裏切りの影
「……っ、ぁ……」
呼吸が整わない。頭の奥で、忘れていたはずの子供時代の光景が、割れたガラスのようにちらついて痛む。
白い部屋。私を見下ろす、ミナミ教授の父親の冷たい目。そして、その隣で苦悩に満ちた顔をしている、若き日の恩師。
「アキさん、しっかり。……立てますか?」
ハルが私の腕を掴み、立たせようとする。その声が、やけに冷静に響くのを、私は混乱の淵で聞いていた。
「……私、は……」
「あなたが被験体だった。そうなんですね?」
ハルの問いかけは、確認というよりは、答え合わせだった。
「……そう。……らしいわ」
「そうか……」とハルは呟き、何かを納得したように頷いた。「……だから、先生はあなたにデータを託した」
彼は私の肩を強く掴んだ。
「感傷に浸っている場合じゃありません。あなたの記憶が戻ったことで、事態が動いた可能性がある」
「どういうこと?」
「あなたの脳が、封印されていた『コード』に再アクセスした。そのシグナルを『調律局』が傍受したかもしれない。ここはもう危険です。急いで脱出します」
ハルの言葉は合理的だった。私はまだふらつく足で立ち上がり、彼に続いた。
ミナミ教授が、カイトが、そしてハルが隠していること。全てが私という一点で繋がっている。ならば、もう逃げるわけにはいかない。
私たちは、地下アーカイブの広大な書架の間を抜け、元来た道――あの分厚い防爆扉へと急いだ。
だが、扉の手前まで来た時、ハルが不意に立ち止まった。
「……アキさん」
「どうしたの?」
「あなた、教授から託されたデータチップ、今も持ってますよね」
「ええ。ポケットに」
「それを、僕に預けてくれませんか」
ハルの声は、地下の冷気よりも冷たかった。
「これから先、何があるか分からない。あなたという『重要参考人』と、『最重要物証』を、一つのカゴに入れておくのは危険だ」
その時、私は気づくべきだった。
彼が私を「アキさん」ではなく、「重要参考人」と呼んだことに。
「……分かったわ」
私は、あの雑居ビルで彼が私を救ってくれた時のことを思い出し、疑いを振り払った。コートのポケットに手を入れ、ミナミ教授が遺したデータチップを取り出そうと――
した、その時だった。
「――その必要はない。ハル」
重い鋼鉄の扉が、音もなく開いていた。
いつからそこに立っていたのか。
扉の向こう側、薄暗い通路に、黒い戦闘服に身を包んだ「調律局」のエージェントたちが、ずらりと並んでいた。
あの雑居ビルを襲撃した、あの男たちだ。
彼らは武器を構えていたが、撃ってくる様子はなかった。
私は、チップを握りしめたまま、凍りついた。
ハルは、驚くでもなく、ゆっくりと私の前に進み出た。
「ご苦労様です」
ハルは、エージェントたちに向かって、淡々と言った。
「対象および、物証を確保しました」
「……え?」
頭が理解を拒否した。
「ハル……? あなた、何を……」
ハルはゆっくりと振り返った。
その顔には、今まで見せていた人懐っこい笑顔も、私を気遣う素振りも、何もかもが消え失せていた。
そこにあったのは、獲物を狩り終えた捕食者のような、絶対的な優越感と、冷酷な侮蔑だった。
「あんた、僕を助けてくれたんじゃ……」
「『助けた』?」
ハルは、心底おかしそうに喉を鳴らした。
「違うよ、アキさん。『保護』したんだ。あんたが持ってる、その『データ』をね」
あの雑居ビルでの襲撃。あれは、私を追い詰めるための罠だった。
私を救い出す「ハル」という存在を、私に信じ込ませるための、手の込んだ芝居だったのだ。
「どうして……ミナミ教授の助手だって……」
「それも嘘だ」とハルは吐き捨てた。「僕は『調律局』の人間だ。それも、カイトみたいな生ぬるい内部調査官じゃない。僕は、この『沈黙のコード』の可能性を、誰よりも信奉する者だ」
エージェントたちが、私を取り囲むように距離を詰めてくる。
「だが、あんたには感謝してる」とハルは続けた。「教授はコードの危険性に気づいて、そのデータを『毒』として封印しようとした。だが、僕は違うと思う」
ハルの目が、狂信的な光を宿し始めた。
「ラピュータ(失語)は、拒絶反応なんかじゃない。あれは『進化』の過程だ。古い、不完全な言語を捨てて、新しい、完璧な思考へと至るための、通過儀礼だ」
「……何を、言ってるの……」
「言葉があるから、人は争うんだ!」
ハルの声が、アーカイブの広大な空間に響き渡った。
「誤解、差別、憎悪、戦争……! その全てが、不完全な『言語』というインターフェースから生まれる! 『沈黙のコード』は、その全てを統一し、人類を一つの調和された意識へと導く、神の福音だ!」
彼は、ミナミ教授が危惧した「制御」ではなく、それをさらに進めた「完全な統一」を望んでいた。
「教授は、父親の失敗に怯えすぎた。だが、僕は完成させる。このコードで、人類の思考を『調律』する」
ハルは、私に向かって手を差し出した。
「さあ、チップを渡せ。あんたが『被験体』だったと分かって、好都合だった。あんたの脳は、コードを中和する『抗体』のオリジナルだ。あんたを解析すれば、コードは完璧なものになる」
「……断る」
私はチップを強く握りしめた。
「あんたみたいな狂人に、教授の遺産も、私の記憶も渡さない……!」
「愚かだな」
ハルはため息をつき、エージェントに目配せした。
二人の男が、私に掴みかかる。抵抗する間もなく両腕を後ろ手に拘束された。
ハルは私の前に立つと、まるでゴミでも払うかのように、私のコートのポケットに手を入れ、データチップを抜き取った。
「……っ!」
「ありがとう、アキさん。あんたは、新しい世界の礎となる、最高の人柱だ」
ハルはチップを高々と掲げ、踵を返した。
「対象を『ゼロ地点』へ移送しろ。丁重にな。彼女は、最後の『鍵』だ」
絶望が、私を飲み込もうとしていた。
信じていた仲間に裏切られ、恩師の遺産も、自身の過去も、全てが最悪の形で奪われる。
エージェントに引きずられ、アーカイブの出口へと連行されていく。
その、瞬間だった。
プツン、と音がして、アーカイブの全ての照明が、一斉に消えた。
完全な闇。
エージェントたちの間に動揺が走る。
「どうした!」「非常電源は!?」
次の瞬間、通路の奥から、甲高い放電音と共に、青白い閃光が数回、走った。
私の両腕を掴んでいたエージェントたちが、悲鳴を上げる間もなく、痙攣しながら崩れ落ちていく。
「……何が!?」
ハルの焦った声が闇に響く。
数秒後、赤い非常灯だけが点滅を始めた。
見ると、私を取り囲んでいたエージェントたちは、全員が床に倒れ、戦闘服からかすかな煙を上げていた。
そして、彼らの中心に、一人の男が立っていた。
「……カイト……!」
カイトは、銃ではない、電極が剥き出しになった黒い警棒のような武器を構え、冷静に私を見下ろしていた。
「……二度目だな、アキ」
その声は、相変わらず冷たかったが、今は不思議と頼もしく聞こえた。
「お前には、人を見る目がない。そして、厄介事と、間違った相手を信用する才能だけは、卓越しているらしい」
「ハルはどこだ!」
私が叫ぶと、カイトは開いたままの防爆扉の向こうを顎でしゃくった。
「あの闇の中で、部下を盾にして逃げていった。……賢明な判断だ」
カイトは、私の拘束を解きながら、忌々しげに吐き捨てた。
「奴が、教授のデータを奪った。そして、最悪なことに、奴は『ゼロ地点』のセキュリティコードを知っている」
「ゼロ地点って……!?」
「『調律局』の本部タワーだ。……そして、『沈黙のコード』を全世界にブロードキャストするための、発信基地でもある」




