夕方(前)
7
「なにかが見えてきている気がするの。けれど考えがまとまらない」
そう言った霧野のあとについて、僕は犯行の現場に戻ってきていた。十数年前に新築された教室棟と対比して特別棟とか旧校舎とか呼ばれるこの建物、その四階にある部屋が地学部には割り当てられている。ちなみに地学部本来の部室はここではなく部室棟にあり、文化祭の日に限ってのみこの部屋を利用することになる。他の部活にも事情を同じくするところは多いだろうけれど、地学部が比較的広い部屋に当たっているのはおそらく部長の実力ではないかと思う。
文化祭直前といえども一定以上の静けさを保つ場所に朝と同じような感慨を抱きつつ、階の隅に位置する教室へ向かう。その扉に取りつけられていた南京錠は姿を消している。もはや展示物が傷つけられている以上今更だ、ということだろうか。ともあれ借り受けていた鍵で扉を開くと、誰もいない部屋でただトリケラトプスだけが待ち受けていた。
一応部長さんには現場を見にいくことを携帯で伝えておいたのだが、もしかして気を遣ってくれたのだろうか。思えば、この部屋で地学部の部員を見たことがほとんどないような気がする。訪れたことは二回しかないのだし、当然ではあるのだけれど。まあ、静かに調べものができるというのは良いことだろう。
「……そう、それも最初からおかしかった……」
霧野の独りごとで僕の意識は室内の様子に引き戻される。彼女はトリケラトプスを観察していた。他に見るものも特にはないので、僕もそちらに近寄っていく。
八戸くんの話を聞いていたからか、トリケラトプスの印象は朝とはかなり違って見えた。というより、今朝の時点ではその威容に圧倒されて深く注意を向けられなかった、と言うべきかもしれない。改めて見るといろいろなことがわかってくる。たとえば、骨格標本は細かな部分を組みあげて作られていること。八戸くんが話していた素子──継ぎ目の部分も、近くで見ると識別できる。角のうち一本の先が丸まっているのも話どおりだった。流石にここまで折れているとごまかすのは難しいと思うのだけれど、案外遠目なら気づかなかったりするのかもしれない。
前面を離れて後方──悪戯が行われた部分に移る。赤く塗られたのは素子三本分の骨であることも確認できた。その赤色が比較的明るいのは朝見たときの印象どおりだけれど、それ以外にさして目立つところはない。……やはり僕程度の知能では、ここから手がかりを見いだすのは難しそうだ。
骨格標本はいったん諦めて部屋の入り口に戻ってみる。強烈な印象を放つトリケラトプスから目を背けてみると、意外と物の少ない部屋だった。向かって左には地学部の活動報告書が、なんだろう……名前のわからない立て板のようなものに張り出されている。立て板とそれを支える脚は三組ほど。その後ろにはこの部屋本来の黒板があるけれど……近寄ってみると、チョークや黒板消しの類はひとつもなかった。流麗な筆致で「地学部」と、ただ三文字が黒板に残されている。それだけだった。粉が散って製作の邪魔になる、とでも考えたのだろう。
トリケラトプスとその背後のカーテンを経由して右側へ。そちらでは二隅に机と椅子が一組ずつ。机の上には厚紙を折って作られた看板もどきが置かれているものの、文字は記されていない。明日常陸さんと雨海さんが展示を行うのだと思われた。奥の机には看板に加え、製作に用いたのであろう工具なども並べられている。それらを除けば、気になるものはさしてない。骨格標本の存在感が強すぎるだけで、そこまで狭い部屋ではないのだと再評価して──ふと。
「なあ、霧野」
赤く塗られた右後ろ足の近くで考えこんでいた彼女に、軽い気持ちで問いかけてみる。
「この部屋、ものを書くのに使える道具がなくないか?」
鉛筆やペンといった学用品も、チョークも、その他あらゆる筆記用具が見当たらない。ペンキも絵の具もありはしない。なら犯人は、何を使って悪戯を──、と。
そう続くはずだった言葉は、両肩に置かれた霧野の手に遮られた。
「──それだ!」
顔だ。顔が近い。ただでさえ綺麗な顔。いつもは無表情に整った顔が普段よりも輝いている。発見を予感して上気した頬、見えた光明にきらめく瞳。常態よりも魅力を増した顔が近くて──呼吸が止まる。
その隙を突いて──いや単なる偶然なのだろうけれど──思考が空転する──動転する僕の片手を握ると、ひきずるようにして霧野は部屋の入り口に向かって駆ける。
鮮やかに進路を曲げて廊下に出る。そのまま速度を緩めずに走り続ける──かと思いきやぴたりと静止。
「いや、この階は共部屋が多い──荷物は管理されるから──美術室か!」
そして息を休める暇もなく走りを再開する──手を握ったまま。その感触に平静を保てない僕はなす術なく運ばれていく。
将棋と囲碁、山岳と写真、と割り当てられた部屋の横を通り過ぎながら、霧野が残した呟きの意図を遅れて理解した。単独で広い部屋を得た地学部が幸運なだけで、他の部活の大半は部屋を共有する羽目になっている。そういう部活は自然と荷物を注意深く管理するから候補から外れる。この階で残るのは、廊下の対極に位置する美術部だけになる。……いや、果たして本当にそうだろうか?
「おい、霧野──」
「──着いた」
あることに思い至り彼女を呼び止めたのと、僕たちが美術室にたどり着いたのは同時だった。
「扉は閉まっている。中には美術部員。昨日なら──いや、どちらにしても同じね。展示する作品を不用意に放置したまま部屋を出るはずもないか」
「霧野、ひとつ気づいたことがあるんだけど」
「え?」
ようやく興奮が冷めたのか落ち着いた表情の霧野が振り返り──繋がれたままだった手を「あ、ごめん」とあっさり解く。そのことで生じた複雑な思いを押し殺しつつ、僕は言う。
「計画的な犯行だった可能性もあるだろ。それなら絵の具を家から持ってくるなりすればいい」
「ああ、その可能性はないから大丈夫よ」
「え? どうしてさ」
「ここが旧校舎だから」
「は……?」
意図を掴めずに思考が停止する。つい先ほどまでは追えていたはずだった霧野の思考が見通せない。その感覚には経験があった。捜査の終盤、一息に真相へ至る際に彼女が見せる思考の急加速。つまり──
「解けたのか?」
「とりあえず部屋に戻ろう」
問いには応じず、霧野はきた道を引き返していく。なにごとかを考えこんでいるのか、呼びかけても返事はない。結局何も語らないまま教室に戻ってくると、彼女は一言だけ告げた。
「トリケラトプスの角の──根元を調べてみて」
逆らっていても埒があかないから、おとなしく従って骨格標本を観察する。角の、根元を見ると──
「……え?」
そこには確かに、あるものが存在していた。些細ながらも決定的な痕跡。発見したものを霧野に報告しても、当然のことだと言わんばかりに頷かれる。つまり彼女はそのことを論理で導いていたということか──ではどうなるのだろう。この証拠がなにを意味するのか思考がまとまらない。
「なあ霧野、いい加減に──」
「──私はいつも、きみに言っているわよね」
返答というわけでもなく、独白するように霧野は言う。
「探偵は誤った論理で罪のないものを害してはならない。探偵は真実を明かすことで無辜の人々を救う存在でなければならない」
「……ああ、確かに聞いている」
「私はそれを自分の信条として定めていた。職業的、あるいは先天的な探偵でなくとも、探偵役という立場を担う以上──私自身もまた、そう在らねばならないと思っていたの。けれど──」
「霧野……?」
「誤った推理などではなく。正しい推理を以て真実を告げたとして。その真実が誰も救わないとしたら。真実が誰もを傷つけるのだとしたら、探偵役はどうすればいいのかしら──?」
彼女は顔を伏せている。長く綺麗な髪が前に垂れて、その表情は伺えない。彼女自身、見せたくないからそうしているのだろう。
「そのことで悩んでいるのか……?」
答えはない。そのことが紛れもなく真意を示していた。霧野は探偵としての自分を見失いかけている──いや、そもそも霧野は決して、自分のことを探偵だと考えたことがなかったように思う。
「探偵役」と「探偵」そして「名探偵」を、彼女は明確に区別している節があった。
どうしてそんな区別をつけるようになったのかはわからない。推理小説家であったという父の影響かもしれないが──実際のところは知りようがない。実情はともあれ、彼女は自分を探偵とも名探偵とも定義していないのだ。
だから部長さんに「探偵」と表現されたとき返事を濁していた。情報屋に「名探偵」と揶揄されても、そのことに反応しなかった。
彼女が思う探偵とは──理想とする名探偵とはどういう存在なのか、僕は知らない。
そのこと自体は、別に今に始まったことではなかった。僕は霧野のことをそこまで知っているわけではない。知らないこと、わからないこと、読み解けないこと、追いつけないことが山のようにあるのだ。今まさにこの瞬間でさえ、彼女がどんな真相に至り、それがどのように地学部の面々を傷つけるのか──僕にはまったくわからない。
それでも、と僕は思うのだ。
僕の知らない霧野美梨がどれほど多く存在していようとも。僕に知り得ないことがどれほど多くあろうとも。
僕が知っている霧野美梨もまた彼女の一面であり──真実なのだと、僕は信じていたい。
だから。
「……確かに、霧野は名探偵じゃないのかもしれない」
謎を解くことでみんなを幸せにすることなんてできないのかもしれない。
残酷な真実を明かすことで誰かを傷つけることしかないのかもしれない。
「けれど──それでも僕は、霧野が真実を語ることで救われるものがあるのかもしれない、と──」
かもしれない。かもしれない。かもしれない。
推定。推量。憶測。類推。予想。願望。希望。
探偵でも名探偵でも、探偵役ですらない僕には、なにひとつとして確定形で語ることはできなくて──断言できることはひとつだけ。
「──曲がりなりにも探偵助手|として、信じていたい」
今感じているこの気持ちだけは確かだと、僕は胸を張れる。
「────」
表情は隠れて見えないけれど──その口が微かに動いた気がして。
「……それじゃあ、助手であるきみに早速お願いをしよう」
軽く頭を振ってから髪を整えた霧野は、いつもどおりの無表情で──
「関係者の皆をこの部屋に集めてほしい」
……いや、その口許を少しだけ不敵に歪めて、言った。
「──謎はすべて、解けたから」