殺意:凍炎
「お疲れさま!」
教室から最後の一人が消えていった。
訪れる静かな時。数時間前までは耳障りだった音ももうしない。明日、「文武祭」が訪れるまでの時間、この空間は息を止める。
外を見ると街灯が列を連ね、その一つは校門を照らしている。先ほど出て行ったクラスメイトも校門から出ると闇に姿を消していった。
もう一度クラスを眺める。明日のために作られた人工物。クラス全体が違う空間に変貌している。きっと明日皆もこの空間に同調するんだろう。…俺一人を除いて。
物悲しくなり廊下に出る。けれどそこに俺の居場所はない。いつもなら校門が閉められるギリギリの時間まで物言わぬ学校に入り浸るのだが、こんな空気じゃいくら静かでも落ち着かない。無意識に出たため息に俺は苦笑いすると学校の出口に足を進めた。
ギィ…重い扉を押し開ける。あぁ、明日が憂鬱だ。サボればいい話だけど、サボればきっと知徳が俺を探しだす。そう、逃げることはできない。
あぁ、いつからだろう、この感情を押し殺し、ずっとしたたかに暮らしていくことにしたのは。
渦巻く殺意を押し殺す。それは俺にとって一番のことなんだろう。でも最近俺は自身がない。
いつか俺は人を殺すだろう…いや、近いうちに。
何故こうなってしまったんだろう?
俺はただ純粋に人を殺したいだけなのに。ただその存在を俺の中に留めておきたいだけなのに。何故皆認めてくれないのだろう。
行きかう車が俺に夜風を運ぶ。その風がどうしようもなく寂しい。こんな日は早く家に帰って寝るに限る。俺は息を思い切り吸い込むと顔を上げた。
「…!? ぶはっ!」
俺は予想もしない展開に思わず咳き込む。…何故かって?
「? ……あ、シオン!!」
この女のせいだよ…。
待ち伏せしていたかのように……いや、していたんだろう女は暗闇にともる小さな灯りをその髪に宿し、正門の塀に腰掛けていた。
「恋華…!? 何してんだこんな時間まで?」
答えが分かっていながらも律儀に聞いてみる。この女を落ち込ませると後々面倒だからな。
「えっとね、シオンを待ってたんだよ! シオンを!!」
シオンを強調するな。予想通りの回答とともに、恋華は正門から腰を浮かせた。宙に投げ出された灰色の髪は雲間から覗かせた満月を遮り、銀色に染まる。風に乗り舞い上がった短いスカートから覗く白い足は暗闇にも負けず一際白く伸びていた。
「よっと、」
思わず拍手をしてしまいそうな位完璧な技ともいえるモノを見せる恋華。着地が成功したのがよほど嬉しかったのか、満面の笑みでスカートを調えながら近づいてくる。
「シーオン」
…俺は名前で呼んでいいとはいったけど、そんな知徳みたいな呼び方で呼んでいいとは言ってない。……いや、知徳の仕業か…。
「…何?」
やりきれない知徳に対する怒りを胸に秘めて俺は精一杯応答する。
「一緒にかーえろ?」
「……は?」
拍子抜けする俺に恋華は少々戸惑った様子のようだ。
「シオン? どうしたの? 具合悪いの??」
「…それだけのために?」
「え?」
「それだけのためにここに居たのか?」
今は初夏。寒春に比べればたいしたことはない。でも昼間こそ暑いが夜になればまだまだ肌寒い。それに加え俺の学校の制服はあからさまな薄生地だ。よく見ると白い息の中、恋華の肩は小刻みに揺れている。こんな中ずっと…? 馬鹿かこいつは。
「お前、馬鹿だろ?」
「え〜? いきなりなによ〜?」
少々怒った素振りを見せているみたいだけど全然顔が笑っている。こいつは天然か?
「俺を待つなら教室で待てばいいだろう? せめて校舎の中いれば寒くないだろう?」
俺の言葉を一語一句聞き逃さないためか、右耳を突き出しながら聞く恋華。俺の言葉を聞き終わった後、溜息交じりに口を開いた。
「…じゃあ、私が教室で待ってたらシオンは一緒に帰ってくれた?」
「……う…」
「ほらね、絶対帰ってくれないでしょ〜?」
図星だ。絶対俺はこいつと帰りたくない。帰り道で発作にかられたら取り返しのつかないことになる。そもそもお前と一緒に居ること自体が危険なんだよ。
俺はそっと胸に手を当てた。すでに俺の心臓は準備が整っているようだ。いつでも事に移せる。発作が起きてこないのが不思議なくらいだ。
「だーからっ」
恋華は無邪気な笑みを浮かべると右手の人差し指を俺の顔に近づけた。
「ここで寒い思いをして待っていれば、心優しいシオン君はきっと私と帰ってくれるだろうと」
「……は、そーゆーこと…。どうせ知徳からの助言だろ? で、もしそれでも無理なら俺の名を出せと」
「ピンポーン! やっぱりシオンってすごいね!」
あぁ…ここまでくると疲れたとしか言いようがない。
「…恋華、ちょっとこい」
「ん? 何?」
トコトコと小走りに俺に寄ってくる恋華に俺は制服の上着をかける。
「!? …シオン、いいの?」
さすがに驚いたのか、オドオドしている恋華。そんな恋華の前を俺は歩き出す。
「シオン」
「早く来いよ、家はどっちだ?」
先ほどまでの不安が一気に消えた顔からは子供のような笑みが溢れていた。
「うん! シオンと同じ方向だよ。…シオンもすごいけどトモの言ってたことも確かにあってたな〜。トモもすごいや」
「知徳が? あいつと一緒にすんな」
眉を寄せながらあからさまに嫌そうに聞く俺に恋華は答えた。
「トモがね〜『シオンの弱点は俺様だ!』っていうからさ」
―――殺。
もう許さねぇ。俺の苦手なものを勝手に決めるな。
「ってかなんでお前は俺の弱点を知りたがってんだよ?」
「ん〜? 弱点を調べて脅そうかなーって。話してくれるように」
天使の顔した悪魔とはこいつのことか。とんでもない奴なんじゃないか、本当は?
「…あぁ、そうですか」
ふと笑いがこぼれた。何故かは分からないけど、こぼれてきた。ついでに涙がでてきた。勿論、理由は分からない。
「シオン!? 何で泣いてるの!?」
恋華があおい瞳を丸くして駆け寄ってくる。それを俺は手で制止し、歩き続ける。
「平気だ。夜風が目に沁みただけ」
射程距離はたっぷりと。俺の射程から外れていてもらわないとね。
「平気ならいいけど…。ねぇ? それでシオンの苦手なモノって何?」
恋華は好奇心に満ちた目で俺に問いかける。
「…さぁ、ね」
俺は言葉を濁すと歩測を広げた。
「あ、逃げないでよ〜」
今回は本当に気分を害したようだけど知ったことじゃない。答える権利はないからさ。
「そんなことよりお前の家はどこにある? もう少しで俺んちだけど? …まさか上がっていこうなんて考えてないだろうな?」
俺の疑惑のまなざしに恋華は口を窄めて言った。
「違うよ! …確かにそれも少し考えたけど…」
―――考えたのかよ…
「シオンの家に行けば分かるかもよ?」
意味深な言葉に首を傾げながらも俺と恋華は夜道を歩き続けた。
「じゃあ、ここ俺ンちだから」
程なくして俺の家に着いた。
「へー、ここがシオンの家か〜」
人の家を凝視する女。きっとストーカーは思っている以上に怖いんだろうな。
「おい、目が不敵だ」
「えへへ…あっ、そうだ上着」
「いい、家まで着てろ。明日返してくれればそれでいい。」
「でも…」
申し訳なさそうに視線を落とす恋華。
「そんな寒そうな息をまとっているよりかはマシだと思うけど?」
俺の言葉に恋華は顔を上げると大きな口を空けて笑った。
「シオンってキザ野郎だね、トモの言うとおり」
よし、明日朝市で知徳を殴ってやろう。
「じゃあ、明日」
「うん。じゃあね、シオン」
やっとこの女から解放された喜びにかられながら俺は家のドアに手をかける。が、その時俺の耳は嫌な音を捕らえてしまった。
ギィ……。鉄の門が開く音。とっさに視線を向けると、恋華が丁度隣の家の門をくぐった所だった。
「恋華!? お前、どうして!?」
思わず声を出した俺に恋華は苦笑いしながら答えた。
「…えっとね、ここの家、元々私のお母さんの実家だったんだ。ロシアに渡る時に売ったんだけど、日本に帰ってきた時にまだあったのを見て、一目でここに住もうって」
俺の身体から一気に力が抜けていく。こいつと…お隣さん? 悪夢だ、これは。夢なら覚めてくれ。こいつが居ない現実に。どうやら俺はとことん死神に好かれているようだ。
「だから…これからよろしくね、シオン!」
そう言うと恋華は俺にうウィンクを投げ、家の中に姿を消した。まるで俺からの怒号から逃げるように。後に残るのはあっけらかんとした俺。俺はしばらくその場にたたずんでいたが、首を横に振るとそっと家のドアに手をかける。そして俺も家の中へと入っていく。
真っ暗な空間。ドアが閉まると一層暗さが目立つ。まだ親は帰ってきていないみたいだ。
「はぁ…もうどうにでもなれだ」
また笑みがこぼれた。もう人為的か自然か分からない笑みだ。隣の家を見るとオレンジ色に窓が輝いている。
「俺の弱点か…」
そっと胸に手を当てる。動悸とも思えるくらいの速度で心臓が波打っている。
「俺の弱点は俺の殺意にも気づかず、笑って接してくる奴だよ…くくく」
俺はそのまま玄関に倒れこむと笑いながら意識を失った。
帰ってはこないモノを待ち続け、帰ってはこないモノに唯一愛情を抱いたあの頃。
傷ついた心が愛情を忘れたとき、それは憎悪に変わった。
「シーオン!」
「……ん?」
重い目蓋をゆっくり開けると見覚えのある光景。落ち着く、居心地のいい何もない部屋。
ベッド、机、タンスにテレビ。そしてアロエ臭漂う場所。そう、この殺風景な部屋は紛れもなく俺の部屋だ。
―――…昨日……俺はどうしたんだ?
ふと、ベッドの中で少々違和感を感じた。よく見るとそれは自分が制服を着ているからだと確認できた。
「なんで…あ!」
俺は部屋の窓に急ぎ、育てているアロエの苗を傷つけないよう勢いよく窓を開ける。隣の家の窓とはほんの二メートルしか離れていない。いつもは閉じられているはずの窓は今日は開いていて、中からは灰色の髪を持つ女がこちらに手を振っている。
「シオーン、おはよ♪」
憎いほどの朝光。その光の中、女は驚愕する俺には気づいてはいない。夢じゃなかった。この女恋華は紛れもなく俺の『お隣さん』になった。
―――…悪夢だ……
俺は何かに呪われたのだろうか? それとも今年は厄年なのか?? …まぁいまはいいそれは。いま重大なのは―――
「どうしたのシオン? やっぱり具合悪いの?」
恋華は身を乗り出して俺に近づこうとする。
「恋華」
俺は瞳を閉じて恋華を静かに静止する。拳を握りながら震える喉を制し、口を開いた。
「恋華…この際お前がお隣になろうがならないが関係ない。俺に迷惑さえかけなければな」
「えっ? ……うん! 迷惑かけないよ!!」
きっと恋華は朝日に負けない程のムカつく笑顔をしているに違いない。でも今一番重要なのは…。
「いい返事だ、恋華。じゃあ……」
俺は息を肺に送る。朝の空気は肺をチクリと刺激する。
「? …じゃ〜あ??」
「いつまで俺の前に…下着姿でいる気だ! とっとと服を着ろ!!」
俺は瞳を閉じながら大よそ恋華のいるほうを指差す。
「あぁ! なるほど〜!」
俺の予想とは裏腹に気の抜けた返事が返ってくる。と、それきり恋華からの応答はない。
「おい、恋華?」
窓を閉める音は聞こえなかったけど……室内に消えたかのか? 俺はそっと閉じた目蓋を開けた。再び俺の瞳に刺激が入り、涙目なった俺が見たのは―――
窓から身を乗り出し、俺の指先を必死たどる恋華の姿だった。
その異様な光景に一時絶句しながらも俺は言葉を紡ぐ。
「お前……何してるんだ?」
問いかけに恋華は俺を見ずに答えた。
「…え? シオンがちゃんと私のこと指差してくれないからこうして私から指されようかな〜って」
「…お前、本当の馬鹿か? それとも天然か?」
しばらく上げっぱなしだった腕を下ろし、少し寂しそうな恋華に吐き捨てる。
「うぅ、それトモにも言われたよ〜…私は馬鹿でも天然でもないよ? それに一応気を使ってるんだよ? この下着姿だって!」
既に目を閉じる行為に面倒になっていたので、俺はそのまま応答する。この女に気を使うのは無駄なようだ。
「その…下着姿がか?」
額にシワを寄せ、あからさまに顔を歪めた俺に恋華は言葉を続けた。
「私は元々何も着ないで寝てるんだよ」
何気に爆弾発言しているこの女。けれど面倒なのでそのまま突っ込まないで話させる。
「ロシア…私が住んでいたモスクワは湿気が結構あるの。だから寝るときは何も着ないほうが寝心地がいいの! でね、今の日本の気候はモスクワとほとんど同じなの。だからこれくらいが丁度いいの! ね?」
―――…ね? じゃない…
何だこの気だるさは。何で朝から俺はこの女と下着の必要性の話なんてしているんだ。
「とにかく」
恋華の話を律儀に聞いた後、俺はほとんど吐き出すように喋る。朝からやる気をそがれた気分だ。
「俺の前に出るときはシャツでも着ろ。いいな?」
「…はーい」
恋華は口を尖らせるとつまらなそうに下を向く。…なんか俺が悪いみたいだ。
「でも…」
恋華が顔を上げ、先ほどの沈んだ顔とは打って変わって満面の笑みを俺に向ける。
「シオン、興奮したでし―――」
ガラッ! バタンッ!!
俺は恋華の言葉を最後まで聞かずに窓を勢い良く閉めた。これ以上相手にしたくない。
「あっ! シオーン!! ごめん、冗談だってばー!! もうっ……今日から文武祭だよ! 頑張ろーね!!」
…その声を最後に恋華の声が途切れた。俺は頭を手でグシャグシャにすると汗で張り付いたシャツを脱ぎ、風呂に入ることにする。自室のドアを開けようとノブを掴もうとした瞬間、俺はドアに付いた鏡を見てそれに気が付いた。
……笑っていた。俺が。上半身裸で髪をグシャグシャにした男が口元を吊り上げ微笑している。
―――ズキンッ
急な頭痛とともに鏡の中の男から笑みが消える。今鏡に映っているのはいつもと変わらない俺。
「……ふぅ」
こめかみを押さえながらドアを開ける。何故笑っていたかなんて知るはずもない。別に知りたくもない。だけど俺―――アイツは言った気がした。
…『殺したいんだろ?』と。
「シオン」
日が当たらない階段を電気もつけずに下りて行くと下に母さんがいた。
「…おはよう」
こめかみを押さえながら……やつれた表情の母さんに挨拶をする。上半身裸で頭はボサボサ、おまけにこめかみを押さえての俺の姿に母さんは一瞬眉を寄せたが、小さく溜息を吐くとまた疲れた顔に戻る。ここまでやつれているとなると、また残業が続いてるんだな。
「あなた、体調はもういいの?」
俺より少し背の低い母さんは少し俺を見上げながら言った。
「…体調? 何で?」
俺は母さんの言葉がいまいち理解できなかったが、すぐに昨日の夜のことを思い出した。
「あっ…俺を部屋まで連れてってくれたのもしかして母さん?」
俺の言葉にやっとという感じで母さんは前で腕を組み、壁にもたれかかる。
「ふぅ、この家には私とあなた以外にいないでしょ? …仕事から帰ってきたらあなたが玄関で倒れているからびっくりしたわ。 二階に運ぶのも、あなた結構重いし…部屋はアロエの匂いで一杯だし。……そんなに学校辛いの?」
母さんは首を壁に預けるとと目を閉じた。相当疲れが溜まっているようだ。
「ごめん…昨日は学校行事の用意で遅くまで作業してたからさ。今日はそれの本番」
「……」
母さんは俺の言葉に反応してか、壁から身を離した。黒い眼は大きく開かれ、瞳孔は萎縮している。
「初耳ね。この時期だから文武祭かしら?」
「あぁ、それ。俺は武派のように身体を動かしたくないから文派の喫茶店担当」
―――……コスプレが前に付くけど……死んでも言えないな
すると母さんは手で顔を半分隠しながら申し訳なさそうに口を開く。
「シオン…ごめんなさいね。今日も仕事だから…」
「うん、分ってるよ。仕事の方がんばって」
俺は微笑んでみせる。勿論、人為的にだけど。人は雰囲気に飲まれると人為的でも気づかないものさ。
「ありがとう…シオン」
「いいって。…母さん、今から風呂に入ろうと思うんだけど、疲れてるなら先入る?」
「いいわ。学校遅れちゃうでしょ? 先に入りなさい」
母さんに促されて俺は風呂場に向かう。体中ベタベタして気持ちが悪い。
「ワイシャツは後であなたの部屋に持っていくわ……朝ごはんは?」
「ありがとう。ごはんは…いいよ」
俺は背中で応答する。
「分ったわ……あ、そういえばあなたさっき誰かと話してたかしら? 上から声がしたけど? 最近お隣に人が引っ越してきたみたいで挨拶しにも来たけど…あなたの知り合いな―――」
「さぁーね」
俺は母さんの言葉を遮って脱衣所に入る。まさかあのやり取りを聞かれていたなんて。内容は聞かれてはいないだろうが、要注意だな、くそ。
キュッ
……いくつもの小さな穴から出てくる温かな水が俺の身体を伝っていく。身体のジメジメ感は一気に失せ、代わりに白い湯気が俺に身体にまとわり付く。
顔に温水の洗礼を受け、壁に手をつき頭を下げる。やっと至福の時がきたといえる。
目を開き流れる温水を見る。俺の身体にまとわり付き、思う存分遊んだ温水は小さな排水溝に消えていく。
眺めて、流れて、消えて。
そんな温水とのやり取りに水を差すように一本の頭髪が流れてきて排水溝に立ちはだかる。
だが、抵抗もむなしく排水溝に絡まる頭髪。力なく温水に遊ばれる。
―――……………父さん…
…この家に父親はいない。俺の思い出の中にうっすらといるだけ。
そんな存在。
もの思いついたときから俺は母さんとの二人暮しだった。母さんが言うにはどうやら俺の父親は俺達を残して失踪したらしい。だが、別に悲しくも寂しくも、憎くもない。そう、殺意すら感じない。俺の父親は唯一の例外らしい。
だが、彼は俺の前にはもう現れないだろう。
そして残念なことに俺は母親とあまり一緒にいたくはない。
…そう、俺の殺意は家族ですら手にかけようとする。元々俺は母さんと同じで一階の部屋にいたのだが、夜になり人の―――母さんの気配を感じ取るだけで発作が起きてしまったことが多々あった。なので俺は二階の父さんが昔仕事で使っていた物置部屋をもらった。
それに―――
俺は顔を上げると温水を止める。滴る雫が足元に少し溜まった水だまりに波紋をよぶ。
押さえる頬。あの女は俺の至福を始めに邪魔した奴だ。蟻を弄んで殺し続けた日々もあの女の行動一つで止めなければならなくなった。
あの鬼気迫る表情。殴り倒してひたすら叩き続ける。そしてひどく腫れた顔を手で撫でながら無表情の俺に泣きながら謝り続けた女。
けれど……けれど―――
「―――お前に俺は止められない」
俺は静かに排水溝に目を向ける。……もうそこに頭髪はいなかった。
「…ばいばい……父さん…」
俺は風呂場を後にした。
「もう、おそーい!! シオン、今日は文武祭なんだよ!? やる気あ―――」
「ない」
「!? シオーン!! 人の話は最後まで聞こうよ!? しかもないって!」
…家を出た途端これ。どうせ待ち伏せをしてると思ったからわざわざ遅れて出て行った上にいつもとは違う道で学校に向かおうとしたら何故かこの女が灰色の髪を撒き散らしながら手を振って待ち構えている。けれど理由は分っている。悪の元凶は―――
「まぁまぁ、恋華チャン、落ち着いて」
―――こいつだ
恋華の横でニタニタと気色悪く笑っているこの男。今日は金色のロングヘアーを左右で角の様に立たせている。これはやる気満々と見ていいんだろう。
「シオンも今日くらいはやる気出そうぜ〜?」
知徳が俺の肩に腕を回し、顔を覗き込んでくる。
「…じゃあ、俺も髪を左右で立たせようか?」
「……おいおい…これは特許請求中なんだよ」
「…痛い。角で刺すな」
そんな対話を見ながら恋華はモジモジとしている。とても話しに入りたそうだ。
「トモくぅん…」
恋華が仔犬のような声で知徳の制服の袖を引っ張る。知徳は何かを思い出したように手で相槌を打つと俺の方に顔を向け、また顔を近づけてくる。
「シオン、お前担当変わったから」
「……は?」
明らかに何かを企んでいる目だ。知徳の瞳が濃い茶色になっている。
「お前は…ウェイターからコスプレイヤー(田淵風)に変更だ!」
「!??? な、なんでだよ?」
俺が……俺がコスプレだって? そんなのはごめんだ。
「くっくっくっ……嫌だと言ってももう遅い! クラスも了承済みだからな〜」
知徳が俺の顔の前でトンボを捕まえるかのような動作をしている。…クルクルうざい。
「くっ、俺はかえ―――」
「おーーーっと!! いいのかな〜、シオン君? これは相棒…田淵も認めてるんだぜ〜? アイツがお前がやらない何て言ったって聞いたらどうするかねぇー?」
「―――この…………分ったよっ」
田淵を本気にさせたらヤバイ事は重々承知だ。その気になれば俺の家に押し入って薬でも何でも使って俺を着替えさせるかもしれない。アイツがうちに来るなんて考えられない。くそ、何でこうなるんだ、不潔感で一杯だ。
「おぉ、やけに素直じゃねぇかシオン?」
「…俺も薬漬けにはなりたくないからな」
「……お前さ、田淵をかなり誤解してない?」
「してない」
「…そ、そうか…」
「……………………………………………」
「あれ? 恋華チャンどったの?」
知徳が俺たちの後ろで頬を膨らませあからさまにムスッとしている恋華に気づく。恋華は頬を膨らませたまま俺と知徳に近づくと、硬く握った両手を縦に振りながら身を乗り出す。
「もぅ!! 私を置いて話ししないでよぉ〜」
何故か軽く潤んだあおい瞳が俺と知徳を睨む。
「ごーめん、ごーめん」
と、知徳が恋華に近づき何やら耳打ちを始める。
(恋華チャン、シオンもコスプレやるってさ)
(嘘!? 本当に!? やった〜ありがとうトモ君!!)
耳打ちが終わると恋華が飛び跳ねながら知徳の頬にキスをする。
「うほっ、たまらないねぇ〜」
知徳はとろけそうな位うざい顔をしながらクネクネ奇怪な動きを始める。
―――…なるほど、そういう事……またか
俺は顔を手で覆うと大きく溜息をついた。それに気づいた恋華が俺の顔を覗き込む。
「大丈夫、シオン?」
指の間から覗かせた俺の目は恋華の純粋なあおい瞳を見る。そのあおい瞳の中には俺がいて、その俺の瞳の中にはまた恋華がいる。
「……別に」
恋華は首を傾げ、考え込んだ表情をしたが、すぐ真剣な顔に戻る。
「シオンにもキスしてあげよっか?」
俺は静かに顔を覆っていた手を下ろすと拳を握る。
「……もう……」
「もう?」
―――ほっといてくれ
「……何でもない」
俺は歩速度を早める。そんな俺に必死についてくる恋華。
「シオーン待ってってば〜! やる気出たの〜?」
「シオーン待ってってば〜! やる気出たの〜♪?」
「……」
…俺は歩くのを止める。背中に何かが衝突したがそんなことどうでもいい。
「……知徳」
「お……何だ、マイ……フレンド……」
俺は涙目で鼻を押さえる恋華の横を通り、知徳の前まで行く。
「……シ、オン? 何で笑っているんだよ? 何か気味が悪いよ…って何で右拳を硬く握り上げているんだよ!」
「…こうするためだよ」
ドゴッ
乾いた空気の中にとても響きのいい音が反響する。
「おおおおおおおおおおお!! 俺の角が、角がぁぁぁぁ!!」
知徳の左角は中間からポッキリ折れた。
「あはは、トモ君面白いよ」
「恋華チャン笑うなんてシドいっ!! ってかつままないで!! 本当に折れるから!!」
「……ふぅ、ったく」
……キーン、コーン―――
俺の虚しさは学校の予鈴のチャイムとともに朝の澄んだ空気の中に消えていく。
走り出す俺。それを追う恋華。我に返った知徳もまた走り出したが俺の繰り出した裏拳が見事に鼻頭に命中し、天を仰ぐようにコンクリートに吸い込まれていく。生き残った右角もいい角度でコンクリートに刺さり、見事に折れた。
―――あぁ、今日はとんだ日になりそうだ。
見ないで。