追跡者
非常階段の重い鉄の扉を蹴立てるように開き、外の冷たい雨の中に転がり出た。警報が鳴り響いているかもしれないが、降りしきる雨音に紛れてよく聞こえない。
カイトの追跡を振り切るため、私は人混みを目指した。大学のキャンパスを抜け、最寄りの地下鉄駅に滑り込む。ラッシュアワーを過ぎた車内は、ラピュータのせいか、以前よりも乗客がまばらで、誰もがスマートフォンか電子タブレットの画面に沈黙していた。
幸い、私には隠れ家と呼べる場所があった。
都心の、それも最も古い雑居ビルの一角。学生時代に共同で借りていた、今は誰も使っていない小さな個人研究室だ。電力とネットワーク回線だけは、今も契約を生かしてある。
湿ったコンクリートの匂いがする階段を駆け上がり、錆びたドアの旧式なシリンダー錠を開ける。
部屋に飛び込むなり、私は内側から鍵とチェーンをかけ、窓のブラインドを降ろした。
カイトが私の職員IDを追跡できるなら、この場所も時間の問題かもしれない。
だが、カイトの所属する「調律局」がどれほどの権限を持っているか不明だが、ここの賃貸契約は完全に偽名だ。少しは時間が稼げるはずだ。
私は濡れたコートを脱ぎ捨て、すぐに持参したノートPCを起動した。
ミナミ教授が遺したデータチップをリーダー経由で接続する。
『Project LAPUTA : "Silent Code" Ver 0.9』
ロックされたファイル群は、私の貧弱なPCでは歯が立たない。
だが、あの警告テキストと、断片的に読み取れるログを見るだけで、恐ろしい仮説が組み上がっていく。
「……これは、言語データじゃない。音響パターンだ。特定の周波数と周期を持つ、指向性の『音』……」
あの患者が反応した、ノイズ。
カイトの焦りよう。
ミナミ教授の失踪。
「まさか……ラピュータは、病気じゃない……?」
これは、意図的に作られた「何か」によって引き起こされている、人為的な災害……?
「沈黙のコード」とは、ラピュータを引き起こすための、音響兵器か何かの設計図だというのか。
その仮説が頭をよぎった瞬間、
ドン!
雑居ビルの古びたドアが、外から強烈な力で蹴破られた。
チェーンが甲高い音を立ててちぎれ飛ぶ。
カイト……!?
いや、違う。
ドアを突き破って入ってきたのは、カイトのような制服ではなく、黒い戦闘服に身を包んだ、屈強な男たちだった。ガスマスクで顔を隠し、その手には私が見たこともない自動小銃が握られている。
「……っ!」
私は咄嗟にデータチップをPCから引き抜き、強く握りしめた。
「動くな!」
男の一人が、私に銃口を向ける。
「チップを渡せ」
その声は、ガスマスクのせいで、くぐもって聞こえた。
カイトとは、明らかに別の組織だ。
絶体絶命だった。私が抵抗する間もなく、男たちが私に掴みかかろうと――
した、その時。
研究室の窓ガラスが、外から割れた。
銃声。
私を拘束しようとした男たちの体が、火花のようなものを散らせて硬直し、床に崩れ落ちた。
「……え?」
窓枠を乗り越え、軽やかに部屋に飛び込んできた人影があった。
あの、大学の研究室で私を助けた、黒ずくめの青年だった。
「無事か!?」
彼は、特殊な拳銃(電撃銃か何かだろう)を構え、倒れた男たちに素早くトドメを刺していく。
「あんた……一体……」
「話は後だ! こいつら、本物の**『調律局』の実働部隊だ!** カイトの部署とは違う、もっとヤバい連中だ!」
青年は、私の腕を掴む。
「とにかく、逃げるぞ! ミナミ先生から、あんたを託されてる!」
「先生から!?」
「俺はハル。教授の助手だ」
ハルと名乗る青年は、私を引っ張って、再び窓から外へ飛び出した。
「教授は、調律局に追われている。そして、あんたが持ってる、そのチップこそが、教授が命懸けで守ろうとした『希望』だ」
希望。
私は、それが「音響兵器」の設計図かもしれないという恐怖を胸に、ハルの手を握り返した。
雑居ビルの裏路地を、二つの組織から追われる身となって、私たちは走り出した。




