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『ある日、世界から「言葉」が消えた。恩師の失踪を追う私は、自分が半世紀前の「被験体」だったと知る』  作者: 伝福 翠人


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2/10

残されたデータ

ミナミ教授の研究室がある人文学棟は、夜の闇に沈み、不気味なほど静まり返っていた。雨脚が強まり、私のコートはすでにぐっしょりと濡れている。


正面玄関は当然ロックされていたが、問題はなかった。学生時代、深夜まで議論が白熱して閉じ込められた経験が何度もある。


勝手知ったる裏口の、配電盤裏に隠された予備のキーカードリーダーに、私は自分の職員IDを滑らせた。


低い電子音と共にロックが解除される。カイトが言った「封鎖」とは、どうやら物理的な遮断ではなく、関係者以外を立ち入らせないための「情報的な壁」のようだ。


研究室のフロアに足を踏み入れると、ひやりとした空気が肌を撫でた。


教授の研究室のドアノブには、『関係者以外立入禁止』のテープが雑に貼られている。だが、鍵はかかっていなかった。不用心なのか、あるいは――すでに「用済み」だというのか。


テープを慎重に剥がし、ドアを開ける。


中は暗かったが、すぐに違和感に気づいた。


「……片付きすぎている」


ミナミ教授の研究室は、常に雑然としていた。床には読みかけの文献が塔のように積み上がり、壁という壁は付箋とメモで埋め尽くされているのが常だった。


だが今、目の前にあるのは、まるでモデルルームのように整頓された空間だった。床に本はなく、デスクの上にはモニターとキーボードが几帳面に置かれているだけ。壁のメモも、綺麗に剥がされている。


警察や、カイトの所属する「機関」が捜査のために資料を押収したのだろう。


だが、それにしては「綺麗すぎた」。


私はデスクに向かった。電源の落ちたモニターの黒い画面に、不安げな自分の顔が映る。


「……違う」


私はデスクの引き出しを片っ端から開けた。空っぽだ。本棚も調べた。専門書は几帳面に並んでいるが、教授が常に手元に置いていたはずの、革張りの分厚いノートブックがどこにもない。


これは捜査のための「押収」ではない。


まるで、ミナミ教授という人間が最初から存在しなかったかのように、その痕跡を消し去るための「隠蔽」だ。


焦りが胸を焼く。教授は一体何を掴み、誰に消されたのか。


私は目を閉じ、教授との最後の会話を必死に思い出そうとした。


(――アキ君。言語というのは面白いものだ。言葉は『意味』を伝える道具であると同時に、『意味』を隠すための最高のカモフラージュでもある)


(カモフラージュ、ですか?)


(そうさ。例えば……この書架。一見、分野も年代もバラバラだろう? だが、ある法則で並んでいる。この世で最も難解な暗号さ。私自身にも、解読に時間がかかるくらいだ)


あの時の冗談めかした教授の目を思い出す。


私は書架の前に立った。確かに、古代象形文字の隣に最新のAI言語学の専門書が並んでいたりと、無秩序に見える。


だが、教授は「法則がある」と言った。


「法則……意味を隠すための……」


私は背表紙の文字を追った。タイトルではない。もっと別の何か。


そうだ、教授はいつも洋書の「初版」にこだわっていた。出版年だ。


私は本棚を睨みつけるように見渡し、ある一点に気づいた。五段目の中央付近。そこだけ、出版年が不自然に飛んでいる。1950年代の文献の隣に、2010年代のものが挟まっている。


その本――『失われた声の系譜』――を引き抜く。


本自体はただの専門書だ。


だが、本があった場所、その奥の壁板に、指先ほどの小さな溝が彫られていることに気づいた。


「……ここだ」


爪を立ててスライドさせると、壁板がわずかに開き、中から指先ほどの大きさの黒いデータチップが転がり出た。


これだ。教授が「機関」の目から隠したかった、最後の研究データ。


私はポケットから小型のデータリーダーを取り出し、チップを差し込んだ。防水仕様の小さな画面に、暗号化されたファイル群が表示される。


その中で一つだけ、ロックのかかっていないテキストファイルがあった。


『警告:もし君がミナミでなく、これを読んでいるのがアキならば、直ちに逃げろ。これは「ラピュータ」の治療薬などではない。これは「病」そのものだ。我々が掘り起こしてしまった、古の――』


テキストはそこで途切れていた。


ファイルのタイトルは、こうだ。


『Project LAPUTA : "Silent Code" Ver 0.9』


「沈黙の、コード……」


これが、教授が最後に掴んだもの。そして、あの患者が反応したノイズの正体……?


その時、背後で、静かだが鋭い足音がした。


「――それ以上、動くな。アキ」


振り返ると、入り口にカイトが立っていた。いつものビジネススーツではなく、黒い特殊な制服を身につけ、冷たい目で私を見ている。


「そのチップを、こちらへ渡せ」


「カイト……あなた、一体……」


「警告はしたはずだ。それは君が扱っていいシロモノじゃない」


カイトが、ゆっくりと私に向かって歩を進める。彼の腰にあるホルスターには、見慣れない銃器が収まっていた。


「調律局の者か」


カイトの言葉を遮るように、天井の通気口のフタが開き、何かがカイトの足元に転がった。


「!?」


カイトが、私を突き飛ばすようにして床に伏せた。


次の瞬間、閃光と轟音。強力な閃光弾スタングレネードだった。


「こっちだ!」


耳鳴りの中で、誰かが私の腕を掴んだ。見ると、開いたままの通気口からロープが垂れ下がっている。ロープを降りてきたのは、黒ずくめの、私とそう年の変わらない青年だった。


「……誰!?」


「いいから早く! カイトに捕まるな!」


青年は、私を強引にハーネスで固定すると、通気口に向かってウインチを作動させた。


「待て! アキ!」


カイトが、煙の中から立ち上がるのが見えた。


だが、一瞬遅かった。


私の体は宙に浮き、闇の中へと引きずり上げられる。


「データは渡さない……!」


私は、データチップを握りしめた右手を、強く胸に押し当てた。


カイトの焦燥に満ちた顔が、急速に小さくなっていく。


これが、私の日常が終わった、決定的な瞬間だった。

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