第四章
少しだけ、立ち止まる章です。
言葉にする前の痛みや、気づかれないまま抱え続けたものが、静かに滲み出てくる時間を書きました。
誰かにとっては、読んでいて苦しくなる場面もあるかもしれません。それでも、この章の先にある“温度”まで、見届けてもらえたら嬉しいです。
翌日、西村くんは学校に来た。とても元気そうだった。私は廊下で彼を見かけたので、話しかけようと思ったが……足が進まなかった。いつもこうだから、誰にも気づいてもらえない。けど……
「あ、飯田さん」
「あ……」
彼だけはいつも気づいてくれる、前に進むことができない私に。
「おはよう」
「…おはよう、あ…陽菜ちゃん元気になった?」
「うん、すっかり良くなったよ」
「そっか……、よかった」
「あ、それじゃまた」
飯田も授業があるので教室へと向かう。だがその最中、飯田はあることが気になっていた。それは、西村の顔色が少し悪かったことだ。飯田や周りの友人には明るく振る舞っていたが、どこか元気がなさそうだった。
飯田と別れてすぐ、西村は『……はぁ……』と息を吐いていた。
授業終了のチャイムが鳴り、授業が終わっても彼は元気がなかった。そして気づけば、あっという間にお昼の時間になっていた。
飯田はいつもの階段の場所で待っていた、しかし西村は来なかった。飯田はまた彼が家のことで何かあったのではと思い、先生に聞いてみた。すると帰ってきた言葉に彼女は驚いた。なんと西村は、4限の授業終わりに廊下で倒れたそうだ。
「え、大丈夫なんですか?」
「あぁ…、保健の先生は過労によるものだろうからしばらく休んだ方がいいって言ってたぞ?」
「…私……、保健室行ってみます」
彼女は気づくと、まっすぐ保健室に向かって歩いていた。
「失礼します」
部屋に入ると先生はいなく、昼時の陽が窓から差し込んでいた。そして何より、とても静かだった。すると、カーテンの隙間から誰かが寝ているのが見えた。飯田はそっと覗き込むと、そこには西村がいた。
「西村くん……」
「飯田さん?」
「あっ、ごめん…起こしちゃった?」
「うんん、さっき目覚めたから起きてた」
「そっか……」
飯田は、胸の奥に小さなざらつきを感じていた。何かを言おうか、迷いながらも口を開いた。
「あの…、何かあった?」
「え?」
「だって……倒れるくらい疲れてるなんて、心配だから……」
彼女は思っていたことを正直に伝えた。たとえ彼が聞かれたくないことでも、飯田は見過ごすことができなかった。
西村は言おうか迷っている様子だったが、何かを決意したような表情を見せた。
「……バイト掛け持ちして……それで、頑張りすぎちゃった」
「どうして、掛け持ちなんて?」
「……うち、親いないから」
飯田は『え……?』と言い、その返答に耳を疑った。
「……うち両親いなくて、俺と陽菜のふたりで暮らしてる」
彼は、今まで打ち明けられなかったことをゆっくりと語り始めた。しかしそれは、飯田が思っているよりもずっと——厳しいことだった。
「二ヶ月ぐらい前にさ、母さんが出ていって……。俺と陽菜のふたりだけになっちゃってさ……」
「え……、お父さんは?」
「…一年前に……、事故で……」
—— 約一年前、西村の父親は仕事の帰りに車を運転していた。すると対向車線から蛇行運転をしている大型トラックが向かってきた。そして横断歩道に差し掛かったところで、トラックは父親の車の方へ突っ込み、両車は衝突した。そして救急隊が駆けつけた時には、父親の方は既に息を引き取っていた。
「……そんなことが……」
「それから母さんは、ひとりでいろいろ頑張ってたんだけど……」
「けど?」
「……精神的にも、肉体的にもきつかったんだろうね。それで現実から逃れるために、男作って再婚して。挙げ句の果てに、その再婚相手の連れ子の世話を俺に丸投げして家を出ていった」
「再婚相手の連れ子って……」
「うん、陽菜のこと」
「陽菜とは歳が結構離れてたからさ、…まぁ結果的に俺がいろいろやらなきゃいけなくなったんだ……」
飯田は何も言えなかった。
西村の声が止んだ瞬間、空気が急に重くなった気がした。胸の奥が圧迫されるような感覚だけが残って、言葉が出てこない。こんなことを抱えながら、いつも通りに笑っていたのかと思うと、息が詰まる。
「……まぁ、そんなこんなで、今こうなってる……」
どこか冗談めかした調子だったが、目を合わせようとしない。笑っているというより“区切りをつけようとしている音”に聞こえた。その声音に、飯田の胸がぎゅっとつまる。
「……そんなの……、……苦しいよ……」
掠れた声だった。言った瞬間、自分でも抑えられなかったらしく、肩が小さく震える。
西村はゆっくりと彼女のほうへ顔を向けた。そこには、堪えきれずに涙をこぼし、肩を縮めて泣いている飯田の姿があった。驚きと戸惑い、そしてどうしようもない切なさが、西村の表情に同時に浮かぶ。
「…まぁ、仕方なかったんだよ。俺はそれわかってたから、別に苦しくは……」
言いかけた瞬間、胸の奥に言葉とは別の重さが落ちた。何かが触れたのかと思って視線を落とすと、そこには西村を抱きしめている飯田がいた。その抱擁は、責めるでも慰めるでもなく、ただ“痛みに寄り添う”とでも言うような温度を持っていた。
「苦しくないのは自分だけ……、私はすごく苦しい……」
震える声。肩に落ちる彼女の涙の重みが、逆に胸の奥を締めつけた。
「飯田さん……」
その名を呼ぶ声は、思わず漏れたというよりも、抱きしめられたことで初めて自分の痛みに気づいたような響きだった。
「…もう……ひとりで抱え込まないで」
飯田の声は、震えるようにかすかだった。
「でも……」
西村は視線を落としたまま、言葉の先を探せずにいた。
「もっと頼っていいの。西村くんが苦しい時は……私が手伝うから」
そう告げた飯田の指先は、そっと彼の背に触れた。長い間張りつめていた糸を、やさしく緩めるように。
その温度が胸の奥に染みた瞬間——
西村の呼吸がかすかに揺れた。強がりの膜がふっと剥がれ落ちる。
「……飯田さん……」
名を呼んだ声は、懐かしむように震えていた。そして堪えていた涙が、静かに頬を伝った。まるで、ずっと忘れていた“救われる感覚”が戻ってきたかのように。
「飯田さん、ありがとう」
そう言って飯田の背中にそっと手を置く。そのとき、保健室の扉が静かに開き、先生が戻ってきた。西村は、今は来ないでほしいと言うように小さく首を振る。先生は一瞬だけ二人の様子を見て、何かを察したようにそっと頷き、気を遣うように扉を閉めて引き返していった。
西村は、しばらくしてから小さく息を吐いた。
「……お腹、空いた」
それは独り言のようで、誰かに向けた言葉でもあった。飯田は一瞬だけ目を瞬かせたあと、涙を拭いながらこう言った。
「……今日もお弁当、作ってきたの。食べてくれる?」
そう言って彼女はお弁当を手に取り、西村へ渡した。西村は、今までにないほどの嬉しさに心が満ちた気がした。
「……飯田さん、ありがと」
西村はお弁当を受け取り、しばらくそれを見つめていた。
「……いただきます」
そう言って西村は、玉子焼きをひとつ口に運ぶ。噛みしめるたびに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……やっぱり、美味しい」
飯田は小さく笑った。
彼はその笑顔を見て、わかった。自分は、何度もこの笑顔に救われていたのだと。
第四章を読んでくださり、ありがとうございます。
この章では、
「苦しさを打ち明けること」と「誰かの苦しさを、自分のことのように感じてしまうこと」
その両方を書きました。
助ける側も、助けられる側も、きっと完璧じゃなくて、不器用で、揺れながら生きている。それでも、そばにいるだけで救いになる瞬間があると信じて、この章を書いています。
少しでも、あなたの心に何か残るものがあれば幸いです。




