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それは、さる朝のことだった。
神の遊惰な生活リズムを規則正しくシステマチックに年柄続けている俺の起床は、普段であれば昼の十一時前後となるのであるが、その日の前日は前々日から夜を徹して行われた新作ゲームの攻略による疲労で夜の九時には寝入ってしまい、結果、神の規則正しき生活リズムは狂い果て、規則正しき人間一般の生活リズムへと回帰することになっていた。
萎びた六畳一間の煎餅布団から起き上がり、ぼやけた目を擦った俺が見上げた壁掛け時計のその針が指していたのは五時の方向。やっちまったよ生活リズムが狂っちまった。そう思いながら窓を開けてみると、四月の五時の空はすでに薄明るく朝焼けが広がっており、見下ろす町並みは春霞に淡く輝きだした頃合いで、あともう少しと芽吹きを待って眠る新芽を思わせた。黎明の空のもと、町も眠れる時間にすることなど持ち合わせてはいなかった俺は、そのまましばらく、近所の喫茶店の開店は十時だし、最寄りのパチンコ屋の開店も十時だし、とかそんなことを、雅やかにぼんやりと考えながら窓から外を眺めていた。
今にして思えば、ここで素直に窓から首を引っ込めて、もう一度煎餅布団に潜り込むなり、茶でも沸かしてみるなりしていればよかったのだ。しかし、結果から言えば、その日の俺はどうかしていた。もしかすると、前日の徹夜の疲れが頭から抜けきっていなかったせいかもしれない。
その朝、俺は何を思ったか、こんな時間に社の境内へと出てみることにしたのだ。
散歩も悪くはないか、そんな世迷いごとを呟きながら――。
静けさに包まれる境内に、犬の鳴き声が遠く聞こえた気がした。続けて、誰かが石段を駆けてくる軽快な足音がこちらへと近づいてくる。境内のただ中で立っていた俺は、思わず鳥居の方へと身体を向ける。束の間の緊張。まず鳥居の向こうに姿を見せたのは、稲穂の色をした柴犬だった。そして、その柴犬の首に繋がれた赤いリードが続く先、遅れて姿を見せたのは、セーラー服を古式ゆかしく身に纏った、二つ結のおさげ髪の少女であった。
神の悪戯か運命の悪戯か、期せずして見つめ合う形になってしまった俺と少女。
気まずい雰囲気に目をそらした俺に、少女は開口一番こう言った。
「――あなたは、神さま、ですよね?」
俺は思わずもう一度、少女のことを見つめていた。驚いた、なんてもんじゃない。何度も耳を疑った。頭は混乱していた。何を言っているんだこの子は。しかし、神である俺のことを神であると見透かした少女は、ふざけた様子もなく、むしろ、まるで何かを期待しているかのようにも見える真剣な面差しで、俺のことを見つめ続けている。
動揺のあまりに狼狽えて、心の内で妙な掛け違えを起こしていた俺は、そんな少女に対して「はっ、はて、なんのことやら……」などと、口に任せたばかりに古風な言い回しをしてしまったり、緊張に強張る手足を誤魔化そうと、中国人の朝を彷彿とさせる太極拳を披露してしまったり、それは頓珍漢と言われて仕方のない奇行ばかりを重ねた。
だがそんな変人と言って他ならない俺のもとに、少女は構わず歩を進めてきた。気がつけば、目と鼻の先に少女の顔があった。少女は俺の目を、真っ直ぐに見つめていた。
そして、俺の目の前で、彼女はこう言ったのだ。
「わたし、神さまのオーラが見えるんですっ!」
登り始めた朝日のせいか、その瞳は、ひときわ輝いて俺を映していた――
……とまぁ、ざっくり言えばこれが、俺と髙橋皐月の出会いである。
その日以来、髙橋皐月は毎日、それも毎朝毎夕のように我が社へと俺を訪ねてくるようになった。髙橋皐月がやって来る度、俺は何度となく、お前の頭はどうかしている、お前が見たというオーラは朝日が見せた燐光であって、と俗人ぶって言い聞かせてやったのだが、髙橋皐月にそんな言葉はまるで効いてなどいなかったし、というか、アイツはそんな言葉をそもそも聞いてなどいなかった。代々語り継がれてきた髙橋家の神への信仰心とやらをお爺ちゃんから教わったからとか、お婆ちゃんから言い聞かされてきたからとか、なによりオーラが見えるからとか、髙橋皐月は俺のことを完全に神だと見定め崇め奉るようになり、片や確かに神であるところの俺は、こんなときに限ってどうしてか嘘は付けぬと曖昧なばかりの誤魔化しを日々試みることしかできず……。挙句、俺と髙橋皐月が揉めているのを見つけた政親が面白がって髙橋皐月を社務所へとあげるようになり……、あのクソ神主、どうせJKとお近づきになりたいオッサン根性か、奉納される日本酒目当ての斡旋、いやその両方、女と酒と賭博のことしか頭にない糞ジジィめ。失礼。そして、それが契機となってしまったとでもいうか、俺は俺で髙橋皐月の存在を次第に受け入れ始めてしまったわけで。時は今に至り結局、俺と髙橋皐月は本物の神と本当に神のオーラが見える女子高生というところで落着、目下の目も当てられない間柄へと落ち着いたというわけだ。
ともあれ合縁奇縁、これもなにかのご縁かな。当初は俺も、面倒臭がりつつそんな髙橋皐月のことを寛大な心持ちで受け入れてやろうと思っていた。それもまた神たる俺に求められし素養かな、とか思ったりしていた。だがしかし、結局そんな殊勝な心づもりは、さきに見ての通りとうの昔に捨て去っている。なぜか? それは、髙橋皐月が神を信じていたからである。神の存在を、という意味ではない。まったく文字通り、この女は――
髙橋皐月は、神を信じている――。