はじまり
〜幕開〜
「辞めなよ!」
僕の生まれた時からの幼馴染の彩葉の声が、廊下から聞こえた。それは正く、優しく透き通って教室の隅々に木霊した。一人の少女をいじめていた数人の生徒が黙り込んだ。しばしの間を開けて、次第に彩葉に集まっていく嫌な視線。
「へえ?正義のヒーロー?私達を悪役にしようってぇ〜?」
「かっこいぃー。ねえ、私達にもその偉そうな言葉遣い、教えてよ。」
この日から、糸川彩葉はその生徒に変わっていじめを受けることになった。
いじめってのは皆が皆その一人に悪意をぶつけている訳ではないと思う。訳も無くただひたすら、教室を支配する絶対的な権力に従って人をいじめているんじゃないだろうか。僕は彼女の一番近くでいじめを見てきて、そう思った。
いじめが起こったもう一つの理由が、彩葉は優しすぎたという事だ。今からずっと前の幼稚園に一緒に通っていた頃も、彩葉は自分のおもちゃを欲しがっている誰かに貸してしまったり(帰ってこないこともあったけれど、彼女は笑って困った顔をしていた)、ジャングルジムから軽く落ちた子をかばって自分が怪我をしたり、とにかく数え切れない善行を積み上げてきた。幼稚園の先生によく褒められたのもあるだろう。
「なんでそんなにふうくんのためにおもちゃをかしてあげるの?」
一回、小さい時に聞いたことがあった。多分幼いながらに度が過ぎた彼女のお人好しを不思議に思ったのだろう。
「うーん、わかんない!」
彼女は笑ってそう言った。その時に彼女がとても大人に見えて、五年生になった今でもその言葉を覚えている。
そして、小学校に入ってからも彼女は優しいままだった。彼女はおしゃべりで気も使えたから友達もたくさん出来た。でも、毎日みんなと平等に少しずつ関わっていたらしく、ずっと遊ぶような―いわゆる親友と呼ばれる存在は4年になって引っ越してしまい、いなかったらしい。彼女は早くも押し付けがましさを学んだのか、小学校に入って度が過ぎたお人好しはしなくなった。しかしそれが久しぶりに顔を出し、いざという時に助けてくれる人が居なかったことも相まって、こんな状況を招いてしまったのだ。
彩葉の話によると、いじめは基本的に主犯格5人くらいによって秘密裏に行われていたらしい。はじめは軽く絡まれたり、少し悪口を言われるくらいだったし、僕が近づけば彼女らはすぐに居なくなった。このときに誰かに相談しておけばこんな大事には至らなかったかもしれない。
ある日の昼休み、彩葉の筆箱が無くなった。それは程なく教室のゴミ箱の中から発見される。そこまではいい。そこで先生が学級会を開いたところから問題なのだ。
誰も、彼女の事を助けなかったらしい。筆箱が昼休みに捨てられて、誰も見ていないなんてことは不味いあり得ない。少なからずいつでも教室に人はいるものだからだ。それに、クラスは基本的に悪事には否定的。普段なら確実に犯人が炙り出されていただろう。つまり、皆が彩葉を貶めることに加担していたのだ
先生が僕の方に事情聴取に来たこともあったけれど、クラス一つを相手にするのに二人と言うのはあまりにも無謀だった。いじめは少し放っておいている間に情報統制によってクラスぐるみで行われる物となってしまったのだ。
それからの日々は過酷だった。無視、悪口、根も葉もない噂。そこまでは良かった。でも、持ち物にひどい落書きがされたり、話したこともない人に(おそらく主犯格の手先だと僕は踏んでいる)直接悪口を吐かれるようになり始めてから彩葉は見るたびに元気が無くなっていった。
そして、教師はそんな彼女に手を差し伸べる事は無かった。いや、差し伸べられなくなっていた。先生の目を盗んでやる大規模ないじめを止めるためには、彼らはあまりにも対応が遅すぎた。
クラスの違う僕以外の味方が居なくなった彩葉は、とてもおしゃべりだったのに口数が減って、顔はうつむきがちになって、僕が声をかけても曖昧な反応をするようになった。
心配した僕は彼女に何回もこう言った。
「ねえ、本当にさ。学校行くの辞めちゃいなよ。最近全然大丈夫じゃなさそうだよ。あや。」
「ううん、大丈夫。心配しないで。」
その度に笑顔で口数少なにそう言う。でも、それと逆に彩葉の元気はどんどん無くなっていく、どんどん傷ついていくのが分かるのが辛かった。
でも、彩葉は泣かなかった。絶対に挫けず、自分のやった事を正しいと思い続けていた。見ているだけで痛々しいいじめの日々が続く。
そんな強い姿を支えられるのは残念ながら、自分だけだ。彼女は辛いことがあったときに、決まって僕の元を訪れた。
せめて僕だけは彩葉の味方でいたい。いや、いなければならない。僕が彼女にできることは何なんだろう。考えることが増えた。彼女の存在に対する自分の言葉の重みに責任を抱えて、それに押しつぶされそうになる。
そして、終いにそれが全部自己満足なんじゃないかなんて考え出して、もう何もかもが嫌になった。
でも、彼女のそばにいることは辞めなかった。彼女はもっと辛いはずだから。僕がこのくらいで諦めたら、彼女は本当に学校で誰も頼れなくなる。だめだだめだ。僕がなんとかしてあげないと。
追い込まれる。自分の事ではなかったけど、いやむしろ他人で幼馴染である彩葉の事だからこそ、僕は案の定抱え込んだ。自分は絶対に逃げちゃいけない。僕がいなくなったら彩葉はどうなってしまうのか。
いつも彩葉にどんな言葉をかけたらいいかと考えていた。どうすればいいかと考えていた。
そんな考え続ける息苦しい日々は、小学生の僕を歪めるのに十分な威力を持っていた。
それが、僕が感情の起伏が薄い理由だ。誰かに頼ることがだんだんできなくなっていって、自分で抱えるようになって、毎日が空っぽになって、その中で彩葉と話して、彩葉がたまに少し救われた顔をする事だけが僕の救いになった。もともと救いを求めているのは彩葉だけのはずだったのに。
そんな空虚な日々の中の、ある日の事だった。突然、話しかけても誰も応答してくれないようになった。彩葉の無視の余波が僕までやってきたのだ。実を言うと、僕としてはそれはあまり辛いものでは無かった。正直な話、何も変わらない。もうクラスメイトに話しかける事自体減っていたし、無視こそされていなくても僕はクラスで空気のような立場にいた。それに、そんなことはどうでも良かった。彩葉を助けるためにどうすればいいかとばかり考えていたから。
しかし、僕にとっては何事も無いようなそれを、何らかの手段で彩葉は知ったのだろう。いや、無視される場面を見たのかもしれない。その次の日に起きた事件だった。
廊下で彩葉を見つけた。少し俯いて歩いている。
「あ、あや!」
彼女は一瞬立ち止まり、何かを振り払うようにその場を走り去って行った。いつもなら振り向いてこっちに来てくれるのに。僕はショックを受けてただ、その場に立ち尽くした。
僕だけは彩葉の味方で理解者だったはずなのに。吊り下げ人形の糸が切れるように、教室に帰って椅子に体重を預ける。僕は彩葉に何かしてしまったんだろうか。
「さ、あーやちゃーん。良いのかなぁ〜?せーっかく話しかけてくれていたぁ〜、青原まで無視しちゃってぇ〜。もう誰もお前を助けようとする人なんて居なくなっちゃったねぇー〜?」
「さぁーいてー。早く死ねば?」
―――キャハハハハハハハハハハハハハハハ
隣のクラスから聞こえる冷やかしの声。久しぶりに聞こえる彩葉への罵倒。近頃は少しマシになったと思ったのに。無視の理由を問い詰めるためにも、彩葉を居心地の悪い教室から連れ出そう。
しかし、攻撃の状況を見に行こうとしたら、彩葉が隣を駆け出して行った。目尻に涙が浮かべて泣きそうな顔で。あんなにいじめに強固に立ち向かい続けていた彩葉が、初めて何かから逃げているようだ。
彩葉はなんであんなに泣きそうな顔をしていたのか。絶対にいじめに屈しなかった彩葉が。無視した理由も泣き顔も、全部のことが頭の中でぐるぐるぐるぐる回る。だめだ。彩葉は僕が…助けておいてあげないと……
こんなに追い込まれることも中々無かった。心が波立つ。空気の塊を飲み込んだ。
「青原、糸川に無視されるようになったんだって。」「かわいそう。」
教室に入るや聞こえる言葉には、本当に僕への同情が入っているのか、それとも単なる嘲笑か。どっちでも良かった。みんな子供に見える。自分よりずっと。何ももう気にならない。
いじめの主犯者の一人(よく目にするから覚えているが、名前は知らない)がおもむろに先生の居ない教壇に立ち、僕を除いた全員を一瞥し、近くにいる仲間と目を合わせて言った。
「あーあ、ついにとっても親切青原くんも捨てちゃうなんて、糸川も可哀想に。まぁ。所詮道具だったんじゃないかなぁー?おい!?みんなもそう思うよなぁ!?」
彼は、クラスの、みんなを、試した。
僕を貶めるという立場を取るか、それとも、僕を同情するという裏切りを取るか。教室は静まり返って、誰かの答えを待つ。誰でもいい、誰かがアイツに悪口を言って、自分も言わなければいけない雰囲気になったからだ。私は悪くない。そういう口実が得られるのを、この教室は沈黙を持って望んだ。
『お前らに何が分かるんだよ』
こんな状況でもない限り聞こえないであろう声だったのに、その呟きは沈黙を破り去った。
その途端、待ちわびたように向く視線。構うもんか!
「お前らに彩葉の何が分かるんだッつってんだ!」
椅子を窓に向かって放り投げる。軽快な音を立ててガラスは割れた。飛び散った窓ガラスの破片が西日に当たって乱反射した。
「…うわぁー、やった。こいつ。怖い怖い。」
「黙れ!」
机を蹴り飛ばして倒した。頭の血が体を先行して暴れる。
絞り出したような煽りを黙らせる。自分も彼らと同じレベルに陥っていることに気付きつつも、尚、息を大きく吸い込む。
「お前らなんて、所詮クラス全員を味方に付けねえと俺一人も相手にできない雑魚だもんなぁ〜⁉」
ああ、頭が痛い。自分が何を言ってるかも、もう自分でも分かっていない。
「おい!なんとか言えよ!皆も、なんとも思わねえのかよ!俺らを見て!」
みんなに目を向け、訴える。ただ、誰とも目が合う事は無かった。みんな下を向いている。そうか、僕が思っていた以上に、僕は孤独なんだ。
「おい!どうした!何事だ?」
勢い良く開けられた木の扉が跳ね返ってぴしゃっという乾いた音を立てた。
慌てて駆け込んできた先生が僕に問う。割れた窓から吹き込む風とコーヒーのような夕焼けが僕を照らした。僕は何も言えなかった。
「…先生。こいつ窓ガラスを叩き割ったんです!」
「そ、そうです!椅子持って八つ当たりして!」
「お前らには聞いとらん!」
先生が彼らの言い分を手で制した。それでも僕は何も言えなかった。全部僕が間違った事をしたのが分かっていたからだ。くだらない喧嘩を買って、物に当たって、みんなに迷惑を掛けた。
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気味が悪いほどにうるさい沈黙が流れた。
「もう、青原は帰れ。」
「すみませんでした。弁償はします。」
教室に立っているのは5人だけ。僕と、あいつらと、先生と。みんなちゃんと席に座って神妙な顔をしているのに、僕ら5人以外、誰も居ないみたいだ。割れた窓の隙間から吹く風が、僕の濡れた頬を冷たくした。
「いい。窓ガラスの値段なんかよりこんなことに気づけなかった俺らの責任のほうが大きい。」
顔を見られないように、静かに教室を後にする。
「先生…でも。」
「お前らには聞いとらんと言っている!」
背後に先生の怒鳴り声が聞こえる。
誰も追いかけて来なかったし、誰も呼び止めてくれなかった。
家に帰って荷物をおいた後、彩葉の家の戸を叩く。
「はい、何方ですか?」
「青原です。彩葉のお母さん、彩葉はいますか?」
「…陽日くん。ごめんね。彩葉は…ちょっと今は会いたくないかもしれない。それでも、いい?」
曖昧な答えに、苛立ちの残り火を隠さず言い放つ。
「構いません。僕が彩葉に言いたいことがあるだけなんで。通してください。」
「分かった。ごめんね。変なこと言って。」
泣き笑いのような表情を浮かべて、彩葉のお母さんは通してくれた。
「彩葉を…お願い。」
「彩葉は、部屋にいますか?」
誰にとも無く呟いた母としての言葉を、僕は了承を含めて無視し、問う。それに彩葉のお母さんは無言で頷いた。
シンプルな彩葉の部屋の扉は、しかし固く閉ざされている。軽く苛立ちながら扉をノックし、呼びかけた。
「あや…」
情けない。なんて縋るような声だ。
「なんでさ、無視したんだよ。」
落ち着いて、ゆっくりと、問いかける。
「何もない。はるが嫌いになったから。もう話しかけないで欲しい。」
「嘘だ。」
あやが言い終える前に被せて言う。
「本当に、本当に嫌いなんだったら、そんな悲しそうな言い方しない。」
返事はない。構うもんか。僕は続けた。
「本当に、嫌いなんだったらそんな泣きそうな顔で隣を走り去って行ったりしない。」
「本当に、本当に嫌いなんだったら、部屋に閉じこもって黙って僕の話を聞いてたりなんてしない。」
「本当に、」
「もうやめて!」
それが彼女の精一杯の叫びだった。
「なあ、理由があるんだろう、僕を無視するような。」
「ない!そんなんない!もういい!帰って!」
「あや!」
あやの声が止まった。扉の向こうに彼女の体温を感じた。
「あのさ、僕、今日あのあと、教室でちょっとキレて暴れたんだよ。もう居場所もない。仲間も居ない。あやと同じなんだよ。それであやまで僕を無視したら、いったい誰が僕を助けてくれるんだよ!」
頬を涙が伝う。
「他でもない、僕は、ただ、あやに、、彩葉を、、、助けたくて、助けてもらいたかった、だけ、な、のに!」
そうだ。僕はただ助けてもらいたかったんだ。彩葉が助けられる顔をして、自分も助けて、それだけで僕は救われていたんだ。
扉の向こうに、彼女の息遣いが聞こえた。乱れて、不規則だった。
「…はるが無視されたから。」
蚊の鳴くような彼女の声に黙り込む。
「はるが私のせいで無視されてたから!」
僕の沈黙を聞こえていなかったと受け取ったのか、大声で続ける。そうだ。彼女はどこまでも優しく。どこまでも自分の感情を伝えるのが不器用で。彼女は僕が無視されないように、元に戻れるように僕を無視したんだ。
彼女に何を言えば正解なのか分からない。
「…心配した。」
「ごめん。」
彼女が扉を開けた。内開きの扉に吸い込まれる。
泣きながら、しがみつくように、存在を確かめるように彼女を抱きしめた。
彼女はたしかにそこに居た。僕を助けてくれる唯一の存在。
「ねえ、あや。僕明日から学校行かない。勉強は塾でなんとかする。」
「え…」
雷に打たれたような顔を見せる。構わず続けた。
「だから、彩葉も一緒に休もう。もう疲れたでしょ。」
僕のの一番欲しかった言葉は、彼女にあげた。
彼女の全体重が僕に預けられる。倒れ込まないように彼女を抱きしめた。
「あり、がとう!ありがとうっ!」
かくして、僕達の小学校生活は一足早く幕を閉じたのだ。
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