地下アーカイブ
ハルの手引きによる逃走劇は、完璧の一言に尽きた。
私たちは、あの雑居ビルから地下の業務用通路を抜け、迷路のような下水道網を数十分歩き、最終的に貨物専用の地下鉄路線(今はもう使われていない旧時代の遺物だ)を使って、調律局の追跡を完全に振り切った。
カイトのような政府機関の人間が最新の監視システムを駆使する「地上」のハンターだとすれば、ハルはインフラの隙間を知り尽くした「地下」のゲリラだった。
「着きました」
半日近くを地下で過ごし、私の体力は限界に近かった。ハルが立ち止まったのは、巨大な地下調整池の奥深く、分厚い防爆扉の前だった。
「ここが、僕の本当のセーフハウス……そして、教授が遺した『武器庫』です」
ハルが携帯端末を操作すると、重い鋼鉄の扉が、驚くほど滑らかに、音もなく開いた。
息をのんだ。
扉の先に広がっていたのは、セーフハウスなどという陳腐な言葉では表現できない、巨大な空間だった。
上下左右、視界の限り続く書架。そして、旧式の磁気テープストレージや、青白い冷却液に浸されたサーバ群。埃とカビ、そして古い紙の匂いが、圧縮された空気のように鼻腔を突いた。
「……ここは、国会図書館の地下書庫? いや、それ以上だ」
「『地下アーカイブ』。公式には存在しないデータベースです」とハルは誇らしげに言った。「かつて、政府や企業が、スキャンダルや倫理的な問題で『存在しなかったこと』にした研究データ。その全てが、物理的にここに眠っています」
ミナミ教授は、このアーカイブの元・管理者の一人だったらしい。
「教授は、ラピュータの研究に行き詰まった時、ここで『過去』を漁ったんです。そして、見つけてしまった」
ハルは私を空間の奥、最も厳重に管理されているデータ保管庫へと導いた。
「調律局が血眼になって探している『沈黙のコード』は、ミナミ先生がゼロから作ったものじゃありません。先生は、ここに眠っていた『種』を……再発見してしまっただけなんです」
ハルが、ある年代――今から半世紀も前の――の磁気テープをリールにセットし、旧式のコンソールを叩いた。ガリガリと不快な読み込み音を立て、壁のモニターに、ノイズの走る古い記録映像が映し出された。
それは、どこかの研究施設を撮影したモノクロの映像だった。白衣を着た研究者たちと、数人の……子供たち。
『――第二次人工言語適応実験。被験体D、聴覚パターンC-7をインプット。反応計測』
無機質なアナウンスと共に、スピーカーからノイズが流れる。
それは、私が診察室で聞いた、あの不快なノイズと寸分違わぬ音だった。
映像の中の子供は、その音を聞いた途端、激しく耳をふさぎ、泣き叫んだ。
「……これは」
「『バベル・プロジェクト』。半世紀前、国家主導で行われた極秘の実験です」
ハルは、モニターに映し出される古文献のデジタルデータを指し示した。
「目的は『全人類の思考を統一する、完璧な人工言語の創造』。彼らは、言語と思考の根源にアクセスしようとした。その過程で生まれたのが、思考そのものを『汚染』するコード……当時の呼称は『ラピュタ・ウイルス』でした」
ラピュータ。私の恩師が名付けたと思っていた病名が、半世紀も前から存在していた。
「実験は、被験者の子供たちに深刻な精神汚染を引き起こし、失敗。プロジェクトは凍結され、全ての記録は、このアーカイブの奥底に封印された……はずでした」
ハルの声が、わずかに怒りを帯びる。
「ミナミ先生は、現代のラピュータの流行が、この古代の『ウイルス』の再燃だと突き止めたんです。そして、その治療法を探すために、禁忌であるこのデータを再び掘り起こした」
私は画面に映し出された文献の記録を、震える指でスクロールした。
プロジェクトの責任者リスト。そこに並んだ名前に、息が止まった。
『プロジェクト・リーダー:ミナミ・ケンタロウ』
『チーフ・エンジニア:カイト・シンドウ(※現情報事象調律局 理事)』
『倫理監査室:……』
ミナミ教授。私の、あの温和な恩師が、半世紀も前の、この非人道的な実験のリーダー?
いや、年齢が合わない。教授は今、60代だ。半世紀前なら子供だ。
「……同姓同名?」
「いいえ」とハルは首を振った。「ミナミ・ケンタロウは、あなたの恩師の『父親』です」
そして、カイト。私のライバルだったカイトの父親も、この実験のチーフだった。
ラピュータも、沈黙のコードも、ミナミ教授も、カイトも、全てが半世紀前から続く因縁で繋がっていた。
「調律局は、このバベル・プロジェクトの失敗を隠蔽し、その成果を独占するために生まれた組織です。カイトの父親が設立し、今は息子が後を継いでいる」
ハルが言う。
「そして、ミナミ先生もまた……ラピュータの研究者になる前は、『調律局』の主任研究員だったんです。父親の罪を償うために」
頭が混乱し、殴られたように痛んだ。
ミナミ教授が、調律局の元・主任研究員。
彼は、父親が作った「毒」を研究し、それを現代に蘇らせてしまった……?
「……待って」
私は、あることに気づいた。
映像の中、泣き叫ぶ子供たちを、冷静に見つめている白衣の男。ミナミ教授の父親。
その隣に、もう一人、若い研究者が立っている。顔はノイズで不鮮明だ。
だが、その立ち姿、その雰囲気は……。
「……この人」
私はモニターに映る、若い頃のミナミ教授(私の恩師の方)を知っていた。
いや、違う。知っている、という感覚ではない。
これは――
(――アキ君。大丈夫。これは「音」じゃない。「言葉」だよ。君だけの、特別な言葉だ)
ノイズの奥から、声が聞こえる。
白い部屋。消毒液の匂い。私の腕に繋がれた電極。
目の前に立つ、若い頃のミナミ教授。
彼は、泣いている私に、優しく語りかけている。
「――あ……っ!」
強烈な頭痛とめまいに襲われ、私はその場に膝をついた。
視界が白く点滅する。記憶だ。私が、私のものとして認識していなかった、しかし間違いなく私の記憶。
私は、あの実験施設にいた。
「アキさん!?」
ハルが駆け寄り、私の肩を支える。
「どうしたんですか、しっかり!」
「……私……」
息ができない。
「私も……あの実験に……」
映像の中、泣き叫ぶ子供たちの中に、私は「自分」を見ていた。
「……私……被験体、だった……」
なぜ忘れていたのか。
いや、違う。ミナミ教授が、私を救い出し、そして、この記憶を「封印」したんだ。
私を守るために。
そして、今、教授が遺したデータチップ(コード)が、その封印を解き始めた。
ハルが、驚愕と、そして別の……何か冷たい光を目に宿して、私を見つめていた。
「……そうか。だから、先生はあなたに」
その呟きは、私には届かなかった。




