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『ある日、世界から「言葉」が消えた。恩師の失踪を追う私は、自分が半世紀前の「被験体」だったと知る』  作者: 伝福 翠人


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声の還る場所

私が次に目覚めたのは、あの冷たい制御室ではなく、消毒液の匂いがする真っ白な病室だった。


窓から差し込む光が、やけに眩しい。


「……目が覚めたか」


ベッドの脇には、腕を吊ったカイトが、相変わらずの無表情で座っていた。


「ここは、調律局……いや、旧・調律局の医療施設だ。君は三日間、眠り続けていた」


「……三日」


私の喉は、あの最後の一声で焼け付いたように痛んだ。


「世界は?」


「沈黙を免れた」とカイトは短く言った。「君が流した『調和コード』は、ハルが設定した『毒性』を完全に中和し……ラピュータ患者の言語野を再起動リブートさせるシグナルとして、世界中に届いた」


カイトは、病室の壁に設置されたモニターの電源を入れた。


世界中のニュースが、この三日間の「奇跡」を報じていた。


『原因不明のまま、失語症が集団回復へ』


『沈黙していた患者たちが、一斉に言葉を取り戻す』


『専門家は「脳内の何らかのリミッターが解除された可能性」と発表』


「ハルは?」


「……拘束した」カイトは目を伏せた。「彼は、自分が信じた『調和』が、アキによって達成されたことに、ひどく混乱している。彼もまた、あのコードの犠牲者だ。……時間をかけて、治療が必要だろう」


「そう……」


「『調律局』は、解体された」


カイトは、静かに続けた。


「俺の父親たちが始めた狂った実験も、ミナミ教授の苦悩も、ハルの暴走も……全て、俺の代で清算する。二度と、あんな技術が使われないように」


彼は立ち上がり、病室のドアに向かった。「……俺は、その『後始末』が残っている。もう、行くよ」


「カイト」


私は、彼を呼び止めた。


「……ありがとう」


カイトは、ほんの一瞬、振り返り、


「……礼を言うのは、俺の方だ」


そう言って、今度こそ去っていった。


一週間後。


私は、退院の手続きを済ませ、街を歩いていた。


世界は、変わっていた。


いや、元に戻った、というべきか。


カフェのテラスで、けたたましく笑い合う学生たち。


公園のベンチで、穏やかに昔話をする老夫婦。


道端で、つまらないことで口論しているカップル。


言葉がある。


不完全で、誤解を生みやすくて、時には人を傷つける、あの「雑音ノイズ」が、街に満ち溢れていた。


それは、私が今まで聞いた、どんな音楽よりも美しい「調和」だった。


私は、あの最初の診断で出会った、初老の男性が入院している病院を訪れた。


彼は、病室の窓辺で、見舞いに来たらしい孫娘のたどたどしいおしゃべりを、涙を流しながら、何度も頷き、聞いていた。


言葉が、還ってきたのだ。


私は、その足で、長距離列車に乗った。


向かう先は、ミナミ教授が失踪前に全ての書類を移していた、海辺の療養所。


そこは、かつて「バベル・プロジェクト」の実験施設があった場所を、教授が買い取り、慰霊のために作り替えた場所だと、カイトから聞いていた。


潮騒が響く、静かな丘の上。


教授は、そこにいた。


車椅子に座り、穏やかな海を、ただ、じっと見つめていた。すっかり痩せてしまったが、その目は、昔と変わらず優しかった。


「……先生」


私が声をかけると、教授はゆっくりと振り返り、微笑んだ。


「……ああ、アキ君か」


その声は、ひどくかすれていた。


「……聞こえたよ。三日前」


教授は、空を指さした。


「君の、『声』が。……とても、綺麗な音だった」


私は、何も言わずに、教授の隣に立った。


もう、報告すべきことは何もなかった。


ブロードキャストされた「調和コード」は、ラピュータ(失語)を治療しただけではない。それは、ミナミ教授の脳を縛り付けていた、半世紀にわたる「罪のコード」をも、解き放っていた。


「……先生」


「なんだね」


「私、大学に戻ったら、新しい研究を始めようと思うんです」


私は、教授に、これからの話をした。


ハルは、言語の「多様性」が争いを生むと言った。


だが、私は知っている。


失われた言葉は、失われた文化であり、失われた思考そのものだ。


「ラピュータは治った。でも、世界には、ラピュータとは違う形で『失われつつある言葉』がたくさんある」


私は、海を見つめた。


「私は、それを『再生』する研究がしたい。この世界に、どれだけ多くの『声』があったのかを、もう一度、この手で」


ミナミ教授は、嬉しそうに、深く、頷いた。


「……それこそが、君がすべきことだ。アキ」


空は、どこまでも青かった。


私たちの世界には、これからも「雑音」が満ち溢れている。


だが、私たちはもう、沈黙を恐れない。


違う声で、違う言葉で、それでも理解しようと手を伸ばすことの尊さを、私たちは知っているのだから。

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