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「それで、今日はどんな厄介事を俺に押し付けようっていうんだ?」
事の本題に触れるため、髙橋皐月にそう聞こうとしたときだった。ガラガラと玄関の引き戸を開けて閉めて、何者かが廊下を歩いてとことこ居間へとやってくる、そんな音を俺の耳が拾った。そして思うが束の間、次の瞬間、
「春比古っ! 今日も先輩が様子を見に来てやったわよっ!」
ようやく事の本題に触れられると静まっていたはずの居間の雰囲気は、突如闖入してきたその喧しき声によって、木端微塵にかき消されることとなったのだった。
後ろ手をついて身体を捻り、声が飛んできた方向である我が背後へと首を捻って、俺は思わず心の内の憂鬱を声へと変えて、極めて素直にこう漏らしていた。
「うわぁ……」
つい数分前に俺が登場した一本引き戸、その戸を開け放って、堂々登場とばかりに胸を反らしてそこに仁王立っていたのは、嫌と言うほど見知った仲の嫌味な女であったのだ。
偉そうな物言い、先輩という自称表現からはかけ離れて、そいつの見た目は何もかもが幼げである。こちらを睥睨するしたり顔は大きな目以外、眉も鼻も口も顎も全てが小作りでまるで人形のようだし、腰に手を当て逸らした胸は貧相。左側を耳にかけた青みがかったショートボブの、その蟀谷の毛を纏めているのは可愛らしい梅の花のヘアピン。着ている服はサイズぶかぶかで袖ひだひだのダサパーカーにデニムのミニスカート。そしてなにより、確か歳は十五であったはずだが、こいつは、もうすぐ高校生になる中学生なのに未だに小学生に間違われて困っています、とか悩んでいそうな華奢な身体つきをしている。まぁ、しおらしいボディとは裏腹の生意気な態度からすれば、精神年齢の方は小学生で間違いないが……。代表してほぼ全一般男性の勝手な要望を述べさせてもらえば、是非ともボディと態度で修飾語を取り替えっこしていただきたい所存である。
なんてことだ、また厄介な奴がやってきやがった。なんでこう、うちの居間にはわらわらと厄介な奴が集まってくるのか。憂鬱に憂鬱を重ねて鬱々としてくる俺の心の空模様は曇天を越えもはや荒天、曇りのち雨、ところにより雷雨である。落雷への警戒が必要でしょう。注意するように……。
「お、姫乃ちゃんっ、いらっしゃいっ!」
「おじゃましますっ! 政親さんっ」
やって来た女、姫乃は大変機嫌が良さそうにニコつきながら政親へと挨拶をする。
ときに、お邪魔しますって滅茶苦茶可笑しな言葉だよな。邪魔だって思ってるなら来なきゃいいのにな。
自覚あって尚来るなら邪魔すんぞオラとでも言うのが正確だろう。
特に理由は無いが、俺は姫乃へと挨拶代わりの嫌味をお見舞いしてやることにした。
「あの本当にお邪魔なんでお邪魔しないようお願いできませんかお願いします。」
「ちょっ、なによいきなりっ⁉ せっかく来てあげたっていうのに、あんた先輩に対してあまりに無礼が過ぎるんじゃないのっ?」
「ちっこい上に年下の癖に先輩面するあなたこそ、年上に対してあまりに無礼が過ぎるんじゃないですかね。」
「年齢はともかく大きいか小さいかなんて関係ないじゃない! わたしがあんたの先輩なのは事実でしょ! それに歳だって考えようによっては……」
俺の意志のない半開きの目と姫乃の覇気に溢れたご立腹な目の間に火花が散る。しかし、はて、何やら言いかけていたはずの文句があったはずだが、姫乃はどうやらそれを飲み下したようで、急に黙り込んだかと思えば俺に向けていた視線を俺から奥へと向けている。
「……て、あれ? なんでこんなところに、女の子がいるわけ?」
なるほど。どうやら今の今まで姫乃は髙橋皐月の存在に気がついていなかったらしい。どうやったら八畳の部屋で人一人をこれだけの間見落としていられるのかは分からんが、突っ立ったまま呆然として、姫乃は卓袱台の奥でちょこんと正座をしている髙橋皐月と見つめ合っている。
「……もっ、もももっ、もしかしてアンタたちッ、この子のことっ……」
嫌な予感と言うより、面倒な予感はした。そしてその面倒な予感はものの見事に的中したらしい。関係者以外立ち入り禁止の社務所の中に男が二人と女子高生が一人。この絵面をどう見たのか、姫乃は見る間に顔を紅潮させ、そして両手を握り締めて……
「サイテーサイテー信じらんないッ‼ 春比古も政親さんも見損なったっ‼ こんな可愛い女子高生をこんなところに連れ込んでなにするつもりよっ‼ このクズ神ッ‼ クズ神主ッ‼」
姫乃は俺と政親を下衆でも見るように睨めつけ、涙目で抗議してきたのだった。
まったく、お前は一体どんな勘違いをしているのだ。いくら何でもアホが過ぎるだろアホが。妄想逞しいのは結構だが人を勝手に悪者にするのだけはやめてくれ。完全に冤罪だから。法廷では負けちゃうやつだから。慰謝料三桁万円だから。
横目で政親を窺ってみるも、ニヤついた顔しか返ってこない。冤罪勘弁慰謝料御免、俺は全く仕方なく弁明してやるために、ぷりぷり怒りたてている姫乃へと冷静に語りかける。
「あのなぁ姫乃。お前が多感なお年頃なのはわかるが、そういう思春期性の桃色妄想を無暗やたらと暴発させるとだな、」
「――あ、あのっ、失礼ですがっ! あなたも、神さまですよねっ‼」
「ふぇっ……」
うわっ、姫乃ちゃん普段からソウイウコト考えてるんだっ、てなるから止めておきなさい。恥ずかしいヤツだから。人生の先輩からの助言だぞ……って、なんだなんだ有難い神の話を途中で遮りやがって……。語りに浸り瞑っていた目を俺が開けてみると……
いつの間にやら、髙橋皐月が姫乃の足元にいた。髙橋皐月と対する形で見つめ合う姫乃は、髙橋皐月に言われた言葉をうまく飲み込めない様子でぽかんと突っ立っている。
騒がしかった場が途端に静まりかえり、そんななか、他方で俺は思っていた。ここまでくると髙橋皐月の言うことも、あながち与太話という訳でもないらしいな、と。
そう、髙橋皐月の言う通り、姫乃もまた神なのである。
この町の東の際、田畑が広がるその先の、深い緑に包まれた山の奥。町の中心部から歩けば悠々二時間はかかるそんな山奥に、ひっそりと佇む神社がある。名を、姫川神社。その姫川神社が祀りし神は、病気平癒や健康長寿を司ると伝えられる姫神、姫川比女命。そうである。登場初っ端から喧しく喚き立て、今は俺の目の前でぽかんと阿保みたいに突っ立っているこのちんちくりんの女、姫乃こそ、何を隠そう姫川比女命その人なのである。政親が気安く姫乃と呼んでいるために俺も気安く姫乃と呼んではいるが、こいつもまた、歴としたこの町の神なのだ。
「も、もしかして……、この子が、最近噂のあの子なの?」
「そうだよ姫乃ちゃん、この子が最近噂の神のオーラが見えるスーパー女子高生、高橋皐月ちゃんだよ。だからお願いだから、おじさんのこと性犯罪者にはしないでね?」
呆然としたままの姫乃の言葉に、政親は冗談交じりで答えた。政親のニヤニヤとした卑しい目に気がついて、姫乃はやにわに顔を赤らめる。
「べっ、べつにっ! せ、せせ、せーはんざい……とかっ? そっ、そういうことだって決めつけてたわけじゃないもんっ!」
姫乃の慌てぶりがあまりに滑稽なので、俺も少しからかってやることにする。
「はい、恥ずかしいヤツ。」
「うっ、うるさいっ! 勘違いさせるようなことしてる二人が悪いのっ‼」
暴論かよ。俺らはただ居間にいただけだぜ。なんだあれか、それとも俺らが性犯罪でも起こしそうな人相をしているとでも言いたいのか。おいおい、政親はともかく俺まで一緒にするんじゃねぇよ。まったく、やれやれだぜ……。
「あのっ、神さまどうしってこんなに仲良しなものなんですねっ! なんだか意外ですっ、わたし、神さま方はもっと畏まった仲なんだとばかりと思っていました!」
もどかしそうな姫乃の前で伝統的やれやれのポーズを露骨に披露していた俺に、髙橋皐月は感動でもしたかのような晴れ晴れとした笑顔を向けてきて、そんな妄言を吐く。
あまりにも何を言っているんだな髙橋皐月の弁に、俺と姫乃は思わず顔を見合わせた。
「おい髙橋皐月、勘違いをするな。なにが仲良しだ。こいつとはただの腐れ縁だ。分かりやすく正確に教えてやると、ただの神社業界的なお隣さんだ。」
「ちょっと勘違いしないで仲良しなんかじゃないもんっ! ていうか春比古っ、なによ腐れ縁って! 恩人であるわたしにそんな態度で良いと思ってるのっ⁉」
「悪縁契り深し、とはよく言ったもんでな。こいつはただのお隣さんのくせして先輩だの恩人だのと頭の可笑しな妄想話を延々繰返してきて付きまとってくるんだ。俺がいくら言ってやっても懲りないところを見るに、恐らくは脳味噌が何らかの病気に罹っているものと思われる。ほら、さっきも変な妄想を拗らせて癇癪を起していただろう?」
「ちょっとぜんぜん違うじゃないっ! ていうかお願いだからその話はもうやめてっ‼ あんたが毎日毎日だらしない生活ばっかりしてるからっ、だから私はしょうがなく心配してあげて、こうやってここに毎日様子を見に来てあげてるんでしょっ!」
「おいおい、しょうがなく、とは恩着せがましいな。そんなこと頼んだ覚えはないぞ?」
「政親さんに頼まれたんだもんっ! ねっ、政親さんっ!」
「あぁ、頼んだともさ」
「ほらねっ! 聞いたでしょ春比古っ!」
「怠い。ウザい。暑苦しい。」
「このっ!」
「春田クソの命!」「うるさいぞダメ川比女命。」「バカ比古っ!」「餓鬼。」「名前関係ないじゃないっ!」「そんなルール知るか。俺は事実を言ったまでだ事実を。」「この非モテ陰キャ!」「喪女。」「スロカスヒキニート!」「猥褻妄想赤面処女。」「ばかばかばかばかばかばかっ!」「アホアホアホアホアホアホ。」
「やっぱりお二人とも、仲がよろしいんですねっ!」
「「よくないっ!」」
神争いとはかくのごとしという勢いで舌戦を繰り広げていた、というか、仕方なく俺が軽くあしらって遊んでやっていただけではあるのだが、姫乃と俺は、髙橋皐月がなぜか微笑ましそうな顔で見守るそんな前で、しばらくの間いがみ合いを続けるのだった。
ぱちん。
誰かが柏手を打った音で、額に青筋が浮かび始めていた俺と呼吸を荒く乱し始めていた姫乃は、一緒になって今へと帰って来た。
ふと見ると、いつの間にやら卓袱台の上の日本酒やら肴やらは片されていて、代わりにグラスに注いだ自家製麦茶と市販のサラダ煎餅が置いてある。台所を隔てるガラス障子に肩を預けて、柏手を打った姿のまま立ってこちらを見下ろしているのは、いつ立ち上がりいつ着替えたのか、エプロン姿の政親であった。
「仲よきことは美しきかな。しかしお前ら、そろそろ皐月ちゃんの話も聞いてあげてな?」
「…………、あ。」
言われて思い出した俺は、髙橋皐月に目を向けた。髙橋皐月は折り目正しく正座をした姿のまま、卓袱台越しに「えへへ……」と苦笑いを返してくる。
俺はいったい何をやっているんだ、パート2である。先ほどは流れ流されていたはずの俺が今度は流し流し去りと、遥か彼方海の向こうへ本題を遠のかせていた。
今一度、気を取り直して確認しよう。
目下の本題は、髙橋皐月がここにいるということは、なのである。そしてそれが意味するところは、先刻俺が問うて確かめたように、今日も今日とて髙橋皐月は俺の元にクソくだらない厄介事を持ってきている、ということなのである。
自分の前の自家製麦茶をごくりと喉へと通して、俺は改めて髙橋皐月と向き合った。
紆余曲折あって、と言うより馬鹿騒ぎの草臥れ儲け。骨折り損、と言うより腹は立て損喧嘩は仕損。心機一転気持ちをリセット。そうして俺と政親と姫乃とそれから髙橋皐月は円い卓袱台を四人で囲んで、やっとこさ、髙橋皐月が持ってきたという厄介事の話へと話の種を移すことに成功したのであった。
「実は、ですね……」