午前
3
「あの部長さんのこと、どう思う?」
雑然とした校内を歩いていく。文化祭前日ともあって、午前から多くの団体は準備を始めているらしい。いつもは一限の授業が行われているはずの時間帯に、多くの生徒が廊下を行き交っている。校舎全体が浮き足だった雰囲気に覆われていた。
「僕は……なんというか、うまく言葉にできないんだ。文化祭のためにあんなものを作りあげたり、南京錠まで持ちだしてくる過剰さが理解できない。でも、その目的のために何をすべきか、ということについては理性的で……そこがどうも、ちぐはぐで」
霧野に放った疑問に、自答するように僕は言葉を並べていく。自分の思考を整理するためだけではなく、関係者の精神性を理解すれば事件の解決に繋がるのでは、という期待も含めて。
「そう」
渡り廊下を経由して、地学部が使っていた部屋のある別棟から教室棟へと向かう。当日この場所を使うらしい団体が準備に励んでいたり、青空を求めて教室棟から出てきた生徒がいたり。そんな光景を横目に通りすぎていく。
「私は……たぶん、あの人のことを嫌いになれない」
少し意外に思って、僕は彼女に視線を向けた。霧野がここまで好意を率直に表現するのは珍しい……いや、よく考えてみると率直でも好意でもなかったか。しかし、嫌いではない、程度の言葉すら口に出すのは珍しかった。
「表現が過剰だ、というきみの意見も頷ける。たかが文化祭程度に、という気持ちもわかるし、これはどちらかといえば私のほうが強く抱いている感情だと思う。こんな祭りのためにわざわざどうして、という疑問を、たぶん私は捨てられない。けれど」
教室棟に入れば、ますます多くの生徒たちが賑わいを見せていた。装飾を仕上げるために廊下で作業する生徒、備品調達のために動き回る生徒、接客を練習して声をあげる生徒。雑多で混沌とした空気の合間を縫うように足を運んでいく。
「文化祭でトリケラトプスの骨格標本を、という評判のため。当日まで情報を伏せることで高まるであろうインパクトのため。そのために陰で努力を重ねて、誰にも気づかれないように伏線を積みあげていく。そんな行為は、少しだけ──」
そのとき霧野は、微かに口許を緩めたように見えた。普段決して崩れることのない無表情が、その裏側を垣間見せる。
「──少しだけ、推理小説家に似ていると思う」
だから私は、きっとあの人のことを嫌えない。
それで会話は終わりだと考えたのか、霧野は口を噤むと足を早めていく。彼女の父親の職業について以前聞いていた僕は、何も言えずにその後を追った。
──三年B組教室。
入り口のところで用件を話すとあっさり伝言が伝わっていき、結局僕たちは先刻通りすぎた渡り廊下に戻ってきていた。風の肌寒さと陽光の暖かさが心地よいその場所で、相対するのは二学年上の先輩である。
地学部副部長、常陸由紀。探偵と称される霧野のことが物珍しいのか、眼鏡の奥から興味深げな視線が覗いている。
訪問の目的は部長さんからも伝わっていたのだろう。事件に関して話を聞かせてほしい、と申しでると、すぐに頷いてくれた。
「とはいっても、話すことはそんなにない。私は昨日、部長と一緒にあの部屋を最後に出た。そのときは赤色の悪戯は欠片もなかった。翌朝の今日、八時くらいに私が登校したときにはもう犯行は終わっていた」
簡潔で簡明だった。昨日の下校から今日の登校までに何をしていたか尋ねてみても、帰って寝て起きた、の一言である。別に殺人事件の捜査というわけではないけれど、アリバイの主張さえありはしない。事件当日に関する話も望み薄のようだ。かといって、ここで質問を終えるわけにもいかない。
「常陸さんは文化祭の日には地学部で何をするんですか?」
「私は石の展示。部屋の一番奥のところで」
「石、というのは?」
「合宿とか旅行のときに集めた、見た目が良い石。化石とかではないけど、結構気に入ってくれる人もいる。合宿っていうのは、部屋を入って左に説明の展示があったはず」
「ああ、なるほど……」
……会話が終わってしまった。気まずい。霧野は黙ったまま考えを巡らせているようで、常陸さんはその様子を興味津々で見守っているらしい。
「犯人に心当たりはありませんか?」
苦し紛れにそう訊いてみると、ようやく常陸さんはまともな反応を見せた。一瞬だけ動きが止まり、不機嫌そうに表情が固まる。
「……部長が作った標本を傷つけた人に、心当たりはない。けど、狙われたのが私だとしたら、思い当たる奴はいる」
「その人は……?」
「雨海仁史。一応会計ってことになっているだけの、ただの平部員」
ますます顔が険しくなっていく。それに対して僕の気持ちは明るかった。初めて手掛かりになるかもしれない話が出たのだ。もちろんそんな喜色はおくびにも出さず、生真面目を装って僕は質問を続ける。
「どうして雨海さんが常陸さんを狙うんですか?」
「……あいつは石を馬鹿にしてる。自分は海産物なんかにかぶれてるくせに」
「…………」
「展示場所を決めるときも、右側の手前か奥かで相当揉めた。最終的には私が手前側を譲ることになったけど」
「手前か奥かでお客さんの数は違うんですか?」
「去年までは違わなかった。でも今年はあれがある」
確かに、と僕は思う。部屋はかなりの部分をトリケラトプスに占められている。面積的に空間が狭く感じるだけでなく、視界もまた大部分を遮られる。右奥はちょうど反対側にあり、入り口から見るだけでは気づかないかもしれない。
「でも、それならむしろ常陸さんが狙う側では」
「報復? それはない。そんなことのためにあれを汚したりはしない」
「そうですよね」
トリケラトプス以外の手段なら喜んで復讐しかねない様子にはひとまず触れないでおく。彼女は犯人ではないという主張もまあ、誰だってそう言うだろう。なにかしらの動機になりそうな事情が判明しただけでも収獲だ。
霧野のほうを見やると、首を振って返された。追加の質問もないようだし、ここで終えて構わないだろう。
「文化祭の準備でお忙しい中すみません」
「いいえ。……部長を傷つけたやつを突き止めるためなら、なんでもするから」
そう言って彼女は去っていく。冷たい口ぶりの奥底に眠る熱情を覗かせた去り際の一言が、少しだけ印象的だった。
「次に行こうか」
僕が言うと、霧野も頷いて歩き始めた。
4
地学部会計、雨海仁史。常陸さんとの話にも名前が出てきた彼の第一印象は、その部活にそぐわないものだった。短く刈り上げた髪、日に焼けた肌といい、風貌は完全にスポーツマンである。聞けば陸上部と掛け持ちしているとのことで、その容姿にも納得がいった。地学部の部員の中で唯一兼部をしていることで、たまに肩身が狭く感じることもあるらしい。
「陸上部のほうは文化祭だとすることがないし、地学部では部長のトリケラトプス製作を手伝ったけど、直前に準備することは意外となくてな。当日仕事ができない分、昨日の午後からはずっとクラスを手伝ってた」
だからトリケラトプスのことも昨日は見なかった、と彼は言う。今日の登校後もクラスのほうにかかりきりで、犯行のことは連絡があるまで知らなかったらしい。
「部長の作品を汚したやつは許せねえ。……けど、犯人を見つけ出したりとかの頭脳労働は俺の仕事じゃないからな。一応標本の様子は確認したけど、そのあとはずっとクラスのほうで働いてた」
ちなみに彼は常陸さんと違うクラスで、部長さんと常陸さんは同じクラスだという。
「というわけで、俺にはたいして有益な話はできないと思うが……。他に何か聞きたいことはあるか?」
呼び出した直後から彼は捜査に協力的だった。犯人を許せない、という言葉にも嘘はないのだろう。その厚意に甘えて、遠慮なく尋ねてみることにする。
「常陸さんと展示場所のことで揉めていた、と聞きましたが」
「うぐっ」
「……どうかしましたか?」
数秒前とは打って変わって気まずそうな表情をしている。
「いや、まあたいしたことじゃないんだけどよ……」
「部長さんの作品を汚した犯人を突き止めるために、捜査には全面的に協力してくれますよね?」
「う。あー、じゃあ本人には内緒にしてほしいんだが」
部長さんの名前を出すと、依然として気まずい様子ながらも話してくれるらしい。さてどういう話なのか、と僕は身構えていたのだけれど──
「えーっと、あのさ。常陸って可愛いだろ?」
「は?」
「一見すると真顔だし眼鏡だしで地味だけど、よく見ると意外と顔立ちも整ってるし、あと笑うとめっちゃ可愛いんだよ」
「だからつい悪戯したくなる、と?」
「ぐっ。まあ……そう、だな」
よそでやってほしい──そう思う気持ちを必死でこらえた。ちらりと横目に伺うと、霧野の視線も絶対零度と化している。
「そのために普段から石のことでからかったりしていた、と」
「……まあな」
「気を引きたくて、つい展示場所について揉めてしまった……と」
「ああ。いや、改めて言われると恥ずかしいな……」
「そしてさらに気を引くためにトリケラトプスに悪戯した、というわけですね?」
「そうだな。……いや違う、それは違う、それはねえよ!」
軽く誘導してみると、思ったとおりに引っかかって──そして思った以上の激昂があった。
「確かに俺は常陸のことが……まあ好きで、それを否定するつもりはねえ。けど、だからといってそのために部長の作品を汚すほどに落ちぶれたつもりは──絶対にない」
先ほどまでの気まずそうな雰囲気はすっかり失せていた。その瞳に宿っているのは憤激と──それ以上に色濃い、信頼と感謝、だろうか?
「俺はまあ頭が良くないし、自分にできるのは運動だけで──それがすべてだって、入学した頃は思ってた。だから、部活でスランプだったときはすんごく悩んだし、俺はもう終わりだとか真剣に考えたりした。でもたまたま地学部と出会って、そして部長に教わったんだ。運動以外の楽しみを。頭が悪くて、勉強ができなくて、それでも楽しめることがあるんだってこと。知るっていうことの楽しさを、教えてもらった。それで地学部にも入部して。海のほうに興味をもったのは、名字の影響もあるけど、普段陸の上ばかり走っている反動なのかもな。まあ、ともかく──」
少し間をとって息を整えると、彼は──雨海さんは、力強い口調で続ける。
「俺は部長に恩を感じてる。一生かかっても返したいくらいの強い恩だ。その恩を──たかが恋愛のために裏切るなんてことは、絶対にしない」
断言。
「そしてそれは……きっとあいつも同じだと思う」
「常陸さんも、ですか?」
「ああ」
真剣な表情はそのままに、少し遠くを見るような目で雨海さんは言葉を紡いでいく。
「常陸は──話したんならわかるだろうけど、感情表現があまり得意じゃない。顔はずっと無表情だし、声も平坦で。けどそれは──俺も最初は誤解してたけど、感情がない、ってわけじゃないんだ」
「そう、ですね」
去り際の一言を思い出す。霧野のことを見つめていた、好奇に満ちた瞳を思い出す。
「人づきあいが苦手で、口下手で、そのせいでクラスからも結構疎まれていて。そんなあいつに部長が話しかけていったらしい。実際に話してみるといろいろなことを考えていて、意外と面白いやつなんだ、ってクラスの連中に思い知らせたんだと。そして最終的にはふたりで地学部に入ることになった……らしい」
その光景は僕にも想像できた。教室の隅で静かに座っている常陸さんに、いつものように楽しげな笑みで話しかけている部長さんの姿。
「部長本人には言わないけど、そのことにはすごく感謝してるんだ、と常陸から聞いたことがあってさ。あいつのことが気になり始めたのは、もしかしたらその日だったかも」
境遇が似た者同士、ということだろうか。……結局また恋愛話に持っていくのは勘弁してほしいのだけれど。
「悪い、話が逸れたな」
そんな感情が視線から伝わってしまったのか、彼も軌道修正を図る。
「要するにだな……石とか展示場所のことで常陸と争ったのは、少なくとも俺は本気のつもりじゃなかった。あいつのほうがどう思っていたかはわからないけど、いざとなったら場所は代わるつもりでいたし」
「それは可能なんですか?」
「ここで展示する、ってことにして机を置いてるだけだからな。ブツは明日持ってくるんだし、そのときに場所を入れ替えたってなんの問題もないだろ」
「なるほど」
それでは少なくとも、雨海さんに常陸さんを狙う動機はない、と考えて構わないかもしれない。霧野のほうもそれで納得したのか──はわからないが、ひとまず今の時点で訊くことはない様子だ。
「じゃ、俺はここらでクラスのほうに戻るわ。アトラクションの製作が切羽詰まっててさ。犯人がわかったら教えてくれ。俺がとっちめてやるから」
「あ、最後にちょっといいですか」
「ん?」
立ち去ろうとした彼を思わず呼び止める。気になっていたことをひとつ、確かめておきたかった。
「部長さんって、──どういう人ですか?」
「どういう人、か……そうだな」
一瞬だけ迷って──ほとんど迷うことなく、彼は答えを口にする。
「何かを楽しむことが得意で、誰かを楽しませることが好きな人だ」
そう言い残して雨海さんが去っていくのと、授業終わりの時間を告げるチャイムが鳴るのはほとんど同時だった。今日に限ってそれは、授業ではなく、午前中の準備時間が終わったことを知らせている。
「……とりあえず、続きは昼食をとってから考えよう」
そう霧野が言ったので、僕も頷いた。