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クトゥルフ神話TRPG「囚人に愛はいらない」

作者: 霊龍(レイリュウ)

                 KPハイナン

                 PL霊龍 PCエスパー



人物紹介

・エスパー=サイ=ヒプノース

囚人番号二十番

 薬品を使って人体実験を繰り返している犯罪者。今回連れてこられた場所で行われたのは、彼がしていることとそう変わりないことだった。違うのは、彼自身が被験者だということ。逃げられないまま弱っていく日々、無力感の中で自分の弱さに改めて気づくこととなる。


・ミキウス=ディズニシア

囚人番号十九番

 イタリア人の神父。命の選択に敗れてしまう。

・ハイナン

囚人番号十八番

 普段スパイ活動をしており、エスパーの知り合い。

エスパーと言葉を交わしたその日の仕事により、命を落としてしまう。



・東堂 るえ

囚人番号二十一番

 エスパーを担当した看守の妻。毒の作用が強く命の危険が迫ったが、エスパーや夫に助けられなんとか生還する。



・東堂 みつる

囚人番号十番 看守

 東堂るえの夫。看守になってからエスパーを担当することになった。自衛官ということもあり、その瞳の鋭さと冷静さはエスパーを圧倒する。支配血清の支配下にいる間は心の内で苦しみながらエスパーを管理した。最後は妻を助けて生還。



エスパー視点

 ベルの音に飛び起きた。それは頭を殴りつけるかのように何度も響き、やがて止んだ。突然の大音量で動悸が激しい。冷たい床の感触にハッとする。俺が目を覚ましたのは牢の中だった。視線を上げると、冷たく鈍い色をした鉄格子がそびえ立ち、その向こう側から守衛のような制服を身にまとった男が見下ろしていた。無感情を思わせる鋭い目つきで、その者は言った。

「支度しろ、二十番。起床時間だ。」

 放たれた声は温度を失っていた。少なくとも、人に向けて放たれるものではなかった。まるでそう…囚人に命令するかのように。

「は、はあ…? え、鉄格子…。捕まったとでも言うのか。」

 俺はどうやらレンガ造りの部屋にいるようだ。広さはざっと四、五畳ほど。鉄格子の他には敷布団と衝立のされた手洗い場、机くらいだ。独房を思わせるには十分な造りをしている。瞬時に捕まったことは理解できた。ただ、ここに来るまでの経緯が分からない。夜中に帰路についた後どうしたのか、逮捕された覚えがない。

「なあ、看守…なのか。ここは何処なんだ。どうやって連れてこられた。」

「さあな、どうしてお前が知る必要がある。」

「だって…俺をここに入れているからには、俺にも知る権利はある。」

「それはお前自身がよく分かっているだろう。」

 変わらない調子で放たれた男の言葉に、俺は詰まってしまった。思い当たることが多すぎる。恨みを買うことだってある。逮捕されたのでなければ、どこかの組織に誘拐されたかもしれない。が、この男はあくまでも冷静を装い、看守のような雰囲気を貫いた。刑務所にいるかと錯覚してしまいそうだ。更正を促す場所…なのかもしれない。確かに罪はある。法律に当てはめ、大よその罪を名付けるのであれば重いだろう。

「…面倒くさい奴だな。そうか、なら罪状も自分で考えろと言うのか。」

「そういうことだな。」

「じゃあ、俺は懲役何年だ。いや、死刑か? どう処理するつもりなんだ。」

「当分の間はここにいてもらう。」

「当分ねぇ…。何の通告も無しに、まるで誘拐されてきたかのようだ。一体どうやって連れて来たんだ?」

「さあ。」

「…あくまでも答えないつもりか。」

 これ以上この男に聞くのは無意味に思えた。格子越しでは俺の要求など聞いてはもらえないだろう。とりあえずは従っておくことにした。

「そこにある服に着替えろ。」

 男は俺の傍に置かれている衣服を指さした。白黒で横シマ、いかにも囚人服だ。ここまで特に気にしなったが、今着ている服も俺のものではなかった。ボロ布のような簡素な服。攫った時に元々の服を奪ったのだろう。

(かなり目立つデザインだな…。当たり前か。)

「さっさと着替えて、今着ているものは綺麗に畳め。」

「あー分かったよ、何回も言わなくていい‼」

 考え事をしているときに声を掛けられるのも、何度も同じようなことを言われるのも頭にくる。上から言い放たれる同じ声に、思わず声をあげた。頭にはきたものの、面倒ごとは避けたい。とりあえずは指示通りに着替え、着ていたものは気持ち綺麗に畳んだ。

「これから朝食だ。手だけを檻から出せ。」

「手だけを…? こう、か…?」

 左手を鉄格子の外に出すと、男はその腕をガッシリと掴んだ。思いのほか力が強く、指が喰い込んでいく。

「いって…!」

 反射的に引っ込めようとしても動かない。その隙に男は鉄格子の扉を開け、掴んだ方の手首へ手錠をかけた。そして、その片割れを男自身の手首にもかける。

「脱走防止措置だ。牢から出るときは、これをつけた上で俺と行動してもらう。」

「ほう…なるほどな。邪魔な荷物がつくってわけだ。」

「そういうことだ。そういう規則だからな。お前の管理者は俺で二人一組だ。バカな行動は決してするな。」

「ああ、肝に銘じておくよ。」

 真っ直ぐに俺の眼を捉えるその瞳からは威を感じた。ただ者ではなさそうだ。正面から戦えば、無事では済まないだろう。

 鎖を引かれてついていけば、食堂のような場所に出た。独房と同じくレンガ造りで、中央では長テーブルで何人かが食事をとっている。皆囚人と看守でペアとなり、互いの手首が手錠で繋がれていた。

「こっちだ。」

「分かったよ、そう引っ張るな。どこへ連れていくんだ。」

 立ち止まる隙もなく、男は鎖を引いて部屋の隅にある小さなテーブルの前へと連れてこさせた。そこには白いプレートがいくつかあり、少量の食べ物が乗っている。穀物類が多いようだ。

「自分の分を取って着席しろ。」

「なんとも…貧相な飯だな。」

 起きたばかりで食欲はないし、美味しそうにも見えない。食べる気は無かったが、一応一つ取って端の席に座った。男も同じところからプレートを取り、俺の隣へと腰かける。そして当たり前のような顔をして食事を始めた。

「お前もその…囚人と同じものを食うのか。そんな身なりなのに。」

「まあ、そうだな。」

 それだけ言うと黙々と食事を再開する。俺を独房から出す時と打って変わって、こちらを見ようともしない。食堂に話し声は無く、聞こえてくるのは食器音くらい。他の者は看守を気にしているのか、俯いて食べている。こんな状況で話しかければ目立つが、情報を集めるにはやるしかない。

「何故だ。」

「…別にお前には関係ないだろ。そういう規則だ。」

「ふーん。変わった所だな、刑務所とは思えない。まあ、いいだろう…。」

 何事も規則と丸められ、取りつく島がない。もう少し粘っても良いいが、あまり刺激して独房に戻されては困る。これ以上は聞かないことにした。改めて部屋を見渡せば、ここにいる者は性別や年齢、人種を問わず様々で、看守も囚人も一様に痩せている。こんな食事では納得がいく。俺はどうしても食べる気になれなかった。

ふと、俺をじっと見る視線を感じた。そちらに目を寄こすと、見たことのある顔がいた。同じ囚人服を着て看守と手錠で繋がれている。以前の記憶から少し瘦せているようだが、間違いなくハイナンだった。スパイ活動をしているはずのあいつが居るとなると、話はまたややこしくなる。

「お前…エスパーだよな。」

「…その声、その顔…。お前、ハイナンか。」

「そうだそうだそうだ。お前もここに来たのか~。」

 久しぶりに会ったとは言え、場所が場所だ。全く嬉しくもない。ハイナンらしい歓迎するような軽い口ぶりだったが、俺はそんな気にはなれない。

「お前がここにいるのは納得がいくが、俺が何故ここにいるのか分かっていない。」

「はあ? お前だって犯罪者だろ。」

「うるせぇよ。だが…バレた覚えなんて無いんだがな。何処かでやらかしたのか…。しかも、ここに連れてこられるまでの経路が全く分からない。裁判もしていなければ、逮捕された覚えすらない。お前はどうだ。ヘマやらかしたのか?」

「いや、俺もそんなことない。家でぐっすり寝ていたらこんなことになっていたんだよ。ははっ。」

 ここで愉快そうに笑っていられるあたり、こいつは肝が据わっている。それともただの不用心の間抜けなのか。スパイともあろう者が、家で寝ていて目が覚めたら捕まっているなんて…情けない。だが、相手が狡猾なのかもしれない。

「…妙だな。お前はいつ来たんだ。」

「ん、俺か。俺は…三週間くらい前かなぁ。ちゃんと数えてないけどな。」

「結構いるんだな。なら、ここのこと色々教えてくれよ。」

「まあまあまあまあ…。今はさ、いるからさ、こいつらが。」

 ハイナンは手首の鎖を少し持ち上げた。それでも隣にいる看守は何の反応も示さない。ロボットのように動じないが、聞かれては困る情報もあるのかもしれない。それに、喋っているのは俺たち二人だけ。おまけにハイナンは声が大きいため余計に目立つ。

「そうか、分かった。邪魔な荷物がいるからな。それは仕方がない。」

「そうだそうだ。下手なこと言ったら痛い目みるからな。はっはっはっ。」

 痛い目をみると言っておきながら高らかに笑う…こいつはバカなのか。隣の看守が少し気にし始めている。

「…痛い目みたことあるのか。」

「いや、俺はみたことないが、ちょくちょくいるんだぜ。変なことをして痛い目をみている奴が。」

「分かった。また機会があれば教えてくれ。」

 ーージリリリリリーー‼

 心臓が飛び跳ねる。頭に響き、胸が痛くなるような煩いベルが鳴った。独房でも聞いた音だが、俺はどうやらこの音が苦手らしい。今度は鼓動が煩い。ベルが鳴り止むと看守共は立ち上がり、自らの手錠を外すとテーブルの足に締め直した。

「しばらく待機していろ、招集がかかった。」

 そう言うと足早に食堂を出ていった。部屋には囚人服を着た者だけが残り、ようやく話し声が聞こえてきた。情報を聞き出すチャンスは今しかない。俺は看守の背中を見送ると。前のめりになってハイナンに問い詰めた。

「なんだか、直ぐに機会が来たな。さぁて、洗いざらい話してもらおうか。ハイナンさんよ。」

「良かったけど俺もそんなに知らねぇんだよなぁ。はっはっ。」

「三週間もいるんだろ? ここで何をするかくらい分かっているはずだ。」

「まあ、そうだな。仕事してー…寝るー…食べるー…。それくらいだな。」

「じゃあ仕事は何をやるんだよ。」

「ああ、仕事は何か薬を打たれるな。」

「…薬? まるで実験じゃないか。俺みたいなことをしているな。」

「お前にぴったりじゃないか。」

 思わず吹き出してしまった。俺が今までしてきたことを、今度はされる側になる。ここが刑務所でないことは確定した。問題は薬の効果だ。

「…その薬で、一体どうなるんだ。」

「痛い目をみる。」

「なるほど…。それでその面なのか。随分痩せているし、顔色も悪い。」

「まあ…仕方ねぇよな。そういうことじゃ。」

「仕方ねぇで済ますのか。だがお前は三週間も生き延びて…。死ぬことはあるのか。」

「あることにはあるな。実験というか仕事で…。普通死ぬよな。」

「そうか。毒物か人体改造の薬とみた。ということはここの囚人は法的に裁かれるとか関係なく、使い捨ての駒のようなものか。実験動物扱いということだ。ここからは早く出なくては…。」

 正直言って驚いた。俺の組織がしているようなことと同じようなことをしている所だったとは。使い捨ての実験動物に慈悲など要らない。日が経過する毎に弱っていくのは明白だ。動けるうちに何か行動しなければ手遅れになる。外からの助けなど無いし、ハイナンも…頼りにはならない。

「だが、お前の看守はまだいい奴じゃないか。」

「…何故そう思う。」

「あいつを見てみろよ。」

 そう言ってハイナンはテーブルの奥を指さした。そこには全身傷だらけの男が突っ伏していた。顔の雰囲気から、ヨーロッパ出身のようだ。

「…痛い目をみるというのはああいうことか。」

「そういうことだ。反抗したり、看守が悪い奴だと理不尽な目に遭うんだ。」

「なるほどな…。お前はそんなこと無かったのか。」

「俺は忠実に生きているからよ~。」

「ハッ。忠実ね、笑わせてくれるぜ。世界に忠実にいてもこのザマだ。」

「はあ? 失礼な奴だな~…。」

「どう生きようが、こういうことがあれば何一つ変わらないだろ。」

「まあ、そうだが。できるだけ忠実に過ごしていた方がいいぞ。」

「忠告はありがたいが、俺は俺のしたいことをする。」

「ワンチャン、看守側につけるしさ。」

「…どういうことだ。」

「ああ、そうか。お前は知らないんだったな。」

「来たばかりだと言っただろ…!」

「すまん、忘れていたよ。お前のところの看守、元は囚人だったんだぜ? 数日前に突然いなくなったかと思ったら、今日看守として戻って来たんだよ。」

 囚人が看守になるなど、何か裏があるに違いない。敵側に寝返ったというのか、あるいは…。何にせよ、調べる価値はありそうだ。今日なったばかりなら、話を聞き出せるかもしれない。

「仮に俺が看守になったら、お前のことビシバシ見てやるよ。」

「マジか、はぁ~。その前に逃げるわ、俺。」

「…俺も逃げられるなら逃げたいさ。しかし妙だな…。元囚人なら、何故ここから逃げ出そうとしない。」

「そこらへんはよく分からないけど、何かしらあるんじゃないか。」

「なら、今の俺の看守と囚人だった時のあいつ。何か変わったことはあるか。」

「冷たくなったな。不愛想というか、無口というか。ちょっとだけ話したことはあるが、名前とかは…。そこまで興味無かったから。」

「そうか。まあ、看守は冷酷で無口であることが望ましいか…。じゃあ、お前はそこに突っ伏しているあいつのことは知っているか。」

「あいつ? あいつはいつも懲りずに看守に歯向かっているんだよな…。名前とかは知らないが。変な奴だよな、従っておけばいいものを。」

「いや、あいつは立派じゃないか。むしろお前が臆病なだけだ。看守に従順になって引っ込んで…ネズミみたいじゃないか。」

「別にいいじゃねえか。だって看守は自由に外に出られるし、個室だってあるんだぜ。それだったら大人しくして、言うことを聞いて、もしかしたら看守になれるかもしれないんだから。そっちで暮らした方が良いと思わね?」

「なるほど、お前は看守になりたいのか。」

「そういうことだよ~。」

「お前が看守になったら…誰も言うことを聞かないんじゃないか。その面じゃな…全然怖くないし。」

「はあ~マジか~。…その時は武力行使で。」

 ハイナンは見た目が怖くないが、実力はある。そのギャップが恐ろしいところだ。強そうに見えないのが、最大の強みだろう。もし本当に看守となれば、厄介な敵になる。来たばかりだが、脱出経路を探さなければならない。時間はあまり無いだろう。

「…弱っていくだろうからな…反抗できるうちにしておかないとな。ここの建物の構造は分かっているのか。」

「いや、正直言って分からない。行くとしたら食堂か、俺たちが入っている独房か、後は仕事場くらいだ。」

「…シャワーとかは無いのか。」

「ああ…。あるだろうが、俺たちには使わせてくれないんじゃないか。」

「お前、三週間も風呂に入っていないのか。」

「ははっ、そういうことになるな。」

 …笑い事じゃない。

「そ、そうか…。そうだよな、流石に実験動物にそこまでの待遇はないか。」

「要するに、俺たちはモルモットってことだよ。」

「そうらしいな。少しはモルモットの気分を味わってやるか。」

「そうしておけ。」

「…お前に言われると腹が立つな。」

 食堂にハイナンの笑い声が響き渡る。三週間も苦しんでいるはずなのに、相変わらず呑気な奴だ。…とは言うものの、実験動物側の恐怖は分かっている。被験者たちの怯えた目は間近で見てきたし、俺も何度か体験したことはある。何の薬を打たれるか分からず、その後どうなるかも分からない。不透明なことは恐怖と混乱を招くだけだ。

 しばらくして、囚人たちの声は止んだ。看守が戻り、再び手錠で繋がる。

「食事は終わりだ。部屋に戻るぞ。」

「はいはい分かったよ。じゃあな、また機会があったら話そうぜ。」

 ハイナンに別れを告げ、食堂を後にした。

 独房の前まで来ると、看守はじっとしているよう命じて俺の後ろに回り込んだ。何をするかと思えば、手錠が外れる音と同時に腕を後ろに回され、開かれた独房内へ突き飛ばされた。煉瓦が頬を擦り、痛みが走った。

「午後からは仕事だ。それまで自由にしていろ。」

相も変わらず冷たい声で言い放つと、看守は去って行った。自由といっても部屋を調べる以外にすることがない。ふと足元を見ると、見覚えのないペンダントが落ちていた。丸い石のついた綺麗な物だ。誰かの落とし物だろうが、特に興味はない。ペンダントを置き直し、俺は机の近くに座った。床に座るなんて普段はしないこと。慣れない姿勢にやや腰が痛い。机には震えた文字で落書きがされていた。爪でひっかいたような跡も見受けられる。

『痛い、苦しい 死にたくない』

 文字だけでもその辛さが伝わってきた。相当な苦しみが待ち受けているのだろう。まだ体験していないだけに、不安が掻き立てられる。

「薬…そうだよな…。苦しみは俺も分かっている。…憂鬱だ。」

 苦しみは分かっているつもりだ。なら何故こんなにも不安で気持ちが沈むのか。分からないという状況がこんなにも怖いと思ったのは何時ぶりだろうか。

「少し顔を洗うか。」

 衝立のされた手洗い場は意外にも掃除がされてあった。冷たい水が目を覚まさせる。落ち着きはしないが、新たな刺激に気持ちが少し楽になった。ここで死んでやるつもりはない。

 足の違和感に視線を落とした。衝立で外から見えない部分の床板が少し浮いている。剥がしてみると、隠されたように小さな手帳が入っていた。こちらも震えた文字で書きなぐるように悲痛な思いが記されている。文面と文字の雰囲気からして、小さな女の子が書いたようだ。…ここが刑務所でないことは嫌でも分かる。

机に戻る前に壁を見てみたが、流石に壊せそうなところはない。その代わり、隣の独房を覗けるような小さな穴が見つかった。とは言っても、隣には誰も居らず何もできない。

「さて…どうするか。」

 鍵のかかった格子扉、衝立のされた手洗い場、そこに隠されてあった手帳、壁の小さな穴、落書きのされた机…。現状、これらでどうする案も浮かばない。とりあえずは初めて使う敷布団に寝転がった。やや固かったが、寝る分には問題ないだろう。仕事は体力を使うだろうし、体を休めておくことにした。


 いつの間にか寝ていたようだ。暗闇の中、耳をつんざくベルの音に叩き起こされた。何度聞いても慣れない。恐怖さえ覚える音だ。

「わっ…! なんなんだよ…この音は。…この音だけは嫌いだ。」

「二十番、これから昼食だ。手を出せ。」

 廊下には看守が立っていた。眠気眼でやや頭痛を覚えながらも手を出すと、腕の痛みに目が覚めた。看守の指が腕の骨に喰い込んでいる。痛がる俺を無視して、看守は手錠をかけると食堂に引っ張っていった。食堂では同じような飯が置いてあり、皆同じように食していた。朝食を食べていないこともあり、今回は口をつけたがとても美味しいものではなかった。ハイナンは遠くの席にいたため話は叶わず、誰一人として喋る者はいなかった。食べ終わると看守は立ち上がり、俺を独房とは別の方へ導いた。鉄扉の前で立ち止まる。

「…いかにも…だな。」

 扉が開かれると、中央の鉄製の椅子が目に映った。他は金属製のワゴンしかなく、椅子には鎖が何本も垂れ下がっている。あからさまに拘束具だ。

「なるほどな…。思ったよりも…ヤバそうだ。」

 椅子を前に、俺の足は固まっていた。これ以上進むことを本能的に拒否している。

「座れ。」

「…これを見せて座れだと。それで座る奴なんているのか。座ってほしいなら目隠しでもするんだったな。嫌なこった。」

「座れ。」

「断ったらどうするんだ。…拒否権などないだろうか。」

 何を言っても座ることにはなるだろう。しかし自分から座ることはできない。

俺が躊躇していると、看守は首から下げている笛を手に取った。

「少し痛い目をみても座ってもらうぞ。」

「ああ、面白い。やってみろよ。」

 座らされる分には構わない。自分から座らなければ、俺の中の何かは守られるような気がした。看守が笛を吹くと、直ぐに三人の応援が駆けつけて来た。もはや殴られてもいい。俺らしく冷静な態度を貫けられれば何だっていいような気がした。

「数の暴力でやろうって言うのか。貧弱だな。」

 こうは言っても勝てないことは分かっている。俺は抵抗もしなかった。力ずくで椅子に抑えられ、手足に冷たい鎖が巻かれた。反抗したせいなのか、鎖は思いの外しっかりと巻かれ、ほとんど動きがとれない。目の前の看守は注射器を取り上げ、俺の腕をはだけさせた。

「暴れるなよ。まあ、暴れても無駄だが。」

 透明な液体を打たれて数分後、次第に肺が熱を帯び、息が上手くできない。視界もぼやけ、暗くなっていく。さらに全身の筋肉の痛みも現れ、動く度に激痛を伴う。縛りつけられていなければ、のたうち回るだろう。

「…ッ…ハア…ハアッ…! こ…れは…思っていたよりも…キツイ…。こんなの…あいつ…三週間も…⁉。息が…で…き…ない…。ハアッ…! 死ぬ…。」

ようやく痛みが引いても、俺は肩で息をしていた。体に重たい石を乗せられたような疲労感、指一本も動かせない。眠ってはいけないと分かっていながらも、抗うことはできなかった。意識が遠のいていく。


 煉瓦造りの天井が目に映った。独房に戻ってきたようだ。夜なのか辺りは暗く、鉄格子の向こうに置かれたランプの光が影を作っていた。

「…だいぶ寝ていたようだな…。」

 体はかなりだるく、まるで固まりかけのコンクリートのように不自由だ。呼吸も苦しく、肺が空気を拒否しているかのようにさえ思える。むしろ息をせず、肺を動かさないほうが楽だ。

「目が覚めたか。気分はどうだ。」

 廊下の影から看守が現れた。椅子から立ち上がった様子から察するに、ずっと見張られていたのだろう。

「お前…ずっと見ていたのか。あんなことをされておいて…気分なんて、良いわけないだろ。」

愚問に腹が立ったが、呼吸がしづらいせいか声があまり出ない。

「頭はどうだ。頭痛はするか。」

「ああ…。」

「どんな風に痛い。」

「…頭をずっと…揺らされているようで…。吐き気がする。」

「体の痺れはあるか。」

「…いや。」

「体は重いか。」

「…ああ。」

「ずっしりと重いか。」

「…うん。」

 看守は淡々と俺の体調を記録していった。後半は聞き方が変わり、ほとんど軽い返事で済んだ。それが気遣いなのか定かではないが、ほとんどが当てはまっていたように思う。

「…なあ、こちらからも質問していいか。」

「なんだ。」

「お前…元囚人なんだよな。てことは、同じような薬を受けていたんじゃないか。」

 看守は黙り込んだ。真っ直ぐ俺を捉える鋭い視線は変わらないが、その奥に何か隠し事が垣間見えた。

「沈黙は肯定だぞ。…そうか、同じような薬を受けていたのか。症状は…違うだろうが…。お前もこの苦しみを分かっているんだよな。なんで看守なんかやってんだ。」

「…そういう規則だ。」

「規則ねぇ…。答える気が無いのは分かった。もういい。」

「夕食と栄養剤だ。明日もお前には同じ役目がある。食欲があるなら摂っておけ。」

 そう言って看守は食物の乗った白いプレートと小さな小瓶を差し入れ、隣の小部屋へと去って行った。

「なるほど…隣が看守のッ…部屋か…。食欲はないが、体力を失えばキツイしな…。仕方ない…食うしかないか…美味くもないが。」

 体力を少しでも補わないと毒には耐えられないだろう。泥のような飯を流し込み、小瓶に目をやった。暗くてよく見えないが、毒と同じ透明な色だった。体調が悪いせいか、匂いが分からない。薬品に透明な色は多いため、あらゆる薬品の特徴を当てはめて割り出そうとしたが…何も浮かんでこない。

「クソ…頭が回らないな…。可能性を考えるなら…ここで殺すのは見当違いだ。」

 実験者の立場で考えるなら、被験者に試験薬以外で死なれては困る。この施設の場合、試験薬は血管に直接入れるタイプのようだから、胃液の影響を受けるものかもしれない。これが強酸に耐えうるかの実験でない限り、小瓶に入っているのは毒ではないだろう。と、無理やり飲む理由をつけて飲んだ。これで死んだらその時はその時だと割り切った。味は特に無く、喉を伝って食道に流れていく過程を意識したが、特にこれという変化は起こらなかった。

「…この小瓶、一応もらっておくか。返せなんて言っていなかったしな。」

 小瓶を拝借し、布団に寝転がった。瞼を閉じると瞬時に意識が飛んだ。


…ペタ…ペタ…

 裸足で歩くような音に重たい瞼を上げる。疲れているとは言っても、慣れない所で深くは眠れないようだ。音の方を見やると、何者かが廊下を歩いていた。何かを探すようにして辺りを見回している。鉄格子に近づいて見ると、そいつは食堂で見た傷だらけの男だった。脱走でもしたのだろうか。

「…何してるんだ。」

「ああ、すみません。起こしてしまいましたか。ここら辺に大切な物を落としてしまいまして。見ませんでした…?」

「大切な物とはなんだ。」

「あの…ペンダントなんですけど…。」

「見たぜ。」

「あ、それは何処にありますか。」

「それを教えて…俺に何の得がある。」

「得ですか…。確かに得はないかもしれませんけど…。何かしてほしいことはないですかね。」

「お前はどうやってここにいるんだ。」

「ピッキングしました。」

 男は手に持った太い針金を出した。いい物を持っているじゃないか。

「じゃあ、その針金とペンダントを交換するのはどうだ。」

 申し出はすんなりと受け入れられた。鍵開けのできる針金など躊躇されると思っていたが、それほど大事なのか。ペンダントを受け取ると、男の表情が変わった。希望を見つけたような、嬉しそうな安心したような顔だ。

「本当にありがとうございます…!」

「それは構わないがお前…ここからどうやって出るつもりだ。」

「…ここが何処なのかもよく分かっていないので、とりあえず隠れながら方法を探してみます。」

「一つ聞いていいか。お前はいつも看守に何かされていると聞いたんだが…何故そこまで反抗する。」

「そうですね…。そもそも私がここにいること自体が間違いです。それをずっと訴えているんですが、聞く耳を持ってくれなくて。しつこく言っていると殴られてしまうんですよね。」

「…それで諦めようとは思わないのか。」

「そうですね。」

「そうか…いいな。お前のことは気に入った。頑張れ、邪魔はしないぜ。」

「そうですか、ありがとうございます。あ、最後に一つだけ。できれば私が出たことは看守に話さないでほしいんですよね。」

「ああ、言っただろ。邪魔はしないと。」

 名も知らぬ男は去って行った。針金を入手したのは大きな成果だろう。これで鍵を開けられるかもしれない。だが、今夜は止めておく。あの男、看守に殴られても諦めない強い信念を持つあいつの邪魔はしたくない。ペンダントを大事にしているのも、己の中で守るべき絶対領域を持っているのも、なんだか自分に似ているような気がした。あいつと自分を重ねたところで、あいつが生き延びるか死んだところで、俺には何の変化も影響もないだろうが…それでも、今夜は邪魔したくなかった。

「さて…もう少し寝るか。疲れたしな…。」


 瞼に映る光に揺り起こされ、ゆっくりと意識が浮上する。ベルが鳴る前なのか、辺りは静かだった。睡眠をとったが体はまだ少し重く、呼吸もやや苦しい。鉄格子付近には新しい衣服が用意されていた。

「ほう…律儀に新しいのがあるのか。…しかし…睡眠をとってもこの体調では段々と弱っていってしまうな。いつ脱走するか…。そういえば騒ぎになっていないな。上手くやったのか…?」

 少しボーっと考えていたが、とりあえずは顔を洗うことにした。立ち上がるとフッと目眩がし、足元がふらつく。二日目でこの状態では、もう何日も保たないだろう。

「…ここはどこ…?」

 女の声が聞こえた。隣の独房からだ。新しく入ってきたのだろうが、別にどうだっていい。顔に冷たい水がかかり、完全に目が覚めた。体調は万全とは程遠いが、今日を生きる分の体力はあるだろう。

ーージリリリリリーー‼

 耳を通り越し、頭の中にベルの音が響く。途端に体は跳ね、反射的に耳を塞いだ。

「…ッ…‼ またこの音かよ、この音…なんとかしてくれよ…。気が狂いそうだ。」

 足音と共に、看守が鉄格子前に現れた。いつもと変わらない無表情…かと思われた。しかし看守は隣の牢を見て少し驚いているようだった。つられて壁の穴から隣の部屋を覗いてみると、そこには白髪の若い女がいた。状況が飲み込めずあたふたしている様子から察するに、連れてこられたばかりのようだ。何か声を掛けてやれば良かったが、俺も来たばかりの身、言ってやれることは無かった。

「朝食の時間だ。手を出せ。」

「…今日は着替えなくてもいいんだな。」

「支度をしろ。」

「同じような服ならこのままでも良くないか。何故いちいち着替えねばならない。」

「ふん。一応、綺麗にしておいた方がいいだろう。」

「なら、風呂くらい入らせたらどうだ。三週間も入っていない奴がいるみたいじゃないか。そこらへんはどうなんだ。お前のことだから、また規則と丸め込むのか。」

「そうだな。よく分かっているじゃないか。」

「…お前は自分の頭で考えることを止めたのか。」

 看守は口を閉じだ。都合の悪いことは答えないつもりらしい。もっとも、それができるのは俺を閉じ込めている間だけだが。その澄ました顔が歪む時は来るのか…。

「俺は、今日は着替えないつもりなんだが…その場合お前はどうするんだ。規則に従って俺を殴るのか。」

 自分の意思で行動することができないのか、それともただ何も考えず規則に従っているだけなのか。俺は看守を試したくなった。毅然とする態度に看守はため息をついた。

「ああもう、どちらでもいい。とりあえず朝食に行くぞ。」

「…分かった。じゃあこのままで。」

 この時、俺は確信した。上手く立ち回れば言いくるめられると。情が無いものと思っていたが、所詮は人間。やはりつけ入る隙はあったようだ。脱走の機会を作れるかもしれない。手錠をかけられ、食堂に連れていかれる。隣の独房に来た女も別の看守に手錠で繋がれていた。気になったのは、その女はずっと俺の看守を目で追っていたことだ。何か言いたげだったが、自分の看守に遮られているといったところか。何か関係があるに違いない。

 機械的にプレートを取って着席する。その際に周囲を見回してみたが、どこにもハイナンはいなかった。それと、夜中に脱走した男の姿も。さらに言えば、全体的に人数が減っている。女は遅れて俺とは少し離れた席に腰かけた。

「あいつとはもう少し話したかったが…死んだか…? おい。」

 隣に腰かけた看守に声を掛けた。

「なんだ。」

「昨日話しかけてきた…汚ねぇ面したあいつはどうした。」

「ああ、あいつは死んだ。」

 あっさりと知り合いの死を告げられたが、あまり心に響かなかった。予想していたからなのか、現実味が無かったのだろうか…。まあ、そもそも知り合いなだけだ。死んだところで話し相手が減っただけ…と言っておこう。それよりも死因が重要だ。毒で死んだのであれば、致死率の高い毒物だと分かる。行動を起こす目安となる。

「何が原因で死んだ?」

「さあな、体調不良か何かだろう。仕事に耐えられなかったんだろうな。」

「なるほど…。三週間も保たないと…。じゃあ次に、あそこの女はどういう奴だ。」

「知らないな。」

「だが、お前は驚いた顔をしていたじゃないか。何か関係があるのか。」

「お前には関係の無いことだろ。」

「…確かに。」

 いや、納得するな。このままでは丸め込まれてしまう。ここは聞きださねばならない。栄養不足の頭を回転させ、瞬時に理由を作り上げる。

「だが、お前は俺の管理者なんだろ? それに…あの女は隣の独房だ。関係無いことはないだろ。」

「…兎に角、あいつのことは知らない。あれは俺の担当じゃないからな。」

 そう言って看守は視線を移して食事を再開するが、その時の眼に迷いがあった。やはり、何か隠している。少なくとも顔見知りであることは間違いない。あとは女に直接聞いてみるしかないだろう。

「…これ以上の詮索は無意味か。」

 俺もプレートに視線を戻したが、食欲がない。だが午後に仕事を控えている限り、食べた方がいいだろう。食事は楽しむものかもしれないが、この時は作業として済ませた。無理やり食べているのもあってか、気分は沈む一方だ。立ち上がる気にもならなかった。

 独房に戻り、床に腰かける。仰いでもそこに見えるのは一定に並べられた煉瓦の天井。何とも言えない、何もないような気がした。俺は生きているのだろうか。そんなことが頭を過り、思わず首を振る。しっかり自分を保たなければ、ここから逃げることはできない。機会を待つにも根気が要る。俺は隣の独房に通じる穴に話しかけた。

「おい、あんた。聞こえるか。」

「…どこから話しかけているの…?」

 女は肩を跳ね、少し怯えたように辺りを見回した。少し、声がキツかったか。

「こっち、左側の壁だ。」

 先ほどよりも優しめに(そのつもり)声をかけると、女はこちらに気づき壁に近寄ってきた。

「お前、今日来たばかりか。」

「そうだけど…あ、あなたは…?」

「俺は…昨日来たばかりだ。色々と情報を集めているところで…」

「あの、一つ聞きたいのだけれど。仕事をするって聞いたの。何をするか分かる?」

「ああ。男と女、同じ仕事をするかは分からないが…薬を打たれる。お前、ここがどういう所か看守から聞いたか?」

「あまり…言っていなかった。よく分からないの。」

「そう、ここは言えば実験場。俺たちは実験動物だ。死のうが死ぬまいがどうだっていい。ただ薬を打たれてその効果を記されるだけなのさ。」

 俺の言葉が衝撃的だったのか、女は目をまん丸にして口を押えていた。

「まあ、驚くのも無理はないが…今驚いても何にもならないぞ。それより一つ聞きたいことがある。お前、俺の看守を見て何か言いたげだったが、関係があるのか。」

「それは…そうね…。あの人と知り合いで。あの人ずっと行方不明だったから…。」

「そういえば、あいつは元囚人と聞いていた。」

「…それで、久しぶりに見て…話しかけたくなったって感じかな。」

「お前の知っているあの男と、今のあの男。変わった点はあるか。」

「そうね…。元々、あの人は酷いことをするような人じゃないのよ。どちらかと言うと助けてあげる方で。」

「なら、あいつの職業は。」

「自衛官だよ。」

 俺が感じたあの男のただならぬ威は間違っていなかったようだ。だが、自衛官であればここで看守をしようと思うはずがない。その裏に何があるのか…。

「一応、隣同士なんだ。お互いに情報を共有できるものはしようじゃないか。お前は…名前は明かせるのか。それとも番号で呼んだ方がいいか。」

「名前は『るえ』っていうよ。」

 俺の本名を名乗るかは迷ったが、一応伝えておいた。貴重な情報源だ。信頼関係は築いておいた方がいい。ついでに看守の名前を聞くと、あいつは『みつる』というらしい。この名前でどこまで動揺を促せるだろうか。俺の思考はあらゆるものを利用するために働いた。信頼関係とはいうが、結局は自分のため。使えるものは使わないと機会は来ない。それが人であれ物であれ変わらない。

「生き残れるといいがな。既に死人が出ているんだ。お前も、何時まで保つか分からないぜ。」

 看守の足音が近づいてきたため、最後にそれだけ伝えて俺は壁から離れた。決して怖がらせるつもりで言ったわけではない。俺なりの応援を伝えたつもりだ。どう捉えるかは彼女次第だが。

 看守は変わらず毅然とした態度で立ち、俺に命令する。

「仕事の時間だ。手を出せ。」

「嫌なこった。」

 腹の底から思っていることがアクセル全開で飛び出した。言った手前、意地でも従わない方向に決まってしまった。強制的に連れていかれる分には構わない。ただ、自分からは決して赴くことはしない。ここに確固たる意志が顕在した。

「いいから手を出せ。」

「いいからという問題ではない。あんなもの、続けてられるか。」

「人を呼ぶぞ。」

「好きにしろ。俺は動かないから、無理やり連れていけ。」

 俺は言葉を吐き捨てた。もうどうなってもいい。何をされても守り通すだけだ。看守は俺を睨みつけると躊躇なく笛を吹いた。直ぐに応援が駆けつけ、独房内に入るやいなや俺に掴みかかった。頭や肩、両足をこれでもかという力で床に押さえつけられ、後ろに回された手首に手錠が掛けられる。わざとだろうが、看守共の指が骨に喰い込んで痛い。好きにしろとは言ったが、無抵抗な俺にここまでするか。

「イッイデデデデデ…‼ ちょ、お前…そんな強く掴むな! 痛い…!」

「大人しくしろ‼」

「お前が掴むから…ッイダッ…‼」

「こっちへ来い…‼」

「分かってる‼」

 何か言葉を続けようとすると遮るように痛みが増した。痛くて暴れる俺を何人もが取り押さえ、無理やり引きずるようにして拘束椅子の前に連れていく。そこまで来てようやく看守共は手を離した。

「座れ。」

 看守の短い命令に、俺は呆れてしまった。

「はあ、お前は分かっていないな。さっき言っただろ、自分から動かないから無理やりやらせろって。」

 抗えない事には従う。俺は無意識にその我流の行動規則に当てはめ、この状況を乗り越えようとしていたのかもしれない。

「そうか。」

 相手もやや呆れたような雰囲気を出していた。その一言に、そこまで言うのならお望み通り無理やりやらせてやるよ…といった一種の殺意を孕んでいた気がする。なにせ自衛官だという看守の眼が違った。獲物を見るような、狙いをつける時の眼差しだった。看守共は再び俺に掴みかかり、意志を失った腕を、足を椅子に鎖で縛りつけていった。前回よりもかなり強く巻かれ、全く身動きがとれない。指先に痺れが出始めた。俺を拘束し終えると、応援に駆け付けた者共は去って行った。

「あのッ…これッ…キツすぎないか…。昨日よりもだいぶ…倍くらいキツい。これ…血管が詰まらないか…?」

「安心しろ、死ぬようにはなっていない。」

「んー…ま、そうだろうな。なんせ毒が来るからな。」

 看守は透明な液体の入った注射器を取り上げ、俺の腕に注射した。その際に手が震えていたのは気のせいだろうか。

「お前、打つならもっとちゃんと打て。痛い…。」

 注射の仕方に腹を立てられるのも今のうち。数分後、覚えのある苦しみが顔を出し始めた。息ができず、頭をハンマーで殴られるような鈍痛、内臓を吐き出したくなるような嘔吐感、視界はさらに暗くぼやけ、もはや何も認識できない。さらには鎖が強く巻かれていることで身動きがとれず、苦しみを紛れさせる手段がとれない。明らかに昨日よりも悪化していた。

「…ッ…キタ…。息が…できない…。これッ…鎖がキツすぎてッ…全ッ然動けないし…。昨日よりも…キツい…。」

 せめてもの手段で、出ない声を振り絞る。そんな俺を看守は黙って見ていた。その手にあるバインダーに何かを書きつけながら。

 どれだけの時間が流れたか分からない。ようやく痛みが引く頃には、俺はもう何もできない体になっていた。視界も音も歪んで、自分が何処で何をしているかも分からない。ただ何かが触れ、何かの感触が消えていった。そこからは何も覚えていない。


 咳き込むような音に瞼が開いた。レンガ造りの暗い天井が映る。鉄格子付近には、廊下のランプに照らされた白いプレートが置かれていた。音は今も隣の独房から聞こえてくる。頭痛のなか体を起こして隣を覗いてみれば、『るえ』と名乗った女が胸を押さえて苦しそうに咳き込んでいた。

「おい、あんた…大丈夫か? いや、大丈夫じゃないのは分かるが…。」

「うん…大…丈夫…。ごめんね、起こしちゃって…もう少しで…落ち着くから…。」

 か細い声で言うものの、とても落ち着くような状態には感じられなかった。何かしてやりたいが、一体何ができるというのか…。その時、床についた指にあの針金が触れた。脱走した男から貰ったものだ。ここを出る最後の手段…。今使って見つかれば、もう脱出の機会は巡ってこないかもしれない。それでも、今何かしたい気持ちは抑えられなかった。

「…やってみるか…。ちょっと待ってろ。」

 ふらつく足で立ち上がり、くらくらする頭を働かせて全神経を指先に集中する。指を伝ってくる僅かな振動で、鍵穴の芯を手繰り寄せる。カチリと音を立て、扉は開いた。

「よし…上手くいった…。」

 廊下に人気が無いことを確認し、隣の鉄格子へ移動する。そこにある鍵穴も試したが、針金は変形し集中力も続かずどうしても開けられなかった。こうなっては仕方がない。『るえ』は今も変わらず苦しんでいる。

「クッ…。なぁ、あんた。ちょっとこっちまで来てくれないか。」

 俺が声を掛けると、彼女は床を這いつくばるように身を寄せてきた。俺にできることは何もない。鉄格子を介して腕を伸ばし、彼女の冷えた背中をさすった。できるだけ優しく、ゆっくりとした呼吸を促すように。

「なあ、大丈夫か。ほら深呼吸してみろ。」

 他人の温もりに医療的根拠はないが、暫くして少し落ち着いたようだ。彼女の背は温もりを取り戻していた。

「…仕事の影響なのか、そうなのか?」

「多分、そうだと思う。変な薬を打たれてからだから…。」

「そうか。仕事っていうのはあんな感じだ。できそうか。」

「…難しいかも…。」

「だよな。お前の場合は…作用が強く出ているのかもしれない。恐らく、長くは保たないだろう。かと言って、俺にできることは……無いな。すまないが、こればかりはお前で耐えてもらうしかない。」

「別に大丈夫…。ありがとう…。あの、あなたは大丈夫なの。そこ…廊下でしょ。」

 改めて考えるとこの状況は不味い。俺は独房を出てしまっている。逃げる意思があったわけではないが、看守にはそんな理由は関係がない。

「ああ…。別にいいぜ。ただ声を掛けるだけじゃ、お前が落ち着かなさそうだったからな。直接中に入ってやりたかったんだが、流石にこの扉は開けられなかった。こんなことを言うのもなんだが……何かに触れて…さすってやった方が落ち着くかな、と思ってしたんだが……余計だったか?」

「…もの凄く嬉しい。」

 微笑んだ彼女の表情はなんだか落ち着いた。ここに連れてこられてこんな顔を向けられることになるとは、思いもしなかった。同時に、その笑顔は明日にも消えることになるという現実も突き付けられたような気がした。

「そうか…。じゃあ…寝られるか、一人で。」

「うん、もう大丈夫。本当にありがとう。」

「分かった。隣にはいるから、何かあれば言ってみろ。俺も生きているうちは反応してやる。」

 彼女は独房の奥に戻り、布団に入った。ここまで干渉するつもりは無かったが、いざ苦しむ様子を見せられると動いてしまうのか。何をしたって助からないのに。

彼女の体温を手放した手はまだ温かかった。他人の温もりは…なんだか懐かしい。

「さてと…このまま戻るのは勿体ない。ちょっと散歩でもするか。」

 彼女のためとはいえ外に出てしまった手前、見つかれば何かしら問題が起きるだろう。どうせ処分されるなら、この建物の構造を知るくらいはしておこう。仮にその場で殺されても、後悔はしない。今まで看守の言うことを聞かされてきたが、今夜は最高の反抗ができる。俺は独房エリアから足を踏み出した。

 中央ホールへと出る。食堂や仕事場へ通じる扉の他に、玄関ホールも見える。先にそこを見ても良かったが、俺は仕事部屋と隣接している部屋が気になっていた。中央ホールから別の廊下に出ると仕事部屋があり、その手前にいつも通り過ぎる扉が一つ。

中は浴場だった。シャワールームと思しき小空間がいくつかあり、その場には似合わない腐臭が漂っていた。奥には壁にもたれるようにして死体が座り込んでおり、肌を青白く染め、人形のように動かない。俺はその死体に目を奪われた。

「お前…。こんな所でくたばっていたのか。相変わらず汚ねぇ面してるな。」

 バカにしてやったのに、声は返ってこなかった。彼はいつも反応してくれるのだが。目の前のハイナンは…もう生きていない。魂の抜けたガラクタも同然だ。そう分かっているのに、その場を立ち去ることができなかった。青白い死体など見慣れているはずなのに。これは…何か違う。

「なんで…動揺しているんだ…?」

 俺は何故か死体に…いや、ハイナンに話しかけ続けた。

「お前、本当に毒で死んだのか? 何故ここに運び込まれている。まあ、俺に死体で遊ぶ趣味は無いからな。大人しくしておいてやる。地獄でまた会おうぜ。」

 沈黙は肯定とみた。直ぐに会えるだろう。

 俺はこれでも綺麗好きな方だ。シャワーを借りた。頭から顔を伝って滴る水はこれまでの苦しみを洗い流すようだ。そこにいるハイナンには、涙の代わりとして受け取ってもらおう。もう何日かは生きられるような気がする。

 浴場から出た途端、腹に重たい何かが飛び込み床に叩きつけられた。そのまま両肩を押さえつけられ、身動きが取れなくなる。思ったより早く脱走に気づかれたようで、何人もの看守が俺を取り押さえた。抵抗することすらできず、独房に放り投げられる。扉は強く閉められ、束の間の散歩は終わりを告げた。騒ぎにはなったが、隣房の彼女は寝息を立てていた。少し顔色は悪いが、表情は安らかだ。

「…明日も生きられればいいがな。じゃ、おやすみよ。」

 取り押さえられた時の体の痛みはあったが、眠りにつくことはできた。


 非日常も、繰り返せば日常となる。いつものベルの音は、俺の内耳に強烈な震動を起こした。悪い目覚めに重たい感情が圧し掛かってくる。

「はあ…。何時まで続くんだ。あいつ、三週間もよく耐えたな。」

 鉄格子付近にはまた新しい着衣が用意されていた。

「支度しろ二十番。起床時間だ。」

 俺が着替え終わると、同じ声、同じ態度で看守はいつもと同じ言葉を続ける。

「朝食の時間だ、手を出せ。」

「嫌だね。」

「…朝食いらないのか?」

「まあ…どっちでもいいかな。」

「そうか。今日も同じことをしてもらうからな、摂ってもらうぞ。」

 笛の音に看守ひとが集まってきた。独房内に入って来るなり俺を取り押さえ、手錠をかけて食堂へと連れ出す。俺を掴む力は増していた。表情には出ていないが、手から感情が伝わってきた。少なくとも、看守共は俺に怒りを向けている。

 ようやく痛い拘束から解放され、プレートを取って着席する。彼女は先に食事を始めていた。

「おはようございます。」

「あ、お…おはよう。」

 声を掛けられるとは思わず、予想外に元気な声に気後れした。

「夕べはその…大丈夫か。もう具合はいいのか。」

「少しだけ悪いですが、大丈夫です。」

 そうは言うものの彼女の顔色は悪く、食事もほとんど手をつけていない。痩せ我慢しているのは明らかだ。

「お前…無理すんなよ。」

「…できるだけ頑張りますよ。」

「今日は生きられるのか。」

「んー…。正直言って分からないです。」

 視線を落とす彼女は自分の死を分かっているようだった。他人を心配してもここでは何にもならないが、何故か頭から離れない。これ以上声を掛けてやることができず、俺は視線をプレートに落とした。何も味は感じなかった。

 独房に戻り、腰を下ろす。言葉を交わした奴が死んでいく。誰が死に、誰が生き残るのか。生き残ったところで何も変わりはしない。なら、なぜ生きているのか。天井を眺めながら、そんな思考回路を巡っていく。なんと無意味な時間だろう。

「今日の仕事の前にいくつか聴取しておくことがある。偽りなく答えろ。」

 廊下の椅子にバインダーを持った看守が腰かけていた。

「…内容によるな。」

「お前の名前は。」

「名前…? なぜ名前を聞きたい。」

「実験のためだ。」

 名前は明かしたくはなかった。こんな施設にデータが残れば、仮に脱走した際に追われる危険性がある。俺は看守を試したくなった。元自衛官のこいつに俺の嘘を見抜けるのか。

「エルゾと名乗っておこう。」

「それは本当だな?」

 相手の眼がさらに鋭くなった。俺は変わらず試すような口ぶりで続ける。

「お前が本当だと信じるなら本当だ。」

「そうか。年齢は。」

「二十八だ。」

「職業は。」

 一番困る質問が来た。いい加減名乗る職業を決めておいた方がいいだろうが、生憎考えていなかった。動揺は隠しきれない。

「しょ、職業……職業…。薬品…衛生に関わる仕事をしている。いや、していた。」

「血液型は。」

「すまないな、俺は自分の血液型を知らない。」

「家族構成は。」

「幼い時に俺が殺した両親と、妹が一人。」

 小さい時に虐待を受けていた俺は、家に火を放って親を焼き殺した。その先は大変だったが、後悔は今もしていない。実の妹に関しては最近知った。会ったことも無かったが、生んでいたらしい。偶然、病院に預けていたようで焼死を免れたとか。

「仕事の時間だ。行くぞ。」

 鎖を引かれて向かう際、彼女の牢からも聴取されているのが聞こえてきた。彼女の苗字は『東堂』というらしい。『東堂るえ』だ。

 仕事場に着けば、椅子に座り拘束されるまでは流れ作業のようだ。恐怖を感じないと言えば嘘になるが、澄ました顔くらいはできるようになった。毒の入った注射器が容赦なく近づいてくる。手の震えが止まらない。体が本能的に拒否している。日に日に増していく苦痛は、確実に心身を削っていた。

「また…来るのか。これだけは慣れないな…。」

 覚悟を決め、痛みを待った。しかしなかなか訪れない。注射器の針は止まっていた。看守はバインダーと針を眺め、少し考えるように目を細めている。

「手違いだ。しばらくここで待っていろ。」

 そう言うとさっさと部屋を出ていった。

拘束されたまま部屋に取り残され、辺りの静寂さに嘆息する。

「手違い…か。何をしてくるんだか…。」

 もしかすると、もっと強力な毒に変更されるのかもしれない。それとも量を増やすのか。昨晩脱走したこともあり、頭の中は最悪のシナリオで埋め尽くされた。何をする気にもならず、ただ座って天井を眺めていた。

廊下の足音が近づいてくる。死が迫って来るような気がした。戻ってきた看守の手にはやはり注射器とバインダーが握られていた。

「じっとしていろ。」

今度はためらいなく針が突き刺される。あまりの痛さに腹が立った。

「…毎回思うんだが、お前は打つのが下手すぎる。もう少し針を斜めにしろ。と言うか、普通は注射する前に消毒するんだけどな。でないと菌が入って、実験をしているなら尚更、影響が出るぞ。」

 看守は何も反応しない。都合の悪いことは全て無視だ。

「はあ…分かってないな。そういうところ指示無いのか。」

 注射器の液体量は減っていた。その分濃縮されたのだろうか。今日は本当に死ぬかもしれない。濃度が倍増されていれば…死ぬまでの道のりもさらに辛いだろう。

数分後、覚えのある倦怠感が訪れた。頭がくらくらとし、少し息苦しい。こんなものはまだ序の口、先にもっと酷い光景が広がっているのを俺は知っている。だが、時間が経ってもその時が来ない。深呼吸をすれば息ができてしまい、意識を保つこともできる。どういうことだ。俺は遂に慣れてしまったのか。いや、そんな筈は…。

毒性を抑えたというのは考えにくいし、ということは…どういうことだ? ただ量を減らしたのか。今回は何が目的だ…? 頭で考える余裕さえもあったため、俺は全く混乱した。そんな中、ふと違和感がした。いつもは閉まっている鉄扉が開いており、そこから無感情な瞳がこちらを覗いている。俺を見ているのではなく、看守を見ていた。看守はというと、無表情からかけ離れた怯えた眼を扉に向けて固まっていた。幹部でも見に来たのだろうか…? 人影が消えると、看守は何事も無かったように視線をバインダーに戻した。

「…お前、幹部が怖いのか。」

「………。」

「無視か。」

「………。」

「手違いというのは、本当に手違いだったのか。なぜ今日はこんなにも…言ってしまえば楽なんだ。少し不自然だと思うが。」

 看守は無言を貫き通した。

「…そっちに何か…。いや、規則は規則。俺はモルモット、気にすることでもないな。」

 答えを先読みするように、俺は一人で話を終わらせた。仮に看守が何か俺を助けるようなことをしたとしても、俺は近いうちに死ぬ。少し日数が延びたところで苦しむ時間が増えただけだ。記録が終わると看守は拘束を解き、俺を独房へと連れ帰った。いつもより楽だったとは言え、立ち上がった瞬間に目眩がし、足はふらついた。

 鉄格子に鍵をかけ、そのまま立ち去るかと思われた。しかしどうしたことか動こうとしない。顔を伏せ、表情は読み取れないが暫くして静かに呟いた。

「…具合は、昨日よりいいか。」

「……ん…? ああ…まあ…いいが、お 陰 様 で な。」

「…そうか。昨日より薬効が弱く出たんだろうな。命拾いしたな。」

「そうだな。」

「明日にもお前は死ぬかもしれない。」

「うん。」

「…もしかしたら俺もだ。」

「ほう、それは何故だ。」

「………。」

「答える気は無いか。」

「一応言っておくが、俺はお前の敵ではない。だが、味方でもない。お前はお前自身しか頼れない。ここに希望も何もない。それだけ覚えておけ。」

「そんなこと、分かってるさ。看守はただの駒にすぎない。実験が終わった後の…言わば、囚人よりも価値のない存在だろう。」

「…そういうことだ。」

「まあ、お前にも明日があるといいな。せいぜい生きろよ。」

 看守はそれ以上何も返してこなかった。去り際にランプを廊下のテーブルに置くと、隣の小部屋へ入って行った。看守の眼に鋭さは無く、希望を失ったような悲しさを孕んでいた。

「…そういえば、あいつは今日は生きているのかな。」

 なんとなく隣の独房を覗いたが、彼女の姿は無かった。まだ仕事中なのだろうか。本来ならば俺ももっと時間がかかるはずだっただろう。手違いが無ければ…。彼女は今も苦しんでいるのか。

「時間がかかっているのか、それとも…。ま、分からねぇな。死んだら死んだで…。だが、あの様子じゃ保たないだろうな…。俺にはどうしようもない。」

 話し相手もおらず。特にすることもない。体のだるさに、俺は横になって瞼を閉じた。


 突然の音に目が覚める。ベルの音ではなく、ガラスが割れるような音だ。廊下にあったはずのランプの灯りはなく、暗闇の中で何人かが一人の体を引きずるようにして通り過ぎていった。叱咤する声に抵抗するのは、俺の看守の声だった。

「放せ…!やめろ‼ 俺はまだ…!」

 俺に接する時とは違い、はっきりと意志を含んだ声は生を求めていた。やがて意味を持たないくぐもった悲鳴となり、中央ホールの方へ消えていった。

「……何やってんだ、あいつ…。」

 俺はあろうことか、もう一度眠りにつこうとしてハッとした。看守がいないなら、今夜がチャンスじゃないか。体調は昨日よりも断然いい。この騒ぎに便乗してやろう。見つかれば殺されるかもしれないが、ここに留まっていても死ぬ。どうせ死ぬなら、抗ってやろうじゃないか。重い腰を上げて鉄格子に近づくと、暗闇に慣れた目はガラス破片と異なるものを捉えた。手を切らないように取り上げてみると、それは「C」とタグのついた鍵だった。そう言えば、看守はいつも鍵をポケットに閉まっていた。引きずられている時に落ちたのだろう。あまりにも都合が良すぎる。

「なんだ、俺に脱走しろと言っているようなものじゃないか。いや、罠の可能性もあるか…。だがここで留まる理由にはならないな。どうせ、このままいてもな…。動かない足を動かすか。」

 鍵穴に差し込むと、扉は開いた。この格子より外では本気で逃げなければならない。たった一つの仕切りだけで、こんなにも世界は変わるのか。全てが敵に見える。

「さてと…このまま行くのは流石に目立ちすぎるな。看守がいないなら、あいつの部屋でも見てみるか。」

 看守の小部屋は同じくレンガ造りで、簡素なベッドや机、クローゼットが配置されていた。机上に置かれた小さなランプはバインダーと手書きの地図を照らしている。地図によると、ここは大きく囚人棟と看守棟に分かれているらしい。大よその構造は知ることができた。一通り覚えた後、バインダーに視線を移す。これは看守が普段持っていたものだ。二枚の紙が挟まっていた。一枚は囚人番号二十番用の実験手順が記されている。看守棟の研究室から毒を入手しているらしく、今日行われた個人情報聴取のことも書かれていた。もう一枚には俺の実験記録が綺麗な字で記されている。仕事中の体調や、これまでの行動などが長々と…。夜中に脱走したことや、看守の指示に素直に従わないことが問題行動として挙げられており、要注意人物とされているようだ。

「ふん、『言うことを聞かない』ってか。不良扱いされているじゃないか。…当然か。」

 ここから出るなら、聴取された個人情報を消しに行かなければならないが、このままの格好は目立ちすぎる。俺はクローゼットに掛けられていた看守服を借りた。幸運にもサイズがぴったりと合う。遠目からはバレないだろう。ふと、ポケットの重みに違和感を覚えた。取り出してみると、それは古ぼけた手帳だった。先ほど連れていかれた看守の日記のようだ。内容によるとやはりあいつは元囚人で、薬の苦しみを味わっていた。だが、ある時を境にローブの男に薄黄色の薬品を打たれ、囚人を終える。そこから俺を担当することになったが、毒を打つことに抵抗心を抱え、俺を殺すのを嫌って何か小細工をしたようだ。俺の隣房の女とも関係があるのは間違いなく、助けてやりたいがどうしようもない旨が綴られていた。

 …あいつは、心の中で苦しんでいたのか。嫌でも従わざるを得ない理由があるのだろうが、だからって危険を冒してまで見ず知らずの俺を助けようとするとは。そんな小細工をしなくたって、日数が経てばどうせ死ぬのに。全くの無意味であることが分からなかったようだ。囚人に情をみせるだけ無駄。恩恵など期待するのはもっての外。利用されて終わるだけだ。

「…馬鹿だな本当に。殺しておけばいいのに…。」

 手帳を床に放り置き、ランプの火を吹き消した。

廊下では咳き込む音が響いていた。音のする方へ行けば牢の中で『るえ』が胸を押さえて苦しんでいる。気づかなかったが、俺が眠っている間に仕事から戻っていたようだ。

「ああ…なあ、あんた。大丈夫か?」

 反応する余裕すら無いのか、床に手をついて血を吐いている。昨晩よりも明らかに悪化しており、背中をさするだけでは到底落ち着かないだろう。恐らく…数時間後に死ぬ。そう分かっていてもできることがない。助ける意味なんて無いが、助けたくない理由が思いつかない。

「…ックソ。」

 俺は彼女の看守室に入った。幸いにも看守はおらず、壁には鍵が掛けられていた。それを見た瞬間、衝動的に鉄格子の扉を開けて彼女の傍に駆け寄っていた。

彼女の体は冷え切っていた。何かに安心したのか俺の腕に身体が寄り掛かり、少し咳き込みが落ちついたような気がする。

「お前、ここまでよく耐えたな。」

「あ…ありがとう…ございます…。」

 先が長くないのが十分に理解できるか細い声だった。助けるなら、ここから連れ出すしかない。

「お前、歩けるか。」

「正直言うと…ちょっと難しいです…。」

「ここで死にたいか。それとも外に出たいか。」

「…死にたくはないです。」

「なら、もう少し…頑張ろうという気があるのなら、俺について来ないか? それと、あんたの知り合いは連れていかれたようだ。『みつる』と言ったか。そいつも、あんたのことを気にかけていたようだ。会いたいなら、俺についてこい。」

 彼女は少し驚きの表情を見せ、考える素振りをみせた。今の状態で動くのは辛いだろう。看守に見つかれば即殺されるかもしれない。そうならないためには咳き込むのも抑えなくてはならないし、周囲を警戒する必要もある。厳しいようだが、迷っている暇もない。

「さあ、どうする。残っていても別に構わない。そうすればお前はここで死ぬことになるだろう。外に出ても死ぬかもしれないが…。どちらがいい、選ばせてやる。」

 少しの沈黙の後、彼女は意を決めたように答えた。

「ついて行く。」

 彼女を支えながら、牢を後にする。俺は何をしているのだろう。こんな荷物を抱えて…自分の命を短くする行為なのに。なのに、捨てようとは思えない。

中央ホールまで来たが、彼女の足はふらついてゆっくりと動く。正直なところ、この調子では本当に捕まってしまう。自分で出しておいてなんだが、足手まとい以外の何ものでもない。

「…お前、本当に歩けるか?」

「…大丈夫です。…頑張ってついていきます。」

「だが、正直言って…ちょっと俺の歩幅に合わないんだ。だから、お前はどうせ遅れることになる。俺に身を預けてみる気はないか。」

 彼女は俺の腕を掴む手を緩め、寄り掛かってきた。…これは、良いってことだよな…?

「…仕方ねぇな。俺の首に手を回せ。」

 彼女の腰と足に手を添え、そのまま持ち上げる。自分も毒で弱っている影響もあり、体中に痛みが走ったがなんとか立つことができた。いわゆる…お姫様抱っこというやつだ。だが、立ち上がるときに少し乱暴になってしまった。

「ああ…すまないな。大丈夫か。」

「え…だ、大丈夫。…ありがとう。」

「気にするな。お前が足手まといにならないようにしただけだ。…体力の保つ内に行かないと。しんどくなったら…言えよ。」

 俺はもはや自分の脱獄よりも、この女性と連れていかれた看守とを会わせることを第一目標としていた。理由は自分でも分からない。

看守棟に連れていかれたと予想し、渡り廊下に出た。ランプに照らされた不気味な煉瓦トンネルのようだ。この先の危険を暗示しているようにさえ思う。いつ看守が現れてもおかしくはないだろう。その時は、確実に逃げ遅れる。

「危なくなった場合なんだが…。俺は必ずしもお前を守るとは言っていないし、守れる自信もない。その時はすまないが…分かってくれ。俺を恨むのは…構わない。」

「う、うん…。分かった。」

「やれるだけのことはやってやろう。」

 渡り廊下を進んだ先は薄暗い広間だった。同じ煉瓦造りだが部屋数は二つ、玄関扉の反対側には上へと続く螺旋階段がある。試しに玄関扉を引っ張ってもらったが、案の定開かない。一つ一つ部屋を調べるしかなさそうだ。手始めに左の小部屋を調べることにした。扉の先では誰かいるようだったため、彼女には一端降りてもらい、螺旋階段の影に隠れてもらった。腹をくくって中に入る。

 休憩所あたりを予想していたが、独房よりも少し狭い部屋には鉄格子しかなく、その中に後ろ手に縛られた俺の看守が座っていた。服は揉みくちゃになり、顔には擦り傷も見える。看守と囚人の立場が逆転したように錯覚させた。

「よお、看守さんよ。いや、みつる君…だよな。」

 看守はぼんやりとこちらを見やった。

「ここで何をしている。」

「何してるって…脱走を図ってんだよ。」

「…そうか。」

「お前こそ何をしている。」

「見て分かるだろ。」

「いや、そうじゃなくて。俺の薬に…何か小細工したんだろ? それと、あの『るえ』という女も気にしていたようじゃないか。何をしてんだまったく…。あんたは規則と言っておきながら、それを破ったんだ。」

「‥‥……。」

「図星か。ああ、人殺しにはなりたくないとか思っていたようだが…一ついいことを教えてやろう。囚人に対してそう舐め腐ったことをしているとだな、ただ利用されて終わるんだよ。」

「そうか。」

 軽い返事だった。無意味であることが分かった上でしたことなのか。だとしたら、尚更こいつが分からない。自衛官とは、変な正義感を持つのだろうか。当然、俺はこいつを助けることに尽力はしない。

「…ま、その状態は当然の報いというわけだ。俺はお前に対して何もできないし、何もするつもりはない。ただ、あいつは会いたいかもしれないから、一応連れて来てやる。」

 危うく忘れるところだった。階段下に待機させた彼女を呼び、看守を見せると途端に表情が変わった。

「みつる⁉ どうしたの、何があったの…⁉」

「………。」

 彼女が何を言っても看守は答えず、顔を上げようともしない。ただ、僅かに見えた彼の顔には悲しさや悔しさ、安堵さえも含まれていたように思えた。そんな看守に涙目で声を掛け続ける姿に、俺は遂に黙っていられなくなった。

「なあ、るえ。そいつはもう、お前の知る…みつるでは無いんだろうよ。」

「え…。」

「一つ聞きたいんだが、こいつは普段から無口なのか。」

「いや、そうでもないよ。喋る人だったはず…。」

「そうか。なら、今何を話しかけても無駄だ。何かで…制止されているんだろう。お前はこいつを助けたいか。」

「うん…助けてあげたい。」

「なら、それはお前でやってくれ。悪いが、俺は手を貸せない。」

 俺の言葉で彼女の表情はまた変わった。悲しそうに視線を下げる。俺には全員を助ける気力も体力も無い。自分だけで精一杯なのはここの囚人は誰だってそうだと思うが。

「…そんな顔されてもな…。で、お前はこれからどうする。まだ俺について来るのか、それともここで…こいつを見ているのか。」

「…ええっと…。」

「ああ…だが正直ついて来られても、ずっとお前を見るのは厳しい。お前にはここで待機していてもらいたい。誰も来ないことを祈っていてくれ。」

 俺を自分勝手だと言う奴がいるだろうか。いてもそれは仕方のないことだ。しかし彼女のことを世話する余裕はない。二人を会わせるという目標は叶えてやったのだから、次は自分を優先しても構わないだろう。どちらにせよ、玄関扉を開けなければ出られないのだから。何と言われようが思われようが、俺はこいつらを自分よりも助けようとはしない。彼女は小さく頷き、俺は部屋を出た。

 広間は変わらず静かだ。右の部屋に入ると、古びた本が詰まった棚の数々が出迎えた。背表紙を見る限りここには多数の言語があり、全体的に心理学や薬学について書かれているようだ。

「どれも面白そうだな…。時間があればゆっくり読みたいが、今はできないか。」

 ここで時間を使うのは良くないと分かっていながらも、本を取り出す手は止まらなかった。何冊か斜め読みした中で、興味深いものを見つけた。『スタンフォード

監獄実験』かなり有名な心理学実験だ。被験者それぞれが看守役と囚人役に分かれると、各々がその役割通りの言動を起こすようになるというもの。今の状況と似ているような気がしてならない。驚きというよりも、興味が湧いた。もし生き延びたら、この施設は新たな実験場として使えるだろう。こんな状況下でも次の実験のことを考えるなんて、俺はどこまでも…懲りないんだな。

 螺旋階段の先は下の階と同じような部屋配置だった。人通りも少なく、今なら大よそ調べることができるだろう。なんとなく、また左の部屋に入った。

 重たい扉を開けた瞬間、ガラスの割れる音や何かを打ち付ける音が一斉に外へ飛び出してきた。中では、研究室を思わせるこの部屋には似つかわしくない二つの影がいがみ合っていた。白いローブを着た男に掴まれているのは、初日の夜に鉄格子越しに物々交換したあの傷だらけの男だった。男はローブ男に押さえつけられ、首元に何かを注射されると苦しそうにその場に崩れ落ちた。そのまま無抵抗に蹴られている。他人とはいえ、一度は言葉を交わした者だ。目の前で死体蹴りのような扱いをただ見ていることはできなかった。俺はローブ男が夢中になっている隙にその背後に忍び寄ろうとした。しかし床はガラスの破片だらけ。音を鳴らさずに近寄るのは至難の業だ。

パキッ

足裏に痛みが走り、台の裏に身を隠す。唇を噛んで息を殺し、痛みも押し殺す。ここで声をあげてはならない。足を抑えた手は血を握っていた。幸いにも侵入に気づかれなかったようだ。ローブ男は倒れ伏した男を再びなぶり始める。今度こそ、気配を消して忍び寄り首に手をかけようとした時だ。俺の殺気に勘づいたのか、ローブ男は蛇のような冷鋭な眼差しで振り返ると、瞬時に俺の頬に鋭痛と熱が走った。頬を伝う痛みに構う暇などなく、俺はローブ男のナイフを払って懐にこぶしを突く。一瞬の怯みに畳みかけようとするが、またナイフが首をかすめた。距離をとり、体勢を立て直す。

男はゆっくりと立ち上がった。白いローブが床に落ち、その姿が露わとなる。目の前にいたのは人間とは程遠い、しなびやかな手足と滑らかな鱗をまとった蛇人間だった。怒りを孕んだ眼差しで俺を睨みつけ、口角を吊り上げて鋭い牙を露出させている。そのまま噛みつかんと素早い動きで飛びついてきた。間一髪でかわすと俺の背後にあった台が凹んだ。牙からは変な色の液体が滴っている。あの牙に噛みつかれたらタダでは済まないのは嫌でも分かる。それでも、ここで逃げるわけにはいかない。相手は再び口を開けて向かってきた。飛び込んできた首を両手で掴み、勢いのまま背中を床に強打したがそんな痛みには構っていられない。牙を突き刺そうと眼前で暴れる蛇首を持ち上げ、何度も床に叩きつけた。返り血を浴びようと無我夢中だった。ようやく我に返った時には蛇の口は変形し、血にまみれ動かなくなっていた。なんとか勝ったようだ…。

何かを注射された男は苦しそうに血を吐いていた。間違いなく、ペンダントを渡したあの男だ。彼はゆっくりと体を起こす。

「貴方は…。」

「お前、まだいたんだな。覚えているか? ペンダントをお前に渡した奴だ。」

「はい、覚えています。ありがとう…ございます…?」

「まあ、俺も針金を貰ったからな。なかなか役に立ったぜ。で、お前はここで何をしているんだ。」

「ああ、それは…ガハッ…‼」

 彼は大きく喀血し、床に手をついた。彼の周りにある煉瓦の赤くくすんだ色がさらに濃くなっていく。

「…大丈夫か。何を打ちこまれたんだ…?」

「いつも仕事でやって…いる…あの薬を打たれました…。」

 目の前でくたばってもらうのはなんだか気分が悪い。何かないかと薬棚を見てみると、ほとんどが透明な中で薄黄色、薄紫色、黒色が特に目についた。いずれも注射器で取るタイプの瓶に入れられており、一回分しかない。…まだ情報が足りない。本棚にはファイルが入れられていた。一番から二十一番まであり、囚人の個人情報が綴られている。俺の情報が書かれた二十番のファイルは硫酸で溶かしておいた。偽名を名乗ったとはいえエルゾに悪いし、情報は消しておいた方がいいことに変わりはない。ファイルの顔写真をもとに他のファイルも見てみると、二十一番は隣房にきた女である『東堂るえ』。主婦で夫と二人暮らしらしい。十九番は今目の前で苦しんでいる男のことが書いている。『ミキウス=ディズニシア』、イタリア人の神父のようだ。反抗を続けるのも一つの神に仕えるのも、貫き通す信念からくるものなのだろうか。十八番は風呂場でくたばっていた『ハイナン』。真面目で忠実だが無駄口が多いと書かれている。ほんの少し前まではバカを言って笑っていたのに、もう聞けないとなると少し寂しい気がしてしまう。

「職業はコンビニのアルバイトってか…。とんだ嘘だな。」

 もう死んでいるのに、ここでも笑わせてくれるのか。本業はスパイなくせに、あの顔でよく看守を騙せたものだ。十番には俺の看守が囚人服に身を包んで写っていた。名前は『東堂 晄』。囚人の時は聴取も難しいほど反抗心が強かったようだ。

…東堂…? 女と同じ苗字に目が留まった。まさか、夫婦なのか。あまり深入りする気は無いが、少し気になる。

「ミキウスさんよ。あんた、もう少し耐えられるか。」

「…もう少しだけなら耐えられますが…そんな長くは…保たないでしょう…。」

「お前は…なぜ外に出たいんだ?」

「…信者たちがいるので、色々心配なんです。」

「そうか…。俺はもう少し調べてくる。信者たちを思うなら生きていろ。まあ、神を信じるならそいつの元に行くっていうのもあるが。とりあえず俺は行くぜ。」

「わ、分かりました…。」

 入ってきたときは気が付かなかったが、入り口の壁には鍵束がかかっていた。廊下に出て、まだ見ていない扉を開ける。中は物が雑多に積み上げられている物置のような部屋だった。驚いたことに俺の服や荷物も転がっている。端には愛用の拳銃も落ちていた。それを拾い上げようとしたとき、バツ印が書かれた煉瓦を俺は見逃さなかった。壁から取ってみると中に折りたたまれた紙が入っていた。過去にここを抜け出した囚人が書いたものらしい。看守となる者にはやはり薬が打たれているようだ。そのせいで看守は行動が制限されており、研究室には変な色の抗血清があるとか。俺が見つけたあの三種類の中にあるかもしれない。とは言っても、看守を助ける気など無いが。

服を着替え直し、俺は研究室に戻った。自分の持ち物がこんなにも落ち着くとは誰が教えてくれるだろうか。ミキウスの容態はさらに悪く、灯は消えかかっていた。時間はない。

「しっかりしろ。お前、ここから脱獄するんだろ? こんな所でくたばっていていいのか。」

「そう…です…けど…。厳しい…です…。」

「…だろうな。俺もお前もここでは変わらずモルモットだ。お前には死ぬ前にもう少し、その役目を担ってもらおう。お前で色々実験していいか。」

「え?」

「俺も解毒剤がどれか分からない。だから、全て打たせてもらう。」

「え…それ…大丈夫じゃないですよね…。」

「ああ、全て耐えたら生きられる…。モルモットらしいだろ。」

「まあ…そうです…ね…? ええっ…⁉」

 ミキウスが困惑するのも無理はない。普通の反応だ。だが、解毒剤が分からない以上色々試す他ない。生きられるかもしれない可能性を俺なりのやり方で与えてやっているつもりなんだが。

「それが嫌ならここでくたばっていろ。」

「ああ、分かりました分かりました…!」

「俺はこの部屋を出て行ってもいいんだぜ。最後のチャンスだと思え。」

「その…恐らく貴方が見つけた薬の中には、看守を自由にする薬もあるはずなんですよ。」

「それは確かなのか。」

「…確かだと思います。調べたので…。」

「透明なら、いくらでも打ってやるぜ。毒を以て毒を制すと言うじゃないか。」

「それを打ったら、間違いなく死ぬような気がするんですが…。」

「ここで楽にならないか? 神のもとへ行くという選択はどうだ。」

「いや…まだ死にたくないですね…。」

「ほう、神に仕える者がまだ死にたくないと。俺が何もしなければお前はどっちみち死ぬんだ。もう、道は決まっているようなものじゃないか。」

「確かに…死にますね…。ほとんどの人は死ぬんじゃないでしょうか。貴方が凄いです。」

「俺は…運が良かったと言っておこう。」

 俺が今こうして立っていられるのは、看守の小細工のお陰だ。それは分かっているが…。

ふと、看守の日記に薄黄色の薬品について書かれていたことを思い出した。あれを打たれて看守になったなら、この薬は人を支配できる薬ということになる。俺はどこまでも懲りないらしい。目の前にいるミキウスに試したい気持ちが溢れてきた。モルモットの怯えた目にはむしろ興奮する。ダメだとは分かっているが…。

「これを打ってお前を支配できるなら…それも面白いかもしれないな。」

「私に打つんですか…。」

「モルモットを目の前にすると…恍惚とした気分になる。悪いな、俺は本当に犯罪者なんだ。こういう思考になってしまう。」

「ええ…。」

 とは言っても、実際に打つほど非道ではない。

「さて…。ただ、お前の命には別に興味はないから、生きようが死のうがどうだっていい。お前には、俺が一番怪しいと思っているこの黒色を打ってやろう。」

 そう言って注射器を手にしたとき、女性の顔が頭に浮かんだ。彼女も毒で苦しんで死にかけていたはず。何もせず放っておけば死ぬだろう。黒色の薬を選んだのは適当ではない。解毒剤だと目星をつけた上でだ。一回分しかない、ミキウスか東堂るえ…か。命の選択を迫られていることに気づいてしまった。

「なんだ、俺に選択しろというのか⁉」

「…どうしたんですか。」

「いや…ちょ、ちょっと待ってくれ…。」

 俺の手は僅かに震えていた。ここまで生きてきて今更だが、自分の弱さが垣間見えた。俺は…選ぶことができない。放っておけばどちらも死ぬ命。ならば何もしないのが正しいのではないか…と、これは逃げているのだろうか。ここは二人に話をさせよう。

「すまない。お前、ちょっとこっちに来てもらうぞ。」

 俺は返事も待たずにミキウスを研究室から引きずり出し、そのまま一階の小部屋まで連れて行った。看守は変わらず格子の中、その妻であろう『るえ』も格子の外で彼を見守っていた。ミキウスを前に放り出した俺は半ば興奮状態にあったが、頭を落ち着ける意味もあって驚きを見せる彼らに四つの薬品を突きつけた。

「いいか、ここに四つの薬品がある。これを上手く使えば誰かは助かるだろう。」

「…それって誰かは助からないってこと…?」

「その可能性はある。で、俺は鍵を持っているし恐らく出られる。だから、この先のことは延長線上の出来事だ。」

「…はい…。」

「透明は恐らく毒だ、だからこれは打たない。」

 透明の薬品をポケットにしまう。

「そして…黒色、これが解毒剤だろう。今、『るえ』とミキウス…お前らに必要なのがこの薬品だ。」

「まあ、そう…ですね。」

 ミキウスは少し希望を持ったように体を起こした。

「そして…そこの手を縛られているお前。お前はこの薄黄色を打たれていると思う。だから、これも使うことはない。」

 薄黄色の薬品もポケットにしまう。

「…となると、最後はこの薄紫色だ。恐らくこれが抗血清だろう。これをお前に打てば、お前はある程度自由が利くようになるのかもしれない。」

 看守はこちらをじっと見つめたまま何も答えない。その顔にどんな感情が含まれているかは、もはやどうでもよかった。

「さて、ここまで説明して分かるかな。助かる奴と、助からない奴が。」

 俺が提示した残酷かもしれない現実に、声を出せる者は現れなかった。自分が生きようとすれば片方が死ぬ。こんな選択は誰だって避けたいだろう。俺はあくまでも選択権を握ろうとはしない。手は汚したくない。

「…俺は…お前らを助ける気はない。だから、助かりたいなら自分で勝ち取ってくれ。ここに注射器を三つ置いておく。その檻の扉も開けておいてやるから、あとはお前たちで判断しろ。」

ミキウスは頭を抱えた。

「…どうにかならないのですか。本当に…。」

「…目の前で、黒いのを叩き割るということもできる。なんなら、三人全員で死ぬか。考えてもみろ。どの道死ぬんだ、何もしなければ。人生もそうだが、死へと一直線に向かっている。それが近くなっただけだ。そこに俺が手を加えて道から外すことを…神に仕えるお前はいいと思うのか。」

「…それは…まあ…ダメだと…思いますね…。」

「ほう、今自分でダメだと言ったな。じゃあお前はここで死ぬのがいいだろう。」

「え…。僕がですか。」

「神の道から外れるのはダメなんだろ? 自分で言ったじゃないか。」

「そ、そうですけど…。」

 ミキウスは決まり悪そうに目を逸らすと黙り込んだ。ここで去っても良かったが、なんとなく見届けたくなってしまった。俺は中途半端に干渉しておきながら核心から逃げているだろう。ズルいと言われても否定できないのは分かっている。でもそれはどちらも助けたいとは思っていないからだ。正直どちらでもいいし、誰も助からなくても構わない。放っておけば消える命、それを私利私欲で動かすのは気が引ける。どちらが助かろうとどうでもいいからこそ、俺は堂々と好き勝手言っているんだ。もちろん、片方が大切な人なら…迷わずもう片方を殺すが。

「そこの…るえ。良かったな、お前がこれを勝ち取れるようだ。」

「…本当にいいの…。」

「ま、隣の奴を見捨ててでも生きたいと思うのなら…これを打てばいいさ。」

 彼女は差し出した注射器を恐る恐る受け取った。だが、なかなか打とうとしない。ようやく生きる道を手にしたというのに、何故だ。

「そうだ。これは答えなくても構わないんだが…。お前とこの看守は結婚しているのか。」

「はい、そうです…。」

 妻と夫…。お互いに大切な人のはずだ。俺にも守りたい者はいる。不思議と…その人と重ねてしまい、俺は言葉を失った。

「…どうかなさったのですか…?」

「いや、なんでもない。なら、尚更お前の中で答えは決まっているだろ。」

「そ、そうですね…。」

「…仕方ねえな…。」

 俺は牢にいる看守の胸倉を掴んで引き寄せた。彼女に判断できないなら、看守に判断させるしかない。

「おい、お前。」

「なんだ。」

「ここから出たいのか。」

「………。」

「お前…ここにいて…こいつを見捨てられるのか?」

胸倉を持ち上げたまま鉄格子に看守の体を叩きつけた。無言のまま見届けるつもりなら、それは許さない。

「黒の…恐らく解毒剤は一つしかない。両方を助けることはできないかもしれない。それでもお前は片方を見捨て妻を助けるのか。それとも…。どういう判断を下すのか聞いてみたい。今からお前の口を利けるようにしてやる。必ず答えろよ。」

 後ろ手に縛ったまま、彼の首元に薄紫色の薬品を打つ。

彼の体はカタカタと震え、少しして治まった。

「…今のは。」

 驚きと困惑が顔に出てきた。もう無表情ではない。

「これで喋れるんじゃないか。さあ、答えを聞かせてもらおう。お前はどうしたい。」

「俺は…るえを助けたい。」

「なら、そこで倒れている囚人番号十九番…ミキウスを殺してやれよ。お前、自衛官なんだろ? それくらいの力はあるんじゃないか。二人はどの道たすk・・・」

「ちょっと待ってくれよー‼」

 ミキウスが声をあげた。今さら何を言われてもこいつの先は変わらない。

「なんだ。死人は黙ってろ。」

「まだ死んでないよ!」

「ああ、死んでいないがいづれ死ぬじゃないか。それに…お前はもう死ぬことを決めただろ?」

「え、いや…決めてないよ…。」

「そうか。だが今はお前に聞いていないんだ。みつる…お前に聞いているんだよ。いや、看守か。妻を助けたいならそこにいるミキウスを殺せ。お前の手で。」

 俺が縄を解くと、看守は無言でゆっくりとミキウスに歩み寄った。冷徹さを含んだ静かな眼差しをしながら。

「ほ、本気で言ってるのか⁉ 殺すって…。ちょっと、考え直さない…?」

「…すまない。」

 慌てるミキウスに小さく低く呟くと、彼はミキウスに掴みかかり馬乗りになってその首に手をかけた。苦しみ悶えるミキウスの声は弱くなり、やがて聞こえなくなった。看守が手を離すと、息絶えた彼がそこにいた。俺はなんだか安心した。選択肢がようやく一つに収束したようで、もう進むしかない道ができたことに。

「あとは黒のやつを打ってやればいい。俺はこれ以上手を貸さない。後はお前らで好きにしろ。」

 俺は部屋を後にし、その足で建物から外に出た。もうこの先の二人はどうだっていい…はずだったが。振り返れば、看守…いや晄はるえに注射を打ち、部屋からゆっくりとこちらに向かって来ていた。それに何故ホッとするのか…自分が分からない。本当に安心した気がした。それ以降、俺は振り返らなかった。




助からない命などいくらでもある。だが、手を差し伸べれば助かる命もある。それがある限り、命の選択は尽きないだろう。人間は私利私欲で物事を決めることが多い。たとえそれが命であっても、いくら生命の価値は等しいと語っても…優先順位はちょっとしたことで変わる。たまたま目の前にいたからなのか、大切な人だからか、そいつが善良な者だから…なのか。では悪では助けないのか。考え出すと止まらない。皆、そのことに蓋をしているのではないか? ただ助けたい、そこに理由など要らないかもしれない。だが、知らず知らずのうちに選択していることを忘れてはならない。本来死ぬ道にいる者に干渉して、その道から外してしまっていいのか。そいつが助かることで自分に大きな影響が及ぼされるなら妥当な判断だろうが、そうでなく何も影響しないなら…果たして干渉していいのだろうか。誰だって死ぬ道へと進んでいる。生まれた時から歩み始めている。終点に辿り着くのが遅いか早いか…そんな些細な違いだろう。

 …こんな考えは、自分にとって価値のある人物に置き換えられると直ぐに変わってしまうことは分かっている。俺にとってはフィジックス。もし彼女に選択を迫られたとしたら、道を延ばす手段があるなら迷わず使う。死から遠ざけて、もう少し長く一緒にいたいと願うだろう。逆に手段がないなら、潔く諦める。そこに絶望があるかもしれないが、だからと言って見苦しく足掻き続けるのは違う気がする。

あくまでも俺だけの考えだが。

俺はこれからも命の選択から逃げ続けるに違いない。今回でよく分かった。要は責任を負いたくないんだ。これまで人生を騙ってきたが、ここだけは誰よりも正直なつもりだ。


看守(東堂晄)

俺は誘拐されてから約一ヶ月、毒に耐えてきた。看守となる頃には、もう身も心もボロボロだった。それでも、反抗心だけは残っていたのが幸いだ。結果的に自分を苦しめたが、得たものは大きかった。一番辛かったのは二十番に薬を打つ時だ。薬の苦しみは誰よりも分かっている。それなのに、体がいうことを聞かなかった。あんな非人道的な実験で人を殺すくらいなら…死んだ方がマシ。あの出来事は忘れないだろう。妻にも、辛い思いをさせてしまった。


  ミキウス=ディズニシア

 善良な私が罪を犯すなどありえません。看守は罪状さえ伏せていました。冤罪であることに間違いはなかったのです。だから反抗を続けました。蹴られようとも、屈してしまえば認めることとなります。どんな悪党にも救いの道はある。神は与えてくださる。看守の間違いは正さなければならなかったのです。ですが、私は殺されてしまいました。あそこに救いは無かったのでしょうか。神は私を見捨てられたのでしょうか。私はまだ貴方様の元へ行くのに相応しくはないはずです。死にたくない、いくら神を信仰していても生に縋ってしまうのです。どうかお許しを。


  東堂るえ

 私は晄を探していました。彼は自衛官なので何日か帰らない時はありましたが、一ヶ月も音信不通となると嫌な予感がしました。あの場所で彼を見た時は涙が溢れてきました。けれど、いつもの晄ではなかった。一瞬だけ私を見てくれましたが、それ以降は無表情で話してもくれない。とても不安でした。

毒を受けた時は絶望しました。私は晄と一緒に暮らしたいだけなのに、そんな平和も望めないのかと…。エスパーさんは、晄はもう変わってしまったと言っていました。私を愛してくれなくなったのでしょうか。毒の作用も相まって、文字通り死にそうな思いでした。彼が私に解毒剤を打つために他の囚人の方を殺めた時も…本当に苦しかったです。あの状況では私の我儘かもしれませんが、夫に殺しをしてほしくなかったのです。でも他に解決策があるのかと言われれば…何も答えられません。夫とまた一緒になりたいという思いだけは手放しませんでしたから。



  ハイナン

 あんな場所でエスパーに会うとは思っていなかった。あいつは来て早々、反抗することを考えていたが、あの様子じゃ看守にはなれなかっただろうな。俺は薬で殺られちまったが、これは仕方ねぇな。元々いつ死ぬかもしれない職に就いていたんだ。死ぬ覚悟はできていた。ああ、欲を言うなら…超絶美人に殺されたかったなー。


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