少年と悪魔
高校一年の夏、7月の25日。長い長い夏休みが始まる前の、最後の日。悪夢じみたこの日から、退屈で平凡だけれど、お気楽で安定した日常は失われた。
思えば、その日は朝からついてなかった。目覚まし時計が自分の役目を放棄し、せっかくの終業式に遅刻なんていう大失態をかますわ、期末試験のテストが赤点すれすれだったせいで夕方までお小言と追試をくらうわ。おまけに弁当を家に忘れたせいで、空きっ腹を抱えたまんま、興味もない歴史やら古文やらの補習を受けた。そしてトドメは帰りの電車が未曾有の人身事故だとかいって大幅に遅れる、ときたもんだ。おかげで、木々と畑に彩られた田舎臭い家路に着くころにはすっかり日が暮れ、人っ子一人見かけなくなっていた。
だからだろうか。薄暗い帰り道の中、なんとなく全てが面白くなくて、思わず呟いちまったんだ。「あーあ。いっそのこと、世の中がいっぺんに変わるような、刺激的で面白いことなんてねえかなぁ」、なんて。
その時だった。鳥が羽ばたくような、コウモリが飛び立つような音が、バサリバサリと小さく、けれど鮮やかに聞こえてきた。いつもなら気にせず、そのままこれから読む本の事なんかを考えながら家に帰っていただろう。けどその日は違った。違っちまったんだ。羽ばたく音がどうしても癪に障り、思わず空を見上げた。すると、暗い紫に染まった天蓋を引き裂くように、黒く小さな影が飛んでいる。飛行機にしては灯火もなく、鳥にしてはデカ過ぎて遠近感がおかしい。なんだろう、と思ってじっと目を凝らすと、そいつは段々と近づいてくるようだった。徐々に強くなる、紅の輝き。羽音がますます大きく響き、三対六枚の非対称的な翼はゆったりと空気をかき回す。
――ドラゴンだ。一目で分かったね。世界中の神話や英雄譚に登場する、伝説の存在。緑色に濁った瞳は地上の全てを睥睨し、大理石のように白く輝く牙は獲物を求めてぎらりと光る。痺れる程の威厳。竜はこちらを見下し、その馬鹿でかい顎を開いて、心の奥底を震わす咆哮を放った。
Gyaaaaaawooo!!!
恐ろしくも美しい、酷く現実感の薄い光景に見とれていた俺は、鼓膜が破れるようなその音に一気に現実へ引き戻された。いつも通りの日常に突如として現れたファンタジー。
「すっっっ……げえ! 本物の竜だぜ! ははっ、マジかよ!」
そりゃあ誰だって興奮する。というかこの幻想的な光景を見て何にも思わないやつなんていたらどうかしてるね。沈みゆく陽光を背に、金属質の光沢を放つ紅の竜。口から漏れ出た焔が空を焦がし、ただそこに居るだけで空間を塗りつぶす。芋臭い田舎の夕暮れには全くもって似合わないその威容。竜は、唯一鱗に覆われていない胸部を大きく膨らませ、深く息を吸う。そして一拍溜め、そこらの民家よりも大きな火球をぶっ放した。
「……え?」 爆音。地面が激しく揺れ、耳鳴りが俺の体を貫く。着弾した家々が灰となって夜空に溶けていく。飛び火した畑が火の粉をまき散らし、音を立てて燃えていく。
平和な田園風景は見る影もなかった。竜は歓喜の咆哮を上げながらなんども炎塊を撃ち、次々と俺の故郷を焼いていく。理解が追いつかない。それでもひとつ分かったことがあった。
俺はくるりと後ろへ向き直り、全力で走った。パニックを起こす暇も、ヒステリーに耽る余裕もない。ただ生存本能だけが俺の体を支配し、頬を炙る熱から逃避させる。ここにいてはいけない。死にたくなければ。
――走る、走る、走る。悲鳴が聞こえた気がした。肉の焼ける香りが漂っていた気がした。感覚の全てに蓋をし、ただただ走る。なにも考えない。なにも見ない。どこに逃げるのかも分からず、ひたすらに足を動かす。
何分、いやもっと短いのか。ささやかな現実逃避はそう長く続かなかった。走っていた俺の頭上を舐めるように火球が飛来し、轟音と共に目の前の道へ炎の壁を作り出す。
「くそっ、なんなんだよ一体!」
思わず足を止め、抑えきれない苛立ちを吐き出す。だがそいつは無論悪手だった。最悪と言ってもいい。
背筋を貫く嫌な予感、あるいはなけなしの生存本能か。"今すぐここから離れろ" 脳ミソがのろまな体に檄を飛ばす。
冷や汗が吹き出るより先に、後ろを振り向く手間すら惜しんで右の田んぼに転がりこむ。直後、俺の居た空間を爆炎が飲み込んでいった。爆風が背を叩き、溶けたコンクリートが鼻を刺すような異臭を放つ。
逃げなければ。死を引き伸ばしたことに喜びすらせず、立ち上がろうとして……もう、体が動かない。焼け付くような疲労が内側から体を蝕み、異常事態に疲れきった脳が思考を停止する。
もはやこれまでだ。竜の羽音が、ばさり、ばさりともったいぶるように地上へ下りてくる。俺はせめてこの惨劇を造り出したクソ野郎の面を拝んでやろう、と体を回し、顔を上げた。
――それは、暴力的なまでに美しい竜だった。人間の些細な感情など気にも留めず、ただただ全てを圧倒する、原始的で荒々しい美。無機質にこちらを見下ろす瞳には、なんの感慨もなく。ただ暇を潰すためだけに、人間という種を殺戮しているようだった。
「……ふざけるな」
ちくしょう。納得するものか。納得してやるものか。なんの意味もなく、皆が殺されたなんて。だが、いくら殺意を込めて見上げても、傲慢に満ちた竜の顔はこゆるぎもしない。
「この極大肥満トカゲ野郎が。いつか、きっといつかその運動不足な体を地べたに這いつくばらせてやる」
飽きたのか。死が俺を飲み込もうと大口を開ける。そして視界が闇に染まった。
――だが、いつまで経っても覚悟した痛みはやってこなかった。不思議に思い、辺りを見渡してみても、ただ暖かな暗闇だけが俺を包み込んでいる。酷く穏やかなその空間は、なにもかもを忘れて、ひたすらに眠ってしまいたくなるような場所だった。
「そこのアナタ。いつまでも馬鹿みたくぼけっとしてるんじゃないわよ」
不意に背後から聞こえる、甘く、涼やかなソプラノ。思わず振り返ってみても、誰もいない。いぶかりながらも前に向き直ってみると、なんとそこには一人の女が浮いていた。華奢な肉体をゴシック調のドレスに包み、どこか気だるげにこちらを見る女、いや少女か? 同年代にも、年上にも見える女性だ。彼女の肌は不健康なほどに青白く、闇に溶けそうな漆黒の髪と、深海のように深い蒼の瞳がそれを際立たせている。おまけに背中からはコウモリみたいな羽根が生え、頭には羊のツノがくるくると渦巻いている。その姿はまるで――
「……悪魔、か?」
だーいせーいかーい、と皮肉げに笑い、やる気なさげに手を叩く少女、いや悪魔か。いかにもそれらしく、仕草や声音のひとつひとつが苛立たしい。というか、いい加減に我慢の限界だった。いっそ、この世全ての理不尽が俺に降りかかっているんじゃないかとすら思えるね。
「ここは何処だ? お前の目的は何だ? いや、俺は死んだのか!? 一体全体、何がどうなってるってんだ!」
「もう、そんなにカッカしないで頂戴。せっかちは嫌われるわよ? んー、ここはあなたの精神世界。心の中とも言うのかしら。漫画とか小説とかでよくあるでしょう? で、実に都合の良いことに、この世界と現実の世界では時間の流れ方が違うのよ。だから、この時間はアナタが食べられてしまう前の一瞬を引き延ばしたモノ。良かったわね、アナタはまだ生きてるわ」
言外に含みを持たせ、ニヤニヤ笑う自称悪魔。
「そして、私の目的はアナタを救うことよ。心配する必要はないわ、私はアナタの味方だから。さあ、理解したのなら、契約を結びましょう」
悪魔がパチンと指を鳴らし、目の前の空間に青い火が灯る。不気味にゆらめく青の火はどんどんと大きくなり、やがて一枚の紙を形作った。……しかし、悪魔の契約ときたか。ちくしょう、今日は本当に厄日だ。けど、僅かでも生き延びる可能性があるなら、すがらないわけにもいかないだろう。
「おい、契約って具体的になんだ? 悪魔の契約なんていったら、魂や命なんかと引き換えに強大な力を手に入れる、てのが相場だが、そんなのはゴメンだぜ。苦しみ抜いた果てに死ぬぐらいなら、さっさと死んだほうがよっぽどマシだ」
「あら? 私は、このままドラゴンに食べられて、生きたまま体中を噛み砕かれるほうがよっぽど辛いと思うけど。まあ安心なさい。そんなつまらないものなんて欲しくないわ。私が欲しいのはね、アナタの運命よ」
宙に浮いた紙へ次々と文字が刻まれていき、それはやがて一枚の契約書を形作った。――互イの心臓ヲ交換スルコトデ、両者ノ契約ヲ合意トス。
悪魔は嗤い、
「凡庸で陳腐なつまらない人生から、危険と冒険に満ちた英雄の一生へ。その様を観察することが、私にとってなによりの契約の対価よ」
と呟く。
「けっ、まったく、事実は小説よりも奇なりって言うが、こんなのは物語の中だけにしてもらいたいもんだ」
「あら、それって続きがあるのよ? 『真実は小説よりも奇なり。なぜなら、フィクションは可能性を持っていなければならないが、真実はそうではない』」
けど、アナタには無限の可能性を授けられるから。そう悪魔は続けた。
「だから、これから始まるアナタの英雄譚は、伝説に語られる『物語』よ」