殺意:異忌
「あ、また来た」
アヤちゃんを胸に抱いた俺がアナウンス室に足を踏み入れると、この部屋の担当者らしき女子生徒が俺に向って言った。
「……?」
俺はその言葉の真意が今一よく分からなかったが、アナウンス室の奥の部屋、録音室に視線を送ると、録音室のガラス越しに深刻そうな顔をした女が二人。しかも片方は見た事のあるゴスチックな衣装を着ている。
―――……恋華?
あぁ、そういうことか。確かに俺よりも印象は濃いな。俺に対してこの部屋の担当者の反応が薄いのも理解できる。…けど何でここに居るんだ?
「あの〜? その子…」
「……はい?」
部屋の担当者が俺に申し訳なさそうに、腰を低く聞いてくる。と、俺は忘れていた。胸に抱いたアヤちゃんの存在を。
「あっ、そうだ。この子迷子なんです、お姉さんに会いにこの学校に来たみたいで…」
「やっぱり!! よかったぁー! 君、ちょっと待っててね」
顔を明るくした担当者は俺に背を向けると恋華達に向って小走りで近づいていく。録音室の扉を開け、担当者は恋華達に何か言うと、恋華が瞳をまん丸にしてこっちを向く。とっさのことに俺は視線のやり場に困り、とり合えずアヤちゃんの寝顔に視線を落とした。
「シオン!」
と、間髪入れず、恋華が俺の目の前まで一気に灰色の髪を振り乱して突進してくる。色々な感情がまとわり付いた恋華の姿に俺は後ずさりしそうになったが、恋華に両腕を掴まれそれは失敗に終わった。
「シオン、その子! その子!!」
「…おい恋華……顔が近い…離せ……」
アヤちゃんが起きてしまってはいけないと、最小限の抵抗、俺は背を仰け反らせつつ応戦する。そんな俺に恋華はお構いなしにこれでもかと言うくらい顔を近づけてくる。何故かいつもこのタイミングで壁際にいる俺は逃げ場を失ってしまった。何でこの女こんなに興奮しているんだ…。もう、俺が半ば抗戦を諦めかけた瞬間―――
そこに救世主が現れた。
「絢っ!」
恋華の後ろからハスキーな声が聞こえてくる。と、恋華もその声に我に返ったのか俺から離れた。
―――……助かった…
興奮が萎えた恋華が俺の前から退くと、目の前には俺のクラスで一番目立っている…いや、目立っていた女―――瀬戸 綾香がいた。
…印象的なその風貌。校則がないに等しいこの学校だからこそ見られる独特な自己表現。
一番印象的なそのみどり色の髪の毛。短く切りそろえられ、ウニの様にツンツン伸びた毛先は見ているだけで痛そうだ。
次に印象的なのはその瞳。パッチリとした目蓋にあお色の瞳を持つ恋華に対し、彼女は少し鋭い目蓋にき色の瞳を持っている。…勿論、彼女は純粋な日本人なのでカラーコンタクトだろう。
そして最後に彼女を包込むその独特な雰囲気の根源とも言えるアクセサリーの数々。
彼女の両耳で静かに光る十六個の小さな石とリング。首にだらしなく巻かれ、それでいてかなりの魅を放つトゲの付いた首輪。両手首にほどよく巻きつく銀の縄。両指にはグロテスクな生き物の姿や、天使の姿を彫った指輪。挙句の果てには右側の腰から膝まで伸びる漆黒の鎖。
……どれも制服、ブレザーには似合いそうもない代物なのだが、彼女はそれを見事に着こなしていた。
そんな瀬戸が入学式からクラス…いや、学校全体で有名になるまで時間はかからなかったが、今年、恋華かが転校してきてから彼女の人気も落ち着いたらしい。でも、その持ち前の馴れ馴れしさが売りの恋華とクールでいてホットな行動が売りの瀬戸は甲乙つけ難いほどで、今や学校で人気の女の子を二分するレディだ……と、知徳は言っていた。
「とり合えずここにアヤちゃんを寝かせてあげてください」
担当者に言われるがまま俺はアヤちゃんを優待席であろうソファに寝かせ、着ていたスーツを掛け物代わりにかける。ふかふかのベッドに心地よく眠るアヤちゃん。その隣には膝をつく形で瀬戸が座る。
「…恋華?」
「ん、なーに?」
眼をパチクリさせながら恋華が俺に顔を近づける。俺は無論恋華と眼を合わせないように顎で瀬戸を指すと、気が進まないが頭に浮かぶ疑問を恋華にぶつけることにする。
「アヤちゃんの探してたお姉さんって……瀬戸なのか?」
俺は少々頬が引きつっていることを感じながら俺は恋華に聞いた。
「うん! そぉだよ! 見つかって良かった、良かった♪ もう少ししてもアヤちゃんが見つからなかったら、指名手配する予定だったんだ〜」
―――指名手配って……こいつ本当、中途半端に日本語覚えやがって。
俺の思いとは裏腹に恋華は単刀直入な感想を言って述べる。まぁ、こいつにはそこまで考える力はないか……。
「……意外だな。瀬戸に妹がいたのも始めて知ったけど、妹は似てないと言うか…本当に普通…と言うか何ていうか……」
俺は眼球を左上にずらすと、首も一緒に傾げる。と、隣で恋華が手をポンっと叩いた。
「そうだシオン、あれだよあれ!! 綾香は綾香! アヤちゃんはアヤちゃん! …それでいいんじゃないの〜?」
右側から熱い恋華の視線を感じつつも俺は無視。やっぱり恋華は恋華だ。
「まぁ、いいか。まだ子供だしな…」
「だね! どもこれから綾香みたいになったりしてね!」
「……それは……ありうるな……。って、そー言えばさっきからまた気にしてたんだけど、どうしてお前は瀬戸といたんだ?」
何かこの二人が一緒にいるのは腑に落ちない。相反する二人に見えるからだ。
「は〜いはい! それはね、今日お仕事しながら少し話したら気統合しちゃってっ♪ 何か他人と思えないと言うか…何と言うか……ってな感じです!」
両指を立て、左右に振りながら恋華は元気に答える。
「…そーですか…。まぁ、確かに似てるか、な? ところで瀬戸のコスプレだけど、もしかして……」
「うん、あのまま。ヨッシーもあのままで良いって言ってたし」
「……やっぱりな」
そんな俺たちのやり取りの中、アヤちゃんが小さく動き出した。
「…うぅ…ん」
「絢っ」
瀬戸がアヤちゃんの小さな手をまた小さく叩くと、アヤちゃんの目蓋が虚ろ気に開いた。
状況を把握しようとしているのか、半開きの目蓋の中を黒い玉がキョロキョロと盛んに動く。そしてその玉が瀬戸のき色に光る玉と鉢合わせたとき、アヤちゃんの瞳は大きく開かれた。
「……あ…れ? お…姉ちゃん?」
アヤちゃんが上半身を起こすと同時にその頭に手のひらが置かれる。
「絢……」
ただでさえ鋭い瞳をもっと鋭くして瀬戸はアヤちゃんを覗き込む。それに無言で肩をすくめるアヤちゃん。
「…あれほど来ちゃダメだって言ったじゃない。今日は親戚の人のお通夜だって知ってるでしょ? 何でお父さんとお母さんに何でついて行かなかったの? 駅で電車に乗ったら絢が一人ホームで手を振ってたって言うから心配したわ」
アヤちゃんの頭から手を下ろした瀬戸はその手で自分の頬をさすり、膝を伸ばす。一通り瀬戸の言葉を黙って聞いていたアヤちゃんは小さく口を窄めると瀬戸を見上げ一言言った。
「だって……お姉ちゃんといたかったんだもん……」
「……全く…」
その言葉に瀬戸は軽く溜息をつくと、アヤちゃんの頭にまた手を置く。
「…知ってるわよ、そんなこと」
珍しくて、始めて見る表情。…頬を緩ませた瀬戸は小さく呟いた。
「えへへ…」
アヤちゃんの顔に元の笑顔が戻ると瀬戸は俺たちの方に顔を向ける。
「ほら、それより絢、このお兄ちゃんにちゃんとお礼をちゃんと言いなさい。絢の我儘に付き合ってもらったみたいだし…」
発見からその後の事情は説明していないのに何故かそれを言い当てる瀬戸。俺は少し驚いた様な顔をすると瀬戸はまた小さく微笑み、言葉を付け加えた。
「絢が外で寝るときは大抵大ハシャギした後だからさ」
「…はは…納得」
俺も小さく微笑むと、ソファから降りたアヤちゃんがトコトコと俺に近づいてくる。
「お兄ちゃん!」
「ん?」
小さく、それでいて純粋な女の子。その女の子は俺の前で無邪気な笑顔を見せると、主黒に自分の顔くらいの広告を俺に向けて広げる。
そこには『お好みハンバーグ焼き』の文字。
「……え?」
「ねぇ、行こうお兄ちゃん! まだここ行ってない!!」
呆然とする俺にアヤちゃんが飛びついてくる。
―――……なんでこうなる…
「ちょっと絢っ、…違うでしょ? ちゃんと…………もぅ」
腰に手を当てながらもう片方の手で顔を半分隠す瀬戸。だけどその言葉とは裏腹に瀬戸は微笑んで見えた。
―――マズい…
姉が妹の暴挙に屈したため、俺はとっさに恋華に言葉をふる。
「お、おい恋華…お前代わりに―――」
―――……しかし、俺はこの女の性格を嫌というほど知っている。そう、…答えは決まっている。
光り輝くあお色の瞳。頬を軽く高揚させた恋華が何と言うかは容易に想像できた。
「私も!! 私も一緒に行く〜!!」
―――……畜生
「ごめんな、桜」
がっくり落とした俺の肩を瀬戸が叩く。軽く叩かれたはずなのに俺の脳味噌は激しく揺れた。
「ねぇ…お兄ちゃん?」
「……何?」
足に張り付く小さな身体。仔犬のような目をした少女は瞳に雫を浮かばせながら鳴く。
「行きたくないの〜……?」
「…………行、こうか」
―――あぁ、もういい、…降参だよ
苦笑いを浮かべながら俺は瀬戸と同じようにアヤちゃんの頭に手をそっと置いた。
「……ねぇ…シオン?」
「……」
俺の隣では何を思ったか、恋華がアヤちゃんと同じように、瞳をくりっとさせ、涙目に口を窄めている。
「私と眼を合わせてく―――」
パシッ
「きゃっ!?」
恋華が台詞を言い終わる前に俺はそのみずみずしいおでこに指を弾く。一瞬飛び上がった恋華はおでこを両手で押さえながらブツブツと何か呟くと、小刻みに震えている。
「いたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいた…………」
「…お経かよ。 じゃあ、このお姉ちゃんほおって置いて行こうか、アヤちゃん」
俺はアヤちゃんの手を引くとドアノブに手をかける。
「あっ、待ってよーー!! 意地悪!!」
恋華も涙を流しながら後に続く。
「本当、面白い人達ですね…」
一部始終を見ていた担当者が瀬戸に笑いながら言った。
「あぁ、本当……」
瀬戸はドアの向こうに消えそうになる三人の姿を見て、自分の口から笑みがこぼれている事に気づく。…いったい今日で何回笑ったことか。この学校に入ってからずっと、この場所で笑う事はなかったのに。恋華と出会い、瀬戸の中で何かが変わり始めたようだ。
「…じゃあ、お世話様」
瀬戸はシオン達を追うようにドアノブに手をかける。まだその口から笑みは消えなかった。
「……本当、嫉妬しちゃうな」
瀬戸は担当者に聞こえないように呟いた。
「お〜疲れ様で〜〜すっ!!!!」
缶と缶のぶつかる音。今や暗闇に包まれた学校の一室で、ガラス越し盛り上がる影。
今俺は、恋華、知徳、田淵、瀬戸、アヤちゃんの六人で開いた軽い打ち上げパーティーの中にいる。
そう、…数時間前、文武祭の慌しい一日目がようやく終わった。そして皆気になる『淡い桃色組』、一日目の結果は―――
―――…これが一位。しかも二位を千ポイント引き離しての勝利への独走状態。
……だが、この一位には恋華、田淵に続き、もう一人ある男が暗躍していた為取れたものなのだ。
「……ふぅ〜だっはっ! レモンが身体に染み込むぜぇ〜! 本当っ全く、一時はもう駄目かと思ったぜ……」
今はもう角の原形をとどめていない金髪のオールバックを撫でながら、乱れたホストスーツを着こなすその男、知徳は目の下に黒々としたクマをつくりながらジュース片手に呟いた。その声には力がなく、今にも死んでしまいそうな声をしている。
…何でも、聞いたところによると知徳は驚いたこと文武祭の武派競技のほとんどに出場したらしい。しかも参加した競技ではいずれもトップ。そしてその合間を縫って分派のコスプレ喫茶にも顔を出していたというのだから……なんてタフなんだこいつは。
「トモ、本当お疲れ様!」
「同士よ、君の活躍により相棒の私も実に鼻が高い。明日も期待しているぞ」
「やるじゃん、あんた。ただのパツキンかと思ってたよ」
「お兄ちゃん、すごぉーい!」
人工物のネコ耳を本当に動かしかねない恋華が知徳に労いの言葉をかけると共に、クロ猫、瀬戸、アヤちゃんも知徳を賞賛する。
「……お疲れ」
俺も少しタイミングをずらし知徳に声をかけると、手にしたジュースを一口飲んだ。知徳の憔悴振りは見て取れるが、今日一日で俺もかなり体力を削られたと思う。まぁ、いい汗を掻いたと思って明日も何とか乗り切るか。そう思いながら机に缶を置くと、飲み口を人差し指でなぞる。指に伝わる金属と皮膚の摩擦振動が何故か心地よかった。
「時に瀬戸 絢ちゃん」
クロ猫が瀬戸の隣でポテチを頬張るアヤちゃんにその巨体を向ける。
「なぁーに?」
アヤちゃん無垢な目がクロ猫を捕らえ、口元に残ったカスを舌で舐めながらクロ猫に耳を向ける。
「アヤちゃん、ものは相談だが、明日、ここで君もコスプレをしてみないか? 君の両親も親戚の通夜で明後日まで戻らないらしいね」
「…え!? アヤもいいの?」
―――!? 何を言っているんだこの馬鹿猫は…
突然のことにアヤちゃんはうろたえながら姉である瀬戸を見つめる。アヤちゃんの視線を受け、瀬戸は視線を少し左右に揺らし、俺達の顔を見つめている。…この瀬戸が妹を変体の塊のような男に差し出すわけがない。当然断わると思いきや、瀬戸は特に思うことはないと言う顔をして、平然と言い放った。
「いいよ。やったらイイんじゃない?」
瀬戸の言葉にアヤちゃんは一気に笑顔を膨らませると、クロ猫に飛びついた。
「ねぇねぇ、お姉ちゃんがいいって!!」
「うむうむ、それは良かった……」
抱きついてきたアヤちゃんの三つ網をクロ猫がポンポンと上へと手で跳ね上げる。
「でさ、田淵……何でアンタ、アタシんちの事情を知ってるわけ?」
瀬戸が少々眉を吊り上げ訝しそうにクロ猫を睨むように見つめる。そんな瀬戸の視線を受けてか、クロ猫はアヤちゃんをお腹にしがみ付かせたまま立ち上がると、両手を広げた。
「こ〜っここここここ……瀬戸よ。その答えは至ってシンプルでイージーだ。それはこの世の全てが私の味方だからだよ。私に知られようと彼方此方から情報自ら、私の下にやってくるのだ! そして私はそれを一切拒まずにありのまま受け入れているだけなのだ!!」
胸を張りながらクロ猫が言い切ると一時の沈黙の後、瀬戸が口元に笑いを含め、手で口を覆った。
「アンタ……よくそんなこと胸張って言えるわね…。まぁ、いいわ…ただし絢に変なことしたらアンタの首をこの鎖鎌で切り裂くから」
先程とは打って変わって真剣な顔でそう言うと、瀬戸は腰から下、楕円状に垂れ下がる漆黒の鎖をその手に取る、瀬戸の手に納められた鎖が先端を現すと、そこにはギラリとダークブルーの刃が怪しい妖光を放ってクロ猫を睨んでいた。
「うむ。努力しよう………五十人目の犠牲者にならんためにも、な」
クロ猫は冷静に両側に携えた髭を指でならしながら頷いた。
―――………五十…人?
「おいおい…ってかそんな物騒なモン学校に持ち込むんじゃねーよ!!」
瀬戸の横で知徳が後ずさりしながら批難を口にする。
「えー!? すっごくカッコいいじゃーん! アヤカ、私にも貸して〜!」
恋華が身を乗り出し瀬戸に後ろから抱き付いて子供のようにねだる。
「!? 瀬戸! 恋華チャンだけには貸すなよ! せめて俺が居ない時にしろ!!」
「……トモ? どーいう意味よ〜?」
恋華と知徳のやり取りを少し離れて瀬戸とアヤちゃんが笑いながら眺めている。そしてその横ではイメージがキターと、狂ったようにクロ猫が咆哮を上げ、机に向いながら何かを書き上げていく。こんな狂った空間でこんなにも可笑しな奴らが可笑しなことを繰り広げている。…そして俺もこの中に……。
「……くくっ…………?」
俺は違和感を覚える。完璧なる違和感。…今の笑い声は……誰? 俺は指で口元を触る。と、微かに唇に震えの余韻が残っていて、シビれている。俺の脳裏に先ほどの笑い声が蘇る。
―――…俺…なの……か?
―――ドクンッ。
「!? くっ……」
突然、胸の中で何かが弾けたかのような衝撃が俺を襲う。あまりの激痛に身を丸め、とっさに胸を手で押さえる。…その薄い壁の中、まるで何かがいるように蠢く鼓動。その何かは俺の心臓をギリギリと締め付け、千切ろうとしている。徐々に、徐々にと。
「う…ぐ……」
―――……離……れな…いと……
俺は皆に気づかれないように教室を出ると、襲ってくる胸の痛みに耐え廊下を壁づたいに移動する。そして息も絶え絶えになってきた頃、トイレを見つけ、その中に身を潜めた。
「う…うぅ……」
個室に入り、便器と対面するように壁にもたれ掛かると、俺はスーツを脱ぎ捨て、マスクを外す。と、急に頭を殴られたかのような頭痛が襲ってくる。それも胸の痛み動揺、徐々に痛みを増しながら俺の身体を蝕んでいく。
「!?……うおっ」
吐き気が全身を貫き、俺が便器に顔を持っていくと同時に不協和音がトイレに響き渡る。
「…はぁ…はぁ……」
見つめる先には俺からでた不要物の水溜り。そしてその中に映るのは、青ざめた顔で笑う…俺。
『シオン、どうして逃げる?』
俺から出た憎悪の中で、もう一人の俺は言った。
『もっと自分に素直になれよ、お前はやりたいことを実行するだけの力は持ってるハズだろ?』
「はぁ、はぁ……うるさい!!」
俺が勢いよく個室の壁を殴ると共に、手に熱が走る。
「お前には関係ない! やるかやらないかは俺の勝手だ! ……うえっ」
俺の下で憎悪が拡大すると、もう一人の俺はけたたましく笑った。
『あはははははははははははは……!! オレに関係ないだって? 何馬鹿なこと言ってんだよ、オレは……お前だろ?』
目を見開き、憎悪で濁り切った瞳で俺を狂ったように睨む。
『それにお前はさっき言ったようにただ自分の本心から逃げてるだけ。それに気づかないようにいつも蓋をして隠してるだけ。お前は心底弱い人間だ、だからこそ本心を他人に知られることを恐れ、自分自身、それに気づかないようにした。お前がここに逃げ込んだのが何よりの証拠だ』
今や顔の原型が変わり始めたもう一人の俺は、止まることなく俺の精神を侵食していく。だが、俺はいくら虚ろな目になり、今にも倒れそうになりながらも憎悪から目を離すことはしなかった。何かを待っていたかのように。
『けれど、シオン、お前は本物なんだよ。紛れもなく。お前の持つモノは人間本来の本能。今の人間がとっくに忘れ去った特殊なモノ。それがお前に潜んでいる。だから、もうお前は他の人間とは違う世界に生きているんだよ。……いいじゃないか、もう? 放してやれよ、いい加減に。オレはもう窮屈でたまらないんだよ』
「……放す…」
『そうだ、放すんだ』
憎悪の中で、もう一人の俺はすでに人間の顔をしてはいなかった。
『お前にはオレがついている。ちゃっちいお友達ごっこなんて止めようぜ? だからお前はこんなにも苦しんでいるんだよ。……さぁ…―――』
「……っああああああああああああああああああああああああああああああああっ」
……俺は幻を見ているのか? 便器からもう確認できない憎悪の塊が浮き上がり、俺に覆いかぶさるように、一気に身体の中にめり込んでいく。ドロドロした液体が聞いたことにない気色の悪い音を出す。…けれど、なぜかそれはとても心地よかった、そう……忘れていた何かを思い出したかのように。
『お前はなにがしたいんだ?』
その声はいやにはっきりと俺の耳に残った。
「……う……!?」
一気に身体を持ち上げると全身に激痛が走った。まだもうろうとする視界を無理にこじ開け、回りを見渡すとそこはトイレの洗面台。
「どうして…?」
俺は自分の記憶が蘇ってくるのを感じ、トイレを見渡したが、俺が嘔吐したはずのトイレの個室は綺麗なまま、まるで使われていないようだった。
「なんで……」 混乱する俺は頭を抱えながらもう一度洗面台の前に戻る。…すると、洗面台の姿見が粉々に砕け散っている。
「……いた…」
それを確認した瞬間、俺の右手に痛みが走る。そっと右手を上げてみると、手の甲が切れ、そこから紅黒い液体が静かに溢れている。
「……くくくく……」
何故だろう、とても笑いたい。
「あははははははははははは………」
俺は顔を半分覆うと大声を上げて笑う。狂ったように笑いながらも、少しも変だとは思わない。ただ可笑しい。可笑しいだけ。
「ははははは……は…はは…………チクショウ…」
俺は顔から手を放すと、手の甲をもう一度見つめなおす。俺から溢れるものは憎悪、そして止められない―――
―――殺意。
俺は手の甲に口をつけると小さくそれをすする。
それは味も素っ気もない液体。けれどどこか俺を安心させる、そんなもの。
『お前は何がしたいんだ?』
頭の中で誰かが聞いた。でもそれは分かっている。
そいつは紛れもない俺だから。
俺の瞳から一筋の光が落ちていく、それは俺が存在した日常との別れを意味するもので、俺はそれを拭うこともせず、ただ流し続けた。
『お前が何がしたいんだ?』
俺は足元に散らばる鏡の破片を一つ拾うと、右手の甲から出る液体で破片を紅く染める。
そしておもぐろにそれを床に落とすと、俺は右足を上げた。
「俺は―――」
下ろされた右足。
―――俺は誰かを殺したい
足の裏で、俺の世界は砕け散った。
捕まった。




