃げないのね。ここがあなたが平凡と言う名の幸せを享受する最後のチャンスだと言うのに、本当に良いのかしら?」
「あんた的に言えば逃げる理由も意味もない。可愛い女の子に助けてもらっておいてお礼もしないで逃げる程、薄情者でもないさ」
「そう、ならば礼はあなたの身体で返しなさい。今は私の疑問に答えて、この私があなたのような平凡な男に引かれた理由を」
おいおい、お礼は身体でなんて一体どんな事が起きてしまうんですかね。
衝撃的な発言だが、喜んでと言いたいところだが、今は首を傾げた彼女の疑問に答えるべきだろう。
あぁ、答えるべくもないシンプルな話なんだがな。
「男に惹かれる理由なんて考えなくても分かるだろ?それはつまり恋ってやつだ」
「こ、い?この私が気持ち悪いこじらせ系男子に恋をしたと?あり得ないわ、えぇ、こんな自意識過剰でどや顔をするあなたになんてあり得ない事よ」
「止めてくれ。少なからず気になる女の子にそこまで言われたら、悲しくもなるだろうが。まあ、慣れてるんだけどな……悲しいけど……」
「気になる……そう、それよ。私はあなたが気になるの。そして慣れているとの事だけれど、私をあなたの周りの平凡で愚かしい女達と一緒にしないで」
フワリと揺れるツインテール、抱き着いてきた彼女はさっきとは違って優しく腕をまわしてくる。
ここは俺も男として抱き締め返すところなんだろうな、いや、いかがわしい気持ちは全くない。
良い匂いがするし柔らかいしで、少しだけ気分が高まっているだけだ。高まっているだけなんだ。
「お付き合いしましょう、立花真君。私にはあなたが必要なのよ」
「喜んで、と言いたいところだがせめて仮面を外してくれないか?なあ、壱宮 幸恵ちゃん」
「ちゃん、ちゃんですって。あぁ、どうしよう、恥ずかしくてたまらないわ」
「ははっ、可愛いなあぁぁぁぁーぅ!?刺しやがった、腹を刺しやがった……そっちのお突き愛は勘弁してくれ……よ……っ」
ゾブリと引き抜かれた凶器を見つめながら、俺は本日二度目の激痛に倒れ込んだ。
ひび割れた壁に寄りかかり手を腹に当ててみると、予想していたぬめり気がない。今度こそ確かに目の前で刺された筈なのに、ジャージしか穴が開いてないってのはどういう事だ?
「あなたは私の物。あなたの命は私の物。如何なる時もこの私はあなたを殺せるのだと言う事を、胸に刻んでおきなさい」
「待っ……つまりそれって……」
脅し、脅迫。
あり得ないと思いたいが、こんなあり得ない芸当を可能にする彼女なら充分以上にあり得る話だった。
引き止めようと手を伸ばしたところで流石に限界だ、これが意識が飛ぶってやつだろう。
もちろん初めてだが、こんな経験したくもなかったよ。
「本当に名残惜しい事なのだけれど、一先ずサヨウナラ。またね、真君。私の真君。大好きな真君」
怖い、何度も呼ばれると何故だかゾクリとする。
彼女はトイレの一室から着替えが入っているであろうバッグを取り、肩に掛けて歩み去って行く。
帰る時は普通の格好で帰るべきだ、そんな姿では新たな都市伝説が生まれかねない。
そんな場違いな指摘を気絶しかけた俺が出来る訳もなく、視界と頭が真っ黒に塗り潰されて行くのを感じた。
結局仮面の下は見れなかったし、最悪な事態に巻き込まれた感にとんでもなく後悔しているが、『君』と呼ばれたのだけは正直嬉しかった……かもな……。