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『ある日、世界から「言葉」が消えた。恩師の失踪を追う私は、自分が半世紀前の「被験体」だったと知る』  作者: 伝福 翠人


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裏切りの影

「……っ、ぁ……」


呼吸が整わない。頭の奥で、忘れていたはずの子供時代の光景が、割れたガラスのようにちらついて痛む。


白い部屋。私を見下ろす、ミナミ教授の父親の冷たい目。そして、その隣で苦悩に満ちた顔をしている、若き日の恩師。


「アキさん、しっかり。……立てますか?」


ハルが私の腕を掴み、立たせようとする。その声が、やけに冷静に響くのを、私は混乱の淵で聞いていた。


「……私、は……」


「あなたが被験体だった。そうなんですね?」


ハルの問いかけは、確認というよりは、答え合わせだった。


「……そう。……らしいわ」


「そうか……」とハルは呟き、何かを納得したように頷いた。「……だから、先生はあなたにデータを託した」


彼は私の肩を強く掴んだ。


「感傷に浸っている場合じゃありません。あなたの記憶が戻ったことで、事態が動いた可能性がある」


「どういうこと?」


「あなたの脳が、封印されていた『コード』に再アクセスした。そのシグナルを『調律局』が傍受したかもしれない。ここはもう危険です。急いで脱出します」


ハルの言葉は合理的だった。私はまだふらつく足で立ち上がり、彼に続いた。


ミナミ教授が、カイトが、そしてハルが隠していること。全てが私という一点で繋がっている。ならば、もう逃げるわけにはいかない。


私たちは、地下アーカイブの広大な書架の間を抜け、元来た道――あの分厚い防爆扉へと急いだ。


だが、扉の手前まで来た時、ハルが不意に立ち止まった。


「……アキさん」


「どうしたの?」


「あなた、教授から託されたデータチップ、今も持ってますよね」


「ええ。ポケットに」


「それを、僕に預けてくれませんか」


ハルの声は、地下の冷気よりも冷たかった。


「これから先、何があるか分からない。あなたという『重要参考人』と、『最重要物証』を、一つのカゴに入れておくのは危険だ」


その時、私は気づくべきだった。


彼が私を「アキさん」ではなく、「重要参考人」と呼んだことに。


「……分かったわ」


私は、あの雑居ビルで彼が私を救ってくれた時のことを思い出し、疑いを振り払った。コートのポケットに手を入れ、ミナミ教授が遺したデータチップを取り出そうと――


した、その時だった。


「――その必要はない。ハル」


重い鋼鉄の扉が、音もなく開いていた。


いつからそこに立っていたのか。


扉の向こう側、薄暗い通路に、黒い戦闘服に身を包んだ「調律局」のエージェントたちが、ずらりと並んでいた。


あの雑居ビルを襲撃した、あの男たちだ。


彼らは武器を構えていたが、撃ってくる様子はなかった。


私は、チップを握りしめたまま、凍りついた。


ハルは、驚くでもなく、ゆっくりと私の前に進み出た。


「ご苦労様です」


ハルは、エージェントたちに向かって、淡々と言った。


対象アキおよび、物証チップを確保しました」


「……え?」


頭が理解を拒否した。


「ハル……? あなた、何を……」


ハルはゆっくりと振り返った。


その顔には、今まで見せていた人懐っこい笑顔も、私を気遣う素振りも、何もかもが消え失せていた。


そこにあったのは、獲物を狩り終えた捕食者のような、絶対的な優越感と、冷酷な侮蔑だった。


「あんた、僕を助けてくれたんじゃ……」


「『助けた』?」


ハルは、心底おかしそうに喉を鳴らした。


「違うよ、アキさん。『保護』したんだ。あんたが持ってる、その『データ』をね」


あの雑居ビルでの襲撃。あれは、私を追い詰めるための罠だった。


私を救い出す「ハル」という存在を、私に信じ込ませるための、手の込んだ芝居だったのだ。


「どうして……ミナミ教授の助手だって……」


「それも嘘だ」とハルは吐き捨てた。「僕は『調律局』の人間だ。それも、カイトみたいな生ぬるい内部調査官じゃない。僕は、この『沈黙のコード』の可能性を、誰よりも信奉する者だ」


エージェントたちが、私を取り囲むように距離を詰めてくる。


「だが、あんたには感謝してる」とハルは続けた。「教授はコードの危険性に気づいて、そのデータを『毒』として封印しようとした。だが、僕は違うと思う」


ハルの目が、狂信的な光を宿し始めた。


「ラピュータ(失語)は、拒絶反応なんかじゃない。あれは『進化』の過程だ。古い、不完全な言語を捨てて、新しい、完璧な思考へと至るための、通過儀礼だ」


「……何を、言ってるの……」


「言葉があるから、人は争うんだ!」


ハルの声が、アーカイブの広大な空間に響き渡った。


「誤解、差別、憎悪、戦争……! その全てが、不完全な『言語』というインターフェースから生まれる! 『沈黙のコード』は、その全てを統一し、人類を一つの調和された意識へと導く、神の福音だ!」


彼は、ミナミ教授が危惧した「制御」ではなく、それをさらに進めた「完全な統一」を望んでいた。


「教授は、父親の失敗に怯えすぎた。だが、僕は完成させる。このコードで、人類の思考を『調律』する」


ハルは、私に向かって手を差し出した。


「さあ、チップを渡せ。あんたが『被験体』だったと分かって、好都合だった。あんたの脳は、コードを中和する『抗体カウンターコード』のオリジナルだ。あんたを解析すれば、コードは完璧なものになる」


「……断る」


私はチップを強く握りしめた。


「あんたみたいな狂人に、教授の遺産も、私の記憶も渡さない……!」


「愚かだな」


ハルはため息をつき、エージェントに目配せした。


二人の男が、私に掴みかかる。抵抗する間もなく両腕を後ろ手に拘束された。


ハルは私の前に立つと、まるでゴミでも払うかのように、私のコートのポケットに手を入れ、データチップを抜き取った。


「……っ!」


「ありがとう、アキさん。あんたは、新しい世界の礎となる、最高の人柱だ」


ハルはチップを高々と掲げ、踵を返した。


「対象を『ゼロ地点』へ移送しろ。丁重にな。彼女は、最後の『鍵』だ」


絶望が、私を飲み込もうとしていた。


信じていた仲間に裏切られ、恩師の遺産も、自身の過去も、全てが最悪の形で奪われる。


エージェントに引きずられ、アーカイブの出口へと連行されていく。


その、瞬間だった。


プツン、と音がして、アーカイブの全ての照明が、一斉に消えた。


完全な闇。


エージェントたちの間に動揺が走る。


「どうした!」「非常電源は!?」


次の瞬間、通路の奥から、甲高い放電音と共に、青白い閃光が数回、走った。


私の両腕を掴んでいたエージェントたちが、悲鳴を上げる間もなく、痙攣しながら崩れ落ちていく。


「……何が!?」


ハルの焦った声が闇に響く。


数秒後、赤い非常灯だけが点滅を始めた。


見ると、私を取り囲んでいたエージェントたちは、全員が床に倒れ、戦闘服からかすかな煙を上げていた。


そして、彼らの中心に、一人の男が立っていた。


「……カイト……!」


カイトは、銃ではない、電極が剥き出しになった黒い警棒のような武器スタンロッドを構え、冷静に私を見下ろしていた。


「……二度目だな、アキ」


その声は、相変わらず冷たかったが、今は不思議と頼もしく聞こえた。


「お前には、人を見る目がない。そして、厄介事と、間違った相手を信用する才能だけは、卓越しているらしい」


「ハルはどこだ!」


私が叫ぶと、カイトは開いたままの防爆扉の向こうを顎でしゃくった。


「あの闇の中で、部下を盾にして逃げていった。……賢明な判断だ」


カイトは、私の拘束を解きながら、忌々しげに吐き捨てた。


「奴が、教授のデータを奪った。そして、最悪なことに、奴は『ゼロ地点』のセキュリティコードを知っている」


「ゼロ地点って……!?」


「『調律局』の本部タワーだ。……そして、『沈黙のコード』を全世界にブロードキャストするための、発信基地でもある」

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