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神という存在について何かを論じようとするとき、何をおいてもまず初めに持ち出されるべき論題は、神は果たして存在するのか否かという命題的問いかけではないかと思う。
人知を越えし世界の超越者たる神は果たして実在するのか、はたまた我らが空想の産物に過ぎないのか、物理学者アインシュタインが肯定し哲学者ニーチェが否定したその存在について人類は古今東西井戸端学会、多様な場で有神無神の論者に分かれて舌戦を繰り広げてきたことであろう。この永遠普遍永久不滅と言っても過言ではない人類共通の疑問に、出し抜けではあるが今ここで、俺が、悩める憐れなそんな誰も彼もへと答えを授けてやろうと思う。
断言しよう。神は存在する。
さて、かくして俺のおかげで目出度く神の存在が疑いようもなく証明され得たところで、続きましてとばかりに神への問いの歩を進めてみよう。神の実在を前提として次に議論されるべき題目は決まっている。
神が存在するのならば、いったい神はどこに御座すのか。
人知を超えし世界の超越者たる神は果たしてどこに存在するというのか、時に人は「神様はいつでも私たちのことを空の上から見守ってくれているのよ」と祖父母の霊魂ばりの説明を試みたり、「神様はどんな時も私たちの心の中にいるのよ」とそれはもはや妄想と言っていいのではとツッコミを入れたくなるような説明をしてみたり、天国地獄ヴァルハラエデン高天原云々、また神は世界の内側にいるとか外側にいるとか世界は神の内側にあるとか世界そのものが神であるとか捏ね繰り回した可知不可知選り取り見取りの論説を妄想隆々展開してきた。老若男女凡人賢人、諸種の人々によって侃々諤々と口角泡を飛ばしまくられたであろうこれまた永遠普遍永久不滅のこの疑問に、またまた俺が今ここで、悩める憐れな誰しも彼しもへと答えを授けてやろう。
明言しよう。神さまはいつでもお前たちのことを空の上から見守っている。
はたして、幾千年と続く人類共通の疑問に、今、鮮やかに決着がつけられたのであった。
……とまぁ、そんなこんなとくどくど語ってみたわけなんだが……。
「……まぁ実際、どーでもいいよなぁ、神なんて」
何人も真理にたどり着けなかった神の存在証明に決着をつけた叡智たる頭脳を持つ俺は今、萎びた六畳一間の畳の上に仰向けの五体投地で寝転がって、見上げる天上板の複雑怪奇な年輪模様にバウムクーヘンを見ていた。いや腹減ってんだわ、今マジで。
我が生活水準は今月もなかなかに低空飛行を続けていて、この部屋での俺の一人暮らしは蝶のように華やかに飛翔するそぶりも見せず依然変わらずゴキブリ低滑空の様相である。
「神がいたところで別になにかしてくれるってわけでもないしなぁ~」
そう言い終わるや否や、腹の虫がぐぅと賛意を示してきた。神がいようが誰の腹も減るし、神が見守っていようが腹が満たされる何かを寄越してくれるわけでもない。俺一人の腹も満たせない神の実在になんの意味があろうか。ああ神無能だわ、神マジで。
この世の統治者施政者最高指導者閣下様たる神の無能に消化器系共々絶望しつつ、俺は膝を立て「どっこいしょ」と立ち上がった。日々の過酷な生産的生活によって俺の身体は疲労困憊である。断っておくが、決して非生産的怠惰がたたって肉体が貧弱になっているとかそういうわけではない。決してない。
自他ともに賛じて止まない勤労な一歩を踏みだした俺は、そうして六畳一間南向きの窓へと近づいた。重怠い腕を伸ばし磨りガラスの窓をからからと開けてみる。すると、ぴゅうっと温かな春の風が俺の寝癖を揶揄いつつ部屋の中へと吹き込んできた。見上げたる空は雲一つなき快晴なり。まぁ、それも当然のことではある。なぜなら我が住処にとって雲とは見下げるものであるからだ。視線を下へ落としてみると、薄雲がちらりほらりと浮かんでいる。そして遥か真下に見下ろすは、ありふれた地方都市の町並みである。
「さてさて、今日はどんなもんですかねぇ」
俺は両の手指を筒状に丸め、丁度双眼鏡のように象って自分の目元へとあてがう。すると見る見るうちに我が両手双眼鏡の実在しないレンズは倍率を上げていき、隔たる幾重の物理的障害物すら透視して地上の日常的様相を間近に俺に垣間見させる。
「どれどれ?」
俺は手始めに視野を南方へと滑らせて駅の界隈を覗いてみた。映るはプラットホーム。新社会人らしいスーツ姿の青年が、前髪についていた桜の花びらを先輩女性社員らしき人物から揶揄われて顔を赤くしている。あれあれ。次いで俺は視野を西方に流れる河へと滑らせた。映るは河川敷。平日の昼間であるはずの今、赤と黒のランドセルを背負った男児と女児は桜の木の下に隣り合って腰を下ろして、どうやら二人秘密の逃避行というわけであるらしい。あらあら。続けて俺は視野を東方の野山へと滑らせた。映るは山道中腹の展望所。ハイキングか軽装の登山服に身を包んだ幾人もの爺さん婆さんが、先短い余生もなんのその開花した山桜の花弁を愛でつつ和気藹々である。はいはい。俺は最後にこの町の中心部にある高等学校へと視野を滑らせてみた。映し出されるは桜咲き誇りし学び舎。昼休み直中らしく中庭で男女集まって昼食を食べる者もいれば、教室で友人らとはしゃぐ者、仲間と部活に励む者、少年少女三々五々に大賑わいである。これはこれは。
「あぁあっ、今日も今日とてどいつもこいつもっ、青春してらぁっ!」
青春日和の空の下、桜に彩られし春うらら、かくも素晴らしき塩梅の地上で人々が人生を謳歌している。一方雲も見上げる空の上、萎びた六畳一間には、腹をすかせた俺がいる。
「まったく良い御身分だぜっ、どいつもこいつもよっ!」
ほんと、こちとら溜息しかでねぇわこんちくしょうめ。
……さて、それはそうと全く突然ではあるがこの辺りで、豆にも及ばぬ知識をほんの一粒だけ披露させてもらおう。神の名前のことを、そのまま神の名と漢字で書いて「神名」とかいうらしい。ちなみに俺の神名は春田比古命。
俺はこの町の、青春の神である――。