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春の校舎に並び咲く桜の木々なんてのは、全国各地、どこの学校でだって見られる何でもないありふれた光景であって、そんなものは国民各位、誰であっても当然として思い浮かべるもはや共通認識的原風景とすら言えるものだろう。
学校に桜の木あり。目に馴染んだこの風景が、なぜこん日この春、学校というものの統一規格がごとくに浸透しているのかと言うと、諸説あるその端緒の一端は時代を遡り、明治時代へと手繰ることができる。
当時、帝国主義の名のもとに国策として富国強兵を推し進めていた日本において、開花からたった二週間ほどで満開を経て散っていく桜は、国のため命を散らしていく軍人たちの美学に重ねられていた。そうした背景の最中にあって、子供たちへの思想教育の一環として学校に植えられるようになったのが、桜だったのだ。つまりは、真っ新な子供たちの心に、ぱっと咲いてぱっと散るという軍人精神を植え付けるために咲いて散るのが、学校に植えられた桜に求められし演出効果というものだったというわけである。
さて、ではそんな当初の意味から比べて、現代の日本においてはどうだろう。
この平和な日本でのんべんだらりとダラダラ堕落して日々を過ごす現代っ子たちに戦争云々徴兵云々なぞあるわけもなく、今や、学校の桜が咲き誇りそして儚くも散っていくその姿に重ねられるのは、限られた学生生活、つまりは青春の儚さ。桜に求められし演出効果は若人たちの青春を薄桃色に彩ることと成り果て、イデオロギーだの軍人精神だのなどは知ったこっちゃなし。散りゆく花弁の一片一片に、祖国のためにか誰がためにか、死にゆく兵隊その一兵一兵の命の儚さを思ふ、なんて、まぁ、この様の現代へのそぐわなさこそ、どれだけこの国が様変わりしたのか、そして国民が幸せを享受し得たのかを表していると言えるだろう。今時の高校生の、なんと満ち足りたことか。散りゆく花弁になんて目もくれずスマホの画面に食い入り、教科書参考書単語帳に没頭し、遊びに恋に明け暮れる。そのうえ大人になれば、テッカテッカのブルーシートの上で飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎでゴミ散らかしっぱなし、とかそんなもんである。
少し説教臭くなり過ぎたか。ということで、今日の説教ここに御終い。
幸せに越したことはない。幸せな時代になったのならそれで大いに結構である。
そんじゃぁなんで、俺がこんなくだらない説教を脳内でうだうだと垂れているのかと言うと、それは、説教でも垂れて鬱憤を吐き出してでもやらないとやっていられないような、面倒極まりない状況に陥っているからである。目下、状況は極めて深刻。散る桜から思いを致しふざけた表現をさせてもらえば、赤紙くらって覚悟も決まらぬまま戦地のど真ん中へと投げ出された学徒兵の気分、んなわけあるか。とは言え多勢に無勢。まったく四面楚歌。それも楚歌大合唱、って感じなのは確かである。はぁ……
「それでは、自己紹介をお願いします」
黒板の前に立たされて、目の前に居並ぶ生徒各位から向けられている注目の視線に辟易としながら、俺は、それまで頑なに引き結んでいた口を開いた。
「はじめまして、今日からこのクラスでお世話になります、黒伊春比古です。趣味は惰眠。特技は賭博。極度の人見知りですが、これからよろしくお願いします」
髙橋皐月の持ち込んできた厄介事を引き受けた翌週の月曜日、朝八時二十五分、県立神楽野高等学校二年三組の教室――
そこには、パリッパリ新品の学ランに身を包まれた、俺がいた。
……って、どうしてこうなったッ‼
なんで俺はこんなワケの分からん状況に陥っているんだどうして神であるはずの俺が一介の高校生なんぞに身を落とす羽目になっているんだどういう訳でこの俺が早起きさせられて学ランなんてもんに袖を通しクソ眠くて仕方がないこんな朝っぱらから思春期真っ盛りの青臭いガキどもの前で見世物になどならなければいけないんだ?
高校、教室、学ラン、転校生、自己紹介、全く意味分からん。
つい数日前までは底辺大学生にもエリートニートにも引けを取らない自堕落遊惰な生活を悠々自適に満喫していたはずの俺が、一変、今日は朝七時に政親に叩き起こされ、制服なんてもんを着せられ、こうして高校生どもの衆目に曝されるという憂き目にあっている。
内心では七転八倒暴れ回るというか悶え苦しみながらも、なんとか俺は見かけ上だけは平静を装うことに成功し、一応の自己紹介だけを終えると黙して語らず突っ立った。
パチパチパチ。そんな俺に向かって、並んだ机で相対する生徒一同から拍手が贈られる。
いやパチパチじゃないが? パチパチパチじゃないんだが?
「はい、ありがとう黒伊くん。……それじゃぁ、続けてお願いね」
このクラスの担任の先公、四十路一歩手遅れ若作り、とでも言えそうな雰囲気を醸す女性教師は、俺の内心の煩悶を知る由もなくそう言うと、続けて、促すような笑顔を俺の隣へと向けた。その先にはなんと、もう一人、転校生らしき生徒の姿がある。
「え、えっと……。ひっ……、姫川姫乃ですっ……。よ、よろしく、おねがいしますっ」
そこには、パリッパリ新品のセーラー服に身を包んだ、姫乃がいた。
……って、どうしてこうなったッ⁉
なんで姫乃までこのワケの分からん状況の一員に交じっているんだどうしてそれも転校生として俺と一緒に仲良く高校生デビューしてくれちゃっているんだというかそもそもどういう訳でお前はこの厄介事に首を突っ込んでいるんだ完全に悪ふざけだろこの野郎ッ‼
……つーか、お前が無理矢理ついてきたがるもんだからどれだけ楽しみなのかと思ってたら、当日になったらこれかよっ、何らしくもなくしおらしくなってんだよっ、いつもの生意気な態度はどうしたんだよっ、このタイミングで修飾語取り換えっこしてどうすんだっ、なんだったら普段からそのくらいしおらしければいいのによッ!
パチパチパチ。恥ずかしげに俯いて縮こまっている姫乃にも拍手が贈られる。
いやだからパチパチじゃねぇんだよ。パチパチパチじゃねぇんだって。なんにも目出度くなんかねぇんだわ。
……はぁ。溜息溜息溜息溜息溜息。
いや、落ち着け、俺。何を言っても始まらないし、この状況は終わらない。いい加減観念して気持ちを落ち着けるほうが得策だろう。その方が精神衛生上よろしい。
俺は落着きついでに、俺と姫乃がこうして高校生へと成り果せることとなったその経緯についてを、今一度、頭の中で整理してみることにした――
あの日、敢え無く髙橋皐月の持ってきた厄介事を引き受けると承諾してしまった俺は、その後すぐに、早いところ厄介事を片付けるためにも、件の神楽野高校第一学年総員と接触するための具体的な手立てについてを、髙橋皐月と話し合うことにした。とは言え話し合うと言えど、考え始めてみれば百余人にものぼる高校生一学年が一堂に会する場などまさしく高校校舎しかないわけであり、五分と経たないうちに俺が神楽野高校へと赴くということで本件の大筋が引かれた。そう、ここまでは良かった。何も問題ない、至極当然真っ当な筋道建ての、理路整然とした建設的談義であったと俺も思う。話の方向性がおかしくなりだしたのは、ここからだ。先に言ってしまえば筋道をあらぬ方向へと歪めやがったのは、もちろん、あのクソ神主だった。話を傍で聞いていた政親は、何を思ったか、こんなことを言いだしやがったのだ。曰く「学校に入り込むなら、転校生っていう体で入り込むのがアニメや漫画における定石だよなっ!」。適当に校舎に紛れ込んで適当に不和を解消して適宜すみやかに帰宅の途についてやろう、頭の中でそう算段をつけていた俺は面食らった。何言ってんだ馬鹿野郎ふざけるのも大概にしろ、俺は呆れながらも即座に否定してやろうとした。だがしかし、そんな俺を押し退け其方退け、その戯言に賛成した、大の付くほどの馬鹿野郎が二人もいたのだった。もちろん、髙橋皐月と姫乃である。片や「それは素晴らしいお考えですねっ、神様にも神楽野高校のことを間近で感じていただけますし!」と目を輝かせ、片や「さんせいさんせいっ! わたしも高校に通ってみたかったのっ!」と喰いついた。政親のふざけた思い付きから、この話の趨勢が決した瞬間だった。俺に反論の余地などは無かった。白だろうが黒だろうが、オセロがたった一つの駒だけでは相手をひっくり返し得ないように、たった一人の反対票だけではその場の形勢をびくとも覆せなかった俺は、已む無く、白旗を上げざるを得なかったのだ。そこから、ことはトントン拍子に進んでいった。転入に際して発生する諸々の現実的不都合は、縁結びの神である俺の諸々の能力を使って非現実的御都合主義で整えた。俺と姫乃の二人分の制服やら学生鞄やら一式は、どんな手を使ったのやら前日までに政親が手配していた。そして当日、我が社の石段の下の鳥居で待ち合わせをした俺と姫乃と髙橋皐月。眠気に欠伸を浮かせながら髙橋皐月の後ろをとろとろついていき、そうしてたどり着いたのが、この、神楽野高校二年三組の教室だった、という運びである。おしまい。
……さて、本当に終わってしまえばいいのにと俺は思うわけだが、目の前の現実はそうはいかない。まさに今から、続きまして、とばかりに始まるわけであるのだから。
新学期早々時期尚早、転校生がやって来るにしては絶妙に間を外したこの時期に、それも二人も同時にやって来た転校生の登場に、教室は大賑わいの様相である。教室の手前で奥で隅っこで、やってきた転校生二人に関する密談がザワザワヒソヒソと発生し、見ようによっては大陰口大会大開催、とでも勘違いしそうになる絵である。気持ちは分からんでもないが、そんなざわつきに曝されている俺たちの身にもなってほしい。
「はいみんな、これから一緒に学んでいく黒伊くんと姫川さんと、仲良くしてあげてね」
騒がしくなり始めた教室に、晴やかな笑顔で向かい合う若作り先公。マニュアルにでも書いてありそうな転校生用定型句を口にすると、軽やかに頷いて続ける。
「それじゃぁ、転校生の二人に何か質問があるっていう人は、手を上げてどうぞっ」
……なるほど、軽い自己紹介だけで終わらせてくれるのかとも思ったが、どうやらそうはいかないらしい。先公の言葉に、次の瞬間には、クラス中から俺らへと向かって視線が集まってきていた。おいおい、勘弁してくれよ……。
俺の想いとは裏腹に、手が挙がるのは早かった。
「はいっ、あの、さっきから見ていて思ったんですけど、もしかして黒伊くんと姫川さんって、知り合いなんですか?」
いきなり面倒な質問だなおい……。
どうやら俺と姫乃の様子から、俺たちが既知の仲であることに勘付いたものらしい。手を挙げたのは如何にもクラスの事情通といった女生徒で、眼鏡の奥の切れ長の目からは日頃から細かく人を観察していそうな雰囲気を感じる。
俺は、もしや姫乃が答えてくれるのでは、と思い横目で隣を確認する。だが、当の姫乃は依然変わらぬしおらしさで緊張しっぱなし上がりっぱなしの硬直状態。仕方なし、不承不承も出来得る限りの愛層だけは保ちつつ、俺が受け応えてみる。
「ま、まぁ……、知り合いと言えば知り合いですかねぇ、」
我ながら、一般的コンビニ店員的、と表現するにピッタシな丁度良い具合の愛想である。
思うが束の間、不可解なほどの食い気味な勢いで、早くも次の手が挙がる。
「はいっ! じゃぁ知り合い同士で二人一緒に転校してくるってことは、けっこう仲が良いってことですよねっ!」
溌溂とした笑顔を振りまく快活そうな女子が、勢い込んで立ち上がりながら聞いてきた。
「え? ……いや、まぁ、仲が悪いってこともないですけど……」
衆目の前で仲が良いと言うには憚られるものがあるが、かと言え本人の前で仲が悪いと言い切ってしまえるほど、俺は姫乃のことを疎ましく思っているわけでもないわけではあって……、自然、俺の態度ははぐらかすような、どっち付かずの中途半端なものになった。
あるいは、そんな俺の態度も、そう見ようとしている側からしたら、そう見えたのかもしれない。俺は、次いで立ち上がったクラスのお調子者風の男子が、わざと驚いたような顔をして放った一言に、唖然とした。
「はいはいはいっ! もしかして、付き合ってるとかっ⁉」
「…………は?」
……このガキは、いったいなにを言っているんだ?
俺は口も目も開いたまま立ち尽くすことしかできなかった。呆れたとかではない。あまりにも思いも寄らなすぎる発言すぎて、当惑していた。
しかし、時が止まったように固まったそんな俺を置いて、教室中は途端に色めき立ちはじめた。キャーキャーだのワーワーだのと、男も女も入り混じった黄色い声があちらからこちらから響き始める。
え、なんなのこいつら? どうしてそうなるわけ? 俺と姫乃が? は? どういう理屈? いや雰囲気でもいいけど、この数分で何が分かったの? え、こいつらの頭の中ってそういうことしか詰まってないわけ? 本能? そういう生態? オスとメス? オスとメスなのか? このクラスには頭ん中オスとメスな奴らしかいないのか?
おい姫乃、お前も何か言ってやれよ……、俺はここぞとばかりに、隣に立っている姫乃を窺ってみた。姫乃は顔を真っ赤にして、口をパクパクさせていた。
おいッ‼ お前はそこでドギマギするなッ‼ 顔を赤く染めるなッ‼ 在らぬ誤解を生むだろうがッ‼ それからこっちを上目で見つめるなっ、まごついてモジモジするんじゃねぇっ‼ 一層誤解も一入だぜッ‼ おいおいなんなんだよこれ……、途端に学園ラブコメ突入か? いきなりライトノベルめいてきたなおい……
と、緊張に戦慄いていた姫乃の唇が、微かに開いた。そして教室へと向き直り、俯くように顔を陰らせ、何かを言おうとしている様子。はいキタ。とうとう我らが生意気小娘の復活だ。言ってやれ、言ってやれよ姫乃。真打登場、俺は期待に胸を膨らませ、
「むっ、むすばれてからッ……、ご、五年くらい、かな……」
「は?」
「「「「ええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇーーーーーーーーーーーーーーーーーッ⁉」」」」」
まるで黄色いペンキが爆発したように、教室中が黄色い声で塗りつぶされた。
は? おいおい待て待てちょっと待て? 姫乃さん? 縁がな? 縁が結ばれてから大体五年くらいな? こんなタイミングで神っぽい捉え方してんじゃねぇぞ? ほら、先生も絶句しちゃってるから、顔青ざめてるから、高校二年生から五年前って言ったら普通に考えて十一歳とかだから、バチバチ小学生だから、四十路行き遅れの先生が若者の性の乱れ痛感しちゃってるから、ていうかお前は処女だし俺は童貞だから、無念にも……。
なんだこれ。教室中が黄色い声で色めき立ち、隣で姫乃が赤くなり、端では四十路が青くなる。原色目まぐるしきサイケデリックな異空間に立たされ、俺はなんだか頭が朦朧としてきた。LSD的トリップ状態。まったく最高にハイな幻覚だなおい。薬物なんて御免じゃあるがもしこの状況の全てが幻覚で済むというのならそれでもいい。醒めていつもの六畳一間の日常に戻れるのならLSDだろうがシロシビンだろうが大歓迎だぜ。
なんて、俺は激しい酩酊感の中で微かな頭痛を覚えつつ、ふと、黄色く染まった教室を見渡してみる。並んだ席の中央付近、頬をピンク色に染めてこちらを見てくる奴がいる。髙橋皐月である。
おい、どうしてお前まで色に染まっているんだ髙橋皐月。神のオーラは見える癖に童貞と処女のオーラは見えないのか髙橋皐月。俺には見えるけどなオーラ。教師を含むこのクラスの九割九分が童貞と処女で構成されていますねはい。
どんな始まり方だよ、どんな転校初日だよ、先が思いやられるってレベルじゃねぇぞ。
……はぁ。溜息溜息溜息溜息溜息溜息溜息溜息、そして諦観。
サイケなビジョンを捨て去り、俺はもう一度、真っ新な気持ちで辺りを眺めてみた。
どこにでもありそうな県立高校の教室には、東向きの窓から朝の柔らかな日差しが差し込んでいる。窓の外を見やれば、うららかな春光に満たされた世界、咲き揃った桜の枝枝が柔らかな風にそよいでいる。風に吹かれて舞い散った花弁がひとひら、開けられた窓の僅かな隙間をすり抜けて、ひらり、と俺の足元へと舞い落ちた。
儚くも散った桜の一片を見下ろして、俺は、心の内で敬礼のポーズをとったのだった――。