最後のコード
「――私よ!」
私の叫びが、制御室の冷たい空気を切り裂いた。
ハルが、一瞬、驚愕に目を見開く。彼が私という「抗体」をシステムに接続しようとしたのは、あくまで医療スキャナ(玉座)を通して「解析」するため。私が、コンソールの中枢に直接アクセスするなど、想定外だったのだ。
「ふざけるな! そのポートは、旧時代の遺物だ! それで何ができる!」
ハルが私を突き飛ばそうと手を伸ばす。
だが、遅かった。
私の指が、旧式のマイクポートを起動させた瞬間、コンソール全体が激しく明滅した。
『警告:生体認証ガ一致シマセン』
『警告:管理者ノ権限ヲ無効化シマス』
「馬鹿な……! なぜだ!」
私にも理由はわかっていた。
この「ゼロ地点」タワーは、調律局が最新鋭の技術で建造した。だが、その心臓部である『沈黙のコード』のOSは、半世紀前の「バベル・プロジェクト」のものを流用している。
そして、その古いOSの「管理者」権限は、ハルではなく……このコードに対する唯一の「鍵」を持つ、私に設定されていたのだ。
ミナミ教授が、いつか私がここに来ることを見越して、仕込んでいた最後の「罠」だった。
『認証:アキ(被験体D)。……ようこそ、管理者。最終ログを開示シマス』
コンソールのメインスクリーンに、ハルが映し出していたカウントダウンや世界地図が押しやられ、一つのテキストファイルが開かれた。
それは、失踪直前にミナミ教授が遺した、私宛ての「遺言」だった。
『アキ君へ。もし君がこれを読んでいるなら、私は失敗し、君は最後の希望として「ゼロ地点」にたどり着いたのだろう』
画面に映る恩師の言葉に、涙が滲んだ。
『時間が無い、単刀直入に言う。コードを「破壊」してはならない』
「……え?」
『コードは、バベル・プロジェクトが生み出した最悪の「毒」だ。だが、毒は、使い方次第で「薬」にもなる。ハルは、その毒で世界を支配しようとしている。カイトは、おそらく毒ごとシステムを「破壊」しようとするだろう。……二人とも、間違っている』
『アキ君。君の「声(抗体)」は、コードを無力化するものではない。君の脳波(声)は、コードの「毒性」を中和し、全く別のものに「調和」させる、世界で唯一の「試薬」なのだ』
そうだ。私は、幼い頃、あのノイズを「音楽」として聞いていた。
毒を、薬として受け入れていた。
『ハルは、コードでラピュータ(拒絶反応)を起こさせ、人々を支配しようとしている。だが、君が「調和コード」を流せば、それは「支配」のシグナルではなくなる』
教授の言葉が、私の心臓を掴む。
『それは、ラピュータで閉ざされた人々の言語野を「修復」する、最強の「治療薬」となる。世界を救え、アキ。それが、こんな地獄を掘り起こしてしまった、私の……最後の願いだ』
ログは、そこで途切れていた。
「……ふざけるな……ふざけるなァ!」
ハルの絶叫が響いた。彼は、システムから権限をロックアウトされ、コンソールに拳を叩きつけていた。
「治療だと!? 調和だと!? 甘っちょろい!! 人類は、支配されなければ救われないんだ! ミナミ教授の妄言に、世界を巻き込むな!」
『00:05:00』
カウントダウンは、残り5分。
カイトの陽動によるものか、タワーの揺れが、いよいよ激しくなってきた。
「アキさん! あんたが何をしようと無駄だ!」
ハルは、目を血走らせて私を睨んだ。「ブロードキャストは、もう止められない! あんたが何をしようと、僕が設定した『毒(プランB)』が世界に流れる! それだけが真実だ!」
「……いいえ」
私は、マイクポートの前に立った。
「毒は、流させない」
「何をする気だ!?」
「教授は言ったわ。毒は『薬』になると」
私は、ハルを真っ直ぐに見据えた。
「あなたは、毒で世界を沈黙させようとした。私は、この毒を『薬』に変えて、世界に届ける」
「……馬鹿な……そんなことが……」
『00:01:00』
残り、1分。
私は、全ての雑念を払い、目を閉じた。
幼いあの日、白い部屋で聞いた、あの「音楽」を思い出す。
ミナミ教授が、私だけが聞けると、そう言ってくれた、あの「音」を。
あれは、ノイズじゃない。
あれは、言葉が生まれる前の、最初の「声」。
私は、マイクに向かって、息を吸い込んだ。
『00:00:10』
ハルが、私を止めようと、最後の力を振り絞って飛びかかってくる。
『00:00:05』
もう、間に合わない。
私は、歌った。
それは、特定の言語ではない。
半世紀前、私の脳だけが紡ぐことのできた、あの「カウンターコード」そのものの「音」を。
『00:00:01』
『00:00:00』
――ブロードキャスト開始。
制御室が、閃光に包まれた。
ハルが設定した「沈黙のコード(Plan B)」の濁流(赤黒いデータ)が、アンテナに向かって放たれようとする。
そこへ、私の「声(調和コード)」の奔流(青白い光)が、激突した。
コンソールが、悲鳴を上げる。
二つのコードが、タワーの中枢で、激しくせめぎ合う。
赤黒いデータが、私の青い光に、中和され、上書きされていく。
「……あ……あぁ……」
ハルが、その場に膝から崩れ落ちた。
彼が「毒」として放とうとしたシグナルが、私の「声」によって、全く別のもの――澄んだ「薬」のシグナルへと変換されていくのを、彼はなすすべもなく見つめていた。
「……嘘だ……僕の、完璧な……調律が……」
全世界に向けて発信されたのは、ハルの「沈黙のコード」ではなかった。
それは、ミナミ教授が夢見、私が紡いだ、言語野を「修復」する、「調和のコード」だった。
タワーの揺れが、止まっていた。
陽動を終えたカイトが、ボロボロの姿で制御室の入り口に立っているのが、霞む視界の端に見えた。
私は、全てを出し切り、コンソールに倒れ込むように、意識を手放した。




