残されたデータ
ミナミ教授の研究室がある人文学棟は、夜の闇に沈み、不気味なほど静まり返っていた。雨脚が強まり、私のコートはすでにぐっしょりと濡れている。
正面玄関は当然ロックされていたが、問題はなかった。学生時代、深夜まで議論が白熱して閉じ込められた経験が何度もある。
勝手知ったる裏口の、配電盤裏に隠された予備のキーカードリーダーに、私は自分の職員IDを滑らせた。
低い電子音と共にロックが解除される。カイトが言った「封鎖」とは、どうやら物理的な遮断ではなく、関係者以外を立ち入らせないための「情報的な壁」のようだ。
研究室のフロアに足を踏み入れると、ひやりとした空気が肌を撫でた。
教授の研究室のドアノブには、『関係者以外立入禁止』のテープが雑に貼られている。だが、鍵はかかっていなかった。不用心なのか、あるいは――すでに「用済み」だというのか。
テープを慎重に剥がし、ドアを開ける。
中は暗かったが、すぐに違和感に気づいた。
「……片付きすぎている」
ミナミ教授の研究室は、常に雑然としていた。床には読みかけの文献が塔のように積み上がり、壁という壁は付箋とメモで埋め尽くされているのが常だった。
だが今、目の前にあるのは、まるでモデルルームのように整頓された空間だった。床に本はなく、デスクの上にはモニターとキーボードが几帳面に置かれているだけ。壁のメモも、綺麗に剥がされている。
警察や、カイトの所属する「機関」が捜査のために資料を押収したのだろう。
だが、それにしては「綺麗すぎた」。
私はデスクに向かった。電源の落ちたモニターの黒い画面に、不安げな自分の顔が映る。
「……違う」
私はデスクの引き出しを片っ端から開けた。空っぽだ。本棚も調べた。専門書は几帳面に並んでいるが、教授が常に手元に置いていたはずの、革張りの分厚いノートブックがどこにもない。
これは捜査のための「押収」ではない。
まるで、ミナミ教授という人間が最初から存在しなかったかのように、その痕跡を消し去るための「隠蔽」だ。
焦りが胸を焼く。教授は一体何を掴み、誰に消されたのか。
私は目を閉じ、教授との最後の会話を必死に思い出そうとした。
(――アキ君。言語というのは面白いものだ。言葉は『意味』を伝える道具であると同時に、『意味』を隠すための最高のカモフラージュでもある)
(カモフラージュ、ですか?)
(そうさ。例えば……この書架。一見、分野も年代もバラバラだろう? だが、ある法則で並んでいる。この世で最も難解な暗号さ。私自身にも、解読に時間がかかるくらいだ)
あの時の冗談めかした教授の目を思い出す。
私は書架の前に立った。確かに、古代象形文字の隣に最新のAI言語学の専門書が並んでいたりと、無秩序に見える。
だが、教授は「法則がある」と言った。
「法則……意味を隠すための……」
私は背表紙の文字を追った。タイトルではない。もっと別の何か。
そうだ、教授はいつも洋書の「初版」にこだわっていた。出版年だ。
私は本棚を睨みつけるように見渡し、ある一点に気づいた。五段目の中央付近。そこだけ、出版年が不自然に飛んでいる。1950年代の文献の隣に、2010年代のものが挟まっている。
その本――『失われた声の系譜』――を引き抜く。
本自体はただの専門書だ。
だが、本があった場所、その奥の壁板に、指先ほどの小さな溝が彫られていることに気づいた。
「……ここだ」
爪を立ててスライドさせると、壁板がわずかに開き、中から指先ほどの大きさの黒いデータチップが転がり出た。
これだ。教授が「機関」の目から隠したかった、最後の研究データ。
私はポケットから小型のデータリーダーを取り出し、チップを差し込んだ。防水仕様の小さな画面に、暗号化されたファイル群が表示される。
その中で一つだけ、ロックのかかっていないテキストファイルがあった。
『警告:もし君が私でなく、これを読んでいるのがアキならば、直ちに逃げろ。これは「ラピュータ」の治療薬などではない。これは「病」そのものだ。我々が掘り起こしてしまった、古の――』
テキストはそこで途切れていた。
ファイルのタイトルは、こうだ。
『Project LAPUTA : "Silent Code" Ver 0.9』
「沈黙の、コード……」
これが、教授が最後に掴んだもの。そして、あの患者が反応したノイズの正体……?
その時、背後で、静かだが鋭い足音がした。
「――それ以上、動くな。アキ」
振り返ると、入り口にカイトが立っていた。いつものビジネススーツではなく、黒い特殊な制服を身につけ、冷たい目で私を見ている。
「そのチップを、こちらへ渡せ」
「カイト……あなた、一体……」
「警告はしたはずだ。それは君が扱っていいシロモノじゃない」
カイトが、ゆっくりと私に向かって歩を進める。彼の腰にあるホルスターには、見慣れない銃器が収まっていた。
「調律局の者か」
カイトの言葉を遮るように、天井の通気口のフタが開き、何かがカイトの足元に転がった。
「!?」
カイトが、私を突き飛ばすようにして床に伏せた。
次の瞬間、閃光と轟音。強力な閃光弾だった。
「こっちだ!」
耳鳴りの中で、誰かが私の腕を掴んだ。見ると、開いたままの通気口からロープが垂れ下がっている。ロープを降りてきたのは、黒ずくめの、私とそう年の変わらない青年だった。
「……誰!?」
「いいから早く! カイトに捕まるな!」
青年は、私を強引にハーネスで固定すると、通気口に向かってウインチを作動させた。
「待て! アキ!」
カイトが、煙の中から立ち上がるのが見えた。
だが、一瞬遅かった。
私の体は宙に浮き、闇の中へと引きずり上げられる。
「データは渡さない……!」
私は、データチップを握りしめた右手を、強く胸に押し当てた。
カイトの焦燥に満ちた顔が、急速に小さくなっていく。
これが、私の日常が終わった、決定的な瞬間だった。




