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玄関の土間から廊下へと上がりすたすた六歩前進して突き当り左の二階へ続く階段を無視し右へと曲がり、続く廊下の右に並ぶ襖や左に並ぶトイレ風呂場を十歩の内に後ろへと流し去った俺がたどり着いたのは廊下突き当りの一本引き戸である。
引いた先は居間であるその戸の内側からは、大層愉快そうな男の笑い声が漏れてくる。
俺はいや増す苛立ちを抑えつつ、その戸を開け放った。果たして、開け放った先、八畳敷きの居間には、無造作に長髪を束ねた無精髭の見慣れた男と、そして、玄関先にいた柴犬、大吟醸の飼い主、俺をざわつかせた厄介事の気配の原因である奴が居たのだった。
「おぉっ、帰ったか春比古っ」
神である俺のことを春比古とかいう勝手につけた愛称で呼び捨てにし、あまつさえ腰すら上げず迎えたのは無精髭の男のほう。Tシャツジーンズのラフな格好で卓袱台の横に胡坐をかき、ニヤついた顔でこちらを見上げている。近藤政親。腐れ縁とでも言おうか、顔馴染みの男である。名前に続けて三十七歳独身無職、と続けてやりたくなるような見てくれの男ではあるが、こいつには歴とした職がある。
「帰ったか、じゃねぇよこのクソ神主……」
そう、袴を穿かないどころか着物すら着ないこの現代的カジュアルスタイルの男は、恥ずかしながら、我が社、春田比古神社の神主である。
未だニヤつく我が社のクソ神主に睨みを利かせながら、俺は引き戸を後ろ手に閉めつつ居間へと入る。社務所兼と言えど、我が家の居間は一般的な日本家屋のそれと何ら変わらず、むしろ小汚い分だけみすぼらしくすら見える。褪せた畳の上には卓袱台、縁には戸棚に箪笥、三方は塗り壁と襖で、残る一方を隔てるガラス障子は開けっ放しでその先は狭苦しい台所。竿縁天井からは和っぽい照明がぶら下がっている……って、そんなことはどうでもいいのだ。ついでに言えばうちのクソ神主もこの際どうでもいい。このふざけたきった男に対して苛立ちが尽きないのはいつものことで、こいつはこいつで厄介なのは確かだが今に限ってはもっと厄介な奴がすぐそこにいるのである。
居間へ入ってきた俺が卓袱台の向こう側に目をやったのに気がついたのか、うちのクソ神主は「今日も来てくれてるぞぉ~(笑)」と、茶化すようにニヤついた視線を横へと流した。そんなクソ神主の視線の先、俺から見て卓袱台の向こう側にいるそいつを目にして、俺は思わず溜息をつくしかないのだった。
「はぁ……」
そこにいるのは、セーラー服を古式ゆかしく身に纏い、背筋を伸ばして折り目正しく正座をした、十六そこらの女である。艶の流れる長い黒髪は二つ結のおさげ。血の通った白い肌には化粧は見えず、しかし自然に生えそろった眉と睫毛と下ろされた前髪の黒が、その地肌の白さを嫌味なく際立たせている。……と、勘違いされては困るので言っておくが、先ほどこいつを見て俺が溜息をついたのは、別にこいつが美人だからとかそういうことではない。俺の溜息はあくまで憂鬱な気持ちから噴き出たものであることをここに言っておく。なにがどう憂鬱かは、まぁ、見ていれば追々分かってくるだろう。
緊張したような面持ちで俺のことを見上げてくるそいつに向かって、俺は半分呆れつつも口を開く。
「おまえ、また来たのか……」
「はっ、はいっ!」
ただでさえ伸びた背筋をさらに伸ばして、そいつは大きな丸い瞳で俺を見つめてくる。
まるでその目から逃げるように、俺は心ともなく無意識に目元に右手をかぶせている。
「たっ、大変失礼ながらっ! お邪魔させていただいていますっ、――神さまっ!」
神である俺のことを神と呼ぶのは、この世にこの女しか存在しない。
セーラー服におさげ髪の、今時どうかしてるぜってくらいに清楚で古風で純粋な、純然たる女学生系少女。髙橋皐月。この女こそが、俺をざわつかせた厄介事の気配の、元凶なのだった。
「……あっ! すっ、すみませんっ! じゃなくってっ、しっ、失礼いたしましたっ!」
何が失礼したのか、髙橋皐月は途端にそう口走ると慌てて卓袱台から身を離して、正座をし直す。そして改めて俺のほうへと身体を向き直したかと思えば、続けてなんと、まるで女中ででもあるかのように、俺へと向かって深々と頭を下げてくる。
「はぁ……」
俺は再び憂鬱を気体にして喉の奥から吐き出した。誰でも、同年代の女子が何もないのに突然自分に向かって土下座をしてきたら困惑を通り越してまず焦燥することだろう。とうに焦燥も困惑も乗り越えた俺の場合は憂鬱と呆れが去来する。状況を追い追わずともこの時点で、俺がなぜ憂鬱なのか察してもらえそうである。
「だからお前なぁ……。そういう七面倒くさい態度はやめろって、昨日も一昨日も一昨昨日も言ったはずだが? 頭下げるとかしなくていい、普通でいい普通で……」
「はっ、はいっ! それではっ! しっ、失礼いたしますっ!」
って言ったそばから大変恭しく頭を上げる髙橋皐月である。なんだかこっちは、謁見を許してやった殿様の気分になってくる。はぁ……。
「いや全然普通じゃねぇからそれ。てか、そういう尊敬語謙譲語的な話し方もだな、」
いちいち面倒臭いからやめろって俺は何度も何度も言ってるんですよ。
「かっ、神さまの前ですからっ、最低限の礼節だけは守らせていただきたく、存じます!」
存じます! じゃねぇよ。存じます! じゃ。
「いやいいから。マジで怠いからそういうの、むしろウザいとまで思うから。」
「そっ、そうおっしゃられましてもっ……。お爺ちゃんから神さまは大切にしなさいっ、敬って礼を尽くしなさいって、わたし、そう言い聞かされてきたものですから……」
「いや、お前のお爺ちゃんとか知らねぇから。……ほんじゃぁ、お爺ちゃんの教えと俺の教え、どっちの言うこと聞くつもりですか? お爺ちゃんはなんて教えてくれたんだっけ? 神様は敬えって教えてくれたんでしょ? 俺神だけど? 本末転倒じゃないですか? 神様の考え敬ってください?」
「はっ……。たっ、たしかにッ……。それじゃ、えっと、わたしはどうしたらっ……」
一生悩み続けるか俺を敬って敬うことをやめるか、お好きな方を選んでどうぞ。
「はぁ……」
爺さんと俺を比べて馬鹿正直に「えっと」「えぇっと……」と思考をくるくるくるくる回し続けて遂には目まで回りだしそうな勢いの髙橋皐月は一旦無視するとして、俺は、俺と髙橋皐月の一連のやり取りを気色悪いニヤニヤ顔で眺めていたクソ神主を睨みつける。
「おいそこのクソ神主。」
「あのねぇ春比古くん、あなた帰宅早々から人のことクソ神主クソ神主って、年上に対してあまりに無礼が過ぎるんじゃないの?」
「神に対してあまりに無礼が過ぎるお前には言われたくねぇよクソ神主。」
「あらやだまたクソって言ったわこの子ッ……⁉ お母さん涙がでちゃいそうホロリ……」
「うぜぇ……」
むさ苦しい四十路手前のおっさんが、ババァになりきって畳の上で泣いている。髙橋皐月に続けてこいつの茶番にまで付き合わされるのは面倒極まりない。仕方がないから普段の呼び方に変えてリテイクしてやることとする。
「政親。……勝手に俺の神域に部外者を入れんじゃねぇって、何度言ったら分かるんだよお前はっ……」
先ほどまで目元を拭っていたはずのクソ神主は俺が名前で呼んでやると、けろっといつもの無礼な態度に戻って、呑気な目つきで俺を見上げてくる。
「おいおい春比古、ぶがいしゃってなぁ……。お前にとって皐月ちゃんは、数少ない貴重なお友達の一人だろうが」
「なにが貴重なお友達の一人だ。どう見たって友達の間柄じゃねぇだろ。友達に土下座とかしねぇんだよ普通。つか、こんな神さま敬っちゃう系のイタイ女となんて友達になんかなりたくねぇしだな、」
「お前は縁結びの神のくせして、袖触り合うも他生の縁、って言葉を知らないのか? たとえ神さま敬っちゃう系のイタイ女の子だろうがなぁ、どんな人との出会いも大切にしなきゃいかんのであって、」
「天災は忘れた頃にやってくる、だろコイツの場合はッ!」
あまりに適当な物言いに、とうとう取り乱してしまった俺である。
一方、クソ神主は髙橋皐月のほうへ顔を向けて「ヤぁねぇ思春期の男っていうのは」とか「うちの子反抗期なのかしらねぇ」とか、またもババァになりきってウザさ極まりないことをぬかしている。対して、未だに祖父と神との板挟みに悩んでいたらしい髙橋皐月は、はっと我に返ったかと思えば愛想笑いを浮かべて「多感な時期ですからねぇ……」とか「お年頃ですからねぇ……」とか、意味の分からない相槌を打ち始めた。おい髙橋皐月。お前まで俺に対して無礼になってどうする。あれだけ悩んでおいてお前は神を敬わないことにでも決めたのか。もしそうならお爺ちゃんも神様もその結論にはびっくりなんだが?
……つか、そもそも俺は一体全体なんだって、こいつらの面倒な茶番に付き合わされているのやら…………って、ん?
「てか酒臭ッ⁉ はっ⁉ まさか政親ッ、お前また勝手に酒買って呑んでるのかッ⁉」
今さらながらに気がついた、鼻を衝くアルコール臭。よくよく見れば卓袱台の上にあったのはお茶とお茶請けではなく日本酒と肴である。なるほど、そりゃ政親も気分上々怠絡みに興じるわけだ。納得納得……、っておい。日々自制的節約が求められている我らが御財布事情がありながら、このクソ神主は俺の居ぬ間にアルコールなんて嗜好品を嗜んでいやがったっていうわけか?
もはや犯人ただ一人のみの状況。さて渦中の酒臭い容疑者の弁明や如何に。
「ちっ、ちげぇからなっ! 呑んでるけど買ったわけじゃねぇって! 皐月ちゃんがさぁ、今日もいいお酒持ってきてくれたんだって!」
心なしか頬の赤い容疑者はそう捲し立てると、重要参考人髙橋皐月を証言台に立たせた。
「ねっ、皐月ちゃんっ‼」
「はっ、はいっ! 今日は、母の実家の蔵で作っている日本酒を奉納させていただきましたっ! お爺ちゃんが丹精込めて作ったお酒ですので、ぜひご賞味をと思いまして……」
「なっ! 言っただろっ? 金を無駄遣いしたわけじゃねぇって。皐月ちゃんがせっかくいいお酒持ってきてくれちゃったんだもんよぉっ、そりゃ呑むだろってさぁっ!」
確かに、髙橋皐月はうちの社にやって来るとき、いつも必ず日本酒を一瓶携えてきて社へと奉納している。聞くと母方の実家が由緒正しき造り酒屋であるらしく、古くは鎌倉時代から自家栽培の米を使って酒を醸造しているとのこと。そしてこいつの親父さんはこの町で小洒落た酒屋をやっていて、神社へ行くと言うと酒を一瓶持たせてくれるらしい。
「なるほどな、罪状は無駄遣いから横領に……ッて、寄るな寄るなッ‼ 気色悪いッ‼」
いつの間にか足元に擦り寄ってきていた酔っ払いを、俺は足蹴にして押し返す。げしげし容赦なく俺が蹴りつけてやっていると、不意に酔っ払いは鼻をひくつかせ始めた。
「くんくんくん。……ん? ていうかお前は煙草臭ッ⁉ 春比古おまえッ、十七のくせに煙草吸いやがったな⁉ 煙草のほうがよっぽど嗜好品だぞこのやろうっ‼」
「いや吸ってねぇからっ! スロット行ってきただけだスロット。臭いが移ったんだよ」
「……あぁ、スロットか。なんだスロットなら問題ねぇな。」
反転攻勢にでようと息巻いていたらしい政親は、スロットと聞くと合点がいったように手をついた。続けてニヤけ顔で、「ほんで春比古ちゃん、稼ぎはどんなもんよ」と煽ってくる。俺は挑発的な政親の目の前に、戦果である札束の扇を得意気に広げて見せてやった。
「投資五千円、回収一万と四十二枚、ざっと二十万の儲け也。」
「ほぉ~っ! なかなかやるではないか。」
俺と政親が札束を前にニヤつくに至ったこの一連のやり取りの中、髙橋皐月は「えっ、神さまって煙草をお吸いになられるんですかッ⁉」「神さまって十七歳なんですかっ⁉」「それじゃぁお酒を持ってきても……」「神さまってパチンコ屋さんに行かれるんですかっ⁉」とかとかとかとか、なにやら五月蠅く忙しく声をあげながら驚き続けていた。
そんな髙橋皐月はついに、俺と政親の間へと声を割って入らせてきた。
「ちょっ、ちょっと待ってくださいっ‼ もっ、問題ありますよっ! もし神さまが十八歳未満なのでしたら、その、法律では、そういう事はしてはいけないはずでして……」
「小娘。俺を誰だと思ってる。吾輩は神であるぞ? 人間ごときの法律が神である俺の遊技を止められるわけがなかろう。」
「は、はぁ……」
俺は動揺する民に神の威光を示してやるがごとく、札束の扇で顔を扇ぎながら髙橋皐月のことを睥睨してやるのだった。あっはっはっはっはっはっはっはっはっ――
……って、俺はいったい何をやっているんだ?
我に返れば、目の前には日本酒をぐい吞みに注ぎまた一杯と酒を呑む我が社のクソ神主と、驚きとも呆れとも放心ともつかぬ唖然とした顔で俺を見上げる髙橋皐月がいる。
何をやっているのだ俺は。茶番に巻き込まれすぎてすっかり本題を忘れているではないか。どうしてこんな無駄極まりない会話劇ばかり演じているのか。流れ流されて完全に忘れていたが、思えば本題は、髙橋皐月の態度でも俺の友達云々でも日本酒の出処でも煙草の匂いの理由でもスロットの儲けでも日本の法律がどうとかでもないのである。
そう今の本題は、髙橋皐月がここにいるということは、なのである。
「俺としたことが……。お前らの茶番に乗せられてすっかり本題を忘れてたわ……」
そこで俺は今さらながらに畳の上へと腰を落ち着けて、卓袱台の前で胡坐をかいた。
そして俺はようやく、髙橋皐月がここへ来た理由へと踏み込むことができたのだった。
「でだ、髙橋皐月。お前がここにいるっていうことは、また神である俺の元に、クソくだらない厄介事を持ってきたってことなのか?」
「はっ、はいっ!」
三たび居住まいを正した髙橋皐月は、卓袱台の向こう側から、曇りのない真っ直ぐな瞳を俺に向けてくる。
はぁ……。
こいつは俺が苦手な、神を信じる人間の目をしている。ただひたすらに真っすぐで、ただひたすらに真っさらなそんな瞳に見つめられて、俺の心はただひたすらに憂鬱になる。
俺のことを神だと認識している人間。俺のことを神だと認識してしまった人間。人間に神であることを認識されてしまった俺。俺は額を抑えた。遊惰な神の生活に、突如やってきた天災、数日前の俺の過ち、圧倒的不運、痛恨の不注意、あるいは数奇なる縁。
どうしたところで俺は、数日前の自分を恨むしかないのだった。