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妄想論

スポーツチームの応援

作者: とびうお君

 ここ最近のなろうバッシングはとても強い。主軸となってるのはなろう出身のなろうファンタジー嫌いになる。だからここでの活動はとても有効になる。エッセイでなろうバッシングを潰していくべきだからだ。そうしないとなろうバッシングの主軸として成長してしまうから。何が問題か?論としての正統性の無い個人的な好みによる否定だからになる。それを如何にも理屈として筋が通ってるように撒き散らすのが問題なんだ。


 背景として何があるか?でまず第一に自分が面白くない。次が大事だが、自分が面白くないのに多くの人が楽しむ事がその気持ちをさらに否定的なものにしてしまう。一の段階は好みがあるからどうしても発生する。だが、2の段階にこそ妙な理屈を持ち出すケースが多い。2の段階の理屈を潰す事こそがとても重要。


 以前書いたが、観客型と自己投影型で大きく分かれるため面白さが根本的に異なると書いた。だがこれが問題だと分かってきた。自己投影自体を否定する流れが来ている。これそこまで人を分離させるか?ならさせない。この言い方が悪かった。観客として保ったまま、自己投影型と同じ楽しみを得られるものがある。


 それはなんだ?贔屓のスポーツチームの応援になる。これははらはらドキドキの展開なんて要らないんだ。例えば分かりやすいのは日本のワールドカップでの戦いで、はらはらどきどきの展開は絶対に必要だろうか?いやむしろ逆だ。出来たら安心して勝利を見たい。ちと苦しいかもしれないが、優勝まで勝ち続けて欲しい。なんらそれに問題が無い。


 これは自己投影なんてややこしい話。または特殊な見方として分離しなくて良い。同じ観客として見ても自己投影と同じ楽しみを得られる。それ根本的には自己投影だろ?だが別に自分と重ねる必要は無い。そこを難しく考えるからどうも違ったものとして攻撃される。


 さて何故妙な理屈で攻撃されることが多いのか?観客型が上で、自己投影型は下だからになる。そして贔屓のチームの応援も多分自己投影として下にされる。これがすべての問題になる。何故この上下が決められるか?物語の適正年齢の発展が原因になる。幼児は自と他の分離が下手だとなる。それゆえ幼児向けは自己投影型が多くなる。


 じゃ自己投影型は幼稚なのか?違う。幼児のうちからご飯は食べる。よって食べる事は幼稚な行為だとなるだろうか?大人になると言うのは、そういったものが増えるだけであって、大人になるにつれ捨てていくものが幼稚だとされるのは良いが、幼児の早い段階から死ぬまで続く行為は幼稚ではない。


 自己投影、贔屓チームの応援は、幼稚な行為じゃない。よってどちらが上とか決められない。観客型としてそれらの要素を排除して見た場合、はらはらドキドキの展開が面白いだけで、それはタイプが違うとしか言えないんだ。較べるようなものじゃない。観客型の視点で見たら、それらはつまらないとしか言えない。でもそれは見方が悪いんだ。


 じゃ何故こういったものが普遍的に見えるか?慣れになる。基本的に自己投影や贔屓のチームの応援は発生しにくい。それゆえ引いた視点の観客型が基本になり、それらを基準として多くの作品は創られる。その見方に慣れてしまう。


 自己投影や贔屓のチームの応援は発生に技術が伴うのもあるだろう。だが本当にそうだろうか?技術的なものが皆無ではない。だが逆にこれを絶対視するのも良くない。その絶対視がすべての問題を巻き起こしている。これは意味が無いわけじゃないが、多くのケースで確率的事象に過ぎないと見ている。


 偶発的な正体不明の好みの偏りによって発生したそれらのものは、誰にでも偶発的に発生する。そんなものを絶対視して、技術が低いのに、そういう見方をするのは信者だからだって理屈になる。いや違う、信者こそが正しい姿だと言える。えり好みが宗教だというならそれは創作を根底からおかしな見方にする。


 ラブライブで何度も書いてるが、内容よりキャラへの系統から、何をやっても楽しいと言う状態が2期にはあったと私は見ている。これは宗教信仰的だと思う。だがそれによって1期も信者アニメと否定するのはどうか?と思う。どんな作品も好みによって多くの人を拒絶する仕組みがある。それは信者の盲信で価値として意味の無いものになる。


 そういった理屈は成り立たない。逆に作品の面白さとは大体の作品が閉じたえり好みによる面白さが大半を占める。本当の意味での信者が拡大解釈されてるのが今の大半の問題の原因になる。何かしらの好みをベースにした自己投影、または贔屓のチームの応援みたいな作品の見方は必ずしもはらはらドキドキの展開、バトルの敵との拮抗が優れた楽しみではない。


 逆に言えば、こういった贔屓のチームの応援のタイプとして、洗練された序列を見るのが価値であり、そっちを見極めるべきで、こういった観客型からのそのままの否定は、そういった本当の価値あるものを選ぶ行為を潰してしまう誤った行為だと書いて占めておきたい。


 今回のキーは、自己投影という特殊な見方をもっと普遍的で一般的な見方にするのが目的で、贔屓のチームの応援がそれに当たると書いている。それは幼稚な視点だろうか?そして特殊な人達だろうか?いやむしろ贔屓のチームの応援こそがスポーツ観戦の多数派の見方じゃないか?と私は思うのだが、違うのだろうか?


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