夕方(後)
9
「……初めから、おかしいと思ってはいたんです」
侃侃諤諤の議論を交わす部員たちとは離れた場所で、霧野は口を開いた。
「トリケラトプスの骨格標本はかなり完成度が高く、自信作だと誰もが口を揃えている。信頼し尊敬する部長の卒業制作ですらある。それなのに部員のほとんどは様子を見にくることもせず、クラスの手伝いに徹していた──あなたが指示していたからですね」
「常陸くんと雨海くんは、少しばかりボクのことを盲信している節がある。そのことを悪いとは言わないけれど、都合が良いことがあるのも確かだね」
悪びれる様子もなく、常どおりの表情で部長さんは笑う。
「あなたは部員をこの部屋から遠ざけた──角と足の骨の入れ替わりに気づかれない|ように。設計にまで自分で携わっていたはずのあなたが、あれほど稚拙な偽装を見抜けないはずもない」
僕と霧野が気づけなかったのは、最初からそういう作りなのだと考えていたからだろう。実際の製作に関係していた部員なら、少し観察すればわかっていたはずだ。
「他にも、挙げていけばきりがありません。朝扉に掛けられていた南京錠は、私が推理をしやすくするための偽の手掛かりだった。昼休みに八戸くんを派遣したのも同様です。朝の時点でこの部屋にいた彼には、事情を話していたのでしょう。私の捜査を誘導するための手駒として」
「手駒という表現には悪意があるなあ。アンフェアかもしれないが、結果として導かれる結論に違いがなければ問題ないだろう? なんの関係もない部外者の犯行可能性を推理する無駄を省いてあげただけさ。そのための情報の制限はしたけど、誘導ってほどじゃない」
「それは誤りでしょう。八戸くんが伝えてくれた情報の多くは、あなたの主観に基づく議論の限定でした。それが誘導でなければなんというのです?」
「本質的でない議論に割く時間は短いほうがいい。八戸くんに伝えさせたのは……キミたちの知らないトリックが存在する可能性の否定とか、そのくらいだろう? ボクがキミに求めていたのはそんな瑣末なことではないよ」
「…………」
「……まあ、卑怯と言われて否定するつもりはないけれどね。朝に夢咲くんや実森くんと話して、なにかを隠していることは察した。右の後ろ足に残された血糊と角の根元を見て、なにが起きたのかは概ね理解した。真実を知っているボクが、その真実に矛盾しないように、余計で細かすぎる可能性を排除するための布石を置いた。それだけの話じゃないか。ボクは快刀乱麻を断つ鮮やかなロジックが好きだけれど、ごくごくわずかな可能性をわざわざ排するために費やされるような時間が大嫌いなんだ」
「……あくまで無駄を省くため、というわけですか」
「手掛かりに手を加えた点についてはそうだね。誤解しないでほしいんだけど、ボクがキミを利用したのは──この点について弁解するつもりはないが──決してキミが御しやすい人間だと考えたからではなく、探偵としてのキミの能力を買ってのことだ。実際、夢咲くんを犯人と指摘するまでの論理の道筋はおおいに楽しませてもらったよ。まさか七不思議の見立てとは──あれには本当に驚いた。ボクも知らなかったからね」
部長さんの表情が一定の抑揚を保っていることがひどく不気味に感じられた。誇るでもなく嗤うでもなく、自らが陰で糸を引いたことを淡々と暴露していく。
「……あなたも誤解しているようですが、私は別に利用されたことに憤っているわけではありません。自分がどんな探偵で在りたいかを改めて見つめ直すこともできましたから」
「そうかい? それならよかった。ボクにも目的があるとはいえ、一方的に利用するのは心苦しかったんだよ」
「私はきっと、あなたのような人間を嫌いになれない。たとえどのような外道をなそうと、どれほどの他者を利用しようと。──私の見立てが正しければ、ですが」
「それは買い被りだと思うけどなあ……」
「あなたが私を利用したのは、彼らのためですか?」
さらりと霧野は言った。
「そうだよ」
さらりと部長さんは答えた。
その迷いのなさに、流石の霧野も少しだけ苦笑する。
「それなら文句はありません。少なくとも──誰かを幸せにするための探偵役なら、私は誇りをもって演じられます。利用されていようといまいと、関係なく」
その言葉が本音であればいい、と僕は思う。仮面をつけずに本音で笑っているほうが、彼女には似合う。
一方その言葉を聞いた部長さんは、何を思ってか、あるいは何も思っていないのか、こんなことを言った。
「実はね、ボクは天才なんだよ」
「……はぁ」
思わず呆れの声が出た。霧野の苦笑も深まって、無表情が剥がれ落ちかけている。
「ボクは天才……なのだと思う。少なくとも、周囲の人間は皆そう言った。ボクとしては自分にできることをしていただけのつもりだったし、むしろ自分にできないことの多さを恥じてもいた。……ボクには、彼らが感じる心というものが理解できなかったからね」
「…………」
「本を読んでも人と話しても、その感情とやらを本当の意味で実感することはできなかった。だから、それはきっとボクのような存在が汚すべきではないのだろうと考えた。汚すべきでない、美しく尊いもの──その基準としてボクが見出したのが、笑顔だったのさ」
「……笑顔、ですか」
「そうとも。どうやら天才であるらしいボクには、本音と嘘が区別できたものでね。それでいて自分の感情がわからないのか、と呆れもしたが、おかげさまで本当の笑顔とそうでないものの区別はつく。本当の笑顔で笑うとき、彼らは今その瞬間を楽しんでいる。嬉しさを、喜びを、幸せを──そして楽しさを感じている。それを善いことであると、ボクは定義した。……もう何年も前の話さ」
雨海さんが話していた、彼自身と常陸さんの過去を思い出す。部長さんに話しかけられたとき、彼らは笑えていなかったのかもしれない。
「笑顔と、それが意味する楽しいという感情をボクは、自分のような存在が損なうべきでないものだと考えた。それはつまり、守るべきものだということだ。……そうボクは思ったのさ。たとえどんなことがあろうと、最後に本当の笑顔で笑っていられるのなら、それがすべてだろう。本にもそう書いてある」
それは部長さんが抱いた感情なのではないだろうか、と感じたけれど、口にはしなかった。事件でちょっと関わった程度の立場にいる僕が言及するようなことでもない。いつかきっと、部長さんの周りにいる誰かが──あるいは彼らが、伝えてくれるだろう。
その瞬間に部長さんが抱くのがどんな感情なのかを、部外者なりに僕は楽しみに思う。自分はずっと昔から人間だったのだと、そう告げられたときの感情を。
「そして今回の件だ。夢咲くんも実森くんもボクに隠しごとをしていた。その正体を見抜いたところで、ふたりはただボクに後悔を告げるかごまかすかするだけだろう。それではいけないと思った。ボク以外の人間からはっきりと罪を指摘されたうえで、ボクにその罪を赦されなければ──彼らはずっと、本当の意味で笑ってはいられない。そう思って、霧野くん──キミを利用した」
その結果として今、彼らは笑っている。自らが汚したトリケラトプスをどう誇れるものにしようか、と考えて。自分の罪を雪ぐための行いを考えながら、部長さんが言うところの本当の笑顔で笑っている。
「それだけでいいと、ボクは思っていたのだけれど──しかし今、ボクはキミのことを知ってしまった。霧野美梨という探偵役のことを──人間のことを知ってしまった。だからボクは問う。──キミは今、本当の意味で笑えるかい?」
「────」
「ボクというひとでなしに欺かれて利用されて。真実を追う探偵という役割を嘘つきに利用され尽くして──それでもキミは、笑っていられるかい?」
「……私は」
言い淀み、眼を伏せそうになる霧野の手を握って、僕は笑いかけた。
「大丈夫だよ」
僕は知っている。自分の推理が相手を傷つける可能性を知って、それでも探偵役であることをやめなかった彼女の強さを知っている。たとえ悪意ある誰かの作為で思考を誘導されたとしても、最後には自分の信念を貫いて真実にたどり着けると信じている。
「……そうだね。きみがそう言ってくれている限り、私は大丈夫」
その思いが伝わったのか、霧野は微笑んだ。いつものような仮面とも、状況によって生じる苦笑とも違う、僕の好きな笑顔だった。
「それはよかった」
部長さんは安心したように言った。人聞きの悪い言葉を使って偽悪ぶったのは霧野の覚悟を試したからで、部長さんの本音はこちらなのだろうと僕は思う。というかこの人、実は相当のお人よしなのではないだろうか。
「──これで完全無欠のハッピーエンド、というわけだ」
そして、部長さんも笑顔を浮かべた。
それは、ひとでなしがヒトを真似て浮かべていただけの不気味な笑顔とは違う。
部長さんが──友部長子さんが僕たちの前で初めて浮かべた、本当の笑顔だった。